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虚
――プロローグ
『泪のひかりの膜
わたしは小さな頃からお魚のキラキラ光る瞳が好きでした。人の瞳はいつも泪の膜で覆われていると聞きます。そう考えるとお魚の瞳は、大いなる母の泪によって潤っているのでしょうか。そう考えると、わたしは本当にどきどきしてしまいます。お魚は母なる泪から無理矢理に引き釣り上げられて、焼かれてしまいます。
そのお魚の醜きこと。
わたしはお魚とお母様の顔を見比べて心の中で思います。
ああ、なんとお母様とお魚の瞳は似ているのだろう。白く濁った汚らしい瞳をなさっているのだろう。
お母様はひどく厳しいお方でありましたが、わたし達に隠れて知らぬ殿方と密通をなさっていました。
わたしには一人の妹がいました。お母様に似ず、理知的な瞳をしたきれいな妹でした。私は妹の清らかな瞳をよく舐めたものです。美しい瞳を覆う泪は、ほんの少し塩っ辛いような、それでもどこか甘いようなわたしにとってはどんなおやつよりも魅力的に思えました。
妹の瞳に出会わなければ、母なる泪に囲われた無知なるお魚の瞳をわたしは尚も美しいと思ったことでしょう。お魚には、人の瞳のせつなげなきらめきがないことに、気付かなかったことでしょう。
わたしはキラキラした美しいものをたくさん集めました。お魚の瞳をくり貫いたこともありますし、蛙の瞳をくり貫いたこともありますし、燕の瞳をくり貫いたこともありますし、猫の瞳をくり貫いたこともあります。その汚らわしいことったらないのです。奴等の瞳に比べて、ビー球の美しいことったらない。
あんな瞳を持った奴等が可哀想になったので、私は奴等の瞳をビー球と取り替えてあげました。きっと世界が一変して見えたことでしょう』
三下は、ずり落ちた眼鏡を片手で直した。
碇編集長は、目の前で先輩の記事のチェックをしている。
三下はチラリと、この作家とぼくは合わないと胸の中で呟いた。
まだ半分ほどしか読んでいないけれど、一見まったくオカルトめいていないこの宍戸という作家は、どこか底の知れない気色悪さを持っているような気がする。
しかし、そうでなくともサンシタ状態だというのに、作家の原稿を取りに行くことぐらいは断らずにこなさなくてはならない。
三下の直感が言っている。行くな、ひどい目に遭うぞ。
この直感が外れたためしはない。だが三下に、碇編集長の命令に逆らうという選択肢はない。
誰にも聞こえないように、小さく溜め息をついた。
それなのに碇編集長にが聞きつけて、キッと顔を上げた。
「さっさと行って来なさい」
うう……三下は「はぁい」と大きく返事をして、胸の中でうめいた。
いつのまにか三下の隣に立って言行を覗き込んでいた女の子がいた。
三下は一々ビビリ、同じぐらいの背の高さの大人っぽい女の子をおっかなびっくり眺めた。
女の子は、にこりと笑う。笑った印象は少し幼く、愛らしかった。三下はずりおちた眼鏡を直しながら、女の子に尋ねた。
「あの……?」
「素敵な文章を書かれる方ですわね」
しみじみと言われて、三下はまたびっくりする。
「どちら……さまですか?」
「わたくしは海原・みそのと申します。妹みおあがその節では大変お世話になりました」
「……ああ、みあおちゃんのお姉さんですか。こんにちは、三下と申します」
三下はおどおどと背広のポケットというポケットを探り、みそのへくしゃくしゃになった名刺を取り出して渡した。
「よろしくおねがいします」
三下の語尾は少し不明瞭だ。
みそのはふわりと目を伏せたまま微笑み、名刺を丁寧に受け取ってから大きな包みを持って碇編集長のデスクへ近寄った。碇編集長は、「ん?」とパソコン画面から目を上げた。
「あら、あなた。来てたの」
「今日も、お話をおうかがいにまいりました。つまらないものですが……」
みそのは片手に持っていた、大きな包みを碇編集長へ差し出した。
碇編集長は前髪の乱れを片手で直しながら、「ありがとう、なに? お魚」と訊いた。
「初鰹でございます。まよねーずでいただくと、とてもおいしいのです」
碇編集長は、「あら、嬉しいわ」と大きな包みを受け取って
「ありがとう。……いい話の種になるかわからないけど、さんしたくんの行く作家の家、誰も行ったことがないのよ。もしよかったら、行ってみたら?」
碇編集長は大きな包みを前に、小声で「おろせるかしら」と切実な問題をつぶやいた。
「ええ、ご一緒させていただきたいと思います」
みそのは、黒いドレスを少し揺らして三下の方向へ向き直った。三下は、みそのと碇編集長とのやり取りを呆気にとられて眺めている。
「よろしいでしょうか、三下様」
「……ええ、もちろんです」
嬉しそうに首をかしげてみせたみそのの漆黒の長い髪が、ふんわりと舞った。
――エピソード
みそのさんは、どういうご職業の方なんですか?
三下は、タクシーの後部座席でみそのと二人並びながら言った。
みそのは黒髪を指の先で弄びながら、「浮世風に言うのならば」と注訳をつけてから、
「巫女ということになりますでしょうか」
「ああ、巫女さん」
三下は心底納得したような顔をして、それからみそのの着ている装飾品の多い黒いドレスを見て、うーんと頭をひねった。
長い髪と伏せられた大きな目、理知的な表情と白い肌は巫女そのものだったが、ゴスロリのファッションは少し違う気がする。似合っていないわけではない。みそのが着ると、またそのファッションも自然に見える。
みそのは、さっきの宍戸の小説の続きをタクシーの中で読んでいる。覗き込むと、ちょうど真ん中を過ぎたページだった。
『わたしの妹は、突然の死に見舞われました。悲しいことでした。
わたしは全てのものが、もう美しくは感じなくなりました。妹の死んだあの日、わたしはそっと自分の部屋を抜け出して、妹の棺を開けたのです。その瞳の濁った色を、わたしは忘れることはないでしょう。お母様のように濁った瞳になり下がった妹の姿を、わたしは正視することができませんでした。
わたしの愛しい人、わたしの愛した清らかな瞳は、一体どこへあるのでしょう。
わたしは館を飛び出しました。
濁った館。きっと、あのような館に住まうことが、妹の瞳をも貶めたに違いありません。卑しい館、濁りの館。
わたしはひとり、わたしの瞳が曇らぬようそしてキラキラと輝く理知的な瞳を捜すことにしました。世間にはもう、美しい瞳はなかった。わたしは絶望しました。わたしの愛した泪に守られた透明でなにもかもを見つめているような瞳が、大きな街にはないのです。
絶望の淵でふらふらと彷徨っていたわたしを、少女が呼び止めました。なんと言ったかは聞こえませんでした。
そして私は、出会ったのです。
清らかな瞳に。
美しき瞳に。
なにものにも曇ることのない、無垢な色をした透明でどこまでも見通せる、わたしの妹の瞳に出会ったのです
わたしはうっとりしました。彼女の手をとって、彼女の瞳の曇らぬ清浄な空気の元へゆこうと思いました。
わたしは少女の手を握り、列車に乗りました。列車にはちらほらと人が乗っておりました。私の横を、ビニール袋を持った人が通り過ぎようとしています。わたしはそのビニール袋にびっくりして、歩く男性に声をかけてしまいました。
「それはどうなさったんですか」
「作ったのだよ」
透明な袋いっぱいに、透明で泪に守られたきらきら光る瞳がたくさん入っていたのです』
三下は仰天の声をあげた。
「作ったあ? 目を?」
みそのは三下へゆっくり一度うなずき続きを読み始めた。
『わたしは、永遠に濁ることのない瞳を求めることにいたしました。わたしの手には、その瞳の少女の手が握られてあります。美しい瞳は濁らないのです。妹は、やはりあの館のせいで濁ってしまったのです。』
一応……前編はここで終わっているようだった。
みそのは「ふう」と一息だけ吐き出して、感慨深そうに言った。
「悲しいお話ですわね」
「……そ、そうですねえ」
三下は少し顔半分が青くなっている。
「お車に酔われましたか」
みそのが気配を感じて三下を気遣うと、三下は慌てて首をぶんぶん横に振った。
「いえいえいえ、大丈夫です。それより、みそのさん、映画って観られます?」
「いいえ、そういったものは知ってはおりますが……」
「そうですか。目がいっぱい出てくる映画が、最近クランクインとかしたって、最近取材したもんだから」
「それは、ご奇遇ですね」
そうしている間に、タクシーは太陽が当たって少し眩しいぐらい白い壁の家の前で止まった。
三下はタクシー運転手に「待っててください」と言って、行き分の運賃と請求書を受け取った。
宍戸の家のドアはまた白く、そしてガラスに覆われていた。ガラスの中に白いドアが入っている。そういう構造になっているようだ。
インターフォンを押すと、中から少し偏屈そうな顔をした青年が出てきた。青年と言っても、三下より少し年上だろうか。やや伏目がちで、無表情だった。細面の顔をしている。
「アトラス編集部です、原稿を受け取りに来ました」
宍戸は、淡々と答えた。
「わかりました。玄関でお待ちください、今持ってきます」
そこへみそのが細い声をかけた。
「宍戸様、原稿拝見させていただきました。海原・みそのと申します」
広い玄関を廊下の方へ戻りかけていた宍戸が、みそのを振り返る。少し驚いたような表情で、宍戸は立っていた。
宍戸の格好は、白いシャツに黒のスラックス姿だった。美青年と言えないこともない。ただ少し、陰のありそうな男だった。
みそのはやわらかく続けた。
「わたくしも、生き物の瞳の美しさにはとても魅力を感じます。宍戸様の書かれる文章は、とても瞳への愛情に満ちていて、悲しいほどのお気持ちをお察しいたします」
それを聞いた宍戸は、伏目の目をみそのへ向け、凝視するようにしながら三下の後ろへ控えているみそのへずんずんと近寄った。
「本当ですか、それは嬉しい。中で、少しお話を伺えませんか」
「まあ、嬉しい。願ってもないことでございます」
宍戸はほぼ三下は無視状態で、みそのを家の中へと案内した。三下も、ただ玄関に突っ立っているわけにはいかないので、進んでいく二人の後を追った。
大きな書斎へみそのは通され、三下はその後をついて中へ入った。
宍戸は立ちっぱなしの三下の横をすり抜けて書斎から出て行った。
みそのが、目を閉じたまましずしずと言う。
「不思議な雰囲気の殿方ですね」
「……すこしぃ、不気味なような、気もします」
「そうですか? もしかすると少し、浮世では生き辛いお人ではと思いますが」
みそのの対応に、三下はぐうの音も出ずにいた。
宍戸が三杯分のコーヒーを盆に載せて現れる。
書斎には本棚が一つしかなかった。宍戸は読書家ではないらしい。宍戸の机の右隣の壁には本棚が、左隣の壁には大きなラックがあった。ラックには、それこそビー球をはじめとしたキラキラした物が並んでいる。
三下はそれらを眺め見た。触れると怒られそうなので、不用意には手を出さないようにする。
「瞳はやはり、無垢な色が一番美しいと思うのです」
宍戸がみそのの座っている黒皮のソファーに座りながら言った。みそのはにこりと微笑み、
「そうですわね、あの煌きは歳を取ればなくなってしまうもの……」
「なんて刹那的なのかと、私は思うのですよ」
宍戸が悲しそうに言う。みそのは敏感に感じ取って
「それでも、本当に知っている人の瞳もとても慈愛に満ちていて美しいものですのよ」
コーヒーのカップを手にした宍戸が、行動を止める。そして、目を伏せたままのみそのをじいと見つめた。噛み砕くようにして、宍戸は言った。
「本当に? それはどういう方の瞳ですか」
みそのは困ったように口をすぼめて、それでも言葉を濁すことなく言った。
「思慮深く、温かい、例えば神のようなお人のことですわ」
沈黙が、ふらりと立ち寄った。
三下は玉ばかりの並んだラックを見て回り、書斎の机の横まで行った。それから、ふいにゴミ箱を見た。
宍戸は細い顎に手を当てて、みそのの瞳の辺りを見ている。
「あの……目を開けていただいてもよろしいですか」
一寸微笑んで、みそのはゆっくりと目を開けた。漆黒よりももっと深い、深海の瞳の色がそこにはあった。
宍戸は声を失って、そして腰を上げた。
「あなた、名前はなんと仰るのですか」
「海原・みそのと申します」
「あなた、私はあなたの瞳のような目をはじめて見た……」
宍戸がばっと書斎を振り返る。
書斎の横では三下が立ち竦んでいる。宍戸は三下になど目もくれず、書斎に飛びつき引き出しを開けた。
三下が叫んだ。
「みそのさん」
みそのが「はい」と答える前に、三下は続けた。
「逃げてください、逃げて……」
みそのが腰を上げ、そして瞬間でこの状態を察知した。みそのはソファーから離れ、
「三下様も、こちらへ」
「は、はい……」
答えた瞬間に、三下は宍戸の腕に捕まっていた。
宍戸の形相は変わっている。目を剥いているせいで、頬がこけていた。宍戸は、やさしい声色でみそのへ言った。
「あなたの目が欲しい」
「わたくしの目は差し上げられません宍戸様。生きている物の美しさは、生があってこそのきらめきでございます」
宍戸は片手にキリを持っている。そのキリは、三下の首へ当てられていた。
「ひぃぃ、みそのさん、逃げてくださいぃぃ」
みそのは三下の声を聞き、戸惑うような顔になった。
その瞬間に、宍戸は三下を離しみそのへと襲いかかった。みそのは咄嗟に身を屈め、「あ」と宍戸が声を発したときには、宍戸は空気の群れに押し返され、ガタンと大きな音を立てて書斎の机の上まで飛ばされていた。
三下が、みそのの隣へ行こうと足を動かす。そして三下は、足元にあったゴミ箱を倒した。
ゴミ箱からは、白く濁った目玉がゴロリと山のように転がった。
みそのは小さな声で囁くように言った。
「瞳の美しさは、生命あってこそのものなのです。それに気付かないのは、愚かというものです」
宍戸は立ち上がることもできぬ様子で、空気に捕まったままギョロリとした両眼を見開いてみそのを凝視していた。
三下は転がり出た眼球に怯えるようにしてみそのの隣まで飛んで行き、それから携帯電話を取り出した。
みそのが、気が付いたように三下に声をかける。
「大丈夫でしたでしょうか」
「え、ええ、助けていただいて、ありがとう、ございます」
「どこへお電話を?」
三下は長い髪のみそのをじいと見つめて、ポツリと答えた。
「警察です」
みそのはその髪をふわりと舞わせ、白い肌に映えるピンク色の口許をにこりと笑わせて言った。
「碇編集長様のところへおかけになった方が、よいと思いますよ」
三下は目を瞬かせ
「そうですね」
と納得して、番号を押した。
――エピローグ
三下は碇編集長の前にいる。となりに、みそのも立っていた。
碇編集長は、幾分か上機嫌だった。宍戸の自宅の地下室からは、目をくり貫かれ放置された多くの少女の死体が見つかったからである。それをすっぱ抜いたのだから、こればかりは三下のお手柄ということになる。
「みそのちゃん、ありがとね。助かったわ」
「いいえ、わたくしは何もいたしませんでした」
三下は下を向いて黙っている。あの後じっくりと目玉を眺めてしまい、ひとしきりトイレとお友達をした後であった。
「でも、危ないところにみそのちゃんを送り込んじゃって、ごめんなさい」
「いいえ、あの方をお救いできなかったのが気がかりです、それにお話の続きも読めないのが残念ですわ」
三下はスクープを見つけはしたものの、トイレとお友達になっていたので、結局記事を書いたのは他の先輩記者だった。心配したみそのに、背までさすらせてしまったのだ。情けないを通り越して、馬鹿みたいだった。
碇編集長は、下を向いて立っている三下を横目に溜め息をついた。
「しかも……コレのお世話までかけて」
「いいえ。危険を顧みず、お知らせくださったのは三下さまでございます」
みそののドレスはふわふわしていた。黒いドレスに、白い肌がつややかだ。
「さんしたくん」
碇編集長が三下の名を呼ぶ。三下は嫌な予感を過ぎらせながら、どうしようもない心境で顔を上げた。
「はい」
「これ、おろしてきて」
言われて受け取ったのは、例のみそのの持参した鰹であった。
「そ、そんなあ、鰹のさばき方なんてわかりませぇんよお」
愕然とした三下の隣で、みそのが微笑んで言った。
「大丈夫、難しくありません」
三下には、その天使のような巫女の笑んだ顔が、一瞬だけ憎らしく映っていた。
――end
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1388/海原・みその /女性/13/深淵の巫女】
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■ ライター通信 ■
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はじめまして、海原・みそのさま。
「虚」へのご参加ありがとうございました。
原稿取り自体はできませんでしたが、スクープ!三下くんの大手柄です。
ご協力いただきまして、ありがとうございました。
なるべくご意見を取り入れたつもりです。もしお気に召しましたら幸いです。
またのご依頼、お待ちしております。
では、ひらあやばんりがお送りしました。
次回から 文ふやか(あやふやか)というPNに改訂する予定です。
よろしくおねがいします。
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