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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


月光


蜂蜜のように、今にもトロリと滴り落ちてきそうな色した満月だった。
東京の明るい夜空の上で、それでも地上で輝くどの光よりも眩しい光を放つ月を、翼は自宅のマンションのベランダから目を細めて眺める。
「7月の中旬になると、向こうの河川敷の方で花火大会があるんだ。 ここから見ると、花火がよく見えてね、金蝉も、その時期になったらまた、来ればいい」
笑顔を浮かべながら、部屋を振り返った翼の目に、身を屈め、冷蔵庫を無断で開けて覗き込んでいる金蝉の姿が目に入る。
「……こーんぜんー?」
不穏な調子を声音に滲ませた翼に頓着する事無く、あまつさえ不満げな顔を上げて「ビールは?」と問うてくる金蝉に、翼は深々と溜息を吐いた。
「まず、僕の話聞いてた?っていうのと、人ンチの冷蔵庫漁るなんて、躾がなってなさすぎるっていうのと、僕は一応未成年だから部屋に酒が置いてある訳ないだろ、タコっていう三つのテーマで君と、徹底討論をしたいと思うんだが、さぁ、どれからが良い?」
不機嫌に曇る声でそう問えば「勘弁」とだけ答えて、冷蔵庫の扉を閉め、ベランダへとやってくる金蝉を、翼は心底呆れた視線で見続ける。
若い男女。
一人暮らしのマンション。
夜に、二人きり。
此程の条件が揃っていて、それでも全く、そういう雰囲気にならないのは、誰の色気不足なのか、何が足りないのか。
しかし、いざ、そーいう事になってしまったら、どちらも怖じ気づいて結局何にもならないような気がしていて、だったら今の所はこんな関係が心地よいなんて考えていた。
金蝉自体、世の常識を全て無視して生きている人間の癖に、妙に古風なトコがあって、翼が現在16才という年齢である事も、今の関係に留まっている要因ではあるのだろう。
翼は、部屋にある机の上に投げ出されている何冊かの本を眺めた。
「面白かったか?」
そう問えば、「暇つぶしにはなった」と、可愛くない答えを返す。
金蝉も翼も、それなりに読書家ではあったが、その趣味は全く違っていて、金蝉が和書、国内書、漢書等を好むのに対し、翼は洋書一辺倒で、殆ど原書ばかり揃えており、二人で本についての話など全くした事が無かったのだが、先日、陰陽師桜塚としての仕事で地方へと赴く際に、手持ちの文庫本が切れていたらしく、翼に何か面白い本はないかと、駅から連絡をいれてきた。
唐突ではあったが、その時は幸い時間に余裕があったので、「僕は、君のパシリじゃない!」と、怒鳴りつけ、帰ってきたら夕食を奢って貰う約束で、本棚から翻訳されている本を何冊か運んでやった。
で、二日ほど前に帰ってきたらしい金蝉が、今日は本を返しがてら、約束を果たしに部屋を訪ねてきたという訳なのだが、「で? どうなんだよ?」金蝉が、ベランダに背を凭れ掛けさせ、ぐいと喉を仰け反らせて翼の横顔に視線を送る。
「ヤバそうなのか?」
翼は、「んん」と返事とも言えない言葉を返し、耳を澄ませた。
「風がね……」
「あ?」
「風が、余り良くない騒ぎ方をしてる」
「……興信所の方角……か」
金蝉が、先程から翼が見据えている方向へと、同じように視線を向けた。
「もう、限定しても良いんだろ?」
「そうだね。 まず、興信所で間違いないと思う」
そこまで言って、ツイと翼は金蝉に顔を向けた。
金蝉よりも、淡い色をした金の髪が、風になぶられ頬にかかる。
「………駄目だよ」
「何がだよ?」
「どーせ、放っておけば良いとか考えてるだろ?」
「……何も言ってねぇだろーが」
「考えてるだろ?」
翼の確信込めた口調に、コクンと金蝉は頷き、翼はガクリと項垂れる。
「そりゃ、君がうっかり、武彦だったらどうでもいいやー、マジどうでもいいー(本音)、とかって考えてても、そして、その意見に概ね賛成してしまう僕がいたとしても……」
「うーわー」
流石に金蝉ですら、翼の言い草には武彦が哀れに思われたが、それは口にする事なく翼の言葉の続きを待つ。
「今回は、どうも、見過ごせない感じがするんだよね」
そう、呟いた瞬間だった。
一際冷たく、そして激しい風が二人の間を吹き抜けた。
翼の澄んだ青い目が、キュウっと剣呑な形に細まる。
「……金蝉。 悪い。 少しここで待っていてくれないか?」
「何だ?」
「いや、ちょっとね、僕の命題に関わる出来事が、興信所で起こっているみたいだ」
翼の声の真剣な響きに、金蝉は「じゃ、行くか」と短く答える。
その言葉の意味がよく分からず、思わず金蝉の名を呼ぶ翼。
「金蝉?」
「よく、分かんねぇが、俺は人を待つのが嫌いだ。 連れてけ」
面倒事が嫌いな金蝉の、自ら首を突っ込むような発言に、翼は、少し表情を緩め、「分かった」と、答えた。



明るい満月の光が射し込む、薄暗い部屋に武彦はいた。
武彦の向かい合わせ、こちらには背を向けて一人の女が立っている。
黒々とした豊かな髪が波打っていた。
窓は開けられており、そこから流れ込む風が腰元まである髪を揺らす様子は幻想めいている。
後ろ姿だけでも分かる程、完璧なプロポーションをした女だった。
どちらも、一糸纏わぬ裸身を晒しており、月明かりが二人の肌に光を与えている。
武彦は、満月の光を背負っているせいか、逆光になって表情はよく分からないが、くたりと力の抜けた様子で、身を女に預けていた。
金蝉が、隣で眉を顰め、翼の袖を引いた。
確かに、この情景だけを見たならば、愛し合う男女の逢瀬だ。
それも、他人がおいそれと目にしていいようなものではない、情欲の逢瀬。
しかし、翼は薄闇の中、目を凝らし、武彦の首に付いた、キスマークとは違う赤い印に目を止めた。
物言わず、神剣を召還する翼。
その気配に反応し、武彦を抱いたまま、女がこちらに顔を向けた。


それは、息を呑む程に、妖艶で色気に満ちた女だった。


赤い唇が、ゆっくりと三日月の形に裂け、その奥から鋭い犬歯を覗かせる。
「吸血鬼…」
金蝉が静かに呟いた。
「みぃーつけたぁ!」
女が、淫靡な笑い声混じりの声を張り上げ、翼を指差した。
「駄目よぉぅ。 こぉんなに、早く来ちゃうだなんて、予想外だわぁ。 折角、可愛い、可愛い坊やを見付けたから、ご馳走になっていたのに、食事の途中で邪魔をするだなんて、いけない子ね。 『AMARA』」
それは、翼の真名。
彼女の、真の姿を示す言葉。
女は、白い指で武彦のうなじに指を走らせる。
「ッククク」
その感触に反応して武彦が、小動物のように身を震わせ、喉の奥で笑う。
そして、甘えるように女の肩口に頭を擦り付けた。
「完全に、術の中にはまってるな」
見たくないものを見せられている不快感を隠そうともせず、金蝉が苦々しげに呟く。
翼は、コクリと一度頷くと、「さっさと、カタをつけるよ」とだけ呟いて、神剣を振りかざした。
狭い室内を一気に走り、女への距離を詰める。
その瞬間、この場所では不利とみたか、武彦の体を押し出すようにして翼へと投げつけ、女は驚異的な跳躍力で後ろへ逃げた。
「逃がすかっ!」
武彦の体を避け、そう叫びながら、後を追い掛ける翼の足を、突然床に倒れ伏していた武彦が掴んだ。
ガクリ、と体勢を崩す翼。
その隙を見逃さず、女は開け放してある窓から外へと飛んだ。
「っ! 貴様っ!」
そう怒鳴り声をあげ、翼が、憤怒の表情で武彦を見下ろす。
武彦が虚ろな光が灯った目を、翼にヒタと据えたまま、「お前、あの人の事、どうするつもりだ?」と問うてきた。
熱っぽい口調。
悪意のこもった視線。
吸血鬼を魅入られた人間とは、このようになってしまうのか。
唯でさえ、付き合いのある人間だからこそ、その存在が見せた変貌ぶりを見せつけられ、吸血鬼の持つ力に、翼はおぞましさすら感じた。
「殺すのか?」
「違うね。 これは、狩りだ。 あいつは、僕の獲物だ」
冷たい声で、そう言う翼に、武彦が嘲笑を浴びせかけた。
「狩り! 東京が、お前の狩り場か! 狩人気取りか、おめでてぇな。 あの人が、何をした? お前は、何故、彼女を追う」
「……吸血鬼だからだ」
翼が、強い決意を滲ませたままの声で言った。
「不浄の存在は、刈りとらねばならない。 それが、僕の使命。 吸血鬼は、汚辱に満ちた存在だよ」
武彦が、笑った。
「お前も、半分は吸血鬼じゃねぇか! 何故、そこまで、忌み嫌う。 彼女は、お前を迎えに来たんだぞ? 殺そうとするだなんて、あんまりだ!」
翼は、首を振り、そして何も答えず、女吸血鬼が飛び立った窓へと走りより、そして飛んだ。
後を追おうと、身を翻し掛け、どうしても耐えきれず金蝉は、武彦を、冷たい目で睨み据えて吐き捨てた。
「余計な事ばっかり言いやがって……」
そこまで言い、武彦の虚ろな様子を眺め、今は何を言っても無駄と悟って、翼の後を追い走り出す。
大体からして、武彦があのような言動をする事自体有り得ないのだから、全て術のせいなのであろう。
一人の人間を、あそこまで骨抜きにしてしまうのか…。
そう思うと薄ら寒いような気分になるが、さりとて金蝉は吸血鬼に対し恐れを抱く事も、当然その血が体内に流れる翼を恐れる事もない。
急いで、興信所を飛び出し、空を見上げて翼の姿を探す。
満月の光の下、二人の影が、興信所のすぐ近所にある廃ビルの屋上にちらついた。
「チッ」
盛大に舌打ちし、金蝉は、そのビルへと走ると、周囲を探り、割れたガラス窓から廃ビルの中に潜り込んだ。
空き缶や、紙屑が転がり、埃が積もっているフロアを通り抜け、一気に階段を駆け上がる。
屋上へと、飛び出せば、二人の女が向かい合って、じっと立ち尽くしていた。


「闇の皇女、闇の後継者、重大な裏切り者! 美しい。 本当に、美しい人ね」


女が、感嘆混じりにそう告げるのを、翼は冷たい表情のまま聞いていた。
「貴女が欲しいわ」
うっとりと、女が笑う。
「バンパイアの本能ね。 憎くて、愛おしくて、憎くて、仕方がない。 皆、貴女の事を殺したがっている。 私達を刈る、同胞でありながら天敵。 憧れ、恐れ、憎み、それでも想う」
「僕を狙って、武彦を襲ったのか」
翼の問いに、女は笑った。
「うふふ。 人質にしようかとも思ったのだけど、貴女があんまり早く来ちゃったから、それも出来なかった。 貴女が、何処に住んでるのか迄は分からなかったけど、でも、貴女があの興信所に出入りしている事は分かっていた。 なかなかのご活躍のそうじゃない? あそこの紹介で、何人私達の同胞の魂を刈り取っていったのかしら?」
「滅べ。 お前は、この世に存在の許された生物ではない」
翼は、剣を構える。
「引導を渡してやる。 救いだと思うんだね」
凛と響く言葉。
月明かりの下、翼は神々しいまでの空気を放つ。
女はその神剣の威力を知っているのだろう。
月の光に照らされた、その聖なる姿に戦くような表情を見せ、それから金蝉へと視線を流した。
途端に、表情が淫蕩なものへと変わる。
「ううふふふふ。 そうね、あの子を人質にし損ねたのだもの」
女が、淫らな笑みを浮かべた。
「あの、奇麗な男の子、貰うわね」
その瞬間、予備動作無しに女が、高い跳躍をし、金蝉に向かって飛びかかってきた。
金蝉は、咄嗟に銃を取り出すも、人間離れしたそのスピードに照準を合わせるまでに居たらず、覆い被さるようにして、体を捕まえられる。
翼が、悲鳴のような声で「金蝉っ!」と叫ぶのを聞いた。
金蝉の顔をぐいと押し、その白い首筋を露わにすると、女は舌なめずりをして囁く。
「美味しそうねぇ。 貴方の、うなじ」
金蝉は、呻くような声で、吠える。
「誰が、喰って良いって許可した?!」
女が、低く笑った。
「許可? 必要ないわ」
女が、金蝉のうなじに顔を寄せる。
「いただきます」
そう、女が告げた一瞬後、女の背後で、爆発的な迄の、怒り混じりの力の奔流が起こった。


「金蝉に、汚い手で触るなぁ!」


そう叫びながら翼が、神剣を真正面に構え、一足飛びに距離をつめてくる。
女が、信じられないといった様子で、翼を振り返った。
有り得ないスピード。
その素早さに、女は身構える事すら出来ない。
肉を断つ、嫌な音が、響く。
女が、カッと目を見開いた。
聖なる刃に貫かれた傷跡が、不浄の身に想像を絶する苦痛をもたらしているのだろう。
「いやぁぁぁぁっぁぁ!!!」
耳をつんざくような悲鳴をあげ、女が金蝉から身を離し、のたうち回る。
そして数秒後、女はピタリと全ての動作を止めて息絶えた。
女の血を浴び、白い頬に赤い血飛沫の跡を残して、翼は金蝉に視線を走らせる。
「何かされたかい?!」
焦ってそう問い掛けてくる翼に、首を振って見せ、パンパンと服の裾を払う。
それから自嘲するように呟いた。
「ついて来たは良いが、足手まといになったようだな」
金蝉のそんな台詞に、翼は驚いたような顔をし、それから、そんな言葉を否定する。
「いや。 そんな事はないよ、金蝉。 少なくとも、女の気を引いてくれたから、こんなにすんなりとカタをつける事が出来た。 結構、上級の吸血鬼だったようだしね、正面からぶつかってたら、かなり手こずったと思う」
そう言いながら、ゆっくりと女に近付き、その躯に剣を突き立て、不浄の存在の消滅能力を行使する。
すると、女の躯は白い炎に包まれ、灰へと変わる。
風が、その灰を空の彼方へと運んだ。
その行方を我知らず二人は視線で追い、そして月の煌々とした光から逸らせなくなる。
風の音だけが、暫く二人の間に満ちていた。
「………、武彦の言葉、ちょっと効いたな」
唐突に、何気ない調子で、翼は言った。
「正義を気取ってきた訳ではないけど、僕の姿はきっと、滑稽だろうね」
金蝉は、黙ったまま月を見上げ続ける。
「同胞だと呼びかけられ、裏切り者とそしられても、僕は、彼らを刈り続けなければならないんだ。 だけど……」
小さく、翼は笑う。
「だけど、正直怖い。 彼らを、倒すたびに思う。 怖い。 次は、僕かも知れない。 次に、屍になってしまうのは僕かも知れない。 吸血鬼の血が流れているんだ。 僕も、誰かに狩られてしまうかもしれない」
翼は、じっと天を仰いだまま言葉を紡ぐ。
「僕の躯に流れる吸血鬼の血が、もし、もし、何かの拍子に目覚めたら……」
翼は視線を落とし、金蝉を優しい目で見つめた。
「その時は、僕の事金蝉が殺して」
金蝉は、何も答えない。
「君が良い。 きっと、容赦なく、躊躇無く引導を渡してくれる。 だから、僕は君を選ぶよ。 どうか、僕の事……」
悲壮な言葉。
金蝉は思う。
どうして、こいつは、こんなにたくさんの悲しみを一人で抱え込もうとするのだろうと。


俺が、翼を、殺す?


それは、今のような関係となっては有り得ないとしか言いようのない未来。
しかし、しかし、もし、本当にそのような事態に見舞われたならば、本当にそんな悲しい事が起こったのならば、自分以外の誰にも殺させない。
金蝉は、悲しい決意を固める。
誰にも、やるものか。
ただ、やはり、そんな未来は非現実的すぎて、あまりにも有り得なさすぎて、正直、想像すらしたくなくて、だから金蝉は、黙ったまま、右手を持ち上げ、そしてペタシと気の抜けた音のしそうな勢いで、翼の頭の上に乗せた。
「吸血鬼は、皆、あの女のように、血を吸引する相手である異性を誘惑し、虜にしてしまうんだよな?」
何が問われているのか分からないのか、翼は、訝しげな表情を見せて、唯一言「ああ」とだけ答える。
「じゃあ、心配ない」
「は?」
「お前は、完全に吸血鬼化する可能性はゼロだ」
「……何故だい?」
翼の、剣呑な色を含み始めた声音での問い掛けに、金蝉はしゃあしゃあと答えた。
「お前に、そこまでの色気はない」
その瞬間、翼は頭に置かれたままの金蝉の手を払い落とし、イーッと舌を出す、普段からは想像もつかない程の、子供っぽい仕草を見せると、叫んだ。
「この、スケベ!」
「うるせー、ばぁか」
金蝉も、何処か子供じみた言葉で言い返し、それから二人、小さな笑みを浮かべ合う。
翼は、笑っていればいい。
金蝉は心の奥底で思った。
悲しいことなんか、何にも考えずに、笑ってりゃあ良いんだ。
そして、金蝉は「今頃、武彦の野郎、術も解けて、泡喰ってるトコだから、笑い飛ばしに行こうぜ?」と、意地の悪い提案をした。
翼は、フフンと鼻で笑った後、「なかなか、楽しそうだね」と答え、それから小走りになって、金蝉の隣りに並んだ。
先程までの、重苦しい雰囲気は微塵もなくなり、二人の悪巧みの相談事に花が咲く。
廃ビルの階段を降りながら、金蝉と翼は、さて、どうやって武彦に反省を促そうかと、熱心に語り合った。


「すーーーんーーーまぁーーせーーんーーーーー!」
事務所の扉を開けた瞬間、ちゃんと服を着込んだ武彦が、土下座をして出迎えてくれた。
「わぁ」
無感動に翼がそう、唇から漏らせば、金蝉はただ一度溜息を吐き出す。
「な、な、ななな、なんか、えーと、」
「うん」
「記憶にある限りでは…」
「うん」
「エライ醜態をお見せしてしまったようで…」
冷や汗をダラダラ零しつつ、そう言う武彦を前に、金蝉は冷たい声で、翼に問うた。
「おい。 16才の、女性的にどうなんだ? いきなり、28才男性の素っ裸を拝まされるっていうのは?」
すると、翼は無表情のまま答える。
「もう、心的外傷だね。 トラウマになるね。 今晩から、うなされてしまうね。 まさか、仕事先のオーナーにそんな、セクシャルハラスメント略してセクハラを受けるだなんて、想像もしてなかったよ」
「ち、ち、ちち、違う! 違う、俺が悪い訳じゃ」
言い訳をしようとする、武彦をチロリと見据え、一刀両断する翼。
「だが、スケベ心起こして、彼女を招き入れたのは君だろ?」
翼がそう冷たく言えば、真っ青になって、武彦が見上げてくる。
「風が、騒ぎ出したのは、興信所の営業時間が完全に終わってからだしね、そんな時間に、見知らぬ女性を興信所に連れ込んだんだ。 君に、下心がなかったとは言わせないよ?」
そう、問いつめられると武彦はあらぬ方向に視線を投げかけ、そのあとプスー、プスーと口笛を吹こうとして失敗。 その他、ちょっと可愛いっぽい表情をして、目をキラキラさせながら二人を見上げる等、全く効果のない(むしろ、逆効果)無駄な足掻きをした挙げ句、とうとう、耐えきれずに、もう一度床に頭を擦り付け、叫ぶ。
「おーみーそーれーしました! その通りです! 営業時間終了して、ちょっと飲みに行こうかと考えながら事務所を出たトコで、声を掛けられました! 酒だけ買い込んで、事務所連れ込んで、その後は、ご想像通りです! まんまとやられました! やはり、女は魔物ですとしか、俺には言いようがありませんっ!」
そう苦渋に満ちた声音で訴え続ける武彦に呆れたような視線を落とし、金蝉が口を開く。
「いや、女がどうのこうのっつうより、テメェが圧倒的に馬鹿なんだなとしか、伝わってこねぇんだが」
「…もう、可哀想な位馬鹿だから、どう責めたらいいのかすら、見失いがちになってしまう位馬鹿だね」
翼も、そう呟いて、それから金蝉を見上げる。
「どうする?」
「もう、どうでも良いっつうか、腹減ってきた」
「ああ。 じゃ、食べに行こうか?」
そう言って、二人は揃って、「じゃ、宜しく」と武彦に告げる。
「は? え? 何?」
思わず、顔をあげ、そう問う武彦に、翼はにっこり笑って告げた。
「本当は、今日は金蝉の奢りだったんだけどね、それは後日、近所に出来たケーキショップのスイーツを奢って貰う事にして、君に今夜の支払いを頼む事にしたよ」
「え、えぇぇ?」
「言っとくがな、拒否出来ねぇぞ?」
金蝉が、低い声ですごめば、翼は、目頭に手をあてて、わざとらしい調子で嘆く。
「ああ。 28才男性の、見たくもない裸が、僕を苦しめるぅうぅ」
すると、武彦は、もう何も言えなくなって、カクンと項垂れると、小さな声で、「はい、謹んで奢らせていただきます」と宣った。


心中で「新手の美人局の被害にあった気分だ」と、呟いて。





 
  終