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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


水妖の夢

【壱】

 アルバイトでの疲労が蓄積した重たい躰を引きずりながら通りかかった定食屋の前で、有佐ユウシはふと足を止めた。労働のせいで空白に満たされた腹に、新メニュー登場の文字は何よりも鮮やかに届く。けれど今の自分の財布の状況を思うと、それにつられてふらふらと店に入るわけにはいかなかった。空腹感に反比例するように残金が脳裏をよぎる。まったく現実はやりきれない。思って一歩を踏み出そうとした刹那、不意に背後から声をかけられてユウシは咄嗟に振り返る。
「あの……」
 そこにはいかにも気弱そうな男が一人、上目遣いにユウシを見るようにして立っていた。反射的に眉根を寄せると男は、怪しい者ではないと云いながらもいかにも怪しいものだといった体で名刺を差し出す。皮膚を裂きそうなほどに白い紙の上には三下忠雄という名前が記されている。職業は編集員のようだった。
「さんした……ただおさん?」
 ユウシが呟くと男は嘆息するように、みのしたです、と小さな声で訂正する。きっとこれまで何度も間違えられてきたのだろう。ユウシは思って訊ねた。
「どんなご用件ですか?取材を受けるようなネタなんて持っていませんけど」
「いや、あの、アルバイトをお願いしたいんです。……あの、ビルの前で声をかけたんですけど、気付いてもらえなくて……」
 煮えきらない男だと思いながら、ユウシは三下が指差す方向に視線を向ける。確かにそこは今しがたユウシが出てきた、アルバイト先のビルだったが声をかけられた気配など全くしなかった。それどころか後をつけてきたことすら気付かなかったくらいだ。よほど影が薄い男なのだろう。
「どんなアルバイトですか?夜勤のアルバイトをしているので肉体労働は勘弁してくださいよ」
「いえいえ、そんな肉体労働なんてものじゃありませんよ。ちょっと、心霊スポットのような所にお付き合い頂くだけでいいんです」
「……は?心霊スポット?」
 いぶかしむようにユウシが問うと、三下は再び申し訳なさそうにして小さな声で自分が編集する雑誌の趣旨を簡単に説明し始めた。しかしそれはあまりにも要領を得ないもので、空腹のユウシを苛立たせただけだった。あからさまに溜息をつくユウシに、三下は折角のチャンスを逃すまいとするかのように一つの提案をした。
「もしお時間があるんでしたら、ちょうど、ほら、定食屋の前ですし、新メニューも出てるみたいですし、奢りますからお話だけでも聞いてもらえないでしょうか?」
 三下の言葉に素直だったのはユウシの空腹感だけだった。しかしそれを聞き逃さなかった三下は、ここぞとばかりに強引にユウシの腕を掴んで定職屋の戸を潜る。そしてそれまでの煮え切らなさが嘘だったのではないのだろうかと思えるほどの迅速さで新メニューを銘打ってあったメニューを店員に告げると、正面に腰を落ち着けたユウシに懇願するような眼差しを向けて事情を説明し始めた。
 事の発端は自分が責任者を務める企画の取材記者として派遣したフリーライターが失踪したことにあるという。幾多の周り道をして、三下が一つの結果をユウシの前に提示した時には目の前に注文したメニューが目の前に並んでいた。失踪原因を突き止めなければならないから付き合ってもらいたい。それだけを云うのに混みあった定食屋で注文した品物が出来上がってしまうほど時間がかかるとは、果たして本当に編集者としてきちんと職務をまっとうできているのだろうかと、ユウシはふと心配になる。
「まぁ、どうぞ。遠慮なさらずに食べて下さい」
 云う三下のほうも同じメニューを頼んでいたのだったが、食欲がないのか割り箸を手に取ろうともしない。
「はぁ……では遠慮なく」
 云ってユウシが割り箸を割ると同時に三下は云った。
「お付き合い頂けますよね?」
 温かな湯気を立ち昇らせる味噌汁に箸をつけたユウシに断ることができるわけはなかった。
 懇願するようにまっすぐにユウシを捉えている三下の眼差し。自分が手にしている味噌汁の温かさ。そうしたものが持ち込まれた単発のアルバイトを拒否する権利をいつの間にかユウシの手のなかから奪い去ってしまっていた。

【弐】

 釈然としない思いを抱えたまま、結局ユウシは三下と共にライターが失踪したという湖に向かうことになった。
 移動の最中、三下は終始無表情で無言のユウシの機嫌を取ろうと躍起になっていたようだったがユウシの耳にはその言葉のかけらさえも届いていなかった。何もそんなに必死にならずともいいのではないだろうかと変に寛容になっていたくらいだ。何故ならアルバイトという名のもとに仕事をするとなったら話しは別だからだ。釈然としない思いを抱えていようとも、賃金に相応しい仕事をしようと労働者らしい考えでユウシは職務をまっとうすることを決めていた。
 都内から遠く離れ、滅多なことがない限り車や人の通りがないのではないかと思われる道路から鬱蒼と木々が生い茂る獣道に入り、二人は目的地である湖の前に立っていた。
 緑に囲まれたそこは、ひっそりと息を潜めるようにして多くの水を抱いてそこに存在していた。ささやかな風に湖面に漣が生まれ、水際に立つ二人の足元を濡らす。
「何もない所ですね」
 ぽつりとユウシが呟くと、傍らに立つ三下が取材のためとおぼしきメモ帳を開いて近くに小さな村があるだけなのだと教えてくれる。そしてそこに記してある言葉を音にしているだけだという理路整然とした言葉で、その湖にまつわる話を続けた。淡々と綴られるその言葉を聞きながら、ユウシは三下という男はきっと無から言葉を探し出して音にするよりも、音にする前に文字にするということが必要なのではないだろうかと全く関係のないことを考えていた。
 三下が継げた言葉は、明確なフォルムを築き上げてユウシの頭のなかに的確な説明を与えてくれた。
 村に残る伝承。それはまだ村が村としてようやく形を成した頃に湖に住まうという水神への贄として捧げた女性が男性を湖に誘うというものだった。どこにでもありそうな噂の類だったが、三下はそれを否定するように云った。
「その水神の贄となった女性というのは伝承の域を出ないことは確かなんですが、似たようなことがここ最近あったようなんです。失踪したライターが三日に一度メールで取材報告をしてくれていたので、それだけは確かです」
「この現代でも生贄にされた人間がいるということですか?」
 ユウシが怪訝そうに訊ねると、三下はゆったりと頸を横に振る。
「いえ、事件というか不祥事というか……」
 またこれか、そう思って嘆息すると三下は慌てたようにメモ帳のページを捲る。
「妊娠していた女性がこの湖で自殺しているのだそうです。それがごく最近のことで、表沙汰にはなっていないようなんですが、それは村の不祥事だとばかりに村の住人たちが口を閉ざしているからだということです」
「失踪された方は優秀なライターだったんですね」
 思ったままのことを言葉にすると、三下は自分の無能さを指摘されたかのようにして躰を小さくする。そういうつもりではないと云うべきかどうかとユウシが迷っていると、不意に小さな細い声が辺りの空気を震わせた。聞き取ることも難しい小さな声。空耳だと思ってしまうかのように細い声であったが、それは確かに誰かの耳に注ぎ込まれるべき音だという響きで辺りの空気を震わせているのがユウシにはわかった。
 だからそっと耳を澄ます。
 人外の気配がする。
 肌を撫ぜる冷たい空気と透明な温度が五感の総てに訴えかけてきているようであった。
 やさしい訴え。
 それは希うようなひたむきさで、自然のなかに横たわる総てのものを包み込むようだった。
 風が吹く。鮮やかな緑が揺れる。透明な水が漣を生む。自然の営みによって生み出された一つ一つに、何か大きな力が影響している気配がする。しかしそれはあまりに不鮮明で、存在を掴むには僅かに集中力が足りないような気がした。
 すっと目蓋を下ろす。世界が闇に満たされ、しんと神経が張り詰めるのがわかる。弛むことなく引き伸ばされた一本の弦のように、張り詰めた神経で僅かな何かを捕らえようと意識を集中させる。何なのか。誰なのか。それがわかれば何もかもが明らかになるのだという確信があった。肌に触れるものが、五感に訴えかけてくるものがそう思わせた。
 ―――おぬしにあの娘が救えるのか?
 不意に研ぎ澄まされた刃のように鋭い声がユウシの鼓膜に突き刺さる。それと同時に隣に立っていた三下が、悲鳴ともつかない声をあげて後退さる。不意に寸断された集中力にようやく聞き止めた言葉が拡散していくのがわかる。責めるように目を細めて三下に視線を向けると、三下の眼差しは遠く、湖の中心に向けられたまま微動だにしない。唇は震え、目には涙が浮かんでいるようでもあった。これで果たして本当にきちんと仕事ができているのだろうか。不安を煽る三下の姿から視線を逸らすようにして、ユウシは三下が見つめる先に視線を向ける。
 静かな湖面に広がる水紋。
 等間隔で輪が生まれ、広がっていく。
 そこからゆったりと視線を上げると女性の白い足が見えた。揺れるゆったりとしたスカートの裾。一つ一つの輪郭を丁寧になぞるようにして視線を上げていくと、耳の下辺りで黒髪を切り揃えた女性が淋しげな表情を浮かべている。鮮やかな紅色の唇がゆったりと動く。その動きに僅かに遅れて響く声。
『待っていたのよ、ずっと』
 誘われるような甘美な響き。淋しい心を刺激する柔らかな声音。透明な湖のように澄んだ双眸がまっすぐに誰でもないユウシを見つめている。
『戻って来てもらいたかったの。一度だけでも良かったわ』
 緩やかに紡ぎ出される透明な音。声を呼ぶにはあまりに洗練されて、音と呼ぶには美しすぎた。まるで洗練され完璧な音楽を奏でるようにして、湖に佇む女性は言葉を紡ぐ。鼓膜の奥底、耳の奥深くに響いてくる声に魅了されてはいけないとユウシは思う。きつく握り締めた拳の内側に爪が突き刺さる痛みがかろうじてユウシを現実に繋ぎとめていてくれる。
『私、あなたが戻って来てくれることだけをただ待っていただけなのよ。それだけを願っていただけなの』
 不意に女性の視線が三下のほうへ移る。
 まずい。
 思った時には既に遅かった。
 それまで恐れ戦いていた三下がぼんやりとした双眸でゆったりと歩を進める。その姿はまるで幽鬼のようで、ユウシは咄嗟に名前を呼んだ。そして強く肩を掴み、強引に振り返らせ、
「行っては駄目だ!」
 そう強い口調で云うと、はっとしたように三下は目を瞬かせた。
「彼女が待っているのは三下さんじゃありません。別の誰かです。―――そうですよね?」
 女性に訊ねるようにユウシが云うと、不意に空気が大きく震えた。
 ―――おぬしにはわかるのか?あの娘が誰を待ち望み、どうしたいのかが。
「三下さんでも俺でもないことだけはわかります」
 空気がうねるようにユウシの鼓膜を震わせる。
 ―――娘はずっと一人の男を待っているだけだ。待ち続けたいという願いを叶えてやっただけで害はない。ただ念が強すぎるだけ、人という生き物の心が弱すぎるだけのことだ。
 声の意味を確かめて、ユウシは辺りに静寂が戻ってきたことを知る。
 小鳥の囀りが響く。
 さわさわとゆれる緑。
 湖面は女性の姿もなければ、漣さえも消えてしまっていた。
「……一体なんですか、今のは」
 震える声で三下が云う。
「取材したいと云っていたネタですよ」
 ユウシが答えると、三下はその場にくずおれるようにして座り込んでしまった。

【参】

 だらしなく腰を抜かした三下を引きずるようにしてユウシは噂の出所である村へと赴いた。
 そこは過疎化が進んだ地図の上から忘れ去れられたような寂れた村で、人家が疎らに立ち並んでいるだけのこじんまりとしたものだった。しかし片田舎の観光地にあるにあるような大らかさは皆無だった。張り詰めた空気は外部からの侵入者を拒むかのように鋭く、畑に出ている老人も、道を行く人々も誰一人として三下とユウシに歓迎の意を示すことはなかった。ただ余所者を見る冷たい視線を向けただけだ。
 ユウシはそれらの排他的な雰囲気に屈することなく村を行く。舗装されていない畦道を歩き、商店に顔を出し、派出所にも声をかけた。けれど思っていたとおり望んでいた答えや情報を得ることはできなかった。
 忘れ去られてしまったような村はずれのバス停の木造の朽ちかけた待合所の薄汚いベンチに二人で並んで腰を下ろし、文字の判別できなくなった時刻表を眺めながらユウシはぽつりと呟く。
「この村の人なんでしょうか?」
 力なく俯いていた三下がゆっくりと顔を上げた。
「あの女の人が待っているのは、本当にこの村の人なんですか?」
「そんなのわかりませんよ……。それに捜すといっても、手がかりなんてありませんし、村の人たちはだんまりですし、どうやって捜せばいいんですか」
 誰も男を捜すとは云っていないだろうと思いながら、ユウシは自身の腿の上で頬杖をついた。三下が重たい溜息と共に再度俯く。
 どれだけそうやって時間を浪費していたことだろうか。
 不意に遠くからエンジン音が響き、思い出したようにして目の前に古びた塗装をまとったバスが停車した。そして降車口から一人の青年が降りてくる。涼やかな顔立ちをした青年は、白いシャツにジーンズといったラフな格好で、肩からワンストラップのバッグをかけている。そしてふとユウシを目が合うと、小さく頭を下げたのでユウシもそれに倣った。
「村の方ですか?」
 訊ねられたのでユウシは頸を横に振る。
「えっと、それでは……」
「心霊スポットの取材で来たんです。湖の」
 一縷の希望に縋るように、青年を試すようにユウシが問うと不意に青年の顔が強張る。
「どうかしましたか?」
 沈黙し、立ち止まる青年にユウシが問う。そんな二人を三下は黙って見ていた。
「あっ、いえ、僕もこれから湖に行こうと思っていたので、それで偶然もあるものだなと思って……」
 妙に歯切れの悪い口調で青年は云って、ぎこちなく笑った。何かに怯えるような、現実を否定してしまいたいといったような気配がその笑みには感じられた。
 だからユウシは云った。
「では一緒に行きますか?一度行っているので道を把握していますし、案内しますよ」
 柄にもなく滑らかな口調でそう云って立ち上がるユウシにつられて三下も立ち上がったが、状況が把握できずにいるのが明らかだった。けれどユウシはそんな三下に敢えて説明することもなく、半ば強引に青年と連れ立って歩き出す。その後ろを頼りなげな足取りで三下が付いてきていることを確認しながら、どうしてこんなにも真剣になっているのだろうかと思った。相手は人外の世に住まう者。それに干渉する必要がどこにあるというのだろう。
 けれど一度動き出した躰は止まらない。
 青年は無用な追及を避けるように極端に口数が少なく、ユウシも敢えて何も訊ねずにいた。ただ少し後ろをついてくる三下だけが何かを訊ねたそうにしていたが、二人の間に漂う違和感に言葉にできずにいるようだった。青年とユウシが交わした会話は本当に短いものだ。
「湖にまつわる心霊現象を見に来たんですか?」
「まぁ、そんなところです……」
 答えた青年の言葉は歯切れが悪く、溢れんばかりの好奇心で心霊スポットを追いかけているような心霊マニアといったような類の人種とは明らかに違っていた。その雰囲気から、噂を聞きつけたのだろうと思う。そしてその張本人が確かめに来たのだろうとユウシは予想した。
 随分長い道のりを三人は歩いて、湖を目前にすると不意に青年が足を止める。その目にははっきりとした怯えの気配があった。
「どうしたんです?」
 ユウシが問う。
 青年は笑って誤魔化そうとしたようだったが、それは明らかに失敗だった。
 だからユウシは現実を決定付けるような強さの口調で云った。
「待ってますよ。あなただけを、あの女の人は待ってるんです」
 その言葉に青年は泣き顔とも笑顔ともとれない曖昧な表情で顔を曇らせ俯くと、ユウシも三下も知らなかった女性の名前を呟いた。
 すると不意に湖に続く小道の両脇を鬱蒼とした緑で包み込んでいた木々が大きく揺れた。枝が軋み、葉が触れ合って悲鳴のような物悲しげな音で辺りを満たす。それはそれまで信じていた現実が脆く崩れていく様を目の当たりにしてしまったとでもいうような、痛切な音だった。
 木々の間を縫うようにして音が三人に突き刺さる。それに怯む青年と三下を交互に見て、ユウシは木々の向こうに広がる湖へと視線を向けた。
 不穏な空気があたりに染み出す。荒れ狂う海のように波立つ湖面が目に飛び込んでくる。黒髪が揺れる。白い細い指が叫び声を殺すように口元を覆って、見開かれた瞳からは涙が溢れていた。けれど女性は青年との再会を喜んでいるようではなかった。
 荒れる湖面。
 悲壮な女性の表情。
 それは自身の間違いに気付いた刹那の混乱を意味していた。
 ユウシは逃げ出そうとする青年の腕を掴む。そして腰を抜かして動くこともままならなくなった三下をそのままに、水際まで近づく。怯える青年の足取りはおぼつかなく、掴んだ腕は震えていた。けれど歩みを止めようとはしていないようだった。視線はまっすぐに湖面の女性に向けられている。哀しげな双眸。悔やむ気配は、ただ自分の罪を責めている。
『……どうして…』
 女性が涙声で云う。
『私……間違っていたの?』
 想いだけの存在に青年が名前を呼ぶということで理性が戻ったのかもしれない。女性は明らかに混乱していた。幾多の男を湖に引きずり込んでいた自分を覚えているのだろう。そしてそれが罪だということも認識できるだけの思考を取り戻しているのだ。
「あなたが間違っていたわけじゃない」
 ユウシが云う。
 すると不意に湖面の波の強さが緩むのがわかった。
「悪いのはあなただけでもないし、誰が悪いのかなんて誰にもわからない」
 女性はゆったりとした仕草で両手で口元を覆う。白い頬を伝い落ちる涙は雫となって、ひっそりと静けさを取り戻した湖面に規則正しい水紋を刻んだ。
『私はただ待っていただけなのよ。子供ができたことを、知ってもらいたかったの。それだけなの……』
 細い声を合図にユウシはそっと青年を前に押し出した。縋るような視線を残しながらも、青年はゆったりと女性と向き合う。
「……ごめん」
 青年が云う。
 その一言に女性はようやく微笑みを浮かべた。
 そして口元を覆っていた手を離すと、自身の腹部を慈しむように撫ぜて云う。
『子供ができたの。それだけを伝えたかったの』
 青年は静かに女性を見つめている。
『結婚できないことはわかっていたわ。でもこの子ができたことを知ってもらいたかった。こんなことになるなんて、思ってもみなかったの。本当よ』
 身を投げたのは狂言自殺のつもりだったのだろう。ユウシは思った。人は自分が思っているよりも簡単に死ぬことができる。生と死は唯一人の意識の外側で決められるものだ。自らの手では決められない。今目の前にある現実は、それが巻き起こした悲劇だ。
『ただ一目、あなたに逢いたかった……』
 女性は微笑みながら緩やかにその輪郭を喪っていった。氷が溶けるような緩やかさで、ひっそりと水紋を描きながら湖に溶けていくようだった。青年がその光景に弔うような目を向けている。二人だけの間で完結する弔いの儀式。それはあまりに静かで、耳の奥に痛みを覚えるほどだった。
 どれだけの時間、その光景を見ていたのだろう。
 ふと気付くと辺りは何事もなかったように自然の気配を取り戻していた。
「生きていくことが……彼女への、罪滅ぼしになるでしょうか?」
 誰へともなく青年が呟く。
 その言葉に答えるものは誰もいなかった。

【肆】

 三下から直に手渡された給料を手に、ユウシは自室の壁に凭れていた。
 あの日、湖に沈んだと思われていた人々は当たり前のように現の世に戻ってきた。そこには失踪したというライターも含まれていて、自分が失踪していたのだということを知らされ困惑しきった顔をしていたのを思い出す。
 まるで胎内で羊水のなかを漂っていたようだったとライターは語った。静かで穏やかなものに包まれていたというのである。そこには絶対的なやさしさと愛があったようだったと云った。
 妖となった女性は、紛れもなく母親だったのだろうと思う。
 男は弱い。
 そして女もまた弱い生き物だ。
 人間という存在自体がこの世界ではあまりにも弱い。
 独りでは生きていかれない。だから誰かを求め、新たな命を生み出し、脈々とその種を保存しようとするのだ。愚かしいほどに誰かを求め、愛し、喪われた悲しみに打ちひしがれる。新たな命を慈しみながら、失った誰かを求め続ける。愚かしいけれど本能に忠実なやさしさと愛情。
 ユウシには不可解なものでしかなかったが、それが紛れもない現実の一端だと思う。
 茶封筒に収まった臨時収入を手に、絶対に金で買えないものが世の中にはあるのだということをユウシはその肌で実感した。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1710/有佐ユウシ/男性/26/警備員】


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■         ライター通信          ■
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この度はご参加頂きまことにありがとうございます。沓澤佳純と申します。
シチュエーションノベルのほうではとても楽しく書かせて頂くことができて大変感謝しております。
今回は有佐様の能力を上手く生かせているかどうかなど多々不安は残るのですが、少しでもこの作品がお気に召して頂ければ幸いです。
それではこの度のご参加、本当にありがとうございました。
今後また機会がございましたらどうぞよろしくお願い致します。