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水妖の夢
【壱】
きっと失踪する人間にとっての理由など、些末なことなのだ。理由などいくらでも後から付け足すことができる。重要なことはきっかけに過ぎない。たった一つのきっかで人は死ぬことも生き続けることもできる。簡単に云ってしまえば、世界の総ては偶然によって必然の皮を被せられているにすぎない事象によって形成されているのである。
桜塚金蝉は思って目の前に広がる湖を前に、緩慢な仕草で両腕を組んだ。その姿は限りなく傲慢で不遜なものだったが、傍らに立つ蒼王翼はそんなことは気にはしていないようだった。ただいつものことだとでもいうように、共に静かな湖面へと視線を向けたままだ。
ここに辿り着くまでの道すがら、金蝉はまるで独り言を云うようにして事のあらましを話していた。翼は何を云うでもなく黙ってそれを聞いていただけだ。静寂のなかで金蝉の傲慢な声だけが響き、それだけが今に至った経緯を無機質な現実にしていた。誰に頼まれたとは云わなかったが、誰かに頼まれたのだということを金蝉は遠まわしに言葉にした。些末なことだというように、素っ気無かった。翼もおざなりに聞き流した。重要なことはそこにはないのだと、お互いにわかっていたからの結果である。
「どこに白鳥がいるって云うんだ」
金蝉が不満げに云う。
「さぁ」
翼は素っ気無く細く息を吐くようにして云う。
青色の湖面には白い鳥の姿どころか、一枚の葉さえも落ちていない。ただ静かな青が広がっているだけである。木々がざわめき、遠くから小鳥の囀りが聞こえる。
穏やかな時間だけが緩やかに流れていた。
過去へ過去へと流れていくそのなかに、金蝉が話していたような事象が存在するとは思えない。平穏を絵に描いたようなここに一体何があるのかと二人は互いの思うことを確認するでもなく思う。
この穏やかな湖のどこに妖が住んでいるというのだろうか。
術者に呪をかけられた女性が昼は白鳥の姿となり、ひっそりと生きていると金蝉は云った。
しかしそれを口にした金蝉の目の前にも、それを聞いただけの翼の目の前にも白鳥の姿などどこにもなかった。それに何より今の季節は初夏である。白鳥は冬の鳥。どこかで無意識のうちに思い込んでしまっているから余計に目の前の青色の湖面が憎らしく思える。
一体何のためにこんな所へ来てしまったのだろうか。かろうじてバスが一時間に一本あるかないかの片田舎に多くの時間を割いてまで来たというにも関わらず、現実にはつまらない噂の類だったのだろうかという疑念が二人の胸のうちに生まれる。金蝉は今にも面倒だと言って踵を返しそうな気配で湖を見つめている。翼はそうなることを願うような気持ちでいた。本当かどうかもわからないことに、これ以上煩わされるのはごめんだというのが二人の共通した今の気持ちである。
「あっ、あのぅ……」
不意に背後から声をかけられて、二人は反射的に振り返る。視線の先には蛇に睨まれた蛙のようにして肩を竦める三下忠雄の姿があった。高貴な気配と迫力のある美貌を持つ金蝉と冷たくしんとしながら人の目を惹き付ける翼の整った容貌に、三下が動揺しているのがわかる。
「なんの用だ」
金蝉が無愛想に云う。
すると三下はますます躰を小さくして、慌てた様子で二人の前に名刺を差し出した。これ以上は近づけないというようなぎりぎりの距離を保って、腕を伸ばす三下の姿はひどく滑稽だったが金蝉も翼も笑うようなことはしなかった。ただやけにおどおどする三下の態度に僅かな苛立ちを感じていただけだ。
差し出された名刺を手にしようともしない金蝉の代わりに、ほっそりとした白い指で翼が名刺を受け取るとそこには三下忠雄がオカルト雑誌の編集員であることが記されてあった。
「月刊アトラス編集部の三下忠雄さんですか?」
三下の存在になど全く興味がないといった体の金蝉を他所に翼が問う。
その声に漸く関係を築くことができる糸口を見つけたとでもいうようにして三下が飛びついてくる。
「はい。……あの、この湖で失踪したライターがいるんですが、その原因を探れと、編集長からの命令で……」
はっきり話すことができないのか、三下の言葉は途切れ途切れに響く。先ほどまでこれ以上明瞭に何かを誰かに説明する能力に長けた人間はいないだろうというくらいに簡潔に話していた金蝉の言葉を聞いていた翼はますます苛立ちを覚え、元来短気である金蝉は今にも暴言を吐きそうな気配を漂わせていた。それを紛らわすかのようにして取り出した煙草に火を点けたのがその証だ。
オイルライターの金属音が辺りに響く。
金蝉は苛立ちの原因である三下から湖へと視線を移して、総てを翼に任せたとでもいうように細く煙を吐き出す。翼はそれを見届けて、これは常人を装うしかないだろうと思った。そして結果この煮え切らない男のお守り役をさせられることになるのだろうと思うと、無意識の内に溜息が漏れた。元来翼は一部の男性を除き許容範囲は狭く、男性には冷淡な正確だ。
「それで僕たちになんの用なんですか?」
目を細めるようにして無機質な声で翼が問うと、怯えたように震える声で三下が答える。
「しゅ、取材にご協力願えないか………」
語尾が途切れたのは咥え煙草の金蝉が冷たく一瞥をくれたからだ。
「それはあなたの仕事でしょう?」
翼がそれに追い討ちをかけるように冷淡に云い放つ。
三下は二人の迫力に負けたとでもいうように俯いて、ぼそりと云う。
「編集長の命令なんです。独りでは、あてにならないから、と……」
その編集長とやらの気持ちが二人には痛いほどわかった。こんな煮え切らない男に自分が編集長を勤める大切な雑誌の記事を任せきることができる編集長がいたとしたら、それはきっとよっぽどの莫迦か、無能な奴だ。
「勝手にしろ」
云って金蝉は煙草を放る。
その先端が赤い軌跡を描いて地面に落ちるのと同時に、不意にばさりと大きな鳥がはばたくような羽音が聞こえた。距離は近く、金蝉と翼は同時に音の所在を追いかけるように鋭い視線を向ける。その視線の辿り着く先には優雅に細い頸を伸ばし、大きな白い翼を広げた純白の羽毛で全身を覆った一羽の白鳥の姿があった。妖しい光を持つ目が三人のほうを見つめている。
「本当だったんだな」
翼が云うと当然だとでも云うように金蝉が視線を向ける。
術者によって呪をかけられた女性。
昼は白鳥。
夜の闇だけが彼女を本来の姿へと戻す。
―――私を人間に戻して下さいませ。
哀願するような女性の声が響く。
―――夜の闇の底でしか私は人間に戻れぬ身。どうかお願いです。私を完全な人間に戻して下さいませ。
細い声は滑らかなヴァイオリンの響きのように三人の鼓膜を撫ぜる。
しかし金蝉と翼は冷淡にそれを受け止め、三下だけがその声に心動かされたようだった。
「勝手なもんだ」
云って金蝉は踵を返した。翼ももっともだと思ってその後ろに続く。
三下だけがぼんやりと湖面に浮かぶ優雅な白鳥に魅入られてしまったようにして、じっとその場を動かなかった。
【弐】
「いいのか?」
翼が問う。
「何がだ?」
夜の闇のなかでかわされる冷たく、静かな会話。
「あの、三下という男だよ」
翼の言葉に金蝉は静かな視線を向けただけだった。矢張り自分がお守りをさせられることになるらしい。思って、翼は少し前を行く金蝉の背を追いかけた。
風もない夜だった。あまりに膨大な静寂が夜の闇の底に沈殿して、耳の奥が金属質の痛みを感じている。草木は沈黙のなかに身を潜め、しんと息を殺している。何かが世界を支配している感覚。それは金蝉と翼の鋭利な神経にそっと触れる。その存在を知らしめるように、誘うかのように、ひっそりと鋭い気配を空気のなかに染み渡らせている。
二人はその鋭さを感じながら同じ事を考えていた。
術者に呪をかけられた女性。
昼間は白鳥。
夜の闇のなかでだけ本来の姿に戻ることができる。
昼に白鳥の姿を目にした人間は、彼女の声に魅了され、夜を待つようにして彼女に会いに来る。彼女の声は白鳥の断末魔のように切実に何かを希う声だ。哀願する声は心を惹き付け、離さない。彼女はその声で云う。
―――人間に戻して下さいませ。あなたの真実の愛だけが私を人間に戻すことができるのです。
現実で響いた声に、二人は足を止めた。
目の前には仄かに明るい白い光をまとった女性の姿。その足元に縋りつくような格好で、三下が座り込んでいる。
金蝉は云った。
明け方、白鳥へと戻る彼女へ死をも恐れぬ真実の愛を示すために、彼女を求め、湖に飛び込むのだと。それが近隣の人々の口から「水神様の祟りがある」という言葉を生み出し、近づけにようにしているのだと。
翼は咄嗟に金蝉を追い越し、三下の肩を掴んで強引に振り向かせる。
そして冷徹な目を向けて云った。
「君の仕事は記事を書くことだろう?なら、今は大人しくしているんだ」
三下の目は甘いに蜜に蕩かされてしまったかのようにしてぼんやりとしている。
「綺麗な薔薇には棘がある。それもどうやら今回は特大の棘のようだ」
翼はすっと視線を上げて、女性を見る。
慎ましやかな微笑を湛えた女性は、三下だけに視線を向けている。それは柔らかで、温かく、ひどく心を惹きつける笑みだった。この女性に悪意はないのだろう。
「迂闊に触ると刺されるぜ」
翼が云った刹那、金蝉が翼の背後に立って云う。
「勝手なものだな」
―――人間に戻して下さいませ。
女性は云う。
金蝉は冷たい双眸でまっすぐに女性を見つめたまま、何をするでもない。傲慢とも見える優雅さで腕を組んで、真っ直ぐに射抜くような鋭い視線を向けているだけだ。翼はそんな金蝉に女性を任せることにして、心ここにあらずといった体の三下を引きずるようにして水際から距離を置く。手の焼ける男だ。こんな奴でも社会に適応できるというのだから可笑しくなる。こんな奴を部下に持った編集長はよほどのやり手なのだろう。思って、すらりと伸びた金蝉の背中に視線を向けた。
「望んだのはおまえだろう」
金蝉の言葉は容赦なく響く。
―――何をおっしゃるのですか。私は騙されたのです……。
「同情を買うつもりか」
翼は二人のやり取りを眺めながら、金蝉には哀願も何も通じはしないと思う。彼は彼だけで完結しているのだ。自尊心の塊といって過言ではない。自己中心的で性格は破綻しているといってもいい。そんな奴を相手に同情を買おうなどとは、女性も見る目がないと思った。
―――同情なんて……。
今にも泣き出しそうな震える声が云う。
けれど金蝉がそれを聞きとめた様子は無い。自己完結する相手に、哀願の声が届くわけはないのだ。自らの生き方に迷いがない者を相手に同情を買おうとすることほど愚かなことはない。
けれど女性はそれまでの自分の行いに失敗がないことに自信を持っているのか言葉を紡ぐことをやめない。
―――どうかお願いですから、私を人間に戻して下さいませ。
声に金蝉が苛立っているのがその後姿からわかる。短気なのだ。こんなまどろっこしいことにいちいち付き合っていられるほどの我慢ということを金蝉は知らない。
「水に還れ、妖」
云ってすっと持ち上げられた金蝉の手には陰陽の術を行使するために動き始めている。
翼はそれの姿を見とめて溜息をつく。
やはり短気なのだ。
どこまでも、誰よりも。
【参】
金蝉が紡ぎ出した術は闇を裂き、夜を裂き、鼓膜の奥で犇いていた金属質の静寂を弾き飛ばす。
風が戻ってくる。
草木が揺れる音がする。
湖の湖面にひっそりと水紋が広がる。
―――あなたこそ私の恋人に相応しい……。
女性が云う。腰の辺りまで水につかり、水面には黒い髪が広がっている。白い容貌が闇に浮かぶ。紅色の唇には嬉しそうな笑みが刻まれていた。
―――どうかお願いですから。私と共に時を過ごして下さいませ。
胸元で両手を組み合わせて云う女性に金蝉は咥えた煙草に火を点けて、ゆっくり深く煙を吸い込むと吐き出すと同時に答える。
「ご免だな」
長い指が煙草を唇から話す。
「呪をかけた術者なんぞよりも偽善者面したテメェのほうが性質が悪いぜ」
闇のなかで煙草の先端に灯る赤だけがリアル。
翼は未だにぼんやりと府抜けた体でいる三下の肩を強く掴んだまま、にべもない金蝉の背中を眺めている。
終わってしまったことを金蝉は振り返ったりはしない。終わってしまったもの。それはもうそれだけなのである。もう総ては終わっている。残されているのは始末だけ。女性という存在自体の始末だ。
「テメェなんて消えちまえ」
云い放たれた言葉は、放たれた術よりも何よりも強く女性に影響したのか刹那湖が荒れ狂う海のように波立った。水際に打ち寄せる波が静寂を取り戻すまでの間、金蝉も翼も、そして三下もまた静かにそれを見ているだけだった。何をするわけでもなく事の終わりを見届けようとするかのように微動だにしなかった。
冷たい風が吹く。
それを合図に翼が云った。
「王子様になり損ねたな、金蝉。知らないぜ。あんな綺麗な娘、袖にして後で後悔しても」
揶揄い半分に云う翼を、金蝉は僅かな後悔の気配も見せずに振り返る。
「あんな偽善者面ぶった女なんてこっちから願い下げだ」
吐き捨てるように云って、金蝉は湖に背を向けて歩き出す。三下の肩を掴んで傍らにしゃがみこんでいた翼もそれに倣うようにして立ち上がり、湖に背を向けた。
三下だけが残される。
静かな湖での出来事。
それは些末なものだ。
過去になればなるだけ、時が過ぎれば過ぎるだけ、それは今よりもずっと些末なものになっていく。記憶が薄れていくように、噂がなりを潜めたその時からだんだんと人々の記憶から失われていく。術者の呪に囚われていた女性のことなど振り返る者は誰もいなくなる。その突端を行くのは金蝉。そして翼も同じようにして忘れていく。たとえ女性に肝要な翼だといっても、何人もの男を破滅に追いやっている女性には同情することはできなかった。そうであれば尚更に金蝉はもっと冷淡に女性のことを記憶から切り落としていくだろう。
忘れ去られていく。
それが彼女の、男を破滅に追いやった罪の罰。
三下だけが残される。
もし女性のことを覚えていてくれる者がいるとしたら、三下だけだろう。記事にして、没にならなければ紙面を飾るであろうそれを紡ぐことができる三下だけが彼女の存在を覚えている。
しかしそれもまた女性の紡いだ罪の証だ。
罪状は愛情。
つまらないものだ。
思って金蝉と翼は三下を置き去りに、湖から遠く離れた地へと帰るために歩を進めた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【2863/蒼王翼/女性/16/F1レーサー兼闇の狩人】
【2916/桜塚金蝉/男性/21/陰陽師】
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■ ライター通信 ■
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この度のご参加まことにありがとうございます。沓澤佳純と申します。
>蒼王翼様
二度目のご参加ありがとうございます。
今回はあまり動かすことができずに申し訳ありません。
その代わりといってはなんですが、この科白は絶対使わせて頂きたいと思ったのでプレイング内の科白をフル活用させて頂きました。
>桜塚金蝉様
初めてのご参加ありがとうございます。沓澤佳純と申します。
俺様な感じが書いていてとても新鮮で、楽しませて頂きました。
妖に対してにべもないあたりがなんとも素敵です。
この度のご参加まことにありがとうございました。
少しでもこの作品がお気に召して頂ければ幸いです。
今後また機会がございましたらどうぞ宜しくお願い致します。
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