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<東京怪談ノベル(シングル)>


確率1/30000

 ――私、嘘をついてました。本当は、あの三毛猫の飼い主じゃないんです。
 猫探しを依頼されてから、既に5日が経過していた。はかばかしい成果もないままに、藍原和馬は依頼人から呼び出しを受けた。
 小田急線の、とある駅前の喫茶店である。しゃれた調度の店内は、待ち合わせ客でざわめいているのに、依頼人のまわりの空気だけがひっそりと静かだった。
 慌ただしく腰かけるなりコーヒーを頼んだ和馬が、運ばれてきたカップを手に取った瞬間、依頼人はそう言い――
「はァ?」
 和馬はてっきり、探索作業の進展のなさを責められるとばかり思っていたのだ。
 思いがけない言葉に、手にしたコーヒーカップがするりと落ちる。もちろん、俊敏な獣は、床とキスする直前のカップを、中身を一滴もこぼさずに無傷でキャッチしたのであるが。
「……すみません」
 依頼人はうつむいたまま、長い髪をそっと揺らした。
 
 ++
 
 思えば最初の顔合わせのときから、依頼人は何かを隠していて、そのくせ何かを訴えたがっているような目をしていた。
 くせのない黒髪の、おとなしげな風情の女は、あたりさわりのない名前を名乗ったが、それは偽名であったろう。自分のことを「普通のOLです」と伝えてきもしたが、それも違うだろうなと見当がついた。
 和馬の嗅覚は、女から漂ってくる微かな薬品の匂いをとらえていたからである。
 おそらくは医療関係者――看護師か臨床検査技師か、それとも研修医か。
 だが、なんでも屋としては、依頼人の身許などどうでもよかった。猫探しを引き受けたのは、彼女がひたむきに愛猫のゆくえを心配していたからであり、彼女のその瞳が――澄んだ翡翠の色をしていたせいだった。
 和馬にとって翠の瞳を持つ女とは、その長い生を振りかえったとき、鮮烈な爪痕として思い出してしまう存在である。たとえば遠い昔、場末の酒場で出会った奇跡のような歌姫。たとえば雪の降る夜、和馬に銀の刃をひらめかせた、白いネグリジェを血飛沫で染めた女。
 彼女らは、記憶の中に咲く大輪の花だった。たとえ鮮血で染まっていても、美しい花には違いない。
 そしてもしかしたら、これからの生で大きく関わることになるかも知れない女も、やはり翡翠色の瞳を持っている。
 ――断れないよなァ。
 猫を探せというのなら、地の果てまでも探してやる。どこかの河に漂流しているアザラシを捕獲しろというのなら、東京中の河川を総ざらいしてみせる。
 和馬は、二つ返事で胸をたたいて請け負ったのだった。しかし探索は遅々として進まず――あげくに。
 
 ++
 
「飼い主じゃなかったら、探してもらえないと思ったんです」
「ていうかさ、飼い主以外の人間が猫探せとはいわんだろうよ普通。しかも野良猫って、何考えてんだよあんた」
 依頼人はしゅんとうなだれ、和馬はテーブルに頬杖をつく。
 しかしそれで、猫の探索が不首尾なままの理由がわかった。和馬が探していた三毛猫は、うっかり飼い主のもとを離れて途方に暮れている世間知らずの猫ではなく、この駅前近くの路地裏をなわばりにしている、海千山千の野良猫だったのだ。
 迷子の猫は、姿を消した場所から探すのが鉄則である。人目に触れない狭い隙間で、じっとしていたりするからだ。近所を探して見つからなければ、徐々に捜索範囲を拡大していくのだが。
 依頼人が示した場所というのがどうも曖昧だったのと、詳しく話を聞いても、その猫の行動様式が掴みきれなかったのとで、捜索範囲はやたら広域に渡っていた。このままでは、世界の果てまでもというのが、冗談ではなくなってしまいそうな勢いだった。
「すごく警戒心の強い雄猫で。でも私がごはんをあげると、食べてくれるんです」
「だから。つまり無関係なんだな? その猫にとってあんたは行きずりの都合のいい女なんだな?」
「そう……かも知れませんけど」
 依頼人はか細い声で、しかし頑固に言い切った。
「あの猫が心配なんです。探して欲しいんです」
「もう保健所行きになってるのかも知れないし、反対に、ちゃっかりとどこかの飼い猫になってるのかも知れないじゃねエか」
「事情がわかれば、納得できます。行方不明のままなのはすっきりしなくて……。あの、どうか捜索を打ち切らないでいただけませんか? 料金は規定どおりにお支払いしますから」
「いや金の問題じゃなくてさ――ああでも、金の問題か。探し続けるのはいいけど、あんたのふところが痛むよ?」
「構いません」
「酔狂だなァ。何だってまた」
 和馬は半ば呆れて、とりあえずは救出したコーヒーを飲んだ。この店お薦めのヨーロピアンブレンドとやらは、冷えかけていても香ばしく、店を選んだ依頼人の趣味の良さがうかがえた。
「スズメを獲るのを、見たことがあるんです。すごく敏捷で、ああ、猫ってやっぱり獣なんだなあ、すごいなって」
「……はン?」
「あと、カラスと喧嘩してるのも見ました。負けてないんですよ! 互角に戦ってるんです。相手は空も飛べるしクチバシもあるのに」
「……それで?」
「三毛猫って、たいてい雌なんです。雄猫が生まれる確率ってすごく少なくて」
「あー。なんか聞いたことある。遺伝子上の問題なんだってな。1万分の1だか3万分の1だか忘れたけど」
「三毛猫の雄は、一種の遺伝子疾患なんです。ヒトで言うところの、クラインフェルター症候群と同じ染色体ですね。猫には18対の常染色体と一対の性染色体があって、猫の毛色にかかわる9個の遺伝子のうち、三毛猫に関係がある遺伝子はWとOとSなんですけども、そのうちのオレンジ色の遺伝子型OはX染色体にリンクしているので」
「おいおいおいおい」
 三毛猫の話になったとたん、依頼人は生き生きと饒舌になった。和馬は慌ててさえぎる。
「あんた一応、普通のOLってことになってんだろうが! 合わせてんだから暴走すんなよ」
「……これから、普通のOLになるんです。病院はもう――辞めるんです。毎日毎日、『死』と向き合って生きることに疲れました」
 またも依頼人はしゅんとしてしまった。やれやれと和馬は頭を掻く。
「それはあんたの事情なんだから好きにすりゃいいさ。けど、そんなに気に入ってる猫だったら、何で自分で飼わないんだ? 少なくとも、保健所に連れてかれる心配はなくなるぜ」
「そんな。あの猫は、人間に管理されちゃいけないんです」
 依頼人は目を見開いて、激しく首を横に振る。まるで希少な野生動物の、保護観察官のような口振りで。
 
 ――そして和馬は、地の果てまでも探す覚悟で、喫茶店を後にした。
 
 私は、あの三毛猫が、これからもスズメを獲ったりカラスと戦ったりするのを見ていたいだけなんです。
 それで時々、差し入れができればいいんです。
 たぶんこんな風にお節介をするのも、あの猫には余計なお世話なんでしょうけど。
 だけど、心配なんです。
 だから……。探してください。
 
 三毛猫の雄が生まれる確率は3万分の1と言うけれど、和馬が出会う翡翠色の瞳の女たちが、どいつもこいつも一筋縄ではいかないのは、いったいどういう確率によるものか。
 ――酔狂なこった。
 あの女もそうだが、俺もな。
 
 ――そういえば三毛猫の雄は、船乗りに珍重されるって聞いたなァ。乗せてると船が沈まないとやらで。まァ、俺の知ってる『船乗り』は、猫を守り神にするようなタマじゃないが。
 呟いて、ふと目を細める。
 陽はまだ高く、梅雨入り前だというのに日射しは強い。
 
 ++
 
 その23区外にある公園に足を向けたのは、まったくの偶然だった。
 三毛猫の縄張りからはかなり離れていて、野良猫が移動する距離にしてはいささか常識はずれだと思われたし、かなり広げた探索範囲のさらに圏外だとみなしていたからである。
 それでも和馬が、捕獲した猫を入れるためのキャリーバッグを持参していたのは、虫が知らせたとしか言いようがなかった。
 日曜日の公園は人通りも多く、広い芝生の上では、犬と駆け回る子どもや、寝転がる父親の姿が見受けられた。
 ほほえましい光景の中、空っぽのキャリーバッグを持てあましながら、手頃なベンチに腰かけたところ。
 
「フゥゥゥー!」
 
 ベンチの下から、和馬に喧嘩を売ってきた獣がいた。
 身を屈め、ひょいと覗き込んでみる。それは全身の毛を逆立て、尻尾をふくらませた雄の三毛猫であった。
 どっしりした大きめの身体。顔にいくつも走っている向こう傷。
 この5日間というもの、すり切れるまで眺めた写真の猫が、そこにいたのだった。
「おわっ。てめェこんなところにいやがったか。探したぞ苦労したぞ」
「フゥゥー」
「何でこんな遠くまで……。あァ、カラスか。なるほどね」
 ベンチのそばにあるケヤキの大木に、数羽のカラスが留まっていた。カラスたちの鋭い視線は、ベンチの下の三毛猫に向かっている。
 どうやら三毛猫は、宿敵のカラスを追って追いかけて、戦っては移動して、縄張りへの帰路がわからなくなるほどの距離まで来てしまったらしい。
「ハードボイルドに生きるのもいいけどさ。心配してる女を泣かせちゃイカンよ。ほれ、縄張りに戻ろう。連れてってやるから」
「フゥゥ……ゥ?」
 ベンチの足の影に退いた猫を、和馬は屈み込んだまま必死にかき口説く。
 通りすがりの親子連れに、思いっきり不審な目で見られてしまったが、気にしてもいられない。
 こうなりゃ実力行使だ。とっとと捕獲して仕事を終わりにしようと、手を伸ばしたとたん。
「シャァァァー!」
 驚くべき速さでベンチの下から飛び出した三毛猫は、和馬の横をすり抜けて、一目散に駆けだしてしまった。行きがけの駄賃に、和馬の頬を派手に引っ掻いて。
 頬に斜めにつけられた3本の線から、つぅーと血が滲む。
「てンめエーー! 俺を本気にさせたなァーー!」
 口には牙。手には爪。和馬とて獣だ。喧嘩には負けない。
「カラスに勝ったっていうその戦闘力、見せてもらおうじゃねェか!」
 猫と戦いに来たわけではないのだが、つい本気になって追いかける和馬であった。
 それでもとりあえず、公園でおくつろぎのご家族を驚かさないよう、人目を忍んで走るあたりが大人の分別――なのかも知れない。
 
 死闘数時間。
 猫は思いのほか手強かった。
 顔ばかりか、体中引っ掻き傷だらけになりながら、ようやく和馬は猫をキャリーバッグに押し込めることに成功した。
 バッグを壊しそうな勢いで、猫はまだ大暴れに暴れている。
「あーあ。なンだかなァ。ろくにメシも食ってないだろうに、元気なやつ」
 今から依頼人に報告して、こいつをもとの縄張りに放せば、それで一件落着だ。
 もう陽は落ち、あたりはとっぷりと暮れている。ぽつりぽつりと街灯がともりはじめた。
 
 さてと。これからどうしようか。
 今日のところは、ネットゲームの相棒との約束もない。
 ――ああそうだ。あの、何とかいう店の口の悪い女将に、報告にいかなきゃな。
 我がことのように猫のゆくえを案じていたあの女将は、事の顛末を話したら、いったい何と言うだろう。
 こみ上げてきた笑いを噛み殺し、和馬はキャリーバッグを抱え直した。


 ――Fin.