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<東京怪談・PCゲームノベル>


MANNISH 『螺旋にて:02』



 良く指先に馴染む引き戸の把手をゆっくりと開いて、そう記憶に古くない店内の様子を見回してみる。
 暖簾の暗がりからこちらを見上げた女主人の口唇が「おや」と紡いだあとで笑うのを見留めてから、藍原和馬はにい、と口端を綻ばせた。
 互い、交した些細な口約束を覚えていたものと見える。

「こんなのさ、普通にどこにでもいる日本猫だろう? 尻尾の長さなんて写真じゃわかりにくいし」
 店内に柔らかな潮の香りが満ちている。箸と一緒に置かれたワカメ飯が立てているものだ。刻んだ練り物を味濃く煮たお通しで、先ずの一杯を和馬は胃袋の中に収めていく。
 女主人がただ一人で切り盛りする駅側の小料理屋、螺旋。
 猫を探し当てたら報告に来るんだよ――前に一度だけここを訪れた際、その女主人と約束を交した。
 不要になった猫の写真を女主人に見せながら、和馬は箸を持つ右手の親指で己の口元をぬぐう。
「おまけに、しばらくの間ノラネコしてたわけだから汚れててさ……他の猫とケンカしてる所じゃなかったら、絶対判らなかった」
 猫は縄張り意識が強い。
 それぞれの個体には、それぞれが認識しているテリトリーが存在しており、そこに踏み入る他の猫を見つけるとちょっとした戦いが行われるものだ。
 くたびれた首輪できゅうくつそうに首筋を縛られていたその三毛猫は、驚くほどケンカに弱かった。
「ケンカに慣れてない猫は、飼い猫か、耄碌した猫だけだからな――あ、スンマセン」
 女主人から小鉢を受け取る。柔らかく煮込んだ牛すじと牛蒡が、一杯に盛られていた。
「でも、飼い主さんは喜んでいただろう?」
「まあね。カゴの上からぎゅうって抱きしめてた」
「やっぱりねえ」
 女主人――伊杣那霧は満足そうに頷き、和馬の前に日本酒で満たしたグラスを置く。
「呑んでいけるんだろう?」
「行けないわけがない」
 店が開いたばかりだったか、店内に他の客の姿はない。
 一杯だけ、と女主人ももう一つのグラスに八海山を半分ほど注いでいく。
「有難いね、女将自ら乾杯に付きあってくれるんだ」
「たまにはね」
 グラスを重ねると、小さく澄んだ音が弾けた。

 鳥そぼろとさやえんどうのあえもの、味付けチャーシュー。
「今日は猫記念日だから」
 そんな訳のわからない理由で、女将はかじきまぐろの煮付けをついでに差しだす。
 これで、酒が進まぬ理りが無かった。
「……ねえ本当に一人でこの店やってるの?」
 ふと思い浮かんだ疑問のままに、和馬が問う。
「この間も云ったじゃないか」
「サービスしすぎですよ女将……しかも安いし」
「それもこの間云っただろう。たくさん食べてくれる子が好きなだけだよ」
 決して小食な方ではないと、和馬は己を見つめ直せば思う。が、この店に来ると、完食が精一杯である。自分が注文した、「自分が嗜める分量」の度を越した料理が、あとからあとから湧いて出るからだ。
「たくさん食わされてコロコロに太らされて、その次は俺が食われたりしてね」
「煮ても焼いても食えない子は食わないさ」
 コトリとグラスをシンクに置き去り、那霧がしれっと答える。ぐ、と口にくわえた箸を噛んだ和馬の前で、カウンターの上に置かれた猫の写真をそっと抓み上げた。
 定型的な日本猫の毛種で、赤茶と灰と黒の三毛猫である。撮影の頃は生後一、二年と云ったところだったろう。実際に和馬が飼い主に受け渡したのは立派な成猫だった。
「猫……飼いたいな」
 その写真を見つめながら、ぽつりと那霧が呟く。
「飼えばいいじゃない」
「駄目だよ」
「どうして。猫の毛が駄目なやつでも、もう既に『飼ってる』とか?」
「そういうことじゃなくて」
 さらりとかけた鎌は、やはりさらりとかわされる。
 那霧は左手でカウンターに頬杖をついて、続けた。「いなくなると、淋しいだろう」

 その後は、三毛猫を捕獲するまでのすったもんだを和馬が面白可笑しく那霧に話してきかせてやった。
 引っかかれると痛いだの、餌をやり終えたあとのよそよそしい感じがいけすかないだの、気がつけば猫の悪印象ばかりをとうとうと語る。
 ――触れられたくないことの、ひとつやふたつ。
 出された料理を全てたいらげ、空になったグラスをカウンターに置いたとき、和馬の背後で引き戸が鳴った。
 扉の縁に頭をぶつけるかという程の、大柄な男である。
「じゃあ、ごちそうさま――おあいそで」
 新しい客の来訪と入れ違いに、和馬は席を立った。

 勘定を払い、店から出ると空気が僅かに湿っぽかった。
「大丈夫。また旨い肉食わせてね」
 店の前まで見送ろうとした那霧をやんわりと制して、和馬は黒い空を一人見上げる。
 明け方までには、細かな雨が降り始めるだろう。
「……朝早いのになあ。雨が降ると面倒だ」
 ちらりと舌を出して、左手の甲をなめる。夕方ひりひりと痛んでいた猫の引っ掻き傷は、既にあとかたもなく完治してしまっていた。
 さして驚くことのほどでもない。
「――さて」
 MMOの約束はなかったが、明日は早い。スーツのポケットに両手を差し込んで、和馬は家路を行く。


(了)