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戦場を駆ける牝鹿 その憧憬
例えば、愛だとか、人生だとか。
好きだとか悲しいだとか、真面目に――だとか。
そんな単語を音に乗せて誰かに語る機会など、そうそうあるわけではない。
ましてやそれなりの時間を生きてきた、四十がらみの独身男ともなればなおさらである。
「何が死んでも悲しくないだって?」
だから、彼――城田京一の数少ない友人の一人が、まるで驚いたような口調で城田にそう問うたとき、むしろ城田の方が新鮮な驚きを感じてしまったのだった。
「そう、だね……悲しいとか淋しいとか云う感情が、あまり上手に理解できていないのかもしれない」
「じゃ、あんた何かを真面目に好きになったことあるかい?」
「突っ込むね」
そろそろ四十路を生きる準備を始めなくてはいけないであろう友人は咥え煙草のまま、まるで恥ずかしげもなく城田に畳みかける。「好いた女の一人や二人いるだろうに」
「さあ…どうだったろう」
城田は曖昧な笑みを浮かべ、言葉を濁す。
傾けたグラスの中で武骨な氷が、物憂げにカラリと揺れ鳴る。
好いた女。
そう問われて思い浮かべた女が、城田にもいなかったわけではない。
熱砂に打たれて火照った肌がどこまでもすべらかで、少し髪を傷めた女。
シチリアーナ。
「皆そばかすができるの。アメリカ女も、イギリス女も。同じイタリアーナでも北の女は駄目ね、強い日差しに当てられてもきれいなままでいられるのはシチリアで生まれ育った女だけ」
半裸の背中に城田が手のひらを当てると女は笑って、まるで内緒話でもするように城田の耳元でそう囁いた。日に焼けた長い髪が首筋をくすぐる。
彼女の云う通り、肌理の細かな温かい肌は白人のそれとは思えぬほどの美しさを保っていた。柔らかな張りと温度を持ち、うなじにはひな鳥のように産毛がけぶる。勝ち気そうにきゅっと結ばれた薄い唇は、ごくまれに微笑むからこそその魅力を最大限に引きださせた。
今となっても、彼女の本当の年や名前を城田は知らない。
「アメリカに行こうと思って切符を買ったのに、気がついたらここにいたのよ。おかしいでしょう? でも私からすれば、それはごく自然なことなの」
シチリアは農耕が盛んな島で、その歴史をイタリア本国とは異えている。島に留まって農耕を継ごうとする若者は稀で、たいていはイタリア本土かアメリカに出稼ぎに出てしまう。
そんな細やかなヒューマンラッシュに乗って、彼女もあるときアメリカ行きの切符を握り締めたのだ。
語られた彼女の身の上の、どこまでが真実でどこまでが虚実なのか、それすらも今の城田には知り得ない。壁の薄い宿舎で声を凝らし、身体を重ねたことも一度や二度ではなかったが。
それでも、こんなときにふと思い返すのは――そのしなやかな背中のラインと、肌の手触りなのである。
出会ってからしばらくの間、二人はしばらくのあいだ『前線における敵情報告』という同じ部隊の任務を受け持っていた。
国境という境界を境に、互いの兵士の睨み合いが続く。
一触即発――互いの大将がそう思い込んでは地図の上で策略を巡らせているのとは裏腹に、実際はさほど危険な任務というわけでもなかった。
「さっき顔を洗いにいったら、向こうの人に口説かれちゃったわ。フランスから来たんですって」
そんな会話が交されることもめずらしくない。
「契約はいつまでだと聞いてくるから、向こう二十年って答えておいたわ――面倒だし、それで諦めてくれると良いけれど」
大した女だ。城田は苦笑する。
食事の間中、ずっとそのことを繰り返しては笑っているので、それなら本当の契約はいつまでなんだと問い返してやった。
「本当はね、――あなただけに教えてあげる」
………来週の末。
女は城田に耳打ちし、得意そうに口元をニッと引き上げた。
「更新の予定はないの。契約が切れるのは週末だけど、戦線に問題がなければ頭にはお役御免だわ」
そのとき、はたして自分はどんな顔をしていただろうと思う。
色の褪せたスプーンを指先でもてあそびながら、ああ、とか、うん、だとか云う詰まらない相槌を打ったように記憶している。
「金かい。底をついたなら、当座立て替えてやれるだけは私も蓄えてあるけれど」
傭兵は、幾許かの金を得る代わりに兵隊として戦地で戦う。
が、己の命を賭けるわりにはあまりにも契約金は少ない。
人によっては戦地での生活すらままならず、自分の本国へ戻って別の仕事で金を稼ぎ、再び傭兵として戦地へ戻ってくるという生活を繰り返す者もある。
たとえ戦線で命を落とそうと、特別な手当てが出ることなどない。それすらが、契約のうちに込められている制約だからだ。
傭兵とは全く以て、命の割に合わない仕事である。
だから城田が彼女に向けてそう申し出たことは、人の良い申し出であったとは云え大して珍しいものでもなかったと云える。
女は何度か目を瞬かせたが、朴訥とした城田の言葉に破顔した。「違うのよ」
砂に汚れた小さな窓からは、強い日差しが注いでいる。戦地の日に焼けてすっかり硬くなってしまった彼女の焦げ茶の髪は、朝陽に当たると淡い金に光った。
彼女は込み上げた笑いをようやく押しやって、城田に向けて首をかしげる。
口元は笑ったままだったが、瞳だけが真摯に城田を見上げた。大きくて、嘘や誤魔化しを許さない瞳だ。
「私は、傭兵をやっている自分に誇りを持っているわ。私にはシシリアンの血が流れているから、どんな戦いにも脅えない。何日も髪の毛を洗わなくても、食べるものがなくて虫を食べる日が続いても悲しまない。たとえ百人の兵士に銃を突き詰められても、私は彼らに背中を向けない」
城田は、そんな彼女の言葉をただ黙って聞いていた。味のない硬いパンを千切り、口に運ぶ。トレイを高く掲げた兵士が城田の後ろを通り、ぶつかった弾みに小さく謝罪を継げた。
「南西に行くわ」
「………」
得意げというよりは、自信に満ちた口調で。
云いきったあとで、彼女は最後のパンのひとかけを口に放り込んだ。
「―――」
「何か?」
「君らしいと云えば、君らしい選択だね」
城田たちが就いている戦線にさほどの変化がない代わりに、ちょうどここから南西に行ったところにある小さな街では日に日に戦闘が激化し始めていた。
彼女は自ら望んで、その戦線に赴くのだと云う。
「驚いた。引き止められるかと思ったのに」
彼女は肩をすくめ、城田の顔を覗き込む。
「もっとウェットな人かと思ってた」
「そうでもないよ。君の命は君のものだ、君が考えた通りにすればいい」
「やっぱりジャパニーズってミステリアスね」
行くわ。
そう云って、彼女は席を立った。
南西に行く。
彼女が城田にそう言い残した日の夜、二人が常駐していた戦線で爆破テロがあった。
夜中、野営の兵たちが火を囲む瓦礫一帯が一瞬にして吹き飛ばされ、ついでに兵士が片手の人数ほど吹き飛ばされた。現場で捉まえられた敵兵はフランス人で、捕虜として保護される前に私刑によって殺されたらしい。
その兵士がシシリアンの彼女を口説いていた兵士なのかは、定かではない。
一夜にして戦線は文字通りの緊迫状態となり、週が明けたころ城田たちの隊によって敵兵は殲滅させられることとなる。
吹き飛ばされた片手の人数の中には、彼女も含まれていた。
「自分の女くらい弔ってやれよ」
同僚が――そう呼ぶのは些か滑稽な気もしたが――城田に向けてそう云った。
遺体もない、名前も知らない、彼女の血縁も辿れない。
自分がそれをする理りはないと城田が返すと、相手は難しそうな顔をして目を背けた。
「自分の女……か」
せめて、自分の目の前でいなくなってくれたならと考える。
あの朝の延長線上のままの夜が来て、そしてまた朝が来て――彼女が望む通り南西に旅立つ背中を、見届けることで訪れた別れならばと考える。
ただ彼女との別れはあまりにも唐突に、まったくの現実味を帯びずにやってきた。
城田の心に残されたのは、後悔にも怒りにも似た空虚感のみだったのだ。
グラスの中の琥珀が、氷の溶けた水と絡まりあって複雑な波模様を描くさまをじっと見つめている。
彼女のことを思い出すと、今でも鋭くナイフで抉られたような隙間が心に残っていることを感じとることができる。
そんな感情を、人は何と呼ぶのだろうか。
「――あるのかも……しれないね」
「あ?」
唐突な呟きに、友人が城田を振り返る。
「いや、悲しんだことがさ」
あの戦線での契約が満了してから、城田は戦地に舞い戻ることはなかった。
年齢が年齢であるからと引退を考えていた三十九のころだ。
「でも、泣かなかったな」
「何も泣くだけが悲しいってことじゃ無いだろうに」
「そんなものかい」
日本、東京にて。
四十路と四十路予備軍との、酒を交えての宵である。
月は煌々と照り輝いており、城田はあの日と変わらぬまぶしさの月光を見上げる。
(了)
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