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<迷走サッファー>
足並みは四拍子。
口ずさむメロディーは、ほのかに懐かしい古びた匂い。
白い廊下の真ん中には、長く延びた黒い影。
それはカタチを変えながら、何処までもヌエの足に絡み付く。
一人じゃないよ。
一人じゃないよ。
誰かが呟く。
ヌエの知らない誰かの声が。
思考に、鼓膜に、網膜に、粘膜に響く。
ヌエの知らない誰かの声が。
ひとりじゃないよ。
ひとりじゃないよ。
手を振るリズムは四拍子。
口ずさむメロディーは、呪いを唄った恋の詩。
白い廊下の真ん中には、短くなった黒い影。
それはカタチを変えながら、どこまでもヌエの足にしがみ付いていた。
ヒトリジャナイヨ
ヒトリジャナイヨ。
ヌエはひとりじゃないんだよ。
例え世界の全てが死んだとしても、ヌエは一人になんてなれないんだから。
<迷走サッファー>
箱庭で鳴いたあの赫い眼の禽は、何を謡っていたのでしょうか?
1
時間は十二時十一分。
その時間が本当に正しいのかを、ヌエは解らない。毎日誰かが、時計の時間を十二時で合わせているらしい。
ただそれも、誰かが作り出した時間を真似ているだけの行ないなのだから、それが本当に正しいのかという事はヌエには解らなかった。
だが、誰かの基準が正しいのならば、それは本当に正しいものになるという事なのだろう。
今は十二時十一分だった。
時間帯は昼下がり。
窓がどこにもないのだから、外を見る事なんて出来ない。毎日繰り返される単調な生活が、時間というイメージを教えてくれる。
目が覚め、顔を洗い、着替えをして食事をして、口煩い家庭教師に面白くもない勉強を教わる。食事をして、また勉強をして、白い男の人とつまらない話をして、無駄な時間を過ごして、そして眠る。そんな単調でつまらない毎日。
今日も、ヌエが食事をしていた頃に家庭教師に名前を呼ばれ、それから面白くもない勉強をしていた。
ヌエは、そんな退屈な部屋を抜け出した。
今は昼下がりだった。
そこは白い廊下。
白いというのは網膜が白い光を認識しているというだけで、本当は廊下は白くなんかないのかもしれない。けど、ヌエの目は白を認識しているから、その世界は白なのだろう。
狭い廊下はどこまでも延びている。その廊下の先にあるものが何なのか、そしてその先にあるものは本当に存在しているのか。それはもしかすると、脳が積み重ねられた記憶の中に作り出した仮想の世界なのかもしれない。その奥には、昨日とは違った知らない世界が存在しているのかもしれない。
そこにあるものが昨日と同じ姿をしている保証も、昨日と同じものを認識する保証も、そこには存在しないのだ。
ヌエは、不確定の世界へ足を踏み出す。
そこは白い廊下だった。
「世界が変わらないなんて、皆変なコトを言うのね。こんなにも世界は変わり続けているのに」
軽い足取りで廊下を歩く。白く延びたフロアは、ゆるやかなカーブを描いて世界の向うへと続いている。
淀んだ空気は喉を乾かして、声を粘膜に貼り付かせる。それが不快なものである事に、脳のどこかがチリリと痛んだ。
そこに何があるのかを、ヌエは知っている。そこに何があるのかを、ヌエは知らない。
知っている世界がある事を知っているのか、知っている世界がある事を知らないのか。知らない世界がある事を知っているのか、知らない世界がある事を知らないのか。
ヌエはそれを知らない。知っているヌエにヌエが嘘をついているのか、本当にヌエが知らないのか。ヌエはそれを知っている。
「『怨みます 怨みます たとえ世界が貴方を許しても 怨みます 怨みます あの子にした貴方を死ぬまで 永遠という愛の呪いで 貴方を苦しめて』」
ヌエの歌が廊下の中に響き渡る。白い世界の果てはもう直ぐそこに見える。
「そうだよ。変わるのはヌエ、変わらないのは皆。こんな事に気づかないなんて、皆可愛そうだよね」
世界の果てには茶色いドア。それが世界の境界。
その向うには何があるのか。
「こんな世界なんて、すぐになくなちゃうのに」
気づかないなんて、本当に可愛そう。
2
白い世界の向うには、長く続く灰色の世界があった。少し広くなった灰色の空間の先に、黒い鉄のドアが見える。そこが、世界を分けるもう一つの境界。
手を伸ばし、固く閉ざされた鍵を開ける。それは、この世界には踏み込んではいけないという証明をカタチにしたもの。こんなもので鍵をかけないと、閉ざす事の出来ない世界なんて少し可笑しく思える。こんなものをかけても、世界は何も変らないのに。
開けた扉の先には、もう一つの灰色の世界と共に、二重になった鉄格子が構えていた。ヌエは、そこにかけられた鍵も簡単に開ける。壊しても良かったのだけれど、それは少し止めておいた。
遠くから、動物のような低い声がいくつも聞えた。泣いている声、笑っている声、何かを語る声、誰かを呼ぶ声。そんな声が、人の匂いに混じる。
気持ちの悪い、心地良い匂い。
灰色の廊下の天井には、蛍光灯が縦に並び、やっぱり白い光を出している。
廊下の壁には格子のある鉄のドア。それが、廊下の向うまでずっと並んでいる。まるで、動物園みたいに。
その扉の向うには、白い服を着た大人が、変な顔で声をあげていた。
『そうね。あなたは何も知らないもの。世界に何が起こっているのか。この世界があなたに何を知らせているのか。あなたは何も知らない。いえ、わたし以外の誰もそれに気づいていないのよ。解らないの? この壊れ始めた世界の音を。あなたは聞えないの? そう。聞えないのね。愚かな人。こんなにも痛そうな音を響かせているのに、あなたは聞えないのね。可愛そうな人。早く死んじゃえば? 生きてる価値なんてないんじゃないの? そんな人に生きてる価値を求めるなんて時間の無駄よ。早く死んでよ、邪魔だから。生きてる価値なんてないんだから』
「知らないわ。だって、ヌエはヌエだもの」
『違うって。そうじゃないって。わかんないかなぁ? 何でわかんないかなぁ。知らない? 知らないで済むと思ってんのかよ! 解ってんだろ? 本当は何もかもを知っていて、俺を騙そうっていうんだろ? 解ってるよ! 全部俺は知ってんだよ! 知らないと思ってんのかよ! 見るなよ! そんな目で見るなよ! 俺は全部知ってんだよ! 解ってるから、俺を見るなよ! 知ってるんだからな!』
「知らないわ。だって、ヌエはヌエだもの」
『白、黒、白、灰、赤、灰、灰、赤、黒、黒、赤、白、赤、赤、赤、赤、黒、黒、黒、黒、黒、白、赤、赤、赤、黒、赤。……なぁ、次は何だと思う?』
「知らないわ。だって、ヌエはヌエだもの」
くるりと白いスカートを翻しながら、扉の向うの大人たちに言葉を返す。どうして、自分だけにしか解らない事を人に聞いたりするのか。ヌエはそれが不思議で仕方がなかった。
そんなに、自分が解らないのか、それとも誰かに答えを教えて欲しいのか。そんな事を教えて貰わないと解らない人たちなのか。
どうして『この場所』にいる大人たちは、そんな人たちばかりなのか。
ヌエはそんな大人を見ながら、そんな大人にはなりたくないと思った。
白い廊下を歩いて行くと、その先にもう一つの世界の果てを見つけた。白い空間の中を遮るように、黒い鉄の扉が見える。その扉の鍵を開けて中に入ると、先には黒い世界が広がっていた。
「黒い廊下。黒い世界。ヌエ、こんな場所知らないよ」
初めて見る世界に、ヌエは足を踏み出す。口元には小さな笑み。恐くなんてなかった。
黒い世界の中には、酷く嫌な匂いが広がっていた。獣でも精でもない、心を不快にさせる嫌な匂い。喩えるならば春のような、柔らかく甘い匂い。
そんな匂いに、世界の中は満たされていた。
3
『ねぇ、誰? 誰かいるの?』
少し高い女の子の声が、黒い廊下の奥から聞こえた。ヌエはそれが気になり、声の方向へと歩いて行く。大人たちとは違った、静かで落ち着いた声。心が、期待で高鳴った。
「ヌエ、ヌエだよ。ここにいるのはヌエだよ。キミは誰なの?」
『わたしは『わたし』。あなたの知っているわたしでもあるし、あなたの知らないわたしでもあるわ。あなたはそれを知っているはずよ』
ヌエは、その声を追いかけるようにスカートの裾を乱して廊下の中の走った。けれど、走っても走っても廊下の中には何も見つける事が出来ない。視界の中に映るのは黒く広い世界だけ。そこが廊下なのか壁なのかを判別する事が出来ないぐらい、真っ黒なものばかりだった。
そこには、本物の『黒』だけが存在していた。
「ねぇ、どこなの! 見えないよ! 解らないよ! ヌエには見えないよ! ヌエは知らないもの!」
『そんな事はないわ。貴方には『視える』はずよ。わたしの姿が『視える』はず。だから探して。わたしを早く見つけて』
不思議だった。言われている事はヘンテコなのに、ヌエにはそれが出来るのだと確信していた。どうしてそんな気持ちになれたのかを巧く説明する事は出来なかったが、ヌエはそれが出来るのだという事が解っていた。
『そう。『ヌエ』にはそれが『出来る』んだよ』
耳の奥、耳小骨から直接響くような鈍い声が聞こえた。
「……キミは」
瞬間、胃から心臓へと這い上がる気持ちの悪い感覚に、全身が粟立つ。
込み上がる吐き気、薄れていく意識。視界が細くなり、足元が崩れていくような感覚。ヌエという意識が離れていくような感覚に、ヌエは思わず両手を握り締めた。
『恐くないよ。いつものようにやればいいから』
『貴方には『出来る』から』
――ヒトリじゃないから
足を踏み出すと、靴の底が床に当たって音をたてた。
規則的な速度で、三度足を踏むと、右の手を肩のラインまで水平に伸ばす。全身に巡る血液は鼓動する速度を速め、五感は収縮していった。
伸ばした腕を額から顎のラインへと下ろす。冷たく硬質な感覚が肌に触れ、密着した。
瞬間、『ヌエ』が舞台から消えた。
4
鵺の目が見開かれる。瞳孔が収縮し、闇の中から気配の輪郭を見つけ出す。
「……そう。キミだったんだ」
呟いた声は、僅かに低い。その小さな唇から見えた白い歯には、不釣合いな犬歯が覗いていた。
辺りには、冷たい神聖とも思える空気が漂っている。今の彼女に名前を付けるとすれば『犬神』と呼ぶのが最も相応しいだろう。漂う気配は人ならざるものを纏い、闇の中の輪郭を見据えていた。
『知っていたわ。ずっと貴方に会いたかったの。『貴方なら』わたしを『視てくれる』と思ったから。ずっと、ずっと待っていたわ』
輪郭が大きく膨れ上がり、鵺の体を飲み込もうとすべく覆い被さる。鵺は体制を低くすると、輪郭の部位を数えた。形はいびつながらも、輪郭は人と同じ部位を備えていた。
鵺は中心となる脊髄のラインを視界の中に捕らえながら、真上へと跳躍する。一撃で、喉にあたる箇所を噛み切ろうと唇を開く。
「ヌエの知らない事を知っているなんて。そんな事、許さない」
今日は、いつもよりも楽しい時間が過ごせそうだ。
鵺の口元には、不気味なほどに可愛らしい笑みが浮かんでいた。
..........................Fin
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