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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


聖母 (後編)



まるで、雨雲のような暗い色をしたもやもやを、胸の中に抱え込んでいる気分だった。
翼は、小さく溜息を吐く。
分かっている。
狭量で、そして、みっともない。
どれだけ、中性的に振る舞い、少年っぽい外見をし、同性に騒がれようとも、金蝉と居る時は翼はどうしようもなく女の子で、それもきっと、普通よりも少しうるさい女の子になってしまう。
最悪だった。
先日の自分の言動を思い返し、翼は深く落ち込む。
金蝉、どう思っているだろう?
面倒臭い事が嫌いな人だから、呆れているだろうか?
それとも、もう、会いたくないなんて、思ってしまっていたらどうしよう?
女々しくて、益体もない事ばかり考えてしまう。

そんな自分にすら苛立って、翼は前回の赤子放置事件の報告を聞くため、興信所へとトボトボとした足取りで向かっていた。
本当に、金蝉が赤子の父親だとは考えていない。
ただ、金蝉にそういう風に縋ってくる女性がいる事が怖かった。
その女性が、「母親」という属性を持つ、女性である事がもっと怖かった。
自分の胸に抱いた、柔らかく、小さなあの体の感触を思い出す。


子供を産む。


「僕には出来ない」
翼は、思わず口に出して呟く。
否、出来るだろう。
きっと、体の構造的には出来るのだろう。
だが、自分の体内に流れる血。
常人とは違う、複雑で、悲しい運命を背負った血。
この血が、また、次世代に受け継がれる事なんて考えたくもない。
不幸にしか出来ないのなら、子供なんて産むべきではない。


「悲劇は、僕で終わらせる」


それは、16才の少女の決意としては、余りにも悲しい。
翼が男性的な言動をするのも、この決意に起因している部分もあるのだろう。
少なくとも、母性という女性の本能を一つ放棄した事になるのだから。
勿論、子供を産む事が女性に一番大きな役割であるだなんて一度も考えた事はないし、子供を産まない、または産めない女性に対する悪感情など当然の如く微塵もない。 逆に、そういう言動を行う人間に対して翼は激しい嫌悪感を感じてきていた。
だが、どれ程好きな人が出来ても、その人の子供を産む事はないのだ、という決意は、子供に対しても、深い慈愛の感情を持つ翼にしてみれば、どうしたって悲しくて、そして寂しかった。
「母親」という属性を持つ女性に対し、尊敬の念を抱きながら、同時に言いようのない羨みの感情と、引け目を感じていた。
だから、余計に今回の事は堪えた。



金蝉が誰か、他の女性との間に子供を作る。



もし、もし、それが事実だったとして、そうしたら僕はどうすれば良いんだろう。
怒れば良いのだろうか。
嘆けば良いのだろうか。
許せないと、金蝉を憎めば良いのだろうか。


無理だ。


翼は、下を向いたまま歩き続ける。
無理だよ、金蝉。
そんな風に君を責められやしない。
だって、僕は、子供を産めないんだ。


辛い。


翼は、涙が滲みそうになる目頭を慌てて抑えた。


君を、想っているかも知れない女性が、子供を産んでいるという事が、そして君の事を父親だなんて書いてしまった事が憎い。
例え嘘でも、その女性は金蝉を「父親」にする事が出来た。
翼は無理だ。
金蝉を自分の子供の父親には出来ない。
永遠に。



嫉妬していた。
激しく嫉妬していた。


「ちょっと、待ってろよ? すぐ、来るはずだから」
武彦が、少し苦笑めいたものを浮かべながらそう言うのを、翼は憮然とした表情で聞く。
珍しく、コーヒーを出してくれたので、舌を火傷しないよう気を付けながら口に付け、そして余り気にしていない素振りをしつつ、武彦に問うた。
「で、どうなったのか、君は見てなかったのか?」
「や、なんか、金蝉だけのが話が早そうだったからな。 ……不味かったか?」
「どういう意味だ」
「翼は、金蝉と他の女を二人きりにした事が、気に入らないかもしれねぇな…って、感じただけだ」
武彦の言葉に翼は、眉を吊り上げ、手近にあるクッションを投げつける。
それを、ヒョイと軽く身を捻って避けた後、武彦は頭を掻きつつ「悪い」と素直に謝り、それから翼の表情をじっと見つめた。
「何だ。 気持ち悪い」
「うあ、気持ち悪いって……」
「で? 何だい?」
「あーー、や、唯、なーんか、根の深い事で悩んでそうだなぁ…ってな」
翼は、少し身を震わせ、それから平静を装った声で聞いた。
「どうして、そう思う?」
「女の顔になってる」
「ハハッ! 悪いけど、僕は元から女だよ?」
「ん。 そうだな」
「それに、悩んでなんかいない」
「うん」
「悩むものか」
翼が、だんだんと弱々しい声音に変わっていくのを武彦は、優しげな目で見つめている。
「……すぐ、分かったか?」
翼は、小さな声で問い掛けた。
「ん?」
「僕が、悩んでるって、すぐ分かったか?」
「…んー。 武彦お兄さんは、お前よりちょっとばかり長生きしてるし、ほら、腐っても探偵やってっからな」
翼の向かい側のソファーに腰を掛け、少し笑って武彦は言った。
「大丈夫。 金蝉、激鈍い奴だから、気付かねぇよ」
翼も、少し笑った。
「それは、それで、問題だけどね」
そして、コテンと背もたれに体を投げ出して、目を閉じる。
「お前はさ、いっつも、他人のことばかり考えて、他人の問題に振り回されてばかりだったから、良いんじゃねぇの?」
武彦は、コーヒーを啜りながら、優しい声で言う。
「女の顔してても、良いんじゃないか? 年相応の苦悩を抱えたって良いんじゃないか? 自分の事で悩んで、それは全然格好悪い事じゃねぇぞー? 金蝉が、どういう奴かって、お前は俺なんかよりも全然知ってて、あいつが少なくとも女孕ませて放置するような奴じゃないって知ってて、それでもこんだけ落ち込んでるって事はさ、きっと、お前の中に別の問題があるんだよな?」
いつもならば、年上ぶってなんて、からかうような口調だが、今の翼にはことのほか染みて、じっと黙って耳を傾ける。
「悩め、悩めー? お前に限らず、俺の周りにゃ、その持ってる能力や、出自故に、そういう普通の人達が通過していく感情と無縁のまま生きてきた奴らは多いけどさ、でも、お前も、金蝉も、どんな能力者だって、生活するって事とは無縁ではいられないんだ。 みっともねぇ事は、幾らでも経験するんだ。 悩みゃあいいじゃねぇか」
そして、ククと喉の奥で笑って愉快そうに、言った。
「しっかし、翼ー? お前の事、初めて可愛いと思ったぞ?」
翼が、その言葉に何か悪態を吐こうとした瞬間、興信所のドアが乱暴に開けられた。
「おおー。 ジャスト10分」
ヒラヒラと手を振り、笑って金蝉の分のコーヒーをいれにいく、武彦。
入れ替わりのように、金蝉が翼の向かい側のソファーに腰掛けるのを、どうしても冷たい表情で眺めてしまう。

どんな話をしたのだろう?
その女性は、どうして金蝉に赤子を託したのだろう?
どんな女性だったのだろうか?

こんな態度をとってもしょうがないと分かりつつ、どうしても、不機嫌な気分になっていくのは止めようがない。
「で? どうなったの?」
翼が、そう短い問い掛けを発すれば、金蝉も短く答えた。
「返してきた」
「………」
「………」
「………えーっと…? それ…だけ?」
思わず、首を傾げてしまう翼に、金蝉は面倒臭そうに頷き、それから煙草を一本銜え掛けて止める。
「いいよ。 吸っても」
僕には、遠慮されても意味ないから。
思わずそんな事を考えてしまい、自分のマイナス思考っぷりに、余計落ち込む。
「………や。 気分じゃねぇ」
金蝉も、不機嫌そうな顔を晒したまま、煙草を懐にしまうと、一気に流れるような口調で言った。
「高校時代の同級生だったらしい。 なんか、色々あったみてぇだが、忘れたってか、面倒臭ぇから聞かなかった。 とりあえず、ガキは返してきた」
「……へー…って、わぁ。 本当に、それだけで済ましてきちゃったのかい?」
翼けば、思わず身を乗り出して聞けば、コクリと何処か幼いとすら言える仕草で、金蝉は頷く。
「他に、何が必要なんだよ」
そう淡々とした声で問い掛けてくる金蝉に、翼は思わず頭を抱えた。



嬉しい。
いや、嬉しいものか。
駄目だ。
そんな事では。
本当に駄目な奴だ。

なんて、駄目な金蝉。



翼は、不機嫌な表情を必死で保ったまま顔を上げ、冷淡な声音で言い放った。
「最低だね。 子供を捨てるって、どういう覚悟の上の行動だか、理解してるのかい? それも、唯、捨てるだけなら金蝉を選ばなくてもそういう施設の前なりと場所は幾らでもあるじゃないか? いいかい? 金蝉。 その女性はね、君を選んだんだよ?」
金蝉の眉間に、再び深い皺が寄り始めた。
瞼もだんだん落ち始め半眼になり、唯でさえ妙な迫力のある顔の人相が、どんどん悪くなっていく。
「あの女性が金蝉を頼りたがってた事ぐらい僕でも解かったのに…」
と、呆れた口調で言えば、金蝉はそっぽを向いて、口の中で何事か、文句をブツブツと言った。
然し、あえて問い質そうとはせずに、フゥとわざとらしく溜息を吐き、首を振ると、「やれやれ」と呟いて、金蝉の顔を覗き込んだ。
「金蝉? 君って男は、女性に対する心掛け? 優しさ? 配慮? まぁ、そんな感じの感情に、全然欠けているようだね? ていうか、君の場合、人間として最低限備わっているべき、最低限の常識すら、全く理解してないような男だから、そんな君に任せて帰った僕にも責任があるのかも知れない。 まぁ、しかし、困って自分を頼ってきた女性の話を何も聞かずに帰ってくるだなんて、僕から言わせて貰えば、んーー、零点!」
ビシっと、翼は金蝉に勝手に点数をつけ、金蝉は二度目の零点判定に、最早諦めの表情すら見せ始めていたが、そんな金蝉に容赦なく翼は言った。
「と、いう事で、明日、その女性のアパートを訪ねような?」
翼の言葉に、金蝉は「冗談じゃねえぞ!」と、思わず怒鳴る。
「唯でさえ、身に覚えのねぇガキを押し付けられたんだ! これ以上、面倒見られっか!」
「金蝉? 乗りかかった舟だろう? 困っている女性を見捨てるなんて所業、誰が許しても僕は許しはしないよ?っていうか、僕が許さない時点で、金蝉は明日、アパートに行くこと決定だからね?」
「はぁ?! ってっめぇ! いい加減に…!」
キレる様子を見せた金蝉の怒りに冷水をかけるような、静かな声で、遠い目をしながら翼が言った。
「あの、赤ん坊……」
翼の口調に、金蝉が思わず呑まれ、問い返す。
「っ! ………なんだ?」
「あの赤ん坊、そういえば…金蝉に似ていたような気がするな…」
その言葉に、金蝉が大きく目を見開いた。
「…あぁ?」
「だーれも、その女性と君の会話、聞いてないもんな…」
「何が言いてぇんだよ」
金蝉が、機嫌悪く問い掛ければ、カチャカチャと陶器の音をさせながら、コーヒーを持った武彦が現れ、ゆっくりと金蝉の前に置きながら、翼と同じ様な目つきを見せて、ゆっくりとした口調で呟く。
「そうだよな…。 金蝉の疑いは……まだ、晴れた訳じゃないよな?」
翼は武彦の加勢に感謝の念を捧げつつ、同調するように頷き、フッとニヒルな笑みを浮かべた。
「察するに、金蝉がもう、その女性に会いたくないのは、やましい事があるから……って、考えてみるのはどうだろう?」
武彦も、唇を片方だけ吊り上げる独特の笑いを見せて同調する。
「それは、なかなか鋭い意見だと思われるな。 そして、前回の訪問の際に、『絶対に自分に面倒を掛けるな、そのガキと俺はもう何の関係もねぇんだからな。 今度、こんな巫山戯た真似をしやがったら、南港(大阪の港。 ヤクザの脅し文句の定番地)にコンクリ詰めにして沈めんぞ、コラ。 ペッ(唾吐き音)』 だなんて、ヤクザも真っ青な脅し文句を吐いたかと思うと、先に帰ってしまった我が身を悔やむばかりだ」
そして大袈裟な身振りで、「ああ…」と天を仰ぐ武彦を呆れた目線で見つめていた金蝉に、今度は翼が、新たな攻撃を仕掛ける。
「嗚呼! 武彦! そんな嘆いていてはいけないよ! 金蝉だって、幾ら、人間失格人間金蝉だって! そんな、そんな、鬼畜な振る舞いを……っ! 駄目だ、翼! 長い付き合いじゃないか! 金蝉の事、こんな、外道の金蝉の事を、僕まで見捨てたら、金蝉はどうすればっ!」
「っていうか、これは、何劇場だよ?」
思わず、冷たく突っ込む金蝉を置き去りに、二人はどんどんヒートアップしていった。
「ああっ! 金蝉! 俺の友……人?(首傾げ動作付き)金蝉! 俺達の、こんな疑いなんて、全部無用のものだって、証明してくれないか?」
「そうだ! 金蝉! おぉ、金蝉!(体を震わせながら) 僕たちの、こんな苦悩を、いつもみたいに明る……く?(首傾げ動作付き)笑い飛ばしてくれよ!」
二人の派手な動作と言葉に、とうとう頭痛すら覚え始めた金蝉は、「分かった! 分かったから、その巫山戯た真似はやめろ! 行きゃあ、良いんだろ! 行きゃあ!」と叫び、ギロリと二人を睨み据える。
心臓の弱い人間なら一発でお陀仏になりそうな程の、視線もものともせず二人は視線を交わし、大きく頷き合うと、「んじゃ、明日は金蝉と翼で行って来いよ」と先程までのやり取りからは想像もつかない程の、軽い口調で武彦は云い、翼も、また、不機嫌な表情に戻ると「ちゃんと、来てくれよ?」念を押した。


女性の存在に対して怒っているかと思えば、気遣い、力になってやれと説教し、いきなり落ち込んだり、不機嫌に振る舞ったり結局、翼の感情全ては自分の元へと向かっている事に気付き、金蝉は心中で毒吐いた。
(ったく、怒るか、心配するかどちらかにして欲しい)
そして、女はよく分かんねぇ…、と結論付けながらも、翼に関する事だけは面倒臭いと切り捨てられない自分には、流石は武彦に激ニブと評された、金蝉、とうとう気付けなかったらしい。


「うわぁ! 翼さん? ホントに、翼さんですよね!」
やつれた様子を見せながらも、明るい、さばけた表情で、翼にそう問い掛け、それから握手をねだってきた女性に、翼はとろけるような笑みを浮かべて、手を差し出した。
「こんにちわ、美しいお嬢さん。 僕の事を、知っててくれたんですね?」
「はっ! はいっv レースとか,TVなんかでも見てるんです! もう、すんごい、すんごい格好良くて、大ファンなんですよ?」
そう言いながら、翼の白魚のような手を、水仕事などで荒れたのだろう。
ガサガサとした手で包んだ女の、その手の感触に、翼の胸の奥にあった、もやもやが霧散していくのを感じた。
(ああ、そうか。 これが母親の手)
心の奥が、チクリと小さな痛みを覚えながら、それでもぎゅっと、握り返す。
「光栄です」
そして、ブスっとした表情で二人のやり取りを眺めていた金蝉に視線を送った。
金蝉は、渋々といった様子で口を開く。
「……もう、大丈夫なのか?」
女が金蝉の言葉に穏やかな笑みを浮かべて頷く。
「うん。 心配して来てくれた……んじゃないでしょ? 誰かに、言われて来たの?」
そう聞いてくる女に、金蝉が無言で翼に顎をしゃくって見せる。
それで、大体の事情を察したのか、
「ふふふ。 桜塚君が、翼さんとどういう関係か?なんて、聞かないであげる。 どちらも、私の王子様だしね」
そう、言いながら、女は、一度キッチンに引っ込み、暖かなお茶を三人分いれて現れた。
余り広いとは言えない室内は、奇麗に掃除がなされていて、荒れた様子は全く無い。
「あの子は?」
と、翼が問えば、女はニッコリ笑って「今は、眠ってるんです。 どうぞ、帰りに覗いていってやって下さい」と言った。
そして、「桜塚君だけじゃなく、翼さんにまでご面倒をお掛けして、本当にすませんでした」と深々と頭を下げる。
「何が、あったんですか?」
翼の、優しい問い掛けに、女は暫し言葉を選ぶように逡巡した後、結局、良い言葉が見つからなかったのだろう。
困ったように笑いながら、直接的な言葉を口にした。
「えーと、実は、桜塚君には話したんだけど、急に旦那に別れを切り出されちゃって……」
「どうして?」
「なんか、別に女の人が出来ちゃったみたい」
「えへへ」そう笑いながら、お茶に手を伸ばす女に、翼は怒気を込めた声音で吐き捨てた。
「最悪だね! そんな奴、僕だったら殴り倒している」
「ありがとう。 でも、さ、奥さんと子供捨てる旦那も最悪だけど、子供捨てる母親も最悪だよね」
女はそう言いながら俯き、「ほーんっと、何考えてんだか」と、自嘲する。
「なんか、途方に暮れちゃって、どうしたら良いか分かんなくて、私、働いた事もないしさ、絶対、絶対、あの子一人で育てられないよ!って、混乱してた。 ばっかだなぁ。 ほんと、最悪の馬鹿」
女の言葉を聞きながら、金蝉は黙ったまま、だらしない格好で座っていたが、静かな声で問い掛けた。
「もう、しないんだろ?」
「うん。 絶対しない。 死んでも、あの子だけは、手放さない。 いなくなって、気付いた。 私、一番大事なものに対して、なんて酷い事をしちゃったんだろうって。 胸が痛くて、怖くて、頭おかしくなりそうになった。 ほんと、ごめんなさい。 ごめんなさい」
そして、女は、前回金蝉が見た時よりも、数段気力に満ちた、力強い笑顔を浮かべた。
「愛してるよーって、毎日あの子に言ってるの。 もう、あんな事しない、愛してるよって」
翼は、その笑顔に圧倒されたような気になって、お茶に手を伸ばしかける、すると部屋の奥から、聞き覚えのある、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「ありゃりゃ。 起きちゃったみたいね」
そう言いながら、母親は奥へ引っ込み、間を置かず、「よーし、よし。 どうしたのかなぁ?」と言いながら、赤子を抱えて現れる。
赤子も、母親の腕の中であやされると、すぐさま泣きやみ、それから翼に気付いたのだろう。
キャッキャと高い笑い声をあげながら、手を伸ばしてきた。
翼は、立ち上がり、その小さな、小さな手を握る。
すると、作り物のような手が、翼の指をギュッと握りしめてきた。
翼の心の中に、暖かなものが溢れてくる。
視線を上げれば、幸福そうな顔をして赤子の顔を見下ろす女の顔が間近に目に入った。
そして、小さな翼だけに聞こえる声で内緒話のように囁いた。
「あのね、何で、桜塚君の家にこの子を置いてきたんだろうって、昨日考えたの。 桜塚君、高校時代、確かに格好良かったし、目立ってたし、私もね、憧れてた。 手の届かない存在としてだけどね」
ゆっくりと赤子を揺らし、笑いかけながら、女は言葉を続ける。
「でね、気付いたんだ。 桜塚君なら、絶対この子を傷付けたりしないだろうって考えたのもあるし、私、桜塚君なら、この子を連れて来てくれるんじゃないかって、密かに確信してたんだよね。 ほら、クラスメイトだったでしょ? 何だかね、桜塚君、凄かったんだ。 オーラもそうだけど、行動も、信念もってて、我が道を行くって感じで、確かに怖い雰囲気だったけど……、でも、来てくれる気がした。 私、きっと、桜塚君に会って、自分の気持ちに整理をつけたくなったんだと思う。 ああいう、手紙書いておいたのも、駄目押しだし…ね?」
翼は、女の言葉をじっと聞きながら、その奥底の心にも気付いていた。
(ああ。 この人は、金蝉の事を好きだったんだ)と。
だから、子供を金蝉に託したのだ。
昔、恋をした人に、決着をつけて貰いたかったのだ、と。
だが、翼は、不思議と女を憎めなかった。
むしろ、この二人に祝福をと祈った。
女が、赤子に子守歌を小声で歌っている。
慈愛に満ちた歌声に耳を傾け、翼は思った。
ただ子供を返しただけという金蝉の言葉に嘘はないだろう。 
少なくとも自分の影響力を知らない金蝉本人にとっては。 
けれど、女性にとっては何かしら得るものがあったのだろう。
金蝉は、つまらなそうに、それでもじっと翼達の姿に視線を注いでいる。


子供は産めない。


翼は、唐突に、金蝉に心の中で語りかける。


子供は産めない。 けど、守る事も、救う事も出来る、君と一緒なら、出来るって確信してる。  僕は、それで良い。 それで、良いと思ってるんだ。 君は? 金蝉は、そんな僕をどう思う?


そして、子守歌を聴きながら静かに目を閉じる赤子の姿を見て、翼は美しい、聖母の笑みを浮かべた。


君に幸多かれと、心から祈る。





 終