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泣き声が降る夜
泣き声が聞こえたような気がして、菅原射鷺羽は背後を振り返った。
横断歩道の向こう側からはサラリーマンや学生、スーツに身を包んだ女性などが群れを為すように大勢歩いてくる。けれど泣いている人間など見当たらなかった。
東京・新宿。
夕方5時を過ぎると南口の交差点は、会社帰りや学校帰りの人々で、ただでさえ多い人通りが更に混雑する。
その人波に飲まれそうになりながら、射鷺羽は再度周囲を見渡した。
──聞こえない。
「空耳かなあ」
そう呟きながら、射鷺羽はそのまま何気なく空へと視線をやる。
ビルの谷間に見える狭い空は、沈む夕陽に照らされて薄っすらと赤味を帯びていた。
東京の夕焼けはどうしてこんなにも沈んだ色をしているのだろうと、射鷺羽は思う。
陽の光も、空も、緑も、人の顔色さえも、どこか「薄い色」をしている。
自分が暮らす小さな村では、全てがもっと生気に溢れ、鮮やかに輝いているのに。
村と都会の違いなのだと言われてしまえばそれまでだけれども、何度来ても慣れないなあと射鷺羽は小さくため息をついた。
「射鷺羽、どうしたんだい?」
突然立ち止まってしまった射鷺羽に驚いて、前を歩いていた青年が駆け寄ってくる。
「こんな所で突然止まったら、人にぶつかるよ。危ないから、早くこっちにおいで」
「あ、うん、ごめんなさい」
差し出された青年の手につかまりながら、射鷺羽は人波の中を歩きはじめる。
──その時、再び背後から泣き声がした。
助けを求めるような、寂しい、悲しいすすり泣きだった。
知っている、と射鷺羽は思う。
こんな声をかつて自分は聞いたことがある。
──あれは……。
夏だった。星の光は弱く、闇の中ではネオンが瞬いていた。
遠い空。遠い地上。
──あの時、泣いていたのは。
浮かび上がる白い顔。焦点の合わない視線。
健やかな寝息。抱きしめた、柔らかく温かな身体。
(助けてと叫んでいたのは)
射鷺羽はそっと眉を顰めた。
──忘れもしない、あれは小学一年生の夏だった。
◆◆
小学校に入ってから初めての夏季休暇、射鷺羽は両親と共に東京の親戚の家に遊びに来ていた。
それまでもそれ以降も、夏冬の長期休暇はあちら側が射鷺羽の家に来るのが慣習だったから、多分その年だけ彼らが東京を動けない事情があったのだと思う。
射鷺羽は年の近い従兄弟と村とは異なる「遊び」をたくさんした。
川遊びではなく、プールに泳ぎにいったり。
夜空を見上げるのではなく、プラネタリウムに行ったり。
木登りをするのではなく、遊園地に行ったり。
普段行かない場所、普段しない遊びをするのに戸惑いを覚えなかったわけではなかったけれど、それ以上に新鮮で楽しかった。
そして、最終日。翌日には村に戻るという日だった。
みんなで行った上野のからの帰り道、射鷺羽はその人を見つけたのだった。
◆◆
風が駅前まで獣の匂いを運んできていた。
照りつける陽射しは強く、アスファルトが白くその光を照り返している。
頭上高くに茂る木々の葉の緑と、地面の白のコントラストがまぶしい。
その中を射鷺羽は従兄弟に手を引かれながら、動物園を見て回った。
園内で見た動物たちは、絵本や図鑑で見るのと同じように静かで優しげだった。
山にいる獣たちが持つ鋭さや力強さは檻越しからは伝わらず、物悲しいような、ほっとしたような、複雑な気分になったのを未だに覚えている。
その帰り道、駅へと向う人込みの中で、だった。
地面を這うような、低音で、聞くものを悲しくさせるような泣き声を聞いた。
「…だあれ?」
射鷺羽は驚いて周囲を見渡すが、周囲は笑顔に満ちた家族連ればかりで、助けを求めている様子の人は見当たらない。
「どうしたの、いろは」
「だれかのね、泣き声がきこえるの」
「それはきっと空耳だよ」
傍らの従兄弟は穏やかにそう言うが、声は止まない。小さい子供が悲しみを堪えてなくような、泣き声。
(…うぅ……、うぅぅ……)
そして射鷺羽は人より優れた視力で、その人を見つけてしまった。
木陰に立つ一人の女性の姿を。
──あのひとの方からきこえる。
その人は胸に赤ん坊を抱きながら、虚ろな視線で家族でにぎわう駅前をぼんやりと見ていた。
誰をみるでもなく、笑顔が満ちるその光景を、じっと見つめていた。
射鷺羽の視線に気付いたわけではないだろうが、何を思ったのか、ふらふらとおぼつかない足取りでその場から歩きだし始めた。人気のない方へと。
泣き声が徐々に遠ざかっていく。
──ダメ。
その姿を見つめながら、直感的に射鷺羽はそう思った。
──あのおばちゃんを一人で行かせちゃダメだ。
気付いたときは従兄弟の手を振り払って走り出していた。
「いろは!」
「射鷺羽どうしたのっ?」
家族の慌てた声が背後で聞こえたけれど、射鷺羽は振り返ることすら出来なかった。
人波を掻き分けながら、射鷺羽はその人の姿を追う。
──おばちゃん、なんか変だった。泣いているのは……あの赤ちゃんかもしれない。
◆◆
外灯がジジジという音を立てながら、その白い光で周囲を照らし始めていた。
先程までほの明るかった空が、あっという間に藍色に染めかえられている。
赤ん坊を抱いた女性は意外なほど早足で、その上人波や信号に邪魔をされて射鷺羽は彼女になかなか追いつけない。
追いつけたのは、女性が路地裏にある古びた雑居ビルの前で立ち止まったからだった。
「あの、おばちゃん……?」
女性はもの慣れた様子で、人影のないビルの中へと入っていく。
どうやら射鷺羽の声は聞こえなかったらしい。
カンカン、カンカン。サンダルが階段を叩く音が周囲に響く。
女性が外階段をどんどん上と歩いていくその姿をぼんやりと見つめていた射鷺羽も、慌ててあとを追った。
「おばちゃん、どこ行くの」
細い背中に向って声をかけるが、やはり女性は無反応だ。
そのまま、建物の屋上へと上がってしまう。
「おばちゃん!?」
射鷺羽は慌てて女性の腕を掴む。
「あぶないよ。ここ高いから。あぶないから、もどろうよっ。ねえ」
まるで存在しないとでもいうように腕にまとわりつく射鷺羽の体を引きずりながら、女性は手すり近くまで進むと、自らが抱いていた赤ん坊を軽く抱えなおす。
何かに捧げるようなその姿は……。
「ダメだよ、おばちゃん。何するの。赤ちゃんあぶないよ」
射鷺羽の声は届かない。届いていない──。
女性の手から赤ん坊の身体が離れ、宙に放り出される。
「ダメっ」
叫びながら、手すりから飛び出した射鷺羽が赤ん坊を抱きしめた。
バランスを崩した射鷺羽の小さな身体が宙を舞う。
その時射鷺羽の瞳に映ったのは。
紺色に染まった空と。遠くに見える光輝くネオンと。赤ん坊の穏やかな寝顔。
そしてスローモーションのように徐々に近くなる地面だった。
──ダメっ。
赤ん坊を抱きしめながら、きつく目を瞑ったその瞬間だった。
射鷺羽は自分の肩甲骨から何かがするりと伸びるのを感じた。
それとともに、今まで眠っていた何かが繋がったような、心の奥底に隠れていたスイッチが入ったような、そんな感覚に襲われる。
地面にぶつかったら痛いんだろうな、苦しいんだろうな、そう思いながら、その時がいつまでたってもやってこないのを訝しく思い、射鷺羽はそろそろと目を開いた。
激突するはずだった地面まであと2メートルというところで射鷺羽たちの身体は浮いていた。
上下に緩やかに動く体。激しい心音と共にバサバサという羽音が耳に届く。
「えっ。あれっ?」
背後を見ると、自分の背中から羽根が生えているではないか。
驚きながらもずっと宙に浮かび続けているわけにもいかず、射鷺羽はゆっくりと羽根を動かし地面に降りる。
コンクリートの地面に降り立った射鷺羽は、赤ん坊を抱えながらその場にペタリと座りこんだ。
──どう…なってるの?
背後を振り返る。確かに羽根がそこにある。
赤ん坊を抱えなおし、自らの羽に手を伸ばすと……役目を終えたとでもいうように、それは煙のように消えてしまった。射鷺羽の手が空をきる。
抱き方が悪かったのか、今まで静かだった赤ん坊が突如泣き始めた。
火がついたように、健康的な泣き声だった。
射鷺羽は空を見上げる。
風にのって静かなすすり泣きが降ってきていた。
屋上からあの女性がぼんやりと此方を見つめているのが見える。
そうか、と射鷺羽は思う。
──泣いていたのは、おばちゃんの方だったんだ。
◆◆
これは後から聞いた話だが、あの女性は育児ノイローゼだったらしい。
ご主人も育児には理解がなく、頼れる人も近くにいなかったことから、徐々に精神に破綻をきたしてしまったらしいという話だった。
あのあと、射鷺羽は女性と射鷺羽を捜していた警察に保護された。
みんなにはどれだけ心配したか、こってりと注意され、けれども赤ん坊を守ったことだけは褒められた。
──この声は、あの時のおばさんの泣き声によく似てる。
「悲しいね」
射鷺羽は小さく呟いた。
ここにはこんなにたくさん人がいるのに。
東京にはとてもたくさんの人がいるのに。
どうしてこんなにも寂しい思いをしている人が多いのだろう……。
「本当は私じゃなくて、傍にいる人が助けてあげるのが一番いいんだけど」
射鷺羽は一旦軽く目を伏せると、青年の手を振り払って、再び雑踏の中を駆け戻っていった。
了
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