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いにしえの森、銀の邂逅
深い森。
それは、太古の記憶だ。
まだ、地球の大半が、人間に手をふれられたことのない、森や山でおおわれていた頃のこと。森とは、陽の光がささぬ闇の領域だった。
そこは、獣と、かれらの神が支配する土地。
ヒトが、足を踏み入れてはならぬ禁忌の世界だったのである――。
「御眼鏡に、かないましたかな」
声をかけられて、はっと我に返った。
フードの奥から、嗄れた声で含み笑いがもれる。得体の知れない骨董商人――だが、一応は信頼のおける仕入れ先だ。
「そう……ね。これは――」
マリィ・クライスは、そっと、やわらかな毛並をなでた。あざやかな緋色の爪が美しい、彼女の指の下で、それは磨かれた金属のようにすべらかだった。
うす暗いランプの灯りしかない、埃っぽい倉庫の奥で、それだけはみずから光を発するようにして、しかし、無造作に捨て置かれていた。
「それはいささか、いわくのある品でして」
「いわくのない品なんてここにあるの?」
優雅に波打つ黒髪を揺らして、マリィは笑った。
そうなればこそ、ここはマリィの仕入れ先たりうるのである。東京において、好事家はもとより、呪術にとりくむものをも満足させる数少ない店のひとつが、彼女の切り盛りする『神影』だ。
「見たところ――呪いがかかっている気配もないし……目立つ術式もないようだね。うかうかしていると、アーティファクトだとは思わないかもしれない……。ただの毛皮だとしか――」
それは毛皮のショールだ。
不思議な光沢をそなえた、銀色の毛並が美しい。
「でもわかる。……これは力を持っている。強い力を持ったなにものかの毛皮なのさ」
マリィは、じっとそのショールを見つめた。
顔が映りそうなほどの明るい銀だ、と最初は思ったが、よく見ればしぶい鋼の色合いでもあり、さらに見つめていると吸い込まれそうな深い闇色であるようにも思われるのだ。
(この色――どこかで……)
「夢を……見るそうで」
マリィの思考に割り込むように、商人が言った。
「夢?」
「深い森と、銀色の狼を、この品の持ち主は夢に見るのだと」
「へえ」
気のなさそうな声をもらした。そして、くるりときびすを返す。まるで、興味を失ったような仕種だった。しかし、彼女は無造作に、
「買うわ」
とだけ言った。骨董商人は、深々と頭を下げるのだった。
マリィの寝室には、店に並べ切れなかった――あるいは、並べるべきではない品々であふれかえっている。
たとえば血を混ぜて描かれた亡国の貴婦人の肖像画、たとえば黒い炎が灯って悪魔を呼び出せるという人脂の蝋燭、たとえば海底に沈んだ文明の秘密を記した歴史書……。銀色のショールは、そうした品々の仲間入りをした。
マリィはそうした品々を満足げに見回してから、おもむろにアンティークのベッドに身をよこたえ、眠りにつくのが毎日の習慣だった。
その夜も、そうして、いつもと変わりなく、一日を終えたはずだった。
その毛皮の持ち主が、不思議な夢を見るという話を、マリィは信じていないわけではなかったが、そのときはもうすっかり忘れていた。おぼえていたとしても、そんなことに恐れをなすマリィではない。
そして、夢は静かに、舞い降りてきたのである。
異様な声にはっと顔をあげる。おそらくなにかの鳥の声だ。
太い木の根が浮き出し、そのあいまは下生えに覆われた、道なき道。
マリィは、暗い森の中をさまよっている。
まだ日も高いはずの時間だが、彼女のもとにまで届くのは、わすかな木漏れ日のみ。あとは緑の天蓋のように頭上にひしめく枝振りにさえぎられてしまうのだ。
森の中に、マリィ以外に人の姿はない。
そこは、人が来るべき場所ではなかったから。
この時代、森に入ることは禁忌を侵すことであり……あるいは、人としての禁忌を侵したものが、森に追放されるのであった。
だから、森には、人の歩むための道はない。
陽光の届かない地表には、苔や茸がじめじめと生えている。
そこを、マリィの靴ががさがさと踏み荒らすと、地虫やトカゲたちが、あわてて木陰の暗がりへと逃げ去ってゆく。
おそらくここを人が通るのは久方ぶりのことで……いや、ことによると、有史以来、この場所を訪れた人間などいなかったのかもしれない。
不意に、森が開けた。
マリィは息を呑んで、あたりを見回す。
そこは、森の中の泉であった。
鏡のような水面が、森を映し、狭い空を映して、まるで異界への入口のように、ぽっかりと存在しているのだった。
マリィは水辺の草の上にそっと膝をついて坐った。
かろうじて太陽の恵みにあずかれる岸には、可憐な、小さな花が揺れている。
泉をのぞきこむと、碧色の水にマリィの顔が映った。
そっと、水をすくうべく手を伸ばす。その時――
『立ち去れ』
空気を震わすほどの大音声。
樹上に羽を休めていた鳥たちがいっせいに飛び発つ。
思わず身をすくめたマリィが見たものは――
(あ……)
湖面に浮島のようにはりだした、草地の上にすっくと立った、一頭の狼だった。
『ここはヒトの来るべき土地ではない』
陽光を受けてきらきらと輝く銀色の毛並。
仔牛ほどもある大きな獣だったが、その肢体はしなやかで、彫刻のように優美な曲線を体現していた。不思議な蒼い瞳が、強い眼光で、まっすぐにマリィを見据えている。凛と張った声は、まぎれもなくその獣が発したものだった。
「わ、わたしは……」
『問答は無用。去らねば、死ぬぞ、女』
狼は言った。
いや――
ただの狼ではない。さかさまに水面に映る姿さえ高貴さにあふれている。これは狼の……獣たちの王だ。この森を統べるものに違いない。
(――神)
この時代、野には人の暮らす里があり、森は獣が支配していた。
そして人は人の神を信仰し、獣は獣の神に護られていたのである。
マリィは動けなかった。
それは畏れのようでもあり、恍惚のようでさえもあった。
これは獣の神だ。森のあるじだ。なんと――なんと美しい。
『私は警告したぞ。人の子よ』
ふわり、と、まるで羽根でもはえているかのように、かろやかに銀の狼は跳んだ。そして、マリィのいる岸辺に着地する。
近くでみればいっそう神々しい輝きをおびた銀の毛皮がたてがみのように逆立っていた。そして、鋭い牙のあいだから唸りが漏れる。
「ま、待って――」
問答無用――、その言葉通り、美しい神の獣は躍りかかってきた。その牙はまっすぐに、マリィの喉笛を狙っている。反射的にかばった左腕――そこに、牙が深々と沈む。閃光のような激痛……いや、痛みというよりも衝撃だった。
狼の顎に力がこもった。そのままでいたら、おそらく腕を喰い千切られていただろう。だが……。
『!』
獰猛な吠え声。
獣の王は、森をさまよう女が、その刃物を隠し持っていたことに、気がつかなかった。
『呪わしや、人の子の、なんと小賢しい!』
人の知恵は、鉱石を精錬し、金属を鍛える技を生み出していた。そしてそれを道具にすることをおぼえていたのだ。あまつさえ、その道具で森を拓き、動物を殺すことさえも。
泡を吹きながら、銀の狼は怒り狂った咆哮を発した。
その横腹には、銀でできた短刀の刃が埋まっていたのだ。
『おのれ! おのれ!』
後足で、獣は跳んだ。一飛びで、泉の向こう岸まで渡った。
『憶えておれ、人間め。貴様は必ずやこの報いを受けるであろう。さだめを破りしものには、罰が与えられようぞ!』
呪詛の言葉を残して、狼は駆け去って行った。
森のさらに奥深くへと。
銀の刃をその身に受けたまま。
そして、泉のほとりには、マリィだけが残された。
腕の傷からは、真っ赤な血が、どくどくとあふれている。腕全体が痺れたようになって、力が入らない。マリィは呆然と、狼が消えた森の奥を見つめているばかりで、血も流れるままにまかせている。
森の王を、傷つけてしまった――。
そのことが、どんなにおそろしい禁忌であるか、この時代の人間はなによりも深く知っている。普通の狼ではない。どれほどの深手に見えようと、倒れることはあるまい。そしてマリィは、直々に、その牙に傷つけられたのだ。いったいどれほどの呪いや祟りが待っているのか、想像することさえできなかった。
だが、そのときのマリィを支配していたのは、この期に及んでさえ、あの獣の銀の毛並の美しさだった。終始、彼女はそのきらめきに魅せられたままだったのである――。
窓からは、うっすらと月明り。
「…………」
時計を見れば、日の出のすこし前、といった時刻だった。
夢を見た。
骨董商人の話通り、深い森と、銀の狼の夢を。
(まさか――)
ゆっくりと身を起こし、ベッドを抜け出す。
蒼い闇の中に、薄いネグリジェに包まれただけの、マリィのほっそりした肢体が浮かび上がった。
そして、闇の中でもなお、それ自体が輝いているようにさえ見える銀の毛皮に手をふれた。
(まさか、そんな)
夢とは、太古の記憶であった。
それが毛皮のもたらしたものだとすれば。……毛皮そのものが持つ記憶なのか、それともマリィの中にある記憶を、毛皮が呼び起こしただけか。
森の中で、マリィが銀の狼に邂逅ってから、気の遠くなる程の年月が流れた。
狼の咬み痕は、たしかに、マリィに呪いをかけた。そのために、彼女はこの永い永い年月を、なかば人ならざる身として過ごさざるを得なくなったのだ。
そのあいだに、人の世は変わった。人間たちはどんどん森を切り拓いてゆき、獣たちを駆逐していった。いつしか、人は人の神さえないがしろにするようになり……ましてや、獣の神のことなど、とうに畏れなくなった。
マリィは、獣の神は、去ったのだと思っていた。
だが、あるいは――、人がとうとう、神さえも狩ってしまったのだとしたら。
(そんなはずない)
マリィはそっとかぶりを振った。
いかに人が力を手にしようと、神を殺すことなどできるはずがない。だいいち、マリィの呪いは解けていないのだから――。
毛皮にそっと頬をうずめると、どこか遠くで、狼の遠吠えが聞こえたような、そんな気がした。
その毛皮は、今も、マリィの寝室にある。
(了)
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