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<東京怪談ノベル(シングル)>


夢の実

「この実を枕元に置いて寝ると、望む夢が見れるそうなのです」
 どこかの夢見がちな少女のようなことを言って、聡明なはずの秘書が、セレスティに、見たこともない木の実を渡す。
 常ならば、一体何があったのですかと、セレスティは目を丸くして尋ね返していたことだろう。
 企業戦士に、「夢の実」などという文言はいかにも似つかわしくなかったし、また、似合ってもいけないのだ。金にがめつく浅ましくなれと言う気はないが、醜くもさもしい現実世界で戦い抜いていくためには、多少の夢など蹴飛ばすくらいの気概が、当然、あった方が良い。
 少ない睡眠時間を遣り繰りして、限りある財から、無限を形作るもの。
 企業、と呼ばれるもの。
 富と繁栄は、手に入れるのは難しく、また、手に入れた後は、大概の者は、維持に苦しむ。悩んで、崖っぷちから転がり落ちぬよう、常に周りに気を配りつつも、足を踏み外せば、転落は一瞬だ。

 七百年間、セレスティは、そこに、居続けた。

 長い長い道のり。事情も知らず、羨ましがる者も少なくはない。傍若無人に振る舞えれば、もっと気が楽だった。だが、セレスティは、常に、自らの下にいる者たちの、まずは生活を考える。
 誰が求められているか?
 何を切り捨てるべきか?
 一人、一人、異なる生を歩む。彼らが安心して暮らしていくための糧を、セレスティは、与え続けてやらなければならない。取り替えはきかないのだ。命も、時間も、無駄にしてしまったら、どれほど藻掻いても、決してやり直しは出来ない。

「明日は……」

 眠りに着く前の一時に、セレスティは、明日行うべき事柄の、確認をする。
 毎度秘書にも言われているし、今更必要もないのだが、それでも、間違いの無いようにと、自らの手で、確かめずにはいられない。
 彼は、彼自身が考えているよりも、不器用な人間なのかも知れない。
 余裕がないわけではないが、生真面目に受け止める。
 細かなことまでも、大切にし過ぎるのだ。
 人が、その両手に抱えられる量は、決して、多くはないのに……。

「……性分、ですからね」

 夢の実を、枕元のサイドテーブルの上に、置いた。
 本当に、夢を見られるのだろうか?
 夢を見るとしたら、一体、何が良いだろう?
 
「何も考えず、眠りたいなんて……」

 好きなだけ微睡んで。
 一日を、ただ、怠惰に過ごしてみたい。
 時間すら持て余し、暇で暇で仕方ないと、使用人の誰かに、迷惑を掛けてしまうほど。

「夢、ですか」

 苦笑する。普通の人にとっては、きっと、これは、夢ではないのだろう。





 その夜は、夢すら見ない、深い深い眠りだった。
 泥のように、ベッドに沈み込んだ。中途半端に開いたカーテンの影から、朝の光が無遠慮に差し込んできても、誰も、起こしに来る気配もない。律儀にセットしておいた目覚ましも、何故か、鳴らなかった。自然の覚醒に任せた目覚めは、一体、何ヶ月……いや、何年ぶりだろう?
 セレスティはひどい低血圧で、極めて寝起きは良くない。目を開けても、思考は止まったままのことが多く、起きなければと考えているうちに、気が付けば、二度寝の悪魔に連れ去れていることも、しばしばだ。
 後に詰まったスケジュールのことを考えて、渋々と、起き出す。
 この日も、そうなるはずだったのだ。
 朝から会議やら何やらが入っていて、またドタバタと忙しい一日が……。
「ん……?」
 サイドテーブルの夢の実を、ちょうど、文鎮の代わりにして、一枚のメモ帳が、置かれてあった。
 まだ脳細胞が停止したままのセレスティの事を考えてだろうか。異様に大きな文字が、紙面に堂々と踊っている。
 見慣れた秘書の字だった。
 
「今日の会議二本は、キャンセルになりました。存分に、お休み下さい」

 そのキャンセル理由も、しっかりと、書かれてあった。
 一つは、相手銀行の頭取が、心臓発作で倒れたため。
 もう一つは、昨夜ロスを飛び立った飛行機が、天候不順で舞い戻ったため、未だ日本に着いていないとのこと。
 どちらも、セレスティのミスでもなければ、リンスターの不祥事のせいでもない。
 ただの偶然。
 偶然がもたらした、ただの幸運。

「今日は、一日、オフですか」

 秘書が、気を利かせて、置き手紙を残す時、ほんの少し、窓を開けて行ってくれたらしい。
 梅雨時の、湿気を含んだ涼しい風が、流れ込んでくる。
 白く霞んだ空が、雨の予感を、未来の現実に変えてくれる。
 天気が悪いと、洗濯物は乾かないし、出かけにくくなると、億劫がる人間は多いけれど、セレスティは、その逆だ。
 雨が降れば、乾きを厭う肉体に、力が満ちる。
 血の流れが、天地の水の理に、同化する。

 水は彼の友。
 水は彼の僕。
 
 ゆるやかに続く青いもの全て、今は、愛おしく感じられて、ならない。

「今日は、一日、何をしましょうか」

 午前十一時。今から遅い朝食を取っても、ようやく昼に差し掛かる程度。降って湧いた「夢」のように、時間だけは、たくさんある。
 見たいと思っていた古き時代の再現映画を、部屋で、ゆったりと鑑賞しようか。普段は見向きもしないような、無名の音楽家のコンサートに、何食わぬ顔で行ってみるのも、楽しいかも知れない。
 雨の音を聞きながら、人気のない図書館で、黙々と読書に耽ろうか。それとも……いつかの夜のように、秘書を呼び出して、日が暮れるまで、将棋やチェスに、付き合わせようか。

 重く垂れ込めた雲は、少なくとも今日一日は、退ける気配はない。
 やがて、ぽつり、ぽつりと、透明な雫を、地上に落とし始めた。

「雨の日のオフ……夢の実の、御利益でしょうか」

 これを持ってきた秘書に、出所を、聞いてみたい。
 セレスティは、サイドテーブルの上の夢の実を、振り返る。

 青い小さな宝石を凝縮したような、少し木苺に似た形の夢の実は、けれど、そこから、消えていた。
 秘書が残した紙面だけが、薄暗い部屋の中、白っぽく存在を主張している。

「……消えた?」

 平凡な日常の、お伽噺のような、一瞬。
 夢は、叶えられたら、消えるという。
 だから、夢の実も、儚く消えた。
 贅沢な時間が欲しいと呟いた、セレスティの望みを、一つだけ、叶えて……。

 後日、夢の実について聞いたところ、秘書は、不思議そうに首をかしげた。
 
「何ですか。それは」
「何って…………キミが、持ってきてくれたものですよ?」
「そんなお伽噺みたいな木の実、どうして私が持って来ることが出来ますか! 夢を叶える木の実なんて……あったら私が自分で使っています」
「それは確かに」
「それよりも、総帥。こことここに印鑑を……こちらはサインで結構です……ここには決済判を……」
「忙しない人ですね……」
「いえ、何せ、企業戦士ですから!」
 
 慌ただしく立ち去る秘書の背中を見送りながら、セレスティは考える。
 あれは、夢?
 それとも、現実?
 日常の中に垣間見た、非日常。
 また、存分に眠れる時間が欲しくなったら、ひっそりと、願ってみようか……。

「夢の実に……ね」