|
SIDE BY SIDE
SCENE...1
月曜日の朝なんか来なければ良い――
真夜中のベッドの中、そう星に願う小学生の気持ちを、藍銀華はこの年齢になりようやく思い知ることとなった。
無論、彼女にとって昨日の夜までが『日曜日』がごとく健やかであったわけではなかったが。
「私が帰って来るまで、絶対にこの部屋を出るな。誰が来ても扉を開けるな、大人しくしていてくれ」
ソファの上で裸足のあぐらをかく、ゼゼ・イヴレインの手のひらに携帯食の黄色い小箱を三個落とす。行きがけの駄賃――否、こういう場合はそれを何と形容すれば良いのだろうか。
「それを食べておけば、この一週間で少なくとも飢えて死ぬことはないだろう」
空腹を理由に暴れ回ることを危惧しての携帯食であった。案の定、ゼゼはあからさまな不服を横顔に表している。「駅前で無作為に選んだ百人に聞いて、百人が百人これじゃ少ないって云うし」
「デリバリーサービスのソーセージピザなんかよりは数倍栄養のバランスが良い」
答えになっていない返答をしながら、銀華は姿見の前ですっと背筋を伸ばす。
鏡に映った自分の細面を睨み付けるが、昨日に比べれば、いくらか頬も朱を取り戻しかけていた。
「………」
無断欠勤の翌日、である。誰に何を言われることがあろうと、今日は会社に顔を出さなければならない。
念押しも早々に、銀華はマンションの扉の向こうに消えた。
「――普段、何食べて生きてるんだろ」
ゼゼの呟きは既に銀華へは届かない。
後に残されたのは自分と時間、そして手のひらの上に数個の栄養補助食である。
栄養補助食はあくまで『栄養補助』のための携帯食であり、それが栄養の全てではない。銀華は果たしてそれを理解しているのだろうか――ゼゼはソファの上でかくんと両肩を落とした。
にこりともしないポーカーフェイスな銀華が、いつ戻って来るのかすら、ゼゼは聞かされていないのだ。
「……物事は、最初が肝心って云う、よね」
ポツリとゼゼが漏らす。うつむいた視線の先には、エコイエローの小箱。
それをきゅっと握り締めたあとで、勢い良く起ち上がった。
「そう、最初が、肝心なんだよ」
テーブルの上に栄養補助食の小箱は放ってしまい、ゼゼはまっすぐに玄関へと向っていく。
数分後、マンションには時間と、数個の栄養補助食だけがマンションの一室に残されていた。
SCENE...2
頬を打たれた後も、銀華の心は黒く凪いだままだった。
磨き上げられた上質のオーク、その机に就く義父の背中。銀華の頬を打った右手の平を数度握り締めている。再度こちらを見上げた彼の目をじっと見つめて、いったいこのひとの闇はどれほど深く澱んでいるのだろうかと銀華は思う。
「任務に発つ前に考え直すと良いだろうね、銀華――君は、プロだろう」
神経質そうに細められた、眼鏡の奥の瞳が暗い。
そんな目を自分に向けられるたび、銀華は自分の心が自分の身体と剥離していくような妙な感覚を覚えてしまうのだった。
その眼差しは銀華が少しでも意に染まらない言動をしたときの、義父の癖である。
「特任、A級警護乙。対象、要特別警護人の娘、高等学校在学中十六歳――登下校中及び校内における警護と、甲報告。期限、……無期限」
「宜しい」
先だって手渡されていた辞令の内容を確認し、銀華は片眉を眇めた。
無期限の任務を命じられたということは、いつ東京に戻るか知れぬということである。真っ先に思い浮かべたのは、マンションに置いてきた『家無し』――ゼゼのことだった。
まともな食べ物も金も、あの部屋には置いていない。
「夕方には東京を発ちなさい。任務開始は明日の朝だ」
そんな義父の言葉には、まぶたをゆっくりと閉じるだけのごく浅い頷定で返した。失礼します、小さく言い残し踵を返す。
「――ああ、待ちなさい。これを」
振り返りざま、銀華の眉間が思うさまゆがめられる。
義父が銀華の前に差しだしたのは、今まで彼女が腕を通したこともないような可愛らしい学校制服――しかも半袖の――、だったのだ。
SCENE...3
義父は何かを感じ取っていたのではないか。
翌朝、警護の対象である令嬢の傍らを行きながら銀華は思った。
ここに到着するまでの間、マンションに連絡をする機会は失われたままだった。ゼゼには数日分の携帯食(ゼゼに手渡した分だけで、銀華なら十日は生きていけただけの量であった――余談である)しか預けていなかったし、たまたまそう云った要求が無かったために金銭も与えてはいない。
いつ戻れぬとも知れぬあのマンションの部屋の隅で、小さなゼゼがひからびていくところを想像すると銀華は少しうんざりとした気分になった。
無論、ゼゼが銀華の帰りを待って餓死するような少年ではないことを銀華は知っている。が、行き着く先に餓死という選択肢が生まれた時点で、ためらうことなくゼゼはあのマンションを出ていくのだろう。
それを思うことの方が、なぜか銀華の心を曇らせた。
「こうして見ると、本当の男性みたいね。とても似合っているわ」
共に並んで学園へと向っている少女が、銀華を見上げて笑う。
可愛らしくもシンプルなデザインの制服を纏っていては、いざと云うときにアクションを起しにくいし、常持している武器なども隠せない――そんな理由で令嬢を説得し、男装の許可を得た。
おかげで着用を免れた大きなリボンのワンピースとベストは、今は小さな鞄の中にしまわれている。
「でも、この学園の制服もきっと似合ったでしょうに――」
「少し早く歩かないと、遅れてしまいますね」
ちらりと細い腕時計を確認しながら、銀華は令嬢の言葉に重ねるように呟いた。彼女からすれば、触れて欲しくない話題ではある。
令嬢は浅い苦笑を口元に浮かべながら、銀華に合わせてほんの少し歩調を速めた――
その時である。
不意に右の視界が阻まれた、その方向に向けて銀華が大きく鞄を振った。
「――ッぐ…っ」
手ごたえと同時に、虚を付かれた男の呻く声。
その位置と声質から、とっさにそれが『敵』であると、銀華は判断する。
「下がって!」
守るべきは、傍らの要人令嬢である。短くそう言い放つと、鞄を握る右手の肘を締め直して銀華は呻く男の背後めがけて飛び込んだ。
SCENE...4
後が面倒であるからと云う理由で、左の脇に締めていた銃は使用しなかった。
ただ硬い学生鞄と自身の拳で、銀華は現れた数人の黒服男たちをなぎ倒していく。
令嬢は令嬢で、自分の腕をつかみ取ろうとする大男の爪先に踵を打ち落としたり、銀華の手が届く場所を離れまいと鞄を抱きしめたりと必死に男たちを振り払っている。幾度もの襲撃があったからこそ、銀華という護衛が付いたのだ。今回が初めてという立ち振る舞いではなかった。
背の低い男の首筋に深く肘を落としてから、銀華は素早く辺りを見回した。
さほど大きくない山の山頂に立てられた学園へは、ふもとにある寮から徒歩で通う。
人気の少ない山道での襲撃は目撃者も少ないゆえに、銀華たちにも容易く予想がついていたのだ。
「怪我は……」
いくらか上がった呼気を整えながら、漸く銀華が令嬢に振り返り、声を掛ける。
大丈夫。
そう彼女が答えようとした、その口が小さく『あ』の形で止まった。
「――……ッ!」
ブン、と。
何かが風を切る音を銀華の耳が聴く。
走馬灯とは良く云ったものだ――銀華にはその一瞬が、永遠にも思える長さに感じられた。
彼女が振り返るよりもさらに、早く。
風を切る重みある音は、文字通り――途切れた。
「少し前までは、コレもカウントしてたでしょ。目が追ってたもの」
「……!!」
鈍い音を立てて崩れ落ちる男の背後で、ひどく華奢な少年――ゼゼが、不敵な笑みを浮かべながら銀華に問うた。
「ッ貴様」
「ちょッ待っ……とりあえず、怒鳴られたりする筋合いないと思うんだけど! いつ戻ってくるとか云われなかったし! 取りこぼしもこうして、」
ゼゼが足首と足首に、男の首を挟む。銀華の靴に向けて伸ばされた男の手のひらが、不穏な鈍音と共にばさりと草に落ちた。
「始末してあげたし!」
「………」
ヒクリと、銀華の片瞼が眇められた。ただ彼女の傍らで、令嬢だけが状況を把握できずにおろおろと二人を見回している。
「命助けておいて餓死させるって、性格悪すぎるよね」
「死ぬ前に出て行くだろうと思ってた」
「冗談、キミが行くなって云ったんじゃない」
「………、」
何かを、言い返そうとして。
それでも云えなくて、やめた。
「……怪我は」
その代わりに令嬢へ向け、白くすらりとした手のひらを伸ばす。
彼女を起ち上がらせてから、銀華はゼゼに一瞥を投じる。「……足を引っ張るなよ」
「!?」
憤慨に言葉を投げ返そうとするゼゼを置いて、銀華は令嬢の手を引くままで歩き出す。
「待ってよ!」
例えば、『帰れ』。
例えば、『知らない』
『邪魔だ』、『腹が立つ』、『不愉快だ』。
そんなたくさんの言葉を使わないままで、ただ黙々と令嬢の手を引く銀華の背中をゼゼが追う。
木々の隙間から零れる白い朝陽がまぶしい。
(了)
|
|
|