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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


水妖の夢

【壱】
 
 内場邦彦は三下忠雄を経由して聞いた月刊アトラスの編集長である碇麗香からの依頼を頭のなかで反芻して、まだ幼い頃に祖母から聞いた話を思い出した。
 どことも知れぬ遠い場所。そこを潤す清らかな湖の底にひっそりと暮らす竜がいるという。早くに自らの子を失ったその竜は地上から泣き止まない人の子を攫い、柔らかな温かな気息を吹きかけ眷属にし、早くに命を落とした自身の子どもの代わりとして攫ってきた子を自身の傍らに置くそうだ。竜の愛情を一身に注がれた子どもが泣く必要はどこにもない。静かな湖の青の底、蕭然として見通せないその底で愛情という皮膜に包まれ人里から隔てられてひっそりと生きていくことができる。湖の底には子どもの好奇心を惹き付けるものがたくさんある。人に忘去られひっそりと泳ぐ極彩色の魚。緩やかにうねる水草。そしてそれが人知れず花開く花弁の果敢無くも短い命の光景。食事にも困ることなく、多くの愛情を注がれ、悦楽とも呼べる日々のなかに子どもが泣く理由はどこにもない。
 けれど時々生まれる地上を恋しがり、湖の底の母親である竜を困らせる。竜はそれを宥める術を知らない。ただ愛するだけが、竜が子どもにしてやれることである。竜は地上を恋しがる子どもにただ種族の隔たりを感じるだけで、成す術もなく子どもが地上を恋しがるのをやめるのを抱き締めて待つ他ないそれだけが種族という隔たりを越える手段だとでもいうように、ただ強く、やさしく抱き締める他ない。
 そんな話だった。
 まだ邦彦が幼かった頃、泣き喚く邦彦を抱き締めて祖母が何度も話してくれた一つの物語。何を説き伏せるでもなく、怒鳴りつけるでもなく、ただしっかりと抱き締めて、腕のなかの小さな世界のなかで物語だけが総てになる瞬間、ひどく安心したことを覚えている。どうして泣いていたのかも忘れるくらいに、祖母の腕のなかでほっとした一時を過ごすことができた。
 あの頃はとても大きく感じた祖母の存在だったが、先日亡くなった時に感じた小ささはなんだったのだろうか。しがみ付いていた背はいつの間にか邦彦にも容易く抱き締められることができるほどに痩せて、息を引き取る刹那に触れた手はいつかの泣き続ける自分を抱き締めていてくれた手だと思えないほどに弱々しかった。言葉だけが変わらず萎んでしまった皺だらけの唇から響いてきた。幼い頃に物語を紡いでくれた声よりは張りを失っていたけれど、祖母の言葉には不思議な力があったように思う。祖母が口にすればそれは総て本当になるとでもいうかのように、素直に信じることができる不思議な声だった。
 言葉で結ばれた約束は絶対だとでもいうように、祖母は大切に一つ一つの言葉を音にすることができる人だった。
 思ってはたと我に返ると案内人であり、碇麗香の部下である編集員の三下忠雄が不安げな表情で邦彦を見ていることに気が付いた。なんでしょう?といった風に邦彦が小頸を傾げると、三下は上目遣いに訊ねる。
「……本当に、大丈夫なんでしょうか?」
 言葉の端々から不安と怯えの気配がする。
「何がですか?」
 さらりと邦彦が訊ね返すと、三下は躰を小さくするようにして、
「行方不明になるなんてご免ですよ……」
と消え入りそうな声で呟く。
 邦彦はそんな三下に向かって笑う。
「大丈夫ですよ。話せばわかる相手かもしれないじゃないですか」
 そして三下をその場に置き去りにするかのようにして一歩を進めた。
 二人が立っていたのは両側を木々に囲まれた獣道の入り口である。その向こうに問題の湖があるのだと云って三下が立ち止まるので、自ずと邦彦も立ち止まる格好になっていたのだったがなんだかんだと云って先に進もうとしない三下に邦彦は少々辟易していた。こんな調子で果たして世に多々あるオカルト雑誌のなかでも、比較的有名どころである月刊アトラスの編集員が勤まるのだろうか。三下には申し訳なかったが、思う心に偽りはなかった。
 靴底が踏みしめる地面に散らばる草木が鳴る。一歩踏み出すごとに草が鳴り、時折枝が折れる感触と音。砂利がこすれあう感触とアンバランスな足元を実感しながら、この向こうにあるものは果たしてなんであるのだろうかと思う。
 元来怪奇小説や推理小説の類を好む邦彦にとって、今回の依頼は個人的な趣味の範疇で心惹かれるものであることは確かだった。

【弐】

 不意に両側を覆っていた木々が途切れ、視界が開けると、そこには大きな湖面が広がっていた。漣もなく、ひっそりと静まりかえった周囲には微かに小鳥の囀りや木々が揺れる音が響くだけである。
 無意識のうちに溜息が漏れる。
 祖母の唇が何度も紡ぎ続けた物語が脳裏を過ぎる。
 きっと祖母が云っていた話の湖もこんな風に美しい湖だったのだろう。漣もなく、ひっそりとした場所で小鳥の囀りや木々の揺れる音だけが響くひっそりとした場所にある湖の底で、失ってしまった子どもを愛するようにして人の子を愛した竜がいたのかもしれない。
 思うと不意に淋しさが胸の内に降りてくるのがわかった。
 こんなにも静かな場所で、種族の隔たりを感じながらも自らの淋しさを慰めるために人の子を愛する。時折子どもは地上を恋しがる。それはどれほどまでに母親である竜を哀しませたことだろうか。子どもが地上を恋しがるということは、ここは自分の場所ではないということを知っているということだ。そしてそれは同時に母親は竜ではないと云っていることと同じなのである。
 もしかするとこの湖の底にもそんな淋しさを抱えた竜がいるのではないだろうか。邦彦は思う。同族を失い、たった独りの淋しさを癒すために湖の底に人を呼び寄せているのではないだろうか。
 竜の淋しさ。
 それが一体どんなものであるのかを邦彦は知らなかったが、自らの経験上そうしたものが決して快いものではないことだけはわかった。祖母が亡くなった日に感じた喪失感は居た堪れないものだった。泣いても癒されず、泣く自分を慰めてくれるものは永遠に失われてしまった。ただ独り泣き続けて、喪失を許容しなければならないのだと確認しただけ。
 竜はもしかすると確認することができず、ただ独り、淋しさに浸っているだけなのではないだろうか。肌を重ねるような一時的な行為で淋しさを癒すようにして、ひっそりとその淋しさを癒すために湖の底へと人を誘うのではないか。
 思うと不意に空気の流れが変わるのが肌でわかった。
 しんと水底に沈みこむように空気が重みをまとう。
「ひっ……!」
 背後で息を呑むような悲鳴が響いて、はっと振り返ると三下が今にも逃げ出しそうな気配でそこにいる。
 視線は正面、湖面の上へと向けられたままだ。
 それをなぞるようにして邦彦がゆったりと湖のほうへと視線を戻すと、不意に湿度を増した空気が肌に纏わりつくような質感が頬を撫ぜた。
 まるで水のなかのようだ。空気中の湿度が上がり、器官を水に侵されるような息苦しさを感じる。頭が朦朧とする。音という音がフィルターを通して響くように不鮮明で、水底で聞く水の泡が弾けるような音が聞こえる気がした。
 ―――遊びましょ。
 不意に鮮明な声が響く。
 声と共に細い、白い、それでいて幼さの香る手が伸びてくる。
 頬に触れて、目の前には柔らかな微笑。
 ―――お兄さん。遊びましょ。
 黒い艶やかな髪。それを濡らす水の香り。頬に揺れる指は冷たく、それでいてひどく魅惑的な温度を持っていた。
 呼ばれるがままにその手を取りたいと思う。そしてそれを否定するようにして冷静な頭が、妖の類だと告げている。警鐘がフィルター越しに鼓膜に届く。曖昧な警鐘。だけどそれが本当だ。現実はフィルターの向こうにある。
 思って邦彦は頬に触れる少女の手をそっと引き剥がした。
 すぐ傍で少女が小頸を傾げる。
「君はどうして人を呼ぶの?」
 少女は答えない。
 ただ大きな瞳でまっすぐに邦彦を見ているだけだ。
 幼さの残る微笑が目の前にある。まるで鮮やかな花のように魅力的で、淫靡な気配のする微笑である。これなら男だけが失踪する理由も分かる気がした。人のようでありながら人ではない姿の少女はひどく艶かしい。
 不意に少女が邦彦から視線を逸らした。
 そして腰を抜かしている三下のほうへと視線を移す。
 それを見とめて邦彦は云った。
「それじゃあ、駄目だよ」
 邦彦の声に少女は振り返り、どうして?と云ったようにその整った容貌を曇らせた。

【参】

 水底深く沈むようにして邦彦はひっそりと少女の声を聞く。
 音楽を爪弾くように少女は言葉を綴る。
 ―――淋しいのよ。とてもとても淋しいの。
 水が振動する。それが鼓膜にダイレクトに伝わってくる。
 邦彦はその振動に淋しい音楽を聴く。どうしようもない喪失感と孤独感。独りは厭だと呟くようにそれは響く。
 ―――どうすれば癒されるというの?あたしはずっと独りぼっち。気付いた時にはもうこの広い湖で独りぼっち。
 静かに耳を傾けているだけだというのに涙が溢れる。少女の声はそれほどに切なく、真摯だった。孤独を恐れ、喪失を拒む。願うのはただ誰かに傍にいてほしいというそれだけのこと。
「強引に引き込まなくたって……」
 邦彦は云う。
 ―――誰もあたしを見ていない。誰もあたしを愛してくれない。誰もあたしを抱き締めてくれない……。
 少女は云う。
「言葉で約束すれば誰も逃げたりなんてしないんだよ」
 ふっと辺りを包んでいた緊張した空気が緩んだ気がした。
 ―――言葉?
 少女が問う。
「そう。こうして話している言葉で約束すればいいんだ。それだけのことだよ。強引に引き込まなくたって、言葉にすればそれが本当になるんだから」
 邦彦の言葉に少女が希うような顔をして云う。
 ―――あなたは約束してくれる?
「何を?」
 ―――あたしに会いに来て……。
 縋るような少女に邦彦は笑う。
「いいよ」
 少女の笑みが華やぐ。
 ―――本当に?
「約束したからね。会いに来るよ。それにあの人もきっと会いに来てくれると思う。今は腰を抜かしてるけど」
 云って邦彦はすっかり腰を抜かして、逃げることもできなくなっている三下に視線を向けた。
「そうですよね、三下さん」
 邦彦が云うと三下は大きく頸を縦に振った。
「ほらね。約束すればいいんだよ。何も強引に引き込まなくたって、言葉で約束すれば逃げたりなんかしないんだよ」
 ―――どうしてそんな簡単なことに気付けなかったのかしら?
「誰も教えてくれなかったからじゃないかな?独りだったから、誰も教えてくれなかったんだよ」
 ―――じゃあ、あたしはもう独りじゃないのね。
「そうだね。少なくとも二人は友達ができたと思っていいと思うけど。僕と三下さんでよければの話だけど」
 少女は笑う。 
 あどけなく、無垢な笑みで邦彦に笑いかける。
 ―――ありがとう。
 言葉が空中に拡散していく。少女の姿もまた、辺りから水の気配が去るのと同時に薄れていく。
 約束は残酷。
 約束はやさしい。
 二つの顔を持つそれに救われて、本当に幸せなのかどうかはわからない。
 けれど少なくとも今は、少女の救いになっただろうと思って邦彦は静かになった湖面から腰を抜かした三下に視線を向ける。三下は何が起こったのかわからないといった様子で、呆然と湖面に視線を向けたままだ。
 だから邦彦は云った。
「これで終わりです。僕たちが彼女の友達になった。そしてきっと失踪していた人たちも戻ってきますよ」
 そして湖面に向かって云う。
「そうだよね?」
 ―――そうよ。
 声は水底深くから透明に響いてきた。
 柔らかで温かな満足した声だった。





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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0264/内場邦彦/男性/20/大学生】


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■         ライター通信          ■
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初めまして。沓澤佳純と申します。
この度のご参加まことにありがとうございます。
プレイングにあったおはなしがとても魅力的だったので、最大限活用させて頂いたのですがいかがでしょうか?
少しでもお気に召して頂ければ幸いです。
この度のご参加まことにありがとうございました。
今後また機会がございましたらどうぞ宜しくお願い致します。