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<東京怪談・PCゲームノベル>


螺旋にて ――煙る街並――




 街の夜は長い。
 橙や青や白のネオンは、夜明けの光がその手を叩くまでさざめくように人々を誘う。都会の深夜を、「眠らない街」と称したのは誰だったろうか――喧騒は遅くまで止まず、目を閉じれば瞼の裏に滲み込んで来るように遠くの怒鳴り声が耳に届くのだ。
 眩しい。
 が、どこかで鈍くぼやけている。
 影山軍司郎は上下するワイパーの向こう、雨模様の駅前通りに目を凝らす。
「……」
 おどけた様子の若者が一人、ふらふらと車道へ飛びだしてきたのでクラクションを鳴らした。
 雨に濡れたその若者はびくりと肩を跳ねさせ、慌てて舗道へと引き返していく。
 仲間内でしこたま酒を飲んだものだろうか、横を霞めた影山のタクシーに罵声を浴びせて去っていった。
 窓ガラスを震わせるそれに、だが影山は頓着の欠片も見せぬ。
 己の命に課せられた以上の厄介を、ただ御免被りたいと願うばかりである。

 人は、生きるも死ぬもただ一人である。
 母の闇を抜け、脳裏の闇に辿り着くその瞬間まで、人はただ一人で孤独を暮らす。
 ただ、それに耐えられなくなる瞬間がある。
 深い海の底に沈み、いくら足掻くも己の力のみで息を継げなくなる瞬間がある。
 そんな時、人は遠い夜空に向け、ただ一心に両手を伸ばす。



 待ちあいで一時間ほどタクシーを停車させていた。
 終電直後、ましてやじめじめとした霧雨のさなかである。平素の同時刻よりも客足が見込めるだろうとふんでいた。
 だが、さすがに梅雨の雨とあってか、皆いちように傘をさしては夜の街に消えていく。
 しばらくは彼らの後ろ姿をじっと見つめるのみで時間を過ごしていたが、
「――今日は良くない、な」
 ため息交じりの独白に同調するかのごとく、助手席のシートに置き去っていた新聞紙がパラリと乾いた音を立てた。
 諦めて影山は、ギアに左手をかける。
 乗客ノルマや運賃ノルマに束縛されない、それが個人タクシーの長所でもあり、短所でもある。
 客足悪く『上がりが薄い』ことを見越した場合なら、誰に咎められることなく待ちあいを後にしても良いのだ。
 おまけに今日は、昼から食物を胃に送り込んでいない。
 昨日のうちに買い置きしておいた卵をうっかり冷蔵庫に入れ忘れ、腐らせてしまった。
 何もかもが、梅雨のせいである。客が傘と降雨の心構えを常備しているのも、卵が腐るのも。
『禁忌の番人』は、不老である。老いによる死亡は有りえない。
 が、痛みを受ければ怪我はするし、空腹で有れば飢餓を感じることもある。
 なんと不都合な肉体であるだろうかと、影山は口の端に自嘲を浮かべた。
 考え至ると、無性に己が空腹であるような気がしてきてしまう。そして、空腹こそが全ての元凶に思えて仕方がなくなってきてしまうのだ。
 既に日付が変わろうという時刻である。まっとうな食事を食べさせる店はとっくに閉店してしまっているころだろう。
 だから、諦めと期待の半々で、ハンドルを握っていた。
「……」
 そんな中、うっすらと空気を煙らせる、雨の向こうに。
 未だ煌々と照っている紫色の看板が、目に留まった。
 ――螺、旋……
 らせん、か。
 影山はゆっくりと店の前にタクシーを停め、助手席から透かしの引き戸を覗いた。
 その明るさから、まだ店は営業しているらしいことを見て取る。
 せめて明日の朝まで、胃が悲鳴を上げぬ程度のものを摂れれば良い――そんな些細な希望を胸に、影山はタクシーから静かに降り立った。



 穏やかな灯に満たされた店内には、今ちょうど勘定を済ませようかとしている若い男の客があった。
 カウンターの中にいる和服の女性は、この店の主人であるのだろうか。いらっしゃい、そう云って微笑む口元には小さなほくろがある。
「大丈夫。また旨い肉食わせてね」
 影山をカウンターの席に座らせて、見送りをしようとした女将を先客が制している。その間に影山は、目の前に置いてあった小さな品書きを眺めていた。
 若い女将の切り盛りする店……そんな印象とは裏腹に、そこに記されているのは純和風の料理名ばかりであった。
「オォ厭だ。じめじめするったら無いね、また降り始めて来てたんだ」
 両肩を竦めながら、女将はカウンターの中に引き返していく。「運転手さん、こんな時間に油売ってて大丈夫なのかい?」
「客足が悪かったんでね」
 言葉短かに、影山が答える。
 先ほど店を出て云った若者が、去り際に残した言葉が気になっていた。
 なるほど、肉料理が充実している。こんな時間に料理屋に飛び込むサラリーマン層が喜びそうな献立だ。
 注文を決めかねていると、目の前に小鉢がコトリ、コトリと並べられた。
 鯖の味噌煮、冷奴、それにひじきの煮付けだった。
「ワカメの炊込みは嫌いじゃないかい?」
「……ああ」
 品書きを手にしたまま、影山は曖昧な返答をする。
 その間にも、ふろふき大根とキュウリのぬか漬け、牛筋と牛蒡の合わせ煮と立て続けに皿が並べられていく。
 どうしたものか、影山が考えあぐねていると、
「――ここまでが、この店の通しだよ……注文は?」
 最後に山盛りの炊込み飯を手渡され、
「……尾瀬の雪解け」
 酒を一杯、女将に頼んだ。



 元より、それほど味に拘る男ではない。
 戦時下を思い起こせばそんな贅沢は言っておられぬ時世であったし、何より時代は今、古き良き昭和を経て平成である。
 影山が持っていたごくごく細やかな味への嗜好は、よほどのことがなければ満たされぬこととなっていた。
 出汁の旨味が、空の胃袋を締め上げる。
「ごらん、桶の中はまだこんな」
 そう云って見せられた大振りの飯桶の中には、未だ温みある炊込み飯が半分以上も蓄えられていた。
 女将の勢いに負け、影山は空になった茶碗を差しだす。
「……朝から食事を摂っていなかった」
「何云ってんだい。そういう時はお世辞にでも、旨いって云うもんだよ」
「確かに、旨いな」
「なら持ってお行き。握り飯にすれば、面倒もないだろう」
 強引にすぎる女将の言葉に、影山はグラスを口に運んで閉口する。そして再び箸を持ち直すと、先ほどと変わらぬ盛りつけで渡された炊込み飯と格闘することとなる。
「旨い」
 酒の味も判らぬ子供のころのように、飯を食った。
 また実際、女将の味付けははるか昔、子供のころの浅い記憶を喚起させる何かがあった。
 蝉を捉まえて家に戻り、暑さのなか夢中でかき込んだ素麺の味。
 冬の寒い夜、父と母と小さな膳を囲んで食った餅の旨味。
 決して裕福ではなかったが、貧しさが人の心を蝕まなかった時代――昭和。
「……昔、一人の軍人がいた」
 ポツリと、影山が口を開く。
 唐突な切りだしにも女将は戸惑わずに、よごれた鉢を洗いながら面持ちを影山へ向けた。
「軍人は、本来……彼が属するべき戦いから離れて、別の種類の戦いをする身の上になっていた」
「別の種類?」
「ああ」
 止まりかけた箸を動かして、影山は飯の最後の一口を口に運んだ。
 何を、自分は話しているのだと思う。
「本来の戦いが事実上の終結を見せても、男の戦いは終わらなかった。当然と言えば、当然だったか――その戦いには、終わりというものが存在しなかったのだから」
 女将は、ただ静かに小鉢を洗う。
 俯く額の面影だけでは、その意図を影山が汲むことはできない。
「永い間、軍人は戦った――永い、本当に永い間、だ。でも、軍人は後悔してはいなかった。本来の戦いから身を引いたとしても、彼は彼なりの方法で――今でも国を守っていると自負していたからだ」
 女将がちらと、影山に一瞥を投じた。が、その瞳に訝しみはない。影山がグラスの中身を嚥下すると、再び視線を落として蛇口を締めた。
「国を守ること、国のために戦うことこそが、己のためだと信じてきた。――いや、そう信じようとすることでしか、軍人は己を保つことができなかったのかも……しれぬ」
 影山の声音にもまた、苦渋はなかった。
 そう、もう、過ぎてしまった話なのだ。
「……変わったな、この国も」
 躍進も、怠惰も、忍耐も堕落も――全てが、今の日本にはある。
 そしてそれは誰のせいでもない、ただこの国の有るがままであるのみなのだ。
「……随分と、やっかいなもんを背負い込んじまった人なんだね」
「ああ。――人から聴いた話だ」
 影山が服のポケットから、一葉の写真を取りだした。それはひどく草臥れた白黒写真であったが、中心に映る若々しい軍人の姿は未だはっきりと見留めることができる。
 眼差しの鋭さや広い肩幅、きゅっと噤んだ口元は影山の面影を残している。
「アンタに似てる。おじいちゃんか誰かかい?」
「そんなところだ。少なくとも、私には見えないだろう――そんな歳に見えるか」
 洗いものをすっかり終わらせてしまった女将が、影山に向って淡く笑む。「今度、その人を連れておいで。旨いもんをたらふく食わせてあげるから、って」



 ほんの僅かとは云え、飲酒は飲酒である。
 完全に酒が抜けるのを待ってから、店を出た。
「梅雨時だから、放っておいたらどんどん食べられなくなっちまう。持ってお行き、冷蔵庫に入れておけばしばらくは持つだろうから」
 女将が大きな紅葉色の風呂敷包みを影山に持たせた。
「……いくらなんでも、普段からこれほどたくさん食べ物を摂るわけではない」
 憮然と曰う影山に女将は、
「お云いでないよ。いっぱい食べないと、力がでないだろう?」
 笑ってばしりと、影山の背を叩く。
 無人となった店内を放って、タクシーが見えなくなるまでを女将は見送っていた。

 車内にうっすらと、旨味の匂いが満ちている。
 明日の出勤前には空気を入れ替えなければと、ふと思う。
「――余計なことを、いささか喋りすぎたか」
 梅雨時の深夜、霧雨に煙る街。
 影山は、ただ一人暮らす家路へとハンドルを切っている。

(了)