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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


聖母 前編 


桜塚金蝉の朝は、常人が朝を迎える時刻に比べると遅い。
低血圧の傾向のある彼は、日も高くなってから、のそのそと布団から這い出す。
寝乱れた浴衣の裾を適当に直した後、恐ろしく不機嫌そうな表情のまま新聞受けに新聞を取りに出る。
そして、マグカップに並々と注いだ舌を焦がす程に熱いコーヒーを啜りながら、新聞をめくり、その隅々にまで目を通す。。
これが、ここ数年、変わらず彼が過ごしてきた朝で、何者であろうとも、彼の朝のルールを乱す者など存在しなかったし、また、その存在を金蝉は許しはしなかった。
無駄に古く、広い家には、週に何度かハウスキーピングの人間が訪れる以外は、誰も存在しない。
昔は、たくさんの家人と共に暮らしていたこの家も、色々あって今は金蝉しか生活しなくなった。
正直、自分が誰かと共に生活できる人間だなんて、金蝉も考えていなかったし、今の暮らしが自分には過不足無くて丁度良いと考えている。
たまに、五月蠅い親戚や、何かを勘違いしている弟子志願者、下らない事を頼みに来る人間はいるが、概ね静かな暮らしを送れているし、気まぐれに、または、どうしようもなく武彦や翼からの頼み事を引き受ける時以外は、金蝉は陰陽師としての自分の仕事を淡々とこなしていた。


故に、その日、久方ぶりに、目覚ましTVがまだ放送されているような時間に目を覚ました金蝉は、グシャグシャと髪を掻き回しながら部屋の窓を開けて、手入れが面倒臭くてしょうがない庭を見渡し、そして硬直した。
冷静沈着。
極悪非道。
人間失格。
の、言葉を欲しいままにしてくるという、凄いんだか、駄目なんだか分からない人生を送ってきた金蝉にとって、その反応は、珍しいを越えて「最早、ちょっとした奇跡?」的反応ではあったが、庭に生えている一際大きな桜の木の下で穏やかに眠る赤子の姿を目にした人間の反応としては極めて正しかったと言えよう。


そして、金蝉は、静かに、とても静かに首を振りつつ窓を閉め、そして再び寝室のまだ暖かな布団の中に潜り込んだ。
「どうも、夢見が悪い…」
そう、独りごちて。


「で?」
武彦は、半眼になって、殊更低い声で問うた。
「だから、テメェなんだろ?」
金蝉は、怒りの余り、むしろ冷たい光を宿してしまっている目で、武彦に確信をもった声で問う。
「………んーー? ようし、金蝉! 俺からのちょっとした提案だ」
「………言ってみろ」
「言葉のキャッチボールをしよう。 俺が、投げたらちゃんと、返すんだ。 いいか? 人間関係の基本は会話からだ。 そこらへんが、なんだな、お前は、駄目だ。 常日頃からそうだったけど、今回は特に出来てない。 零点!」
ビシリと、金蝉を指差し、勝手に点数を付けると、武彦は、煙草に火を付けかけて、珍しく躊躇するように動作を止め、そして渋々懐に、煙草をしまう。金蝉も、珍しく、苛々した様子ではあるのに、煙草を銜える事はなかった。
「お前がここに来た理由っつうのは、アレだろ? つまり、赤子の母親を捜してくれって、事だよな?」
武彦が、トントンと指先で机を叩きながらそう問い掛ければ、金蝉は無表情で問い返した。
「……ていうか、テメェのガキなんだろ?」
「…………んんんーー? こんぜーーん? ちょっと、マテクダサーイ? え? 何、言ってるの? っていうか、レッツ・コール・アンド・レスポンス! いつも以上に、お前言葉が少なすぎて、よく俺分かんないんだけどーー? えーと、さっきの言葉を、そのまま受け止めさせて貰うと……、この子は、俺とお前の間に産まれた子って事か?」
そう言いながら、金蝉の胸の中でスヤスヤと眠り続ける、多分、今、世界で一番度胸のある赤子を指差す。
恐ろしいを越えて、合成写真にしか見えない程に似合わない組み合わせではあったが、金蝉は、存外優しい手付きでソファーの上に赤子を横たえ、それから無表情のまま武彦の首を締め上げた。
「………テメェは、よっぽど命が惜しくないみたいだなぁ?」
低い、低い、囁き声に、武彦は、バンバンと金蝉の腕を叩きながら、叫ぶ。
「こ! 金蝉? 金蝉? え? 本気? 結構、本気? っていうか、苦しい、苦しい、苦しい!」
「てめぇ、どっちが、母親だか言ってみろよ、コラ」
「えええー?! 多分、そこ、気にすべきとこじゃねぇよ!ってか、うわぁ、なんだか、目の前が真っ暗になってきたぞー? あ! お婆ちゃん? 何で? 何で此処にいるの? 何? 川? 川、渡っちゃ駄目? 本当だ、川流れてるねぇー。 渡っちゃ駄目って、何で? 向こう岸、凄く綺麗だよ。 ほら、花が…」


端から見れば、見苦しい事極まりない醜態を男二人で晒し、翼がこの場に居たならば冷淡な声で「おやおや、阿呆祭り開催中かい?」とか何とか、片眉を上げ、そう呟きそうな様子ではあったが、幸い事務所内に人は赤子を含めて三人しかおらず、金蝉は思う存分武彦を締め上げた後、漸く解放した。


「お、おお、お、お前! 俺はうっかり、三途の川を半分くらい渡ったぜ? もう、婆ちゃんが来るな、来るなってうるさく言ってくれなかったら、やばかったっつうか、死んだ婆ちゃんに会っちまったよ!って、聞いてんのか! オイ!」
暫く咳き込んだ後、涙目になってそう訴えてくる武彦の言葉を一切無視し、「本当に、テメェじゃねぇんだな?」とだけ呟くと、深々と溜息をついて、ソファーに身を埋める。

あの後、結局、再び眠りにつくことなんか到底出来ず、もう一度庭をマジマジと眺めても、当然赤子は存在していた。
ピクリとも動かない様子に不安を覚え、近付いてみれば、柔らかな布に幾重にもくるまれて庭の桜の木の下に放置されていた赤子は、産着の懐に、一通の封筒を隠していた。
中には、たった一枚だけ手紙が入っていて、そこには「疲れました。 この子は、父親のあなたに託します。 どうぞ、宜しくお願いいたします」と記されており、当然の如く、全く身に覚えのない金蝉は困惑し、そして怒りを覚えた。
この所、武彦から押し付けられる仕事に心底うんざりし、その面倒を押し付ける姿勢にもうんざりしてきていた金蝉にしてみれば「面倒な事=武彦」という公式が出来上がってしまっており、即効、今回の事も武彦絡みであろうと確信してしまったのだ。
 

「チッ。 仕方ねぇな。 気にくわねぇが、依頼してやるよ」
そう尊大な口調で告げる金蝉に恨めしげな視線を送り、それでも依頼を断れる程、恵まれた経済状態にない武彦は、「この子を置いてったっつう、母親探せば良いんだろ?」と、むくれた口調で問い掛ける。
「ああ」
聞かれる迄もないといった調子で、答えた金蝉に武彦は矢張り、ちゃんと確認はしておくべきと言わんばかりに意地悪げに再度問うた。
「なぁ、お前さ、ほんっとーーに、心当たりない訳?」
金蝉は武彦の言いように、眉間に深い皺を寄せると、地の底に潜るような低い、低い声で言った。
「どーーーいう意味だ?」
「や、21…だろ? 正直、そういう過ちを犯していても、アレだ、不思議はない訳だ。 ていうか、お前の今まで行ってきた事柄の数々、生活態度、人非人っぷりを見てると、むしろ、その程度の過ちなど、大事の前の小事。 嵐の前の、そよ風。 大火の前の小火。 全然、驚かねぇってか、お前の性格から言って、女にガキが出来たと知った時点で、その腹を蹴り飛ばしていても不思議はないのだから、こうやって、この赤ん坊が無事な姿でいる事自体を、俺は誉めたい。 金蝉君、エライね!って誉めたい」
「ほほぅ?」
「だから、もう、全然驚かないっていうか、むしろ、納得してやるから、言え? 探偵の守秘義務発動して、誰にも言いやしねぇよ。 翼にだって、黙っててやるさ。 だからな、正直に、お兄さんに話してみろ?」
やけに穏やかに、しかし、確信に満ちた声でそこまで言って、武彦はオトナの笑みを浮かべて言った。
「……お前が、父親なんだろ?」
その瞬間、金蝉は、冷たい銃口を武彦の眉間にヒタリと押し付けていた。
「……何だなぁ? 俺も、心広くなったもんだなぁ…。 ほんと、少し前の俺だったら、躊躇無く引き金を引けてたんだけどなぁ…?」
虚ろな声でそう呟く金蝉に、武彦は、真面目な顔をしながら、キビキビとした声で宣言した。
「さぁて、金蝉! あらぬ疑いを晴らす為にも、とっとと母親を見つけ出さないとな! 俺の、総力を尽くして、キミの為に頑張らせて頂くゼ!」
キラリと歯を光らせる武彦を見て、脱力感を感じつつ、金蝉は疲れた声で呟く。
「前々から感じていたが、テメェとは、一度じっっっっっっくり、話合わねぇといけないみたいだなぁ?」
そして、赤子を見下ろし、疲れた声音のまま、
「ったく、巫山戯た事をしやがって、見付けたら叩き返してやる」
と、悪態を吐き捨て、ソファーへとどかりと腰を掛けた。
その振動のせいであろう。 先程までの乱痴気騒ぎでも目を覚ます気配のなかった赤子が身じろぎし、そしてパッチリとつぶらな目を開いた。

「「あ」」

二人声を合わせて、間抜けな声を漏らす。
思わず、赤子と目を合わせたまま固まる金蝉。
武彦も、何故か動作を止め、じっと見つめ合う二人を凝視する。
時間にして、10秒前後。
しかし、二人にとってはやけに長く感じられる時を経て、赤子がふにふと目を潤ませ始めた。
男共は、今まで味わったような事のないような焦燥感を感じ、顔を見合わせる。
その瞬間、サイレンにも似た、甲高く、そして耳障り極まりない、破壊的な泣き声が赤子の口から発せられた。


「うぇぇぇぇっぇぇえええぁ! だぁぁぁっぁぁあああ! あああああぁーーん!」


手足を、バタバタと暴れさせ、喉も裂けよとばかりに声を張り上げ、顔を真っ赤にして涙を零す赤子を前に、色々な修羅場をかいくぐってきた男二人は青ざめ、どうすれば良いのか分からず右往左往する。
「お、おい! っ、どうしたってんだよ! さっきまで大人しく寝てたじゃねぇかよぉ」
無駄に、赤子が横たわっているソファーの周りをウロウロしながら、武彦が弱ったようにそう呻けば、
「知るか! ってぇか、てめぇ、とっとと、誰か呼べ!」
と、言い放ちながら、金蝉は不器用な様子で、赤子に手を伸ばし、そのままどうすれば良いか分からずに、凍り付く。
「呼べって、呼べって、誰をだよ!」
「誰でも良いから、こいつの親探せるよーな奴をだよ!」
赤子の声に負けじと声を張り上げ、金蝉が言えば、武彦と負けじと言い返す。
「誰でも良いんだな!」
「構わねぇ! 誰でも良い! この場を何とかしてくれんだったら、どんな奴だろーが、関係ねぇよ!」
「良し、分かった」
武彦は、深く深く頷いて、これ迄にない頼もしい表情を浮かべて、力強く言った。
「こういう事件のプロフェッショナルを一人知ってるからな。 すぐ、呼んでやるよ」
その瞬間、うっかり、真に、うっかりではあるが、微かながら武彦に感謝の念を捧げてしまった金蝉は、後ほど、深く、深く後悔する。




「…………来たよ」
赤子の泣き声と、男二人の怒号に満ちた狭い事務所に、涼やか…というより、冷気を纏った翼に声が響いた。
「よぉ! うあ、助かった! 翼、ちょっとこっち頼む!」
金蝉は、そうホッとした声で翼を呼ぶ武彦を、まず、呆然と見つめ、その後、翼へと視線を走らせる。
「タイトルを付けるならば,THE地獄って感じの惨状じゃないか」
不機嫌な声のまま、スタスタとソファーに近付き、そして泣き叫んでいる赤子の顔を見下ろした。
「ふむ。 この子が、金蝉の子供か。 なかなか、可愛いじゃないか? なぁ、金蝉?」
そう吐き捨てるように言って、チロリと翼は金蝉を見上げる。



その刹那、金蝉はうっかり殺意を抑えきる事が出来ず、銃口を武彦に向けて撃ち放っていた。



赤子の泣き声と、銃声の轟音が響き、次いで武彦の悲鳴が混じって、阿鼻叫喚という名が相応しいような情景が繰り広げられる。
「死ね! 死ね! 死に尽くせ! むしろ、死に過ぎろ! 死んで、もう一遍生き返れ! そうしたら、もう一度俺が殺してやる!」
そう言いながら狂気のように銃を乱射する金蝉と、恐るべき反射神経で逃げまどう武彦。
翼はと言えば、とっとと赤子を腕に抱いて、安全な場所へと避難している。
正直、これだけの大騒ぎと、銃声が聞こえれば周囲の住人が通報しても不思議はないのだが、職業柄かそれとも、此処に集う人間の特異性ゆえか、こういう騒動は日常茶飯事で、最早、誰も気にしやしない。
むしろ、ご近所様に至っては「アラアラ、興信所は、今日も明るくていーわねぇー」といった反応。
従って、金蝉は誰に邪魔される事もなく、弾数が尽きるまで武彦に銃を発砲し続けた。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
「くっ……てめぇ、本当に、人間か?」
「や、それは、俺の台詞だろ!」
結局、奇跡的に全ての弾を避けきった武彦は、震えながらそう叫び返す。
「丸腰の人間に、連続発砲て! 人間のする事か!ってか、駄目だろ、普通に!」
「ざけんな! てめぇ! なんで、此処に翼がいるんだよ!」
金蝉の言葉に、いっそ無邪気とも言えるような悪意の無さで、武彦が答える。
「俺が呼んだからっ!」
金蝉は、心から叫んだ。
「死ねっ! ほんと、死ね!」
地団駄すら踏みたいような気分になる金蝉に、武彦がエッヘンと胸を張るような様子で語る。
「や、だって、考えて見ろよ? 風と話が出来るんだぜ? 人捜しの仕事に、これ以上ない位ぴったりの人間じゃないか」
「馬鹿か、お前は馬鹿なのか? むしろ、馬鹿がお前か? 馬鹿そのものか? 分かれ? 何で、俺がわざわざ、翼でなくお前に依頼したのか察しろ? 脳味噌という物が頭の中に詰まっているのなら、考えるという行為を行った方が良いのかなぁ?って、そういう事にたまには気付け?」
そう畳み込むように言いながら、金蝉は武彦の肩を掴んで体を揺すった。
部屋の中の有様は、先程の一方的な銃撃戦によって酷い事になっており、後で武彦が零に叱られるのは避けようがないだろうが、そんな事は知ったこっちゃない。
むしろ、今、金蝉が直面している事態の方が、怖いと言えば、怖い。
金蝉にしてみれば、翼の能力人捜しに最適である事なぞ、武彦に言われなくても分かっている。
それでも、まさか、彼女に「俺の子だと言って、赤子を置き去りにされたので、その母親探しを手伝って欲しい」などと、頼める筈がない。
別にやましい事は何もないのだから、知られるのが怖い訳でなく、そういうややこしい事柄自体に彼女を巻き込みたくなかったというのと、無駄に彼女の機嫌を損ねたくなかったのだ。
翼の機嫌を直すのは、唐変木の金蝉からしてみれば、本当に至難の業で、他の人間なら、どんな気持ちになっていようが知った事ではなかったが、翼だけは、どうしてだろう、いつも笑っていて欲しいだなんて、金蝉は自覚のない心の奥底で、少し願っていたりもしたのである。
それに、正直、唯々面倒臭いというのもある。
今も、翼は不機嫌な面を晒したまま、赤子を胸に抱えてあやしている。
然し、自分を抱いている腕の持ち主の胸に満ちた慈悲の心に気付いているのだろう。
先程まで泣き叫んでいた赤子は、ピタリと泣きやみ、穏やかな表情で、キャッキャと、翼に手を伸ばしていた。
「阿呆劇場は終わったかい?」
そう、皮肉気に言いながら、顎で武彦を差し、毅然とした声で言った。
「とりあえず、ほ乳瓶、粉ミルクと、おむつだけ買ってきた。  スーパーの袋、ドア脇に置いてあるから取ってきて、ミルクを作ってくれないか? 作り方は、缶の裏に載っている。 どうも彼女、お腹が空いているみたいだ」
「彼女?」
訝しげに問う武彦に、やれやれといった調子で首を振り翼は言う。
「見れば分かるだろ? この子は、立派なレィディだよ。 女の子を、泣かせたままにしておくなんて、ほんと最悪だね、君達」
嘆かわしいといった声音で、そう言い放ち、「早くしてくれよ? 今は、何とか落ち着かせているけど、また、いつ泣き出すか分からない」と言って、優しく赤子を揺する。
「や、赤ん坊の性別なんて、見ただけじゃ、分かんねぇよ、普通」
そう、ぶつぶつと呟きながら、武彦は頭を掻きつつ、ドアへと袋を取りに行った。
金蝉も、出来るだけ気配を消し、ナチュラルに武彦の後に続こうとするが、ガシリと服の裾を握り締められる。
「金蝉は……僕と、少し、話をしようか?」
怒りすぎた時だけに見せる、優しい微笑みを見せながら翼は、静かな声音で言った。
金蝉は、勿論立ち去ることが出来なくなった。



「言っとくがな……、俺は……」
「最低だな」
金蝉の言葉を途中で遮り、冷ややかに翼は一刀両断する。
「君が女性に、赤ん坊を押し付けたまま、のうのうと生きているような男だなんて、想像した事もなかったよ」
首を振りながら、そう言う翼に、金蝉も視線を鋭くして、短く問う。
「本当に、そう思ってんのか」
「おや? 違うのかい?」
「……てめぇに、こんな言い訳する必要性なんざ何処にもないがな、言っておくが、俺はそのガキの父親なんかじゃねぇ」
金蝉の言葉の、とりわけ前半部分が気に入らなかったのだろう。
カッと、頬を朱色に染めて、翼が言う。
「よしんば、君が父親でなかったとしても、金蝉にこの子を託した女性は、君に対して、そういう感情を持っている、又は持っていたって事だろ?」
「は? どういう意味だよ?」
「君と、その女性は知り合いの筈だって事さ! それも、過去に何かあったね。 そうじゃなきゃ、あんな手紙置いていきやしないだろ?」
翼の言いように、金蝉の苛立ちが最高潮にまで達する。
「それこそ、テメェにゃあ関係ねぇだろーが? 俺の、昔話まで、根ほり葉ほり、お前に知らせてやんなきゃなんねぇのかよ」
嫌な言い草だ。
自分でも自覚していた。
しかし、止めようもなく、唇は悪意に満ちた言葉を吐きだしていた。
「てめぇ、俺の何なんだよ?」
意識的に面倒臭そうに、そう言う金蝉に、翼の体がブルブルと震えた。
チラっと、目をやれば、悔しげに、唇を噛みしめ、癇癪を起こす寸前の子供のような表情をしている。
言い過ぎだ。
分かっている。
一番傷付けるような言い方をした。
決して暇な身ではない翼が、最初から武彦の頼みをはねのけず此処に来てくれたのは、自分絡みの話だから。
きっと、怒りながらも心配してきてくれたのだろう。
分かっている。 今の自分は苛々しすぎだ。
「いねぇよ…。 そんな女いねぇ」
だから金蝉は、出来るだけ穏やかな声で言った。
「嘘だっ!」
翼が激高した調子で、叫んだ。
「そうだ! 僕には、関係ないだろう! 今回君は、依頼主で、僕は、唯の雇われ人だ! でも! でも! でもっ……」
翼が、震える声を何とか平静に保とうとして、失敗しながらそれでも言葉を重ねる。
「でも! 君が、女性に、こういう事をさせてしまうようなしたのだろうかって! その女性をどんな風に傷付けたのか知らないけど、でも、もし、恨まれているのなら、君が困っているのなら、僕は…、僕はっ!」
そこまで言って口を噤み、一旦息を整える。
そして、殊更静かな声で、言った。
「僕はね、君の事信じやしないから、今、めい一杯怒っているのだけど、でも、君の事を疑わないから、君が、その赤子の父親だろうが、誰か女性を手酷く傷付けていようが、きっと許してしまうんだ」
フェミニストで、正義の元に生きてきた翼の台詞とは思えない言葉。
だからこそ、金蝉は打ちのめされるような気持ちになった。
「そして、みっともなく君の事をかばってしまうんだよ。 僕はね、金蝉。 今日は君の事を、守りに来たんだよ?」
そして、静かに立ち上がる。
「ごめん。 もう、いいや。 確かに、僕の言い方はださかったね。 君と僕は無関係の人間で、君の事をそんな風に問い質す権利、僕にはない」
クルリと踵を返し「探偵失格……だな。 今回の仕事は他の人に頼んで貰ってくれ。 僕は、冷静に仕事をこなせそうにない」とだけ呟いて、赤子を金蝉に渡し立ち去り掛ける。
そんな翼の手の掴んで引き留め、金蝉は思わずその名を呼んだ。
「翼…、俺は…」
「はーーい! ミルク完成っ!」
その瞬間武彦が、満面の笑顔で現れ二人(否、三人)時間を止めた。
「もう、完璧人肌! 俺、天才っ! ミルク作りの天才……っていうか、アレ? どうしたんだよ」
そう不思議そうに言う、武彦に、「なんて、間の悪い野郎なんだ」と心の内で金蝉は毒づく。
翼から離れて不安になったのだろう。
赤子が、また、泣き出しそうな気配を漂わせ始めた。
金蝉は、柔らかな手付きで赤子を抱え上げ、再び翼に、その小さな体を預ける。
「お前が良いとさ」
「………」
翼は、下を向き、暫く黙っていたが、漸く小さな声で問うてきた。
「この子が言ってるのかい? それとも……」
金蝉は、何も言わない。
それでも翼には、通じたのだろう。
優しい手付きで赤子を抱き、それから詫びる。
「ごめんね。 君は何も悪くないのに。 オトナの勝手に振り回されて、孤独な思いをしている君を、また、僕たちが振り回してしまうとこだった。 大丈夫。 見付けるよ。 君のお母さんをみつけて、金蝉に叱って貰おう? ね?」
そして、いつもの、凛として不敵な笑みを浮かべて、憎たらしい声で言う。
「それに、まぁ、もし濡れ衣だった場合、選択権もなしに金蝉を父親にされる赤子が哀れだからね」
翼の言葉に、武彦も大いに同調した。


「道徳観とか、倫理観念とか、よく分かりはしないが、金蝉と赤子の組み合わせは、そのまま即犯罪に繋がる可能性が高いからな!」
「ああ。 僕的にも、乳児虐待、そして虐殺などという、そんな外道な振る舞いを金蝉にさせる訳にはいかないし、母親もきっと、金蝉が悪辣非道という言葉をそのまま人の形にしてみました的な金蝉の性格を知らないに違いない」
「ていうか、そう考えると、ここに五体満足な姿のまま赤子を連れてきた事自体が奇跡っていうか、金蝉にしてみれば途方もない善行だよな」
「そうだな。 この子は、赤子にして、物凄い確立の賭けの勝利者な訳だし、これは是非とも救ってやらねばな。 それにしても、偉かったな! 金蝉」
「そうだぞー? 俺は、赤子を面倒臭いと闇に葬らないまま、ここに連れてきた金蝉は本当にエライと思うぞーー?」
此処まで言われてしまうと、いっそ、爽快な気分になる。
赤子にミルクを飲ませながら言いたい放題言っている二人を前に、もう何も反論する気力もないまま、項垂れ金蝉は唯一言、「厄日だ…」と呻いた。



「ここで間違いないのか?」
マンションと呼ぶにはいささか、生活の匂いが染み付きすぎている、高さこそはあるが、古ぼけているアパートを見上げて金蝉が言う。
武彦が、「翼が言ってんだから、間違いないだろう」とだけ言い、それから、「何、喧嘩してんだよ」と、からかうような声音で金蝉に問うた。
翼は、風に聞いた赤子の母親の場所迄二人を案内すると、僕の仕事は、これで終わりで良いんだよね?」とだけ言ってさっさとこの場を立ち去った。
「胸糞の悪い光景は、精神衛生上出来るだけ見ないようにしたいんだ」と言った翼の声は、やはり不機嫌そうで、信じてもらうだなんて事は、全く出来てない事を金蝉に如実に伝えてくる。
この赤子の母親と、金蝉の間に何かあったという事に、翼は確信を抱いてしまっているらしく、拒絶の色濃く滲む背中をこれ以上引き留める事が金蝉には出来なかった。
自然、金蝉も理不尽な事柄に対する怒りと相まって、不機嫌極まりない気分になり、絶対に母親に文句の一つでも言わなければ気が済まないと思う。
これで、相手が男だったなら、八つ裂き所か、死んだ方がマシって位の地獄を見せてやるところだが、翼から聞いた風の情報を鑑みても相手は女で間違いないのだろう。

「行くぞ」
武彦が、金蝉の肩をポンと叩いて先に進む。
赤子を、抱き直して、その後に金蝉は続いた。

「501号室っと……此処だな」
武彦は、部屋番号を確認し、それから、呼び鈴を鳴らす。
1度目の音では、何の反応も無かったが、中に人がいる気配を二人は感じていたので、再度呼び鈴を鳴らす。
「……ハイ」
掠れた、弱々しい女の声で返答があり、それから、重い音をたてて、鉄の扉が開いた。
まだ若い、多分、金蝉と同い年くらいだと思われる女の疲れた顔が扉の向こうから覗いた。
「桜塚クン……!」
少し驚いたような、怖がっているような顔をして、それからその手に抱かれた赤子に目を走らせる。
その瞬間、女はガクリと崩れ落ち、扉に額を押し付けるようにして、小さく嗚咽を漏らした。
武彦が、金蝉の耳元で囁いた。
「ちょっと、俺、ヤニいれてくる」
「おい…!」
「これは、俺がいない方が、話が早そうだからな」
女が一目見て、金蝉の名を口にした所からも、金蝉と女には確かに何かの繋がりがあったのだろう。
武彦は、そこら辺も考慮して、二人を残し、エレベーターへと向かった。
一瞬、引き留めるような素振りをした金蝉は、溜息を吐き、それから女に向き直る。
怒鳴りつけて、罵詈雑言を吐き捨てて、子供を押し付けて帰るつもりだったが、そうもいかなくなったらしい。
とりあえず、事情を聞いてやらねば、翼にどうやって説明すればいいかも分からない。
金蝉は、煙草を銜える事の出来ない苛々を感じながら、冷たい声で問うた。
「テメェ……誰なんだ?」
女は、涙に濡れた顔をあげて、「あはは…」と苦笑し、それから、「まだ、卒業してから三年しか経ってないのになぁ。 そっかー。 そうだよねぇ。 私の事なんか、覚えてる訳ないか」と呟いた。
涙を拭いながらゆっくりと立ち上がり、困ったような顔をしてコンコンと表札に並んでいる女の名前を指で叩き、首を傾げて問うてくる。
「この名前、見覚えは?」
「悪いが、記憶にねぇな」
金蝉の素っ気ない返答に、今度は、先程の苦笑よりも幾分明るい笑い声をあげて、金蝉の腕から赤子を取り上げた。
「あのね、私と桜塚君、一応高校時代クラスメートだったんだよ?」
女の言葉にも、金蝉の興味なさそうな顔は変わらない。
唯一言「そうか」とだけ呟いて、あとは退屈そうにしている。
女は、そんな金蝉の態度に「変わらないねー。 他人に興味のない所」と言い、それから、ぺこんと頭を下げた。
「ごめんなさい。 ごめんなさい。 ごめんなさい!」
そう続けて言われた言葉を、金蝉は無表情に受け止める。
「どうするつもりだったんだ?」
「え?」
「このまま、俺が来なければ、お前は、こいつを捨てるつもりだったのか? この先も、どっかにこいつを捨てるのか?」
どうでも良いがな、そう思い、同時に、翼はそんな風に思う自分を許しはしないだろうと、知りながら、だからこそ、問い掛けた。
女は、首をゆっくりと振った。
「ほんっと、どうかしてた。 今、凄い、震えてて、この子の事で頭が一杯だった。 早く、桜塚君に謝って、この子を引き取りに行かなきゃって考えてたの。 後悔しても、後悔しても、足りない感じ」
女の言葉に嘘は感じられなくて、だからこそ愚かだと金蝉は思う。
後悔するならば、やらねば良いのに。
「実はさ、昨日いきなり旦那に離婚届突き付けられちゃってさ……」
女は、困ったような笑顔を見せながら、腕の中の子供をあやしている。
「えへへ。 もう、ビビッちゃって、私高校卒業と同時に、結婚したのよね。 だからさ、旦那が世界の全てでさ。 どうして良いか……」
「うるせぇ」
止め処もない女のお喋りを、金蝉は止めて、それから扉に背を向けた。
「下らねぇ、理由だな。 そんな事で、子供を捨てたのか?」
「…………」
「旦那が世界の全てだと? 馬鹿か」
金蝉は、吐き捨てた。
「そんな狭い世界、糞くらえだ」
そして、エレベータへと向かいながら、自分らしくない台詞だと自覚しつつ、背後に言い放つ。
「世界はもっと広い。 そのガキを育てれば、お前にも分かる」





エレベーターに乗り込んだ金蝉は、漸く銜える事の出来た煙草に火を付け、胸一杯に煙を吸い込む。
そして、眉間に皺を寄せると、さて、どうやって翼の機嫌を直そうかという、思考の縁に沈んだ。