コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


愛の酔中花― Will you marry me ? ―


SCENE-[0] 君が呉れた物語の始まり


「結婚しました」

 始業三十分前。
 薬局内に足を踏み入れるなり、そう言って嬉しそうに笑ったのは、黒薙ユリ。いや、旧姓黒薙、現在は結婚して向坂ユリとなった二十五歳の雲切病院勤務薬剤師である。
「……結婚って」
 ちょうどその場に居合わせた面々の中から、声が上がった。
「つい先日婚約したとは聞いていたけど……、もう結婚したのっ?」
「はい。教会で式を挙げて、入籍しました」
 応えるユリの笑顔は明るい。
「で、でも、確かお相手の方とは、出逢ってからまだ半年経ってないとか……、付き合い始めてからも日が浅いんじゃない?」
「はい。お付き合いを始めてから……」
 言いかけて、ユリは少し考えるように頸を傾げ、三ヶ月も経っていないかしら、と続けた。
 俗に言うところの、スピード婚、である。
 突然の結婚宣言に、一同、祝辞を述べることも忘れてユリを凝視した。皆の視線を一身に受け、戸惑いもたじろぎもせずただ微笑む彼女の白衣の胸許で、『向坂』と記された真新しいネームプレートが揺れた。
「……えぇと、それで」
 ユリは、驚きに硬直した薬局内に風を吹き込むべく、足許に据え置いた小振りの折り畳みコンテナを、どん、と机の上に載せ上げた。その中に――――何かの苗だろうか――――両手にすっぽり収まる程度の大きさの鉢植えが、整然と並べられていた。
「これ、アトラス編集部の碇さんから結婚祝いにっていただいたんですけど」
 月刊アトラス編集部長、碇麗香。彼女が過去虫垂炎を患って雲切病院に入院した折、ユリが何かと世話をした関係で親しくなり、以来適度な距離を保って付き合いを続けている知己である。
 その麗香がユリに結婚祝いを贈ることは、別段不思議でも何でもないように思える。のだ、が。
「……結婚祝いに、苗?」
「ええ、花の苗らしいです」
 色気のない業務用コンテナに、どこにでもありそうな鉢。その上にちょこんと顔を覗かせる若葉。アンスリウムのようにハート型に見える新葉が対生している。何となく、贈り物というよりは、ガーデニング愛好者同士のお裾分けといった風情である。
「それが、この苗、少し変わっているらしくて」
 ユリが、鉢植えを一つ手に取り、眼前に翳し乍ら説明した。
「何の花を咲かせる植物なのか分からない上、普通に水を遣ると枯れてしまうらしいんです。直射日光を当てた方がいいのか避けた方がいいのか、乾燥に強いのか弱いのか、育て方を碇さんに訊いてみたんですけど……『分からない』と言われて」
 麗香に拠ると、苗は気が付いたときにはすでに編集部室内にコンテナごと置かれていたと言う。コンテナには「花」とだけ書かれた紙がテープで貼られていた。編集部には雑多な人間が出入りする。その中の誰かが気紛れに置いていったのだろう、と麗香も特に奇異な印象は覚えなかったらしい。
 ――――まあ、春だしね。
 出処の分からないものではあったが、とりあえず水道水を如雨露に汲んできて鉢の一つに遣ってみた。
 ものの見事に枯れ果てた。
 栄養分が足りないのかと、三下に命じて買ってこさせた肥料を適当に与えてみた。
 やはり枯れた。
 少しも手を触れていない鉢の苗は元気よく生えているところを見ると、「余計な手出しはしない」というのが正しい方法のように思えた。が、手を出すのを止めた結果、今度は枯れはしないがそれ以上生長もしないという現実に突き当たった。
 ――――何なのよ、一体。
 次第に苛々し始めたところへ、折良く顔を見せたのがユリだった。
 結婚しました、と挨拶するユリに麗香はとりあえず祝いの言葉を贈り、加えて花の苗も贈りつけたというわけである。
「……それで、もし花が咲いたら、その方法と咲いた花について詳しく教えてって言われていて」
 ユリが指先で若葉にそっと触れ、笑顔を見せた。
「黒薙さ……、向坂さん、それって……」

 雑誌記事のネタ集めに、いいように使われていると思うんだけど。

 その場の何名かはそう思ったものの、口にはできなかった。
 もともと草花の類を好んで植えては時折何かを収穫してくるユリのことだ、たとえいいように使われているのでも、今ここにある花の苗に心惹かれているのだろう――――。
 周囲のそんな微妙な空気を知ってか知らずか、ユリは迷いなく言い継いだ。
「この苗、水を遣った途端に枯れたということですから、逆に正しいものを与えたら、すぐに生長して開花しそうな気がするんです。……私、どんな花が咲くのか見てみたくて」

 白衣の花嫁の言葉に、逆らえる筈もなかった。


SCENE-[1] 梅雨間近にして思う。


 もうすぐ六月。
 そう聞いて、香坂蓮の脳裡にすいと浮き上がってくるイメージと言えば、ジューン・ブライド。梅雨。ヴァイオリン管理。紫陽花。それから、誕生日。
 一年前の今頃なら、「湿度調節にやたら神経を遣う、鬱陶しい季節」という一事に塗り潰されていた六月の印象も、今年は多少彩を加え、雨天の下べたべたと肌に纏い付く空気を思うだけで辟易しつつ、一方で心浮き立つ要素をも見ることができるひと月である。
 ジューン・ブライドなどという方面に意識が向かうのは、偏に、つい先日結婚した兄姉の影響だろう。兄夫婦が教会で挙式したのは、新緑に陽光の射し入る様が美しい季節、五月半ばで、直接六月に関係はないのだが――――蓮の心には今も、あの日真白いウェディングドレスに身を包み幸せそうに微笑んでいた姉の姿が焼き付いている。あれ以来、花嫁、という言葉に妙に敏感になってしまっている気がする。
 梅雨、紫陽花、このあたりはきっと誰にも共通の認識だろうが、殊ヴァイオリニストにとって梅雨は大敵である。いや、正確には、ヴァイオリンにとって。
 ヴァイオリンは、湿気を嫌う。高湿度の中に置いておくと、黴、変形、金属の錆の原因になる上、ペグが回りにくくなったり、音がこもってしまったり、とにかく不調を訴え続けることになる。
 そして更に問題なのが、湿度差。冷房や除湿の効いた部屋と、湿度の高い外部とを不用意に行き来すると、ヴァイオリンに多大な影響を与えることになってしまう。弦の伸縮も激しく、切れやすくなる。そんな状況下に否応なしに拘束されるこの時季、ヴァイオリニストが――――蓮が神経質になるのも肯けるというものである。
 だが、湿気云々梅雨云々と溜息吐きつつも、詰まるところ、大切なのは気配り。これは六月だろうが十二月だろうが変わらない。得手不得手を理解して、いつも最適な状態で気持ちよく響くことができるように気を遣ってやる。大切なものを、大切に扱う。それは、楽器に留まらず、人と人との関係に於いても同じことだろう。
 最近、そんな風に考えられるようになってきた。
 この部屋に、住み始めてから。
 この人に、出逢ってから。

「……千駿」
 蓮の声に、軽く白衣を翻して千駿が振り返った。
 それまで「リスクマネージメント・医療事故防止対策マニュアル」と題された手許の資料に向けられていた真摯な眼差しが上がり、その鳶色の眸が蓮を捉えた瞬間、ふっと柔らかな光を宿した。千駿自身意識しているのかいないのか、蓮をみつめるときの彼の視線は驚くほど優しい。
 ――――どうした?
 眼でそう語りかけられて、蓮は数歩千駿に歩み寄った。
「……もうすぐ誕生日だな、千駿の。何か欲しいもの、ないか?」
「誕生日? ……そういえばそうか」
 蓮に問いかけられて肯き、千駿は何気なく窓外へ眼を遣った。つられるように、蓮も窓から覗く空へ顔を向ける。
 今日は曇天。雨を孕んだ重い雲が、陽光を遮っている。午後から雨だと、今朝の予報が告げていた。
「欲しいものなら」
 答えかけた千駿の言葉を遮って、チリリン、と涼やかな音が室内に響いた。誰かが特別室前に立っている合図である。
「……来客?」
 蓮はドアをみつめ、その向こうに他人が存在する気配にほんの少し肩を落とした。
「ああ、多分。予定ではそろそろ、ウチに入っている医療機器を見学したいというドクターが到着する時間だから」
 千駿は壁に貼った予定表をさっと確認し、書き込みを読み上げた。
「リンスター財閥所属の、モーリス・ラジアル医師……、面会は十一時半」
「え? モーリス・ラジアル……?」
 蓮が口許に手を添え、何事か考え込むように頸を傾げた。
「……蓮、知り合い?」
「いや……、でもどこかで――――」
 どこかで。
 聞いたような。
 それも、比較的記憶に新しい気がする。
 蓮のその予感は、千駿がドアを開けて客を室内へと導こうとしたときに実感となった。
 金の髪。翠の眸。先日、師に強制連行されて出向いた奇妙な温泉で見かけた男。
 (……医者、だったのか)
 同業の誼みか、軽く会釈を交わした後、気軽に仕事の話を始めた二人から眼を逸らし、蓮は再び窓の外を眺めた。
 ぽつ、
 不意に天から降り落ちてきた雨のひとしずくが、紫陽花の葉の上で蹲った。


SCENE-[2] 雨そぼ降りて集結す。


 新雨。

 五月下旬の風光を彩る柔らかな新緑に、ぱらぱらと小雨の降りかかり始めた正午。薬局奥に位置する資料室の一角では、他の薬剤師と交代で昼休憩に入ったユリの周りを、四人の男性が取り囲んでいた。
 そして、机の上には、六つの鉢植え。今現在の生長度合いも色合いも全く同じ、それはまるで六つ子のような緑の花苗。
「……確かに、奇妙ですね」
 モーリス・ラジアルは、冴えた翠眸を鉢植えに向け、左手でハーフウィンザーノットに結んだタイを軽く正した。
「たとえ同一の環境下で生育したにしろ、互いを模写し合ったかのように寸分の違いもない姿の苗というのは、尋常ではありません」
 主の暮らす屋敷併設の医療施設に入れる機器の参考にと、本日雲切病院を見学に訪れたモーリスは、医師であると同時に有能な庭園設計者――――ガードナーでもある。日々リンスター財閥所有庭園を隅々まで丁寧に管理している彼が、眼前の不思議な鉢植えに興味を惹かれるのも無理はない。約束の時刻に訪れた特別室で院内見学前の説明を受けている最中に、ユリから千駿へ「花を咲かせたい」旨の一報が入り、居合わせたモーリスもその件に巻き込まれてしまったわけであるが、庭師として主の役に立つ情報源になり得るとあらばそれもまた善し。
 これは何か新種の、それとも特別な能力を宿した植物だろうか?
 それとはなしに、後者の可能性が高いようにも思われる。
「……よく分からないが……、花を咲かせたいというのが姉さんの望みなら」
 ユリの右隣に立った端整な面差しの黒髪の青年、香坂蓮がちらと姉の横顔を見遣ると、その視線に応えるように、ユリも弟に微笑を向けた。
 姉弟、とは言え、この二人に血の繋がりはない。
 蓮にとってユリは、以前からまるで実の姉のように慕ってきた女性だったが、加えて先日、蓮の双子の兄がユリを妻としたことで名実ともに姉弟となった。
 双子の兄、向坂愁。
 彼もまたユリからの依頼を請け、今日ここに姿を見せていた。依頼、いや、愁に言わせれば「可愛い妻のお願い事」というところか。
 ユリの左隣に身を寄せた愁は、
「うん、まあ、これがどんな花の苗かはまだ想像も付かないけど。僕の大事なユリが見たいって言うんだもの、ここはもう、夫としては何が何でも頑張って咲かせてみせなきゃ、ね?」
 そう言って明るく笑い、蓮に向けられていたユリの笑顔を自分へと引き戻した。
 蓮は兄のストレートな愛情表現に微かに笑い、「確かに、俺なんかより兄さんの方がこういう場合適役だとは思うが」と呟いて、ふと、その手にヴァイオリンケースがあるのに眼を留めた。
「兄さん、ヴァイオリン持って来たのか」
「え? あ、そうそう、時間があったら久し振りに蓮にレッスンみてもらおうかなって」
 愁が蓮に軽くケースを掲げてみせた。
「それに、この鉢植えにも聴かせてみようかと思って、ヴァイオリン」
 蓮と愁は揃ってヴァイオリニストだが、蓮の得意曲はベートーヴェン作曲「クロイツェル・ソナタ」。一方の愁が何より美しく弾き奏でるのは、同じくベートーヴェンのソナタ「スプリング」である。可憐な花々の咲く風景を想起させ春を迎える歓びに満ち溢れたスプリング・ソナタなら、もしかしたら開花を促すことができるかもしれない。
「……お久し振り」
 それまで黙って皆の一歩半後方に立っていた気怠げな紅髪の男、鳴沢弓雫が、唐突に背後から愁に声をかけた。
 思わず振り返った愁は、
「あはは、鳴沢さん、心臓に悪いから、話しかけるときは前から、前から」
 笑って弓雫を前方へ促しつつ話を振った。
「鳴沢さんは、今日はどうして病院に?」
「……結婚、おめでとう」
「えっ。あ、はい、ありがとうございます!」
 会話が成り立っているのかいないのか。
 言っていることは間違っていないのだが、言うタイミングがどこか間違っているような弓雫と、大概のことは持ち前の人当たりの良さと頭の回転の速さで補ってしまう愁のコミュニケーションは、とりあえずこれで成立しているのだろうか。
「鳴沢さん、結婚祝いにって私に贈り物を持って来てくれたんです」
 ユリが弓雫に向かって同意を求めるように頸を傾げて微笑みかけると、弓雫はこくりと肯いた。
「……リリィに、飴を」
「リリィ?」
 訊き返す向坂夫妻の声が揃った。
「……百合、だから」
 名前が「ユリ」だから。そして、弓雫が結婚祝いにと携えてきた物が、色鮮やかなジェリービーンズを組み合わせて創り上げた百合の一枚絵だから。彼の胸中で、向坂ユリの呼称は「リリィ」に決定したらしかった。最初は「リリィちゃん」と呼ぶ予定だったようだが、ちょっと長くて面倒だという理由で「ちゃん」が省かれた。
「リリィなんて呼ばれるの、初めてです」
 愉しそうに笑うユリに、モーリスが洗練された微笑を送った。
「この鉢の植物が百合であれば、巡り巡って向坂さんの手許にあるのも肯けますね。院内に花を置くのは衛生面での心配もありますが、恋を成就させた花嫁の如き白百合なら、病を得た人々の気分を和らげてくれるでしょうし……無事咲いた暁には飾っておくのもいいかもしれません」
 実際には百合の花苗には見えないのだけれどね――――と付け加え、モーリスは視線を鉢植えに戻した。
 そのとき。
 ガチャリ、と資料室のドアが押し開かれ、皆の顔が一斉に、突然の入室者に向けられた。
「あー、不思議な花の件で撮影に来たって言ったら、ここに通されたんだが……」
 重そうなバッグをがっしりした右肩に提げ、ウェストポーチからミネラルウォーターのボトルを半分覗かせたその闖入者の姿に過敏に反応したのは、蓮だった。
「え……、武田……っ?」
「ん?」
 呼ばれて、声のした方へ体を向けた男は、重厚感のある容貌のわりにどこか人の良さそうな光を備えた黒眸に、喜色を浮かべた。
「おっ、香坂! 久し振りだな!」
 そう言って蓮に軽く左手を翳してみせた男、武田隆之、三十五歳。フリーランスのカメラマンである。二人はこれまで何かと妙な仕事で顔を合わせることが多かったのだが、蓮が便利屋を廃業してから暫く、連絡らしい連絡を取っていなかった。そこへきてこの再会。しかも、まさか病院で出逢うことになろうとは。
「……ああ、久し振り。それにしても、花の撮影って――――」
 言いかけた蓮の眉宇が僅かに曇ったのと、隆之の眼が驚きに見開かれたのとは、ほぼ同時だった。
「おい、武田、顔色がかなり悪いが……、どうかしたのか」
「おい、香坂、おまえ……同じ顔が二つ」
 蓮と隆之は言葉に合わせて顔を見交わし合い、ああ、と互いの疑問に肯き合った。
「同じ顔って、僕のことですよねえ?」
 愁が自分の顔を指さして、隆之を見た。
「初めまして、蓮の双子の兄、愁です」
「双子……、いや、確かに双子なんだろうが、……香坂に双子の兄貴がいるとは」
 ぎこちなく愁に向かって会釈する隆之に、蓮が苦笑を洩らした。
「紹介ついでに、この人が俺の姉さん。兄と結婚したばかりなんだ。この病院で薬剤師として働いている」
 兄に続いてその新妻にまで引き合わせられ、隆之は慌ててユリに挨拶した。
「あ、ど、どうも……、武田です」
「向坂ユリです。弟がお世話になっています」
 姉らしい言葉と伴に微笑を差し向けられて、隆之は「いやあ」と謙遜とも何とも判じかねる一声を返した。どうも、どうにも、女性は苦手である。しかも結婚したばかりの人妻相手となると、己の半生を振り返って複雑な気分に陥ってしまう。
 結局、隆之はそれ以上ユリに何も言えないまま、思い出したように蓮に向き直った。
「……その、俺の顔色が悪いのは、あれだ、……今必死に我慢してるところなんだが、あまりにも腹が痛くて」
「腹が痛い?」
「あァ、それでもさっきよりは随分マシになった気がす」
 おかしなところで言葉を止めた隆之を、一同、「どうしたんだ」という眼差しでみつめた。
 蒼白な顔に汗を浮かべた隆之の表情が、眦から珍妙に崩れてゆく。
「それほどに痛いなら、私が診ましょうか」
 モーリスが、隆之のそばに歩み寄った。
「み……診ましょうかって、あんた、医者先生……か?」
「そうですよ。此の世に生きとし生けるものであれば、何でも診察します」
「そ、そりゃあ助か」
 またしても隆之の語尾が途切れた。
「……助か……るが、……まずは、トイレ貸して……くれ」
 腹を庇うように前屈みになった隆之の肩を、弓雫がつついた。
「……トイレ、案内するから。付いてきて」


SCENE-[3] うつし身の色は如何様に。


「何だ、三下が雲切病院に出向いて妙な花の写真を撮って来いって言うから、もう咲いてるのかと思ってたんだが」
 トイレからの帰還を果たし、すっかり顔色の戻った隆之が、軽快な調子で言った。どうやらモーリスに診てもらう必要はなくなったらしい。
 愁は机に手を突き、鉢植えの一つにぐっと顔を寄せて眺め、
「いえいえ、まだまだ。これから気合入れて咲かせようとしてるところですよ」
 隆之にそう応じてから、うーん、と頸を傾げた。
「写真撮影まで予定されてるなんて、この植物の開花、随分と期待されてるみたいですね。……にしても、ユリに鉢植えをくれた碇さんの話からすると、普通にお水遣ったりとかするのはよくない、んだよね、きっと」
「……そうだな。水を遣っても肥料を与えてもダメだったようだし。だからと言って、手を出さずにおいたら、今度はそこから育たないとなると……、どうすればいいんだ?」
 蓮が小さく溜息を落とし、眉を寄せた。植物を生育させる常套手段である水や肥料を与えたら枯れたのだから、日光に当てて光合成を促すのも枯死の原因になってしまうだろうか。つまり、通常の植物育成方法に頼ってはいけないということか。
 蓮の言葉に、愁が鉢植えから顔を上げた。
「でも、水にしろ肥料にしろ、そうやって鉢植えに何かしておこう、手をかけてあげようと思っていた間は、育ってたんだよね? 実際に与えたものが、苗のお気に召さなかっただけで」
「え……?」
「だってほら、碇さん達が育てるのを諦めて放置したら、生長止まったんだもの」
「……そういう見方もできますね」
 モーリスが愁に肯いてみせた。
「この状態から育たなくなったとは言え、ここまでは育ったわけですから。出処由来は不明ですが、何らかの干渉によって育ち、不干渉によって停滞し、誤った干渉によって即座に枯れる植物のようですね」
「干渉、不干渉、ねえ」
 隆之が、少し伸びた無精髭でザラつく顎を撫で乍ら、呟いた。
 弓雫は隆之の隣で黙したまま、眼にかかる長い前髪の隙間からじっと鉢植えをみつめていた。物言いたげな表情を浮かべるでもなく、何事か悩んでいる風もなく、身動ぎもしなかった。
 愁はモーリスを見、
「もしそうなら、この植物に物理的なものを与えるよりは、何かの思いを向けてみる、とか……どうでしょう?」
 そう問いかけた。
 モーリスは、そうですね、と胸の前で腕を組み、
「それには私も賛成です。向坂くんの言うように、水が干渉するのは誤りでも、それを心に思っていた間は枯れなかったわけですしね。人の思いそれ自体が苗にとって正しい方向に向かいさえすれば、生育に有効かもしれません。もしくは」
 いったんそこで言葉を止めると、鉢植えを一つ手に取って仄笑んだ。
「思いだけでなく、人の体温――――とかね」
「人の体温?」
 隆之はモーリスに訊き返し乍ら、おもむろに自分のバッグの中を探り、一眼レフカメラを取り出した。それを眼の端に捉えた蓮が、
「……撮るのか?」
 ぽつりと言った。
「ああ、ま、とりあえずこの状態でも一枚撮っとこうかと思ってな。この苗が普通の植物とは違うなら、……何か写るかもしれねぇしな。不本意だが」
「そうだったな」
 蓮が僅かに笑みを見せた。
 隆之の撮る写真は、本人の意向に反して、なぜか霊的な存在を好む。いわゆる心霊写真というものを、高確率で仕上げてしまうのである。ファッションカメラマンとしての腕が冴え、業界でも相応に知名度のある隆之だが、何も霊までスタイリッシュに撮影できなくてもいいのに、と思う。大体が、隆之自身には霊感の類は全く備わっていないのだ。それが何の因果か、ファインダー越しに捕捉した超常現象的な存在や力を写真に焼き付けることはできる。
 隆之が鉢植えに向かってシャッターを切る横で、興味深そうにその様子を眺めていた弓雫が、不意に口を開いた。
「……見たい」
 その声に、隆之がカメラから顔を離した。
「何? 見たい?」
「……見たい。きんちゃんの、写真」
「き、きんちゃん?」
「……筋骨隆々っぽいから。きんちゃん」
 弓雫がユリをリリィと呼んだのは名前からの連想だったが、今度は隆之の名とは無関係に体格から呼称を決定したらしい。
 二人の遣り取りを見ていた愁が、ぷっと吹き出した。
「鳴沢さんのネーミング・センスって、独特だなあ」
「……呼び方はともかく、撮った写真はすぐに確認できる方がいい。苗を育てるヒントが写り込んでいるかもしれない」
 蓮に言われて「ああ」と肯いた隆之は、今度はバッグからポラロイドカメラを取り出した。仕事時撮影チェック用に使用する他に、こういった妙な依頼に出くわすたびに何かしら活躍の場が提供されるお役立ちカメラである。
 隆之がシャッターボタンを押し、カメラから吐き出されたシートを机上に置くと、やがてそこに六つの鉢植えの姿が浮かび上がってきた。
「……カメラの性能とあなたの腕を疑うわけではありませんが、何か間違ってませんか」
 モーリスが写真に向けていた視線を隆之に移して言った。
「いや、これは俺のせいというか、苗のせいというか……」
 隆之が幾分げんなりした口調で苦笑交じりに応じた。
「……霊的な干渉、か?」
「というより、鉢植え自体が何かの化身みたいに見えるんだけど」
 蓮と愁が順に感想を述べ、揃って頸を傾げた。
 弓雫は写真を凝視し、「これが、きんちゃんの撮る写真……」とどこか嬉しげにひとり言ちた。
 ――――写真内の花苗達は皆一様に、やや赤みを含む淡黄色、いわゆる、肌色、に染まっていた。
「……私の肌の色と同じくらいかしら」
 ユリは左袖を肘まで捲り上げて、自分の腕と写真とを見較べた。


SCENE-[4] 腕に抱き上ぐ新緑の。


「とにかく。考えてばかりいないで、色々やってみましょう」
 ユリが胸の前でパンと手を拍ち、場を仕切り直すと、すぐさま愁が同調した。
「そうだね。じゃあ、先ずはさっき言ってた、人の思いと体温をあげてみるってことで」
「……ちょっと待て。思いや体温と言うが、そんなもの、具体的にはどうやって苗に与えるんだ?」
 困惑げな蓮を見遣ったモーリスは、
「人の思い、と一口に言っても様々なものがありますが、体温は一つですから。与えることも難しくはありませんよ」
 そう言って口許に密かな笑みを揺らめかせ、間を措かず鉢植えを一つ胸に抱き上げた。
 誤った干渉は苗を枯らす。
 結果はすぐに出る筈だ。
「わあ……!」
 モーリスの腕の中の鉢をみつめていたユリが、嬉しそうな声を上げた。
 それまで何の変化も見られなかった花苗が、モーリスに抱かれた途端、するするとその背丈を伸ばし、葉の数を増やしたのである。
「……なかなか素直な子のようだね」
 モーリスは葉の一枚に軽く接吻け、鉢を撫でた。
 隆之はこれも記念にとカメラにモーリスと鉢植えのツーショットをおさめてから、残り五つの苗を指さした。
「体温を与えるのが正解っつーことは、だ。コイツらも同じようにしてやった方がいいんだろうな?」
「ええ。どうぞ、みなさんも鉢植えを抱いてみて下さい。……体温を与える人によって生長具合が変化などすると、面白いと思いますが」
 モーリスに促されて、愁、蓮、弓雫、隆之、そしてユリはそれぞれ鉢植えを手にした。
 すると。
 モーリスの場合と同じように、いずれも生長し始め――――しかしその様態は五者五様だった。
 一目瞭然、非常に分かり易かったのは、愁とユリの鉢植え。並んで鉢を抱いたせいもあるのだろうが、愁の苗はユリに、ユリの苗は愁に向かって生長し、それはまるで蔓植物であるかのように互いの茎を絡ませてアーチを作った。
 二人は思わずみつめ合い、笑い合った。
「何だか苗に見透かされちゃってるみたいだなあ」
「本当ね」
 その微笑ましい新婚夫婦の光景の隣、苦心して上手く抱こうとはしているもののどうにも恰好の付かない隆之の苗は無骨にところどころ折れ曲がり乍ら生長し、弓雫の苗は彼のポケットや鞄に向かって枝分かれして茎を伸ばした。
 弓雫は暫しの沈黙の後、
「……飴、食べる?」
 鉢植えにそう話しかけた。
 弓雫のポケットには数個、鞄には大量に、飴が入っている。飴は弓雫の大好物で、いつも持ち歩き、事あるごとに色んな人に配っているのだが、そういえば今日はまだユリにジェリービーンズの箱を渡した以外誰にもあげていない。この花苗は飴に執着する弓雫の心を忠実に反映したのか、それとも単に甘い物が好きなのだろうか?
「……食べる?」
 弓雫は、飴をポケットから一つ取り出して包装紙を剥がし、差し出してみた。が、苗は反応を示さず、それ以上生長することもなかった。
 生長した鉢植えを前に、最も解せない表情をしていたのは蓮だった。
 腕の中で素直に育ち始めたのはいいのだが、なぜか方向が固定されない。蓮が体の向きを変えると、それに合わせて苗の先が動く。方位磁針が常に一定方向を指すが如く、ある方角へばかり顔を向けようとする。
「……何なんだ、一体……」
 呟いて、ふと。
 蓮は苗先が示す方へ視線を向け、何か思い当たることでもあったのか、淡く頬を染めて俯いた。
 その様子を見ていたユリが、そういえば、と各々の手の鉢を見回し、
「何だか、モーリスさんの苗、他のみなさんのものより赤みが強いですね」
 そう言って微笑んだ。
 モーリスは改めて自分の鉢を見、眼を細めた。
「確かに……少し紅葉しているようだね。キスまで与えたから、照れているのかな――――」


SCENE-[5] きみに囁くは、愛の。


 モーリスの提案によって鉢植えに「体温」を与えることで、ある程度の生長を見た苗は、しかしまだ花を咲かせるには至らないようだった。
「じゃあ、今度こそ『思い』の出番かな? モーリスさんが言ったみたいに、思いにもいろいろあるけど、例えば……愛、とか? 僕の愛はユリのものだけど」
 愁が甘い言葉と伴にユリに笑顔を向けたのを見た隆之は、「はは」と乾いた笑いをこぼし、肘で蓮の腕を突いた。
「香坂」
「……何だ」
「おまえの兄貴はいつもこんな風なのか? おまえと同じ顔でこんなこと言ってんのか?」
「まあ、大体こんな感じだな」
 もう慣れた、と言わんばかりの蓮にあっさり切り返され、隆之は適当に肯いて引き下がるしかなかった。

 愛。アイ。あい。

 確かに、温もりを与えることで生長した苗なら、愛情をかけてやれば元気に育つのかもしれない。だがしかし。
「……愛情か……。俺はダメだ。苦手なんだ、そういうのは」
 隆之は肩を落として、まだ腕に抱えていた鉢植えを机に置いた。
「……アイが苦手?」
 弓雫が隆之の鉢の隣に自分のそれを並べ乍ら、訊いた。
 隆之はポリポリと手指で頭を掻き、
「あー、いろいろと、こう……、……前のヨメさんが置いていった鉢植えも、一つ残らず枯らしたしな……」
 言いづらそうに告げ、フッ、と視線を虚空に投げた。
 遠い眼をする隆之の肩にポンと手を置いた弓雫は、
「……大丈夫。人生、長いから」
 慰めとも放任ともつかぬ言葉をかけた。
 どう見ても自分より十以上は若い弓雫に宥められ、複雑な思いに駆られた隆之は、過去を振り返りかけた自身の気分を引き上げるために、一際大きな声を発した。
「俺のことはともかくだ、植物は声かけたりするといいって言うな、うん。人の気持ちが伝わるらしいぞ」
「あ、僕もそれは聞いたことあります。お話してあげると生長がよくなるとか」
 愁が、にこっと隆之に微笑んでみせた。
「話しかける? ……愛情が伝わるように、何か話しかけるということか? この苗に?」
 蓮は自分が鉢植えに向かってぶつぶつとひたすら話しかけているシーンを想像し、嫌気が差したのか、頭を左右に振った。そして、相変わらず一定方向を指したままの花苗に視線を向け、何事か考えるように暫し眼を伏せた後、軽く右手を挙げた。
「……悪い、少し席を外すから」
「え? 蓮、どこかに行くの?」
 ユリに問われ、うっすらと苦笑交じりにはにかんだ蓮は、
「……部屋に。鉢植え、持って行ってみる。俺より何かいい案考えてくれるかもしれないし」
 小声で言い置いて、資料室を出て行った。


SCENE-[6] 琥珀の彩に心解くとき。


「……ごめん、仕事の邪魔して」
 蓮はソファに坐った千駿に淹れたてのコーヒーを手渡し、自分もその右隣に腰掛けた。
 鉢植えに花を咲かせようと皆が顔を寄せ合っている資料室から抜け出してきた蓮は、まっすぐ特別室に向かい、千駿に現在の状況を説明して助言を求めた。
「良い方法が思い付かなくて千駿に頼るなんて、他力本願だが……姉さんのためだし、今回は眼を瞑ってくれ」
「そうだな、美味しいコーヒーを淹れてもらったお礼に、何か良いアイディアが浮かぶといいんだけど」
 千駿は深い琥珀色に揺れるコーヒーを一口飲み、眼前のテーブル上に据えられた鉢植えをみつめた。十五、六センチほどに茎を伸ばした植物が、千駿に向かって身を彎曲させている。
「……蓮。不思議なんだけど、どうしてこの植物、僕に向かって伸びてるんだ?」
 その柔らかな先端に指を触れて千駿が問うと、蓮は困ったように眼を逸らし、「それは気にしなくていいから」と囁くように言った。
 千駿はそのまま暫く鉢植えを眺め乍ら、蓮から受けた説明のキーワードとなりそうな単語を口遊んだ。
「花の苗……水道水、肥料で枯死……放置で停滞……肌色……体温、愛情、手をかけた人によって生長の方向性が異なる……」
 そこまで言って、急に口を噤んだ千駿に、蓮が頸を傾げた。
「千駿?」
「……何だか……、植物と言うより、これはまるで人の子だな」
「え? 人の子……?」
「ああ。そう思わない? 蓮」
 千駿はカップをテーブルに置き、代わりに鉢植えを手に取ると、矯めつ眇めつ観察した。
「ん……、形態こそ鉢植えだけど、中身は人間と変わらないように思えるよ、僕には」
「人間……」
 ――――言われてみれば。
 隆之の撮った写真に写った鉢植えは人肌のような色をしていたし、抱いてあやして育てる点も、赤児のようだ。それなら、愛情を寄せることが必要なのも、放置したら成長しないのも、生育の方向性がバラバラなのも分かる。親の愛情などというものとは無縁に育ってきた蓮には、「愛されなくては育たない」という考え方をすること自体難しいのだが、
 (……確かに、育たない部分もある。愛されて初めて手に入れられるものもある)
 掌を胸に当てて俯いた蓮の顔を、千駿が覗き込んだ。
「どうした?」
「え? ……あ、いや、何でもない」
 蓮は青い双眸に笑みを浮かべ、千駿の掌中の鉢植えを見た。
「……この鉢が人間の赤児に似ているというのは分かったが、それなら、水や肥料……栄養はむしろ必要なんじゃないのか?」
「それについては、きっと、与える時期が悪かったんだろうな」
 蓮の疑問に、千駿が即答した。
「……与える時期?」
「そう。アトラス編集部に置かれていたときの苗は、本当に生まれて間もない状態だと思えばいい。そんな時期に、冷たい水道水や三下君に言いつけて買ってこさせた肥料を与えるのは、離乳食も食べられない乳児にコンビニ弁当を食えと強いるようなものだ」
「……それはなかなかすごい譬えだな」
「でも、分かり易いだろう? もし碇さんが、太陽の光で温めた水を手ずからあげていたら、苗は枯れなかったかもしれないし」
「そうか……。だとしたら、苗に体温を与えるのが有効でも、それだけで花を咲かせられなかったのは、苗にとって体温が必要な時期は過ぎたということだろうか。……兄さんは、鉢植えに話しかけるとか言っていたが……、今度はそういう別の行動が必要な時期に入った……?」
 そうかもしれないね、と肯いた千駿は、蓮の顔の前にすっと鉢植えを翳した。
「蓮は、今の時期、この植物に何をしてあげたらいいと思う?」
 訊かれて、蓮は鉢にそっと手を触れた。
「……そうだな、姉さんが喜んでくれる結果が出ることを祈り乍ら、視線や言葉を向けてみる……とか」
「じゃ、ユリ君の笑顔を想像し乍ら、愛情を込めた視線と、優しい言葉を与えてみて」
「えっ? ……た、確かに視線と言葉とは言ったが、愛情込めた、とか、優しい、なんて、どうやって……、しかも植物に向かって」
 蓮は狼狽し、少し体を退いた。
「逃げたら機嫌損ねるかもしれないぞ、鉢植え」
 そう言って千駿は笑い、鉢を左手に持ち、右手に蓮の手を握った。
「あ……」
「きっと難しく考えない方がいい。蓮、僕を見るような視線をこの子にも」
「……この子って」
 蓮は苦笑し、鉢を支える千駿の薬指に嵌められた指輪を眸に映して、無理だ、と頸を振った。
「千駿を見るように他の何かを見ろと言われても、無理だ。できない」
「それなら僕が代わりに、蓮をみつめるのと同じような視線を鉢植えに与えることに」
「え……、あ、それはそれで……ダメだ、何だか悔しい」
「悔しい? それは困ったな」
 そんな風にして千駿と蓮が笑い合った瞬間。
 ふわっと新緑の葉が次々に姿を現し、植物は今にも蕾をつけるのではないかというほど瑞々しく生長した。
 二人は思わず眼を瞠り、それから鉢植えを間に挟んで微笑を交わした。
「……あとは言葉かな」
 千駿は植物の葉越しに蓮の眼をみつめ、ゆっくり言の葉を紡いだ。その唇の動きに合わせて、蓮もまた同じ言葉を口にした。


SCENE-[7] 仲良きことは。


 蓮は、千駿と伴に生長させた鉢植えを手に、資料室に戻った。最後に与えた「言葉」が功を奏し、高く伸びた茎のところどころに小さな蕾が顔を見せていた。
「……偉い」
 弓雫が蓮の功績を短く称めた。
 愁は早く話が聞きたいとばかりに蓮に向かって身を乗り出し、
「ねえ、蓮、どうやってそこまで育てたの? 何かいい方法みつかった? 鉢植えの謎、解けた?」
 説明を急かすように手を取って揺すった。
 蓮は何をどう言ったものかと思い悩んででもいるのか、躊躇いがちに視線を彷徨わせた後、ようやく口を開いた。
「……、その、多分、この鉢植えは、人の赤児のようなものだから。それを意識して育ててやるのが正しいんじゃないかと思う。苗が水道水や肥料を受け付けなかったのは、まだそういう人工的な物を食べられ……摂り入れられないほど幼い状態だったからで、与えた物が悪かったというより、与えた時期が悪かったという話だ」
「時期、ですか」
 モーリスが、そういうことかと言わんばかりの納得の表情を浮かべた。
 愁も同様に、合点がいったような顔付きで肯いた。
「人間の赤ちゃん……、じゃあやっぱり、嬰児、だね。道理で、武田さんの写真の鉢植え、肌色に写ったわけだよねえ。体温を与えるのが生長に有効だったのも、親が子供を抱きしめるのと同じようなものだった、のかな?」
「だったら、話しかけてやるのも、きっと有効だろうな。親が子に話しかけるように、それらしいことを言ってやるのがいいんじゃないか?」
 隆之が言い、机の上で育成を待っている三つの鉢に視線を遣った。
 と、皆の話を聞いていたユリが、小頸を傾げた。
「それで実際に蓮は、何を与えて育てたの? 話しかけてみたりした?」
「え? あー……、それはその」
 蓮は眼を伏せ、頸筋を這い上がってこようとする淡紅の色を意識して押さえ付けるように、片手できゅっと肩を掴んだ。
「……仲良く……して見せる、とか?」
「仲良く?」
「……植物の近くで、手、を繋いだり、笑い合ったり、みつめ合ったり、……そういう、……心を通わせるような、行為を」
 しどろもどろになりつつ答える蓮の背を、愁が軽くぽんぽんと叩いた。
「分かった分かった、つまり子供の前で親が仲良くしてる姿をしっかり見せてあげればいいわけだね? そういうことなら任せてよ」
 言うなり、愁はユリの手を握り、鉢植えを身近く引き寄せた。
「何だか、この鉢植えがユリのところへ来たのって、コウノトリの贈り物みたいだね」
「コウノトリの?」
 眼をぱちくりさせるユリをぎゅっと胸に抱き寄せ、
「うん。ほら、コウノトリは赤ちゃんを運んでくるって言うでしょ? 人の心から生まれたみどりごは、可愛い花嫁さんに惹き寄せられたんじゃないかなって」
 嬉しそうに笑う愁の腕の中で、ユリもまた「じゃあ頑張って育てないと」と笑った。
「おやおや」
 見るからに幸せそうな若夫婦に、モーリスがふっと笑みを洩らした。
 二人の抱擁に刺激されて期待通り伸びやかな生長を見せ始めた三鉢へ、隆之は何となく両手を拍ち合わせて拍手し、何か一言言いたげな視線を蓮に送った。
 視線を受けた蓮は、言いたいことは分かる、と言うように肯いた。
「イタリア育ちだから、兄は」
「にしては、『みどりご』とか、今時の若者が遣いそうもない日本語まで知ってるんだな」
「……そういう人なんだ」
 隆之に応える蓮の隣で、弓雫は、蓮の腕の中にある鉢の蕾を指先でつついては、その度に蕾が跳ねるように頭を揺らす様を愉しんでいた。


SCENE-[8] 花咲くころ。【1】


 モーリスの鉢はあるべき姿に還り、弓雫の鉢は白百合を咲かせ、蓮の鉢は蕾を付けて帰還し、隆之の鉢は太い茎と厚い葉とを茂らせ、愁とユリの鉢はアーチ状に繋がったまま緑に輝いていた。
「あと一歩、と言ったところですか」
 モーリスが呟いた。
「……じゃあ、話しかけ班、お役目遂行」
「話しかけ班?」
 弓雫の言葉に蓮が頸を傾げた。
「僕達のことだよ」
 愁が言い、ユリと隆之を指し示した。
 他の二人に先んじて、ユリが鉢に顔を寄せ、眼を細めて微笑んだ。
「いい子ね。早く大きくなってね。どんな花が咲くのか愉しみにしてるのよ。どんな色でも、どんな香りでもいいから、好きなように咲いてね」
「できれば、ユリみたいにきれいな花が嬉しいなあ。元気に咲いたら、毎朝美味しいお水をあげるからね。さすがに、一緒にフレンチトーストを朝食に、ってわけにはいかないよね?」
 ユリに続いて話しかけ始めた愁を見て、隆之は気鬱そうな吐息を落とした。が、弓雫に「きんちゃんも」と急かされて、渋々鉢に向けて口を開けかけた――――ものの、何を言っていいやら分からない。口内で幾度か文章になりかけた単語の断片を咀嚼し、やがて。

「……あー、……そうだな、お、大きくなったら何になりたいかなー?」

 男、武田隆之、子供は苦手ではないのだ。むしろ、やんちゃ坊主を手懐けたり、適当に遊んでやるのは好きな方ではないかと思う。しかし、こう改めて、子供を育てるために声をかけろと言われると、どうにも思考が硬直してしまう。結果、保父さんを真似てでもいるような物言いになった上、イントネーションのぎこちなさに隆之自身冷や汗をかいた。
 話しかけ班の行動を見守っていたモーリスは、隆之の様子に失笑し、すぐに「失礼」と軽く頭を下げた。
 ――――だが。
 その隆之の声に、敏感に呼応した存在がいた。
 室内、四つの鉢植えが突然、顔を俯けたのだ。
 慌てたのは隆之である。
 これはもしや枯死の前兆? 誤った言葉を与えてしまっただろうかと、蒼醒めた。
 蓮はそんな隆之に向かって、
「正しい言葉の選択だったな」
 妙に冷静に告げた。
 一方の隆之、どのあたりが正しかったのか、全く見当が付かない。
「何言ってるんだ、香坂。こりゃ、どう見ても植物が枯れ始めて……」
「アンタこそ何言ってるんだ? これはどう見ても、植物が考え込んでいるんだろう?」
「……何? 考え込んでる?」
「ああ。大きくなったら何になりたいか、と問われたから、何になろうかと考えているんじゃないかと思うんだが。……違うのか?」
 蓮が真顔で隆之を見た。
 隆之は合理的且つ現実的な筈の蓮がそんな解釈をしたことに意外そうな顔をしつつも、自分が鉢植えを枯らす羽目にならずに済みそうだと知り、胸を撫で下ろした。
「……面白い」
 弓雫が、心境変化の分かりづらい無表情を僅かに上気させ、ポケットから飴を取り出すと、全員に一つずつ配り歩いた。気分が昂揚してきた証かもしれない。
 モーリスは俯いたままの植物達を眺め遣り、
「何になろうか悩んでいるというのなら……、ヒントを与えてみたらどうなんでしょうね」
 と言った。
「ヒントって、なりたいものを……、たとえば職業を教えてあげる、とか?」
 愁は俯いた植物を撫でつつ訊ね、他者の返答を得る前に「じゃあ、僕がヴァイオリンを弾き聴かせてみます」と自ら解答を導き出した。
 愁のヴァイオリンの調べを聴いた鉢植えが、大きくなったら「ヴァイオリニスト」になりたくなるか、どうか。愁はケースからヴァイオリンを取り出し、演奏の準備をし乍ら、
「これでもし鉢植えがきちんと育たなかったら、夫失格とかそういうのは……ないよねえ、ユリ?」
 どこか心配そうに眼尻を下げ、妻に笑いかけた。
 ユリは「頑張ってね」と笑顔で手を振り、それに肯いた愁は鉢植えに向き直り、ヴァイオリンを構えた。
 ベートーヴェン、ヴァイオリン・ソナタ第5番、ヘ長調、作品24――――「スプリング」。
 愁の奏でる春の音には、押し付けがましさがどこにもない。密度濃く弾き込めるというよりは、あたたかく響き拡がる優しさを思わせる音色。柔らかな歌の翼に包まれて、春霞の中を逍遙しているかのようなイメージを喚起する。
 愁が弾き終え、肩からヴァイオリンを下ろすや否や、ユリと蓮は顔を見合わせて微笑んだ。
「素晴らしい」
 モーリスが賛辞と伴に手を拍ち、それを皮切りに室内は拍手の波に浸された。
 そのさざめきと春の余韻の中。
 絡み合ったまま俯いていた愁とユリの鉢植えが、ふわり、浮き上がったように見えた。
 それも束の間。
 今にも花開かんとしていた植物だった筈のそれが、二匹の蝶に変化した。
「……ギフチョウ……?」
「ああ、ギフチョウって……、春の女神って言われてるんだよね」
 ユリと愁のみつめる先で、一対のギフチョウはひとしきり舞い、弓雫が咲かせた百合の花弁の上で羽を休めた。
「スプリング・ソナタを聴いて、ヴァイオリニストよりも蝶になりたがるとは」
 モーリスが愉しげに言った。
 ユリは、まだボウを持ったままの愁の右手に触れ、笑みをこぼした。
「それだけ愁の演奏が、鉢植えを『春』に憧れさせた、ということよね」
「僕の春の女神は、ユリだけどね」
 愁が笑顔で応えた。


SCENE-[9] 花咲くころ。【2】


 白百合に、ギフチョウ。
 これは、撮っておかねばなるまい。

 隆之は、急いでカメラのファインダーを覗き込んだ。三下からの依頼の件もある、これが鉢植えの開花した姿です、という証拠を差し出さなくてはならない。尤も、「花の苗が百合と蝶になりました」と言ったところで、一般人が信じるわけはないと思うが、そこはそれ、掲載雑誌が怪奇記事で鳴らしている月刊アトラスである。花に蝶など、アトラスの扱う題材としては美しすぎるが、事の不可思議さから言えば似合いだろう。
 角度を変えつつ、二回、三回、四回――――シャッターを切ってゆく。
 ちょうど七回目のシャッター音を聞いたときだったろうか。
「……あ」
 弓雫の声が、隆之の耳に届いた。
「ん?」
 被写体に集中していた意識を引き戻し、カメラから顔を離した隆之が見たものは。
 先刻までやたらと頑丈そうに育っていた自分の鉢が、きゅきゅきゅきゅきゅっと身を引き絞り、スレンダーボディに変化する瞬間だった。
「な……何ィ?」
 驚きに両眼を見開く隆之の前で、変化はまだ続く。
 新緑一辺倒だった植物が彩り鮮やかに艶を添え、隆之のカメラに向かってポーズを取るようになまめかしく蠢いた後、掻き消えた。
「何だァ?」
 隆之は頸を捻り捻り、何気なく再びカメラを覗き込んでみて、吹き出した。
「何じゃこりゃあ!」
 そのあまりの動揺加減に訝しげな眼付きをした弓雫が、貸して、と言ってカメラのファインダーを覗いてみた。
「……万華鏡みたい」
「万華鏡?」
 弓雫からカメラを受け取ったモーリスは、同じように覗き込んでみて、「これは」と微かに笑った。
 視界が、七色の美しい模様に彩られて見える。
 レンズ向こうの風景は見えるのだ。見えるのだが、それらが鮮やかな色彩を強制的に被せられて眼に映る。ファインダー越しの白百合は、極彩色のそれに姿を変えていた。
「カメラマンではなく、モデルでもなく、カメラそのものでもなく……、カメラの視界を占領する色彩になりたいとは、随分独占欲の強い鉢植えだったようですね」
 モーリスの言を聞き乍ら、隆之は、
「……レンズを交換したら元に戻る……といいんだが、無理だよなァ、多分……」
 ぶつぶつとひとり言ち、頭を抱えた。


SCENE-[10] 花咲くころ。【3】


 残ったのは、一鉢。
 蓮は手にした鉢植えをじっとみつめ、
「……おまえは、何になりたいんだ?」
 もう他に与える物も、呈示できる職業も思い付かず――――けれど、愁とユリの鉢が蝶に変化したのを見たときから、とある希望が蓮の中に芽生えていた。
 人の如くに温もりと愛情とで生長し、己の望む先を得てそのものに変化することで「開花」と成す不思議な植物。折角ここまで育てたのだから、最後まで見届けたい。鉢植えの方にこれといって大成したいことがないのだったら、こちらの望みをそのまま受け容れてはもらえないだろうか。
「その、一応言ってみるが、……人間の眼、とかに変化することは可能か?」
 蓮のその言葉を聞いた愁は、思わず「ちーちゃんか」と呟いた。
「ちーちゃんが……どうかした?」
 弓雫が、愁と蓮を交互に見遣った。
 愁が「ちーちゃん」と呼ぶのは、雲切千駿のことである。雲切病院の院長の息子で、現在ある事情から院内特別室に幽閉されている医師なのだが、彼の右眼は生まれ乍らに視力を持たない。
「もし可能なら、眼に、……いや、正確には『視覚』になってほしいんだが」
 蓮は何らかの反応を期待して話しかけてみたが、手の上の鉢はしんと黙りこくったまま、葉先を揺することさえなかった。
「……さすがに無理か」
 口許に深く苦笑を刻み、蓮は静かに睫を伏せた。
 その、一瞬の後。
 蓮は、手に載っていたものの重みを喪った。
 そして、入れ替わるように出現したのは、十歳程度の年齢に見受けられる一人の少女だった。ツインテールの黒髪に、鳶色の眸。愛らしい女の子が、ふわふわと宙に浮いている。

 一同、予想の範疇を大きく超えた事態に、数秒息を詰めた。

 蓮は呆然と少女を見上げ、声を掠らせた。
「ちょっと待て、俺は視覚になってくれとは言ったが、人間になれとは一言も……!」
「いや、香坂、人間かどうかもアヤシイと思うぞ、これは」
 隆之が的を射た発言をした。
 モーリスは宙の少女を招くように手を伸ばし、
「……どうやら少々、与える『思い』が強すぎたようですね」
 そう言って、蓮を見た。
「思いが強すぎた……?」
「ええ。向坂さんの贈られた鉢植えは、心を土壌に人の赤児を準えて生長する、いわば人と植物との中間的な存在だったと考えられますから。必要以上にどちらにも寄らず、だからこそ自在に変化を遂げる存在。適度に育ててやれば、蝶にも色彩にも成り得る。境界上に在るモノというのは便利ですね、何事に於いても奔放で。……けれど、思う心を過剰に手に入れた場合は、おそらく、より人間に近い存在になってしまう。……このようにね」
 モーリスは、そろそろと近付いてきた少女の手を軽く握り、微笑みかけた。
 まだ落ち着きを取り戻せないでいる蓮の横で、持っていた飴の包装紙を剥いた弓雫は、少女に向かってそれを差し出した。
「……飴、食べる?」


SCENE-[11] 今日の日を祝し。


「よっし、んじゃァ、鉢植えの件も一応解決したことだし、記念撮影といくぞ!」
 隆之が号令をかけた。
「ほら、薬剤師の、新婚の先生も入って入って! それから、ちゃんと鉢植え……、鉢植えだったモノも一緒にな!」
 言われるままに、ユリは胸に白百合を抱き、愁は弓雫からの贈り物だというジェリービーンズの箱を持ち、モーリスと弓雫はその隣に整列した。蓮は戸惑いに揺れる眸を少女へ向け、来い、と言うように、軽く顎を引いた。弓雫にもらった飴玉を口に含んだ少女は、蓮に呼ばれて嬉しそうに宙から降りてきた。
 隆之は、さて、とばかりファインダーを覗き、またすぐ顔を離した。
 ――――このカメラで、普通に写真なんぞ撮れるのか?
 大いなる疑問を抱き乍ら、それでも一枚、試しに撮るのも悪くないと思い直し、隆之は鮮やかな視界の裡に皆の笑顔をおさめた。
 二匹の蝶が、ひらひらと、笑顔の周囲を舞っていた。


[愛の酔中花― Will you marry me ? ―/了]


□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
+ PC名 [整理番号|性別|年齢|職業]

+ 向坂・愁
 [2193|男|24歳|ヴァイオリニスト]
+ 鳴沢・弓雫
  [2019|男|20歳|占師見習い]
+ 香坂・蓮
 [1532|男|24歳|ヴァイオリニスト]
+ モーリス・ラジアル
  [2318|男|527歳|ガードナー・医師・調和者]
+ 武田・隆之
 [1466|男|35歳|カメラマン]

※ 上記、受注順に掲載いたしました。

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

こんにちは、ライターの杳野と申します。
今回は、異界依頼「愛の酔中花」にご協力くださいまして、ありがとうございました!
オープニングの内容からご理解いただけたことと思いますが、当異界NPC、向坂ユリ(旧姓、黒薙)がこの春結婚いたしまして、それを題材に取り上げた一品となりました。
新婚ゆえのラブラブさ加減は笑ってお許しいただけると幸いです(笑)。
結婚式が五月十二日、その後暫く休暇を取っていたユリが、職場復帰した後のストーリーです。時期的には、五月下旬。納品日とズレが生じまして、申し訳ありません……。

SCENE-[10]で登場(開花)したツインテールの少女は、今後も異界に関わる予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。

最後に、向坂ユリより、皆様にご挨拶があるようです。
それでは、またお逢いできることを祈って。
・ユリ
「今日は花を咲かせるために協力してくれてありがとう、蓮。……実際に咲いたのは、花ばかりではなかったけど。特に、蓮が生長させた鉢植えには、驚かされたわ。あの宙に浮いていた女の子……名前、何ていうのかしら」