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STAY CLOSE
「不覚だった。感じなくても良いストレスを感じた気がする。余計に疲れた」
――とは、黒髪の麗人・言吹一子(ことぶき・いちこ)の独白である。
右手にてぬぐい、左手に入浴用品。いまいましげに薄い口端をゆがめて侘びた旅館の廊下を歩く。
その横顔はどう見ても、少し勝ち気で初心な少女にしか捉えられぬ端正さを誇ってはいたが。
「少し考えたら判ることなんじゃないの? むしろ僕はこういう成り行きを望んで温泉行きたいとか云いだしたんだと思ってたよ」
さほど身長が高くない一子のこめかみあたりで、そんな言葉は返されただろうか。傍らを行く蓮巳零樹(はすみ・れいじゅ)が何を今更と、さして面白くもなさそうに耳の辺りの髪を梳いた。「夜中、誰もいないころになってからまた行ってみようか」
「それこそ、妙な噂を立てられるんじゃないの」
「どうせ一泊しかしないんだし。旅の恥は掻き捨てってね」
「ちょっと待て。恥ってどういうこと」
「別に深い意味はないけど」
磨き上げられた廊下の上でさらさらと足音を立てる、速足の零樹を一子が追う。
時刻は夕の刻、春先の短い日が沈む頃である。
さらに限定的な説明を加えるならば、今日は三月十四日という言葉で言い表すことができる。
三月十四日。
日本の菓子屋の第二の陰謀が渦巻く日でもある、ホワイトデーと呼ばれる一日だ。
今よりちょうど一ヶ月前、事の成り行きで一子が零樹にバレンタインデーのメモリアルチョコレートを手渡したことから今日という日はやってきた。
ホワイトデーとは、バレンタインデーにチョコレートを受け取った者が、チョコレートを差しだした者に細やかな礼を返す日である。本来の由来や意味とは全く掛け離れた行事となったことが、菓子屋の陰謀なのである。
「いくら互いが望まない贈り物だったからと云って、礼を尽くす心を忘れてはいけないね零樹」
第二の陰謀全日、一子は零樹にそう告げた。「ぼくを温泉旅行に招待しなさい」
面食らったのは零樹だ。一子に負けず劣らずと云った美貌を持つ零樹も、心はれっきとした男である。
同じくれっきとした男である一子に――しかも相手は黒猫の化身、化け猫のオスことを特筆するべきだろう――名も実もうすっぺらいチョコレートの板きれをもらったくらいで、どうして温泉旅行などの礼をしなくてはいけないというのだ。
「勿論、零樹にそんなお金がないことは判っています」
「随分と横柄で嫌みったらしくて断定的な言い方なのが気になるけど、少なくとも一子兄さんを慰安旅行に連れていくだけのお金も予定もないね」
「それだから、日帰りで許してあげますよ」
「……」
ああ言えばこう言うとは、このことである。
疲弊にうなだれる零樹を尻目に、実はほらなどと云いながら一子が小さな旅行鞄を取りだして披露した。
かくしてその数時間後――停車した駅のホームで購入した駅弁を楽しげにつつく一子と、その向い席で憮然と頬杖を突く零樹が電車に揺られることとなったのであった。
「最近の観光地は、どこに行っても猫が多いもんだ」
「解放感に満ちあふれた観光客が、後先考えずにほいほい餌をやるからだろう」
「そんな調子で猿も増えるんだね」
「鹿だって増えるさ」
一通りの観光名所を巡って旅館に戻ると、そんな軽口を耳にしながら擦れ違う仲居たちが含みのある笑いを投げ掛けてくる。熱海ではそんなに若い観光客が珍しいのかとロビーで辺りを見回したが、二人が意識するほどに少ないと感じるわけでもない。
服装がいささか華美すぎたろうか、平日の昼間からチェックインする暇な二人と笑われているのだろうかと思案しながら旅館付きの温泉に足を踏み入れようとしたところで、
「申し訳有りませんお客さま、当旅館は混浴の準備はいたしておりませんで……」
一子が男湯に入ることを、とめられた。
温泉の目の前で門前払いを喰らった一子の開口一番が、冒頭の一言なのである。
「厭らしい子だね。思いだし笑いなんてしてるんじゃないよ」
「だって……あのときの一子兄さんの、……顔が……」
人の顔を思い出して笑うとは、失礼な話である。
が、事態を呑み込めず、一子がよほど呆けた表情をしていたのだろう。
説明の端から込み上げる笑いを押し込められず、零樹が噴きだした。
「さて、食事食事!」
零樹の脇腹にドスリと拳をめりこませ、一子が足早に廊下を行く。
時折二人を見て含みのある笑みを浮かべる他は、仲居の居住まいも悪くなかったし、何より出された料理が良かった。
昨今の東京でもなかなか窘めぬ刺し身である。もう少し内陸に宿を取れば山の料理も楽しめたと云うが、今回のゲストがゲストである。海のものの方が良いだろうという零樹の計らいでもあった。
「ようやくキミは、ぼくの好みが判ってきたみたいで何よりだ」
「それはどうも」
廊下を行く他の客の気配が消えるのを見計らって、温泉に行った。
仲居の目が届かぬ時間を狙ったということは、一子が男湯に入ることを窘められぬと同時に、あまりにも突拍子のないことでなければ禁忌を侵してもそれも窘められぬということでもある。
迷わず一子が、夕餉の酒を一瓶持ち込んだ。
桜の声はまだ聴かぬとは云え、春の夜には若葉の香りが漂う。
温泉の湯気がその香りを殊更に濃厚にし、二人はそれを肴にちびりちびりと酒をあおった。
「――悪くないね、こういうのも稀には」
「人に旅行せびっておいて、悪いとか云えないよね普通」
「云ってるだろう、これは当然の報酬だ」
「報酬を見越して贈るプレゼントは喜ばれないんだよ、一子兄さん」
見上げる露天の夜空は高く、取って置きの宝石でも鏤めたように小さな星星が点々と黒を埋め尽くしている。遠くの草むらで、幼い虫の鳴く声を聴いた。それは春を過ごし夏を越え、秋には栄えを願って死んでいく微々ながらも尊い命の息吹であった。
「……何かの本でね、時間の長さをお金に例えて考えてみると良いと読んだ。一年を一円に換算するんだ。地球ができて四十六億円、最初の命が誕生してから四十億円、恐竜が絶滅してから七千万円、人が猿とは別の進化を始めてから五百万円――文明が生まれてから六千円、キリストが生まれてから二千四円……ぼくが生まれて百円と少し、そしてキミが生まれて二十円たらずだ。今こうして鳴いている虫なんかは一円の価値も無いようだけど、四十六億円の前には百円も一円もさほど変わらない」
そう云うと一子が、ぐいと酒の器を飲み干した。何を思うか零樹が、そんな一子の横顔を見つめている。
と、そんな視線の目の前で、
「――え」
一子の上体がとぷりとぷりと湯槽の中に消えていった。
「ちょっと」
頬を真っ赤に火照らせた一子の首根っこを掴み上げ、零樹が慌てて湯槽から引きずり上げる。当然の結果とは云えただろう、温泉の熱い湯に漬りながらぐいぐいと酒をあおっていたのでは酒豪と呼ばれる者ですら悪酔いする。
「……旅の恥は掻き捨て」
たまには良いことを云うなどと、少しでも見直した自分がばかだったと。
うんざりしながら零樹は、一子を引きずって部屋へと戻っていった。
鍵を開けて室内に足を踏み入れれば、食事の後片づけが乱れなく成されていた。
テーブルの上には新しい湯の入った魔法瓶が置かれ、不必要に部屋を冷やさぬようにとの計らいからか障子がぴったりと締められている。
ならば隣の寝室には蒲団も用意されているだろうか。
そんな期待を胸に、一子をつるのとは別の手で襖を開けたそのとき、
「……………」
日の香りを吸ってふかふかに干された蒲団は寝室の中央、ただ一組だけ敷かれていた。
そこに至りようやく、零樹は悟ったのだった――
昼間擦れ違った仲居たちの、何を案じるのか意味深な笑みを浮かべて会釈するその姿の理由を。
「………ありえない」
丁寧に二つ並べられた枕を凝視し、零樹はボツリとつぶやいた。
それと同時にふつふつと沸き上がってきた、怒りにも似た脱力を振り払うために、未だぐったりと伸び切っている茹で化け猫をほいと蒲団に放り投げる。
柔軟な身体がその蒲団の上に着地することも待たずに、零樹は寝室をあとにした。
蘇るのは、丁度一ヶ月前。
成り行きで受け取ったメモリアルチョコレート、聖なる吉日・バレンタインデー。
「本当に、ありえないから」
零樹は力無くその場に崩れ落ち、ごろりと畳の上に転がった。
(了)
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