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緑の見る夢
色とりどりの花が彩を放ちながら華やかに競演するフラワーショップ。
その日、片田舎に構えられた何の変哲もないはずのその店の中で、何の変哲もないオリヅルランは『藤井蘭』と言う名の化けオリヅルランとなった。
長く伸びた葉や名前の由来となったランナーの先の子株は、白い輪郭を縁取る髪となり、細く白い手足へとなって、表情豊かな幼い少年を形作る。
「お前の任務はただひとつ。一人暮らし中のアイツに悪い虫がつかねえよう、しっかり護衛することだ」
娘を心配するあまり思い余ってしまった藤井雄一郎の想いとチカラを注がれて、彼の魔法がその身を変えていく――――
*
することがあるからと雄一郎は一緒に寝てくれなかったので、蘭は明かりを消した広い部屋にひとりきり、両足をベッドに投げ出して窓からぼんやり空を見上げていた。
ガラス越しに月がゆるゆると空を昇っていく。
「お月さま、きれいなの」
淡く涼やかな光をじっと見詰めていると、不意にここに来るまでの記憶が蘇る。
ずっと眺めていた。
ずっと憧れていた。
おいしそうできれいで優しい色のお月さま。
あそこにはウサギが住んでると聞いた時、なんだかとてもドキドキした。
カタチが毎日変わるのに、ウサギさんは大丈夫なのかと思ったけれど、あの時の自分にはその疑問を言葉で伝えることが出来なかった。
いつか行ってみたいと思ったけれど、あの時の自分は窓を開くことなんて出来なかった。
「……持ち主さんは連れて行ってくれるかな……?」
ふかふかと波打つベッドの上によたつきながらも何とか立ち上がり、そろりと窓に手をついて覗き込む。
あまり上手くバランスは取れないけれど、ほんの少しだけ空に近づけた気がした。
空の真ん中にぽっかり浮かんでいたはずの月が、すぐ近くの樹に引っ掛かっているのが見えた。
手を伸ばしてみる。
白くて細い人間の手は、自分の意思でいくらでも空を掻き、風や何かのチカラを受けなくても動いてくれた。
ぐっ、ぱっ、と握って開いてを繰り返してみる。
なんだか今ならあそこに掛かる月も掴めそうな気がする。
雄一郎が自分を連れてきてくれるまで、蘭は月を眺めるただの鉢植えだった。でも今はただの鉢植えじゃなくなった。
「あ、そっか」
よいしょ。
しんと静まり返った闇の中、蘭はギシギシガタガタと揺らしながらも何とか窓を開け放ち、思い切ってすぐ傍の地面までふわりとそこから降り立った。
「あっ!い、いたいなの……」
が、見事に着地失敗。手足が絡まって、見事にぱたりと地面に転がってしまった。
月明かりで青く浮かび上がる視界。
鼻先で湿った土の匂いがする。
涼やかな風が頬と髪を撫でて行った。
遠くでほぉっとフクロウの鳴く声がかすれて届く。
しばしそのまま外の気配に包まれてみる。
ずっと憧れていた窓の向こう側の世界は、想像なんて出来ないくらいのイロイロなもので溢れていた。
「ケヤキさんのところまで行くなの。お月さまをつかまえるなの!」
改めて気合を入れると、蘭は慣れない手足を使って立ち上がる。
そうしてよたよたと危うげなバランスを保ちながら、一生懸命にケヤキを目指す。
だが、窓辺から庭を経て歩いても歩いても、一向に目的の樹まで辿り着けない。
前のめりに倒れたり、ペタンとしりもちをついたり、ふらりと横に転がりそうになって踏みとどまったり……いっそ面白いくらいに進まない。
「ふに〜手も足も言うこときかないなの」
急がないとせっかく引っ掛かっていた月が落っこちてしまうかもしれない。
もしかしたら、また空の高い場所に戻ってしまうかもしれない。
あと少しなのに、その『少し』がなかなか減らなくて悲しくなってくる。
もっとちゃんとこの身体が動いてくれたらいいのに。
「あ、そっか」
ニンゲンだからダメなのだ。
もとの姿になっても歩けるだろうか。もしできたら、今よりはずっとちゃんと動ける気がする。
この名案にほんのちょっと落ち込んでしまった気持ちも一気に浮上した。
「ん〜と」
ふ、と全身からチカラと気持ちを抜いてみる。
途端に少年の白いニンゲンの手足は緑の細長い葉に変わった。蘭が蘭であった名残は、ただ髪と同色の緑だけである。
『これで、よいしょよいしょッ』
オリヅルランの鉢植えが左右に揺れながらゴトゴトと地面を移動する。
あまりちゃんとは進めなくても、時々行きたい方向と別の方を向いてしまうけれど、それでもニンゲンでいる時よりはずいぶんちゃんと進んだ。
そして。
『ようやくついたなの〜』
はふぅっと大きく息を吐き出して、ケヤキの根元にコロンと転がった。
そうして月の居場所をもう一度確認しようと空を見上げたオリヅルランから思わず落胆の溜息がもれてしまう。
『……お月さま、はなれちゃってるなの………』
それでも、葉ではなく手を伸ばせばまだ届きそうな位置に月はいる。
けれど蘭はもう本当に疲れてしまって、ここに辿り着くまでで体力を全て使い果たしていた。
樹に登るチカラはどこにも残っていない。
じっと空を見上げる。
相変わらず、月は優しい光で世界を青く染め上げていた。
『でもきれいなのはいっしょなの』
ガラスを隔てて見ていた外の景色が、ちゃんと自分に触れている。
湿った土の匂いも、葉を揺らす涼やかな風も、遠くでほぉっとフクロウが鳴く声もちゃんと存在していた。
ゆっくり休んでいきなさいと、眠っていたはずのケヤキが蘭を包み込むように優しく笑う。
『ありがとうなの』
オリヅルランのまま、外の世界に身を委ね、空に向けて枝を伸ばす樹といっしょに月を眺めた。
ヒトではないモノたちの間でゆったりと心地よい時間が流れていく。
「蘭?らーん?どこいったぁ?」
片手に茶色いクマのリュックサックを掴んで、オリヅルランの名を呼びながら雄一郎は自宅から庭先へと進む。
「お前のために相棒を見つけてきてやったんだぞ?どこ行ったー?」
押入れにしまい込んだままのリュックサックには店から持ってきた植物活性剤や娘の住所を書いたメモなどが詰め込まれている。もちろん迷子札も縫い付けて、これでちょっとした旅支度の完成だ。
だが、いざそれを渡す段階になって彼の元を訪れてみれば、相手は忽然と姿を消しており、後には窓が開け放たれたままの薄暗い部屋だけが残されていた。
おかげで夜中の11時に、雄一郎はぬいぐるみリュックと一緒にわざわざ捜索開始することとなってしまったわけである。
「らーん?」
あのバランス感覚ではそう遠くには行っていないはずなのに、なかなか姿を見つけられない。
(誰を探してるの?)
さわさわと風が雄一郎の耳元で問いかける。
「ん?ああ、緑のちっこいのがこの辺歩いてこなかったか?まだ人間になりたてのオリヅルランだ」
(ああ、その子なら)(ケヤキのじいさまの所)(ほらすぐそこ)(ユウイチロウもよく遊んでもらったでしょ?)
「あ〜了解。なるほど、あっちに行ったのか。目撃情報、どうもな」
至極当たり前に言葉を交わしながら、雄一郎は風のこぼしていく囁きを頼りに庭から先へ続く森へと方向転換する。
「しっかし、なんでこんな時間に散歩なんだ?明日でも良かったじゃん」
(あのおチビちゃんなら、わたしたちと遊びたかったみたいよ?)
漆黒の空から舞い降りてきた月の精霊が、くすくすと笑いながら植物の合間を楽しげに遊覧する。
「へえ。月に誘われて、ってか?いい趣味してるじゃないか」
田舎の夜は人工の明かりよりも、月の方がずっと確かに進むべき道を照らしてくれる。
日の入りと共に眠っていたはずの草木も次々に雄一郎へ話しかけ、ケヤキまでの長くて短い距離を蘭の速度で示してくれた。
そうして、雄一郎は少年の冒険の軌跡を辿り、彼の元へと辿り着く。
樹齢五百年を越えるケヤキの根元で、観葉植物の鉢は月や風の精霊たちに取り巻かれながらもうっとり空を眺めているようだった。
「蘭、発見」
こちらへと引き戻すように、あえて声に出して彼の名を呼ぶ。
『……あ……パパさんなの〜』
「お前な、『あ、ぱぱさんなの〜』じゃないだろうが。まったく」
『あ、ごめんなさいなの』
「いきなり居なくなったらビックリするからな。以後気をつけるように」
『は〜いなの』
苦笑と溜息とこぼしながらも、雄一郎は無邪気に返事をするオリヅルランの隣に腰を下ろした。
そうして鉢植えを自分の方へ引き寄せると、月光とともに降り注ぎ取り巻く夜の精霊たちと一緒に空を見上げる。
「……月、綺麗だな……」
『うんなの!窓からね、ずーっと見ててね、いいないいなって思ってたなの!すっごくすっごくキレイで、でね、僕、お月さまをつかまえようと思ったなの!僕、お外にも行ってみたくて、だからがんばったなの!』
嬉しそうに葉を揺らしながらやや興奮気味に語る言葉に、雄一郎は愛しげに目を細めた。
「なるほど。で、初めての冒険はどうだった?」
『うんとね、すっごくいろんなモノがたくさんあってビックリしたなの〜!でもあんまり上手に歩けなかったなの……』
「んで、その姿に戻っちまったのか?」
『本当はケヤキさんに登りたかったけど、もう動けなかったなの』
「そうか。でも頑張ったな」
饒舌な緑に耳を傾け、雄一郎は優しく指先で葉を撫でてやった。
「と、そうだ。明日は、もっと遠くまで歩けるように練習すっか?なんなら俺と一緒に店まで行くのもありだ」
『ふに?』
「自分でもっといろんなもの、見てみたいと思わないか?」
『思うなの〜!それでいっぱいいっぱい動けるようになったら、うんといっぱい持ち主さんを守るなの。いっしょにお散歩もするなの〜』
「お、分かってるじゃないか」
クスクスと満足げに笑みをこぼす雄一郎。
つられて蘭もえへへ…と笑って揺れた。
耳を澄ませば、植物のさざめきと戯れ遊ぶ精霊達の囁きが聞こえてくる。
星と月光に閃き溢れる自然に包まれた心地よい空間。
どこまでも透明で清浄な世界に身を委ね、一人と一鉢はしばし無言で夜空を眺めた。
やがて、月がゆるゆると地上の生きとし生ける全てのものに甘い光を注ぎながら、西の山へと降りていく。
「さてと、そろそろ帰るか、蘭?」
『うんなの!』
にっと笑い、雄一郎はクマとは逆の腕に鉢植えを抱えて立ち上がった。
『パパさん、その子はだれなの?』
「ん?ああ、忘れないうちに紹介しとくか」
クマをわざわざ持ち上げてオリヅルランの正面に掲げると、人形劇よろしく左右に振ってみせる。
「コイツ、お前の相棒でクマさんだ」
『くまさん?』
「そうだ。カワイイだろー?コイツがちゃんとお前を連れて行ってくれるよう、俺が頼んでやってるから心配するな」
『わ〜い!パパさん、ありがとうなの〜』
「おう、感謝しとけよ。なにしろお前にはアイツを護衛するっていう大事な使命があるからな。悪い虫がつかないように、ついでに危ない目にあわねえように、お前があいつを守ってやるんだからな?」
まったく誰に似たんだか姉妹揃ってヘンなことに首突っ込むから困ると、雄一郎は自分のことを棚に上げて渋い顔を作る。
『僕、いっぱいいっぱいがんばるなの!まかせてなの〜!』
蘭が張り切ってゴトゴトと腕の中で跳ねてみせた。
「よぉし!いい返事だ!それでこそ俺の見込んだオリヅルランだ」
『うんなの〜!』
雄一郎は蘭と盛大に笑い声を上げかわしながら、優しい夜の中を我が家に向かって歩き出す。
そして、数日後。
オリヅルランの蘭は、雄一郎の愛する娘のもとへと、クマのリュックサックを相棒にして生まれて初めての長い冒険へと旅立った――――
END
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