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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


船上狂想曲


「はい、拝んで!」
武彦が、そう誇らしげに、三枚のチケットを天に掲げた。
翼はうんざりしたような表情で、「わー、ありがとー」と棒読みの声で応えた。
金蝉は、全く別の方向を見ながら、「昨日、買った本持ってくれば良かった」なんて、余所事を考えていた。


東京湾から、仙台へと向かって運行される豪華客船の一泊二日、フルコースディナー付き、一等客室チケットを、武彦が二人の前にちらつかせたのは、ある事件がきっかけで三人共通の行きつけの場となった酒場での事だった。
「どうよ?」
首を傾げてそう問うてくる武彦と、同じ方向に首を傾げながら翼は、問い返す。
「え? 何が?」
「だから、これ見てどう思う?」
「……チケット」
「うん。 しかも、三枚」
武彦が、目をキラキラさせながらそう言うのを困ったような顔で聞きながら、翼は金蝉に視線を向ける。
金蝉はと言えば、グラスをゆっくりと傾けて、興味なさそうな顔をしてはいたが、翼の救援求むの視線に溜息を吐き、それから武彦に問うた。
「で? 何なんだよ。 っつうか、テメェで此処に呼び出しておいて、話勿体ぶるんじゃねぇよ」
そう凄めど、武彦は涼しい顔で、チッチッチッと、小刻みに指を振る。
そして、「ンフー」と妙な鼻息を漏らすと、チケットを差し出しながら「やる!」と子供のような口調で言った。
「……は?」
思わず金蝉が、気の抜けた声で問い返せば、「なんか、ここんトコ、お前達に世話になりっぱなしだったような気がしないでもない夢を見たんだが、このまま放置すれば、なんだか気持ちが収まらないなぁと感じた、律儀且つ礼儀正しい俺からの特別ボーナスだよ」
と、武彦が心持ちふんぞり返りながらそう告げた。
翼は、目の前にあるフローズンシャーベットから漸く意識を武彦に向けると、眉を顰めて問い掛ける。
「…大丈夫かい?」
「え?」
「とうとう、脳に虫が湧いたりとか…」
「いやしてない」
「じゃあ、妙な霊に乗り移られたり…」
「それもない」
金蝉が、平淡な声で口を挟んだ。
「じゃあ、騙されてんだ。 また女か? それとも今度は、タヌキか? 天狗か?」
武彦は、むすっとした表情を見せると、カウンターを軽く掌で叩きながら「んだよ、お前等。 贈り甲斐のねぇ。 それは、正真正銘のチケットで、俺は本気でお前等を誘ってんだよ」と、不機嫌そうに言った。



その瞬間、金蝉と翼、二人の時が止まった。



それなりに混んでいる酒場にも関わらず、痛いほどの沈黙が満ち、金蝉が沈痛な表情を浮かべ、翼が目頭を抑える。
そのまま、じっと固まる二人に、武彦は思わず自分が何かとんでもなく悪い事を言ったのかと不安に思い、恐る恐る問い掛けた。
「………え? ど、どうした?」
「……いや」
金蝉が、眉根に皺を寄せたまま首を振り、それから掠れた声で呟いた。
「分かった」
「え?」
「もう、良い」
すると、翼も、悲しげな表情で口を開く。
「考えてみれば、いい加減で、馬鹿で、お調子者で、ハードボイルド目指すってうわぁ!って感じで、現金で、頼りなくて、えーと、思い返しても何一つ美点を思い出す事の出来ないという、悲しい君だけど、最期だけは、そんな最期だけは、恩返しなんていう、そんな君にしては超絶奇跡的な事が出来るたんだね…」
「や? え? 何言ってんの?」
武彦が戸惑ったようにそう問えば、優しい微笑みを浮かべ、首を振りながら翼が言った。
「君、死ぬんだろ?」
「は?」
金蝉も言った。
「死ぬんだな」
「えええぇぇぇぇ?!」
思わず大声を張り上げ、他の客に睨まれ、首を竦めた武彦が小声で猛然と抗議する。
「や、死なないし! ていうか、この『死なないし!』って台詞自体意味分からないし!ごめん、分かんない! どういう流れで、お前達がその結論に達したか、分からない! 見えない! 掴めない!」
そう言い募る武彦を、憐れむような目で眺め翼が言う。
「だって…君が、そんなに気前よく振る舞うだなんて、もう……、終わりなんだな…、君の命は…」
「いや、終わってないし、勝手に終わらせないで欲しいし…」
「自分自身で気付いてなくとも、虫の知らせという奴が人にはある。 他の者ならいざ知らず、テメェのような人間が、人に物を分け与える行為を行うという事自体、もう、アレだ。 断言しても良い。 死の知らせだ」
金蝉は、そう力強く言い切りながら、武彦に向かって手を合わせた。
思わず、その自信たっぷりの様子に「え? マジで俺、死ぬの?」と思いかけ、「いやいやいや、何で、他人に客船チケットをお裾分けして、死を宣告されんだよ!」と自分を持ち直す。
しかし、武彦が葛藤に見舞われているその間にも金蝉と翼の二人は「船には、あまり良い思い出ないけど、これは行かないとね」「死に逝くものの誘いを断っては、後で面倒が起こりそうだ。 仕方ねぇな」等と話し合っていた。


「いっとくがな! お・れ・が! この俺が! 仕事の俺に貰ったチケットだからな!」
そうニッコニコの笑顔で言う武彦に、翼は、最早優しいとすら言える笑みを浮かべ、「うんうん」と頷いてやる。
キラキラと過剰な迄の装飾の眩しい船内ロビーから、部屋に案内された三人は、まだ、造船されて殆ど間もないという真新しい部屋の美しさに目を見張った。
「この部屋一泊幾らなんだだ?」
なんて、情緒のない台詞を吐きながら室内に足を進めた武彦は、ニタっと笑って翼に提案した。
「なぁ、船の中ちょっと、見てこようぜ?」
すると翼も、何の仕事絡みでもない、本当に無目的の船旅というのはなかなかなく、その上この豪華な船旅に、少しはしゃいでいるのだろう。
ニコリと笑って、「船内に、ティーラウンジがあるそうなんだ。 そこへ、行ってみないか?」と答える。
そして、金蝉を振り返り「君も一緒に行くだろ?」と、確認を取りかけた翼は、荷物を投げ出し、早々にベッドに寝っ転がっている金蝉を目にして、眉尻を上げた。
「金蝉ーーー? そんな、すぐ昼寝体勢って、おっさん臭いんだけど?」
翼の言葉に、うるさげに手を振って答え、金蝉はクタリとベットに伏したまま顔を上げようともしない。
金蝉にしてみれば、日々何くれとなく押し寄せる雑事をやっと片付け作った休暇なのだ。
どんな場所であろうと、とりあえず睡眠を貪りたいと思うのは自然の事なのかも知れない。
しかし、そんな事情など察する気のない武彦と翼は、どちらからともなく顔を見合わせ、それから同時に金蝉の眠るベットに向かうと、大きなベッドに飛び込むようにその体に飛びついた。
「パパーー! 起きてよぅ!」
と、巫山戯て、子供の声音を作りながら金蝉の腕を力一杯引く武彦の様子に笑い、翼も金蝉の体を揺すって、「折角なんだから、行こう。 今から行けば、出港の様子が見れるだろうし」なんて、誘う。
考えてみれば、自分が背負った余りにも重すぎる宿命や、苛酷な日々に振り回される事が多すぎて、こういう風に呑気にはしゃぐ事なんて滅多になかった。
翼は、何だか、とても幸福な気分になって、だからめい一杯明るい声で金蝉に言った。
「ほら、起きて! な? 金蝉!」
そして、何だかんだかんだと今まで、色んな事を丸め込まれた武彦や、どうしたって大事な翼の、攻撃に金蝉は耐えきる事が出来る筈もなく、「っっだああ! うっせぇなぁ! 行く! 行きゃあ良いんだろ! だから、離れろ!」と、一声叫んで、起きあがり、二人を振り払った。


夕日が差し始めた船上で、風に吹かれながら金蝉が煙草をふかす。
その隣で、船上カフェで購入した飲み物を片手に翼が、目を細めて夕日を眺めた。
「少し、感謝かな?」
「あ?」
「武彦に」
「へぇ、そうかよ」
「金蝉は、楽しくないのか?」
「……別に、何処でも、俺はそれ程変わらない」
翼は、そんな金蝉をつまらなそうに見上げて、それから一口冷たいジュースを喉に流し込む。
「僕は楽しいよ」
「ふうん。 だったら、良かった」
そう答えて、無感動な目のまま翼と視線を合わせ、金蝉がボソリと呟いた。
「ただ…」
「ん?」
「油断しすぎだとは思うがな」
「……」
「……」
二人暫く見つめ合ったまま(それは、客観的に見れば、恋人同士の熱い見つめ合いに見えた)立ち尽くす。
翼は、少し引きつった笑顔を見せながら、「あははは。 金蝉? 今のトコ何にもなかったんだ。 幾ら、船が僕達にとっての鬼門だとはいえ、もう、大丈夫だと考えて……」と、そこ迄言った瞬間、翼の足を、飛び上がる位冷たい感触が襲った。
「………」
「………」
翼が、恐る恐る足下を見下ろす。
すると、そこには身なりの良い子供がアイスクリームを、翼が穿いている細身のパンツに激突させている姿が目に入った。
「な?」
諦念の表情を見せながら、金蝉が問う。
すると、翼も何処か観念した表情で「そうだな。 僕が甘かったよ」と、答えた。
  


「っつうかぁ! マジ、翼はびじんだなぁ!」
子供が、そう良いながら翼の足下にまとわりつくのを金蝉は、不機嫌そうに見下ろし、船内から遅れて現れた武彦は苦笑を浮かべながら眺めていた。
「ありがとう。 えーと、それで、君のママは、今、何処にいるんだっけ?」
翼が、困ったような表情を浮かべて問えば、子供はスイと視線を逸らし、
「なぁなぁ! アレ何? 何?」
と、船内にある装飾物を指差して、はぐらかす。
「迷子かねぇ?」
そう言えば、不機嫌この上ない表情を見せた金蝉が吐き捨てるように言った。
「知るか」
やんちゃそうな表情を浮かべた子供は、翼の腕を放さず、色んな場所へと連れ回している。
「何処で、ママやパパとはぐれたんだい?」と、翼が問えば、「こっち!」と指差し、そこで一頻り翼にじゃれついて甘え、また、「どこらへんにママがいるか分かるかな?」と聞けば、「あっち!」と別の方向を指差す繰り返しで、武彦は何度も船内放送を流して貰っているのだが、一向に母親らしき人物は現れず、翼は消耗しきっていたし、金蝉の機嫌も降下の一途を辿るばかりだった。
「ちょ…あ、ちょっと、ごめん! 外に出てくるから、母親が来たら知らせに来てくれるかい?」
そう、子供にグイグイ腕を引かれながらも、問うてくる翼に武彦は、「うんうん」と頷いてみせ、翼は片手を目の前に翳して申し訳なさそうな顔をすると、デッキに出ていく。
あのすまなそうな顔は、不機嫌祭り真っ盛りの金蝉と二人きりにしてしまう事に大してだろうなぁと理解しつつ、武彦は横目で、ぶすっとしている金蝉を眺めた。



「星、すげーーー!」
子供がはしゃいで叫ぶのを、翼は、苦笑しながら眺める。
「な! な! すげぇな!」
そう同意を求めてくる子供に、翼は頷いてみせる。
「そうだね。 凄く奇麗だ」
翼の言葉に、子供は勝ち気そうな目をクルクルさせ、それから問うてきた。
「なぁ? 翼はさ、なんで男みたいな格好してるの?」
「え? 似合わないかい?」
そう問い返せば、ブンブンと首を振り「格好良い…ケド、可愛くない」と答える。
翼は、ふふんと笑って、「僕は、格好良いが一番好きなんだ。 可愛いよりもね」と答えた。
子供は、そんな、翼に視線を据え、「ふーん」と頷いた後に、「あの金髪のお兄ちゃんも格好良いねえ」と、唐突に言った。
「そう…かな?」
首を傾げてみせる翼に、子供は、笑って頷く。
「うん。 イケテルぜー? ちょっと怖そうだけどね」
翼は、じっと子供を見下ろす。
「ねぇ、あのお兄ちゃんの事好き?」
子供が満面の笑みを浮かべて、随分とませた質問を仕掛けてきた。
翼は、微かに笑って子供の頭を撫でる。
「どうだろうねぇ? 分かんない。 分かんないだよね。 でも、大事な人だよ。 凄く、大事な人だ」
それから、首を傾げて問う。
「ねぇ? 君は誰?」
子供は、笑みを深くした。
「どういう意味?」
「や、意味っていうか…、今、僕が察せられているのは、君が人間でない事位だよ」
ポリポリと頬を掻きながら、翼はのんびりと答える。
「へぇ? 翼って、そういうの分かる人なんだ。 どうして、そう思うの? こんなに完璧に、人間のガキっぽく振る舞ってるのに?」
子供が楽しげに問うてくるのを、翼が「フム」と唸って、それからピンと指を立てる。
「だって、君、僕に美人ってさっき言っただろ? 初見でね、僕の事を女だと気付いてくれた人は、残念ながらなかなかいないんだよね? 何を基準に、僕を一目で女性と認識したの? それに、船内放送をこんなにしているのに、母親が現れないのもおかしいよ。 身なり自体は、大事にされている子っぽいのに、少し異常だ。 何より、気配がね? ほら、僕、『そういうの分かる人』だからね? まぁ、なかなか確信が掴めなかったんだけど、金蝉を格好良いなんて言うのを聞いて、分かったよ」
「どうして?」
「今まで、金蝉を見て、そんな台詞吐いた子供がいないからだよ。 格好良いとか、イケてるとか思う前に、あの不機嫌そうな姿を見たら、もっと怯えた感想が出てるはずだよ? 普通の子供ならね」
そして、何が目的?と翼は明るい声で聞いた。
「別に、君から殊更邪悪さを感じないから、放っておいても良いんだけど……」
そう言いながら、身を屈めてその目を覗き込む。
「悪いことしようと考えてるだろ?」
子供はキャラキャラと笑った。
「どうして、分かっちゃうのかなぁ?」
「大人だからね。 悪戯はしない方がいいよ? あの金髪のお兄さんは、見た目よりも更に怖いからね?」
翼の言葉に、子供は「へぇ。 それは、それは」と馬鹿にしたような声音で言い、それから良いことを思い付いたというように飛び上がった。
「じゃあ、その怖いお兄さんで遊んじゃおう!」
そして、クルリと踵をかえすと、子供の足の速さとは思えないスピードで船内へ飛び込む。
翼は、一瞬胸の底が冷えるような予感に襲われ、次いで金蝉にあの子供が何かしようとしているのだと気付き、慌てて後を追った。

子供が、からかうように、振り返り、振り返りしながら、叫ぶ。
「こっち! こっちだよ、翼!」
それは、追っかけっこを楽しむ子供の姿そのもので、翼は、抑えきれない苛立ちが立ち上ってくるのを感じた。
(甘かった! 子供の姿をしているとはいえ、もっと何か対策をとるべきだった!)
そう、歯噛みしながら、人々の間をすり抜け、子供を捕まえようと躍起になる。
「見付けた!」
そう、子供が叫び、自分の視線の先にも金蝉と武彦の姿を捉える事が出来た瞬間、思わず「注意しろ!」と叫んでいた。
何がどうなっているのか分からないまま、金蝉は子供を睨み据えて立ち上がる。
武彦も、サッと気配を引き締め、その隣りに立つと、厳しい表情を見せたまま「どういう事だ?」と、叫んだ。
子供は、二人の前にピタリと足を止めると、高らかに叫ぶ。



「さぁ! 海よ、約束の時だ!」



その瞬間、何事かとこの騒ぎに注目していた、船内の乗務員、客、その他全てに至る人々の体が硬直し、そして眠りに落ちた。
「今宵の獲物は決まった」
子供が、子供の笑みとは思えないような、愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
「……何を…したんだ?」
翼が、震える声で問うた。
子供が、ニコリと笑った。
「前々から、今宵の狩り場を此処と定め、ポセイドンとも契約を交わしていたのだ」
そして、小さな手を頭上に掲げる。
すると、眩い光と共に、まるで玩具のような、可愛らしい弓が現れた。
子供は笑って、翼に向かって弓を構える。
いつのまにか、弓には金色の矢がつがえられており、その矢は翼の心臓を真っ直ぐ差していた。
「っ! 翼!」
金蝉が、焦って駆け寄ろうとするとを、チラリと眺めて「邪魔しないで」と子供が言う。
その途端、金蝉の足が凍り付き、一歩も動けなくなった。
未だかってない冷たい恐怖に襲われ、それは、無意識に、本当に無意識に、金蝉は隣りに立つ武彦に救いを求める視線を向ける。
怖かった。
翼を失うなんて、怖すぎて、だから、初めて武彦を頼った。
そして、自分が武彦という人間をそこまで信用していたのかと、金蝉は酷く驚いた。
武彦は、金蝉の、その視線に射られるか、射られないかのタイミングで、飛び出し、翼に走り寄っていた。
「ちっくしょぉ!」
そう叫びながら、力一杯翼の体を突き飛ばす。
エロースによって、既に放たれた金の矢が武彦の体に突き刺さった。
「っっっ! あぁぁ!」
突き飛ばされ、倒れ伏した翼が悲痛な声をあげた。
縋るように、のけぞりながらにして矢の衝撃に倒れる武彦に、手を伸ばす。
掛けられた術が解けたのだろう。 動けるようになった金蝉も、武彦に走り寄り、そして呆然と立ち竦んだ。
「っ! う、嘘だ! 嘘だろ?」
翼が、首を振りながら、武彦の体に触れた。
「何で? 何で、君が……。 どうして…」
震えながら、その体を揺する。
ピクリともしない。
翼の中で、悲しみが爆発した。
「あ、ああ、あ! あ! ああああ!」
そう、喚き、自分の身体をギュッと抱く。
「ごめん。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 ち、違うんだ。 心から思ってた訳じゃないんだ。 冗談だった。 君が、プレゼントを僕達にしてくれる事が、なんか、く、くすぐたくって、照れ臭かったんだ…」
零れ落ちるような声で、翼が呟き続ける。
金蝉が、しゃがみ、そんな翼の肩を抱いた。
翼は、崩れ落ちるように、金蝉の胸に顔を埋めて喚いた。
「あ! あぁ! あ! ど、どうしよう? 金蝉! 金蝉! 武彦がぁっ! 武彦がっ!」
金蝉は、ギュッと目を閉じ、そして、翼の体を強く抱く。
「違うんだよ。 あの時のは、冗談だったんだ。 そうだろ? 金蝉」
金蝉は、翼の問いに頷き答える。
「そうだな」
「ど、どうして、死んじゃうなんて、そんな酷い事言っちゃったんだろう? た、武彦は、本当に心から、こういうプレゼントをしてく、れたのに。 僕は、そ、それが嬉しかったのに…。 どうしよう? どうしよう? 金蝉。 もう、謝れない。 僕をかばうだなんて、そんな…そんな…。 ああああ! 全部、僕のせいなのに、僕のせいなのに、もう謝れないよぉ…」
「違う。 翼のせいじゃねぇよ。 俺が悪い。 俺が、もっと……」
「ああ、憂いに満ちたその、眼差し…」
「そう、もっと、憂いに満ちて……み、ちて…?」
悔恨に満ちた言葉を漏らしていた金蝉の体が固まり、その腕の中にいる翼の時も止まった。


なんか、今、ちょっと、変じゃなかった?


二人同じ思いが胸の中を去来し、そして、ゆっくりと武彦へと視線を向ける。
「モナムール。 俺の運命の人よ。 ああ、美しい。 なんて、美しいんだ」
そこには、頬を朱色に染め、うっとりと目を潤ませながら金蝉を見つめている武彦がいた。



金蝉は、数秒ほど意識を失い、翼は茫然自失のあまり、少し笑い声をあげた。
「え、ええ、えええ?」
そう呻き、震えながら、武彦に手を伸ばすも、あっさり翼は無視られ、金蝉の白い手を握り締めて武彦が、熱っぽい口調で囁いている。
「おやおや? お茶目プリンセスだ? こんなに君を恋うる男を目の前にして、居眠りさんをしちゃうだなんて、むぅだぞ?」
「死ね」
残念ながら、本人にとってもこの上なく残念ながら意識を取り戻してしまった金蝉が、凍えるほどの視線を向け心からそう告げる。
「ていうか、何で死んでねぇんだよ」
まるで、死んでいてくれればと願うような声音に、呆れたように子供が答えた。
「我が名はエロース。 愛の神だ。 俺の矢に射られて落ちるのは命ではなく、心。 その男は、恋に落ちた。 お前への恋にな」
そう言いながら指をさされ金蝉は、再び意識を失い掛ける。
しかし、頬へと指先を滑らせてくる、武彦のその行動に「今、意識を失ったら、大事なものを失う!」という予感に襲われた金蝉は、「気ぃいい色悪いわぁ!」と吠え、武彦を蹴り飛ばすと、エロースに向けて凄んだ。
「てんめぇ、こいつの状態を何とかしやがれ!」
エロースは、金蝉の態度にムッとしたのだろう、「おまえみたいな男には、翼よりもそいつの方がお似合いだ!」と笑い、そして、風のような早さで三人の前から立ち去る。
「っ! 待て!」
そう叫んで追う翼の後ろ姿に、金蝉が声を掛けた。
「なるべく、早く決着をつけてくれ。 そうでないと、俺の方がこいつの人生に決着をつけちまいそうだ」
冗談とは思えない声音に、ぎょっとして振り返れば、「美の極致! 愛の化身! 俺の運命」などと口説かれながら、迫られ、隙間なく殺意に塗りつぶされ掛けている金蝉の表情が目に入った。
「酒場での冗談が、現実になっちまう前に、頼むぞ?」
武彦の横っ面を張り飛ばしながら、告げる金蝉にコクコクと頷き、次いで、本当は自分が、武彦のような醜態を晒していたのかと溜息を吐いた。


例え、相手が誰であろうと、あんな生き恥を晒すような状態はぜっっっっったいに嫌だ。


船内を駆け回り、デッキへと出た翼の目に、金色の光を纏って、飛び立ち掛けるエロースの姿が目に入った。
翼は、慌ててその足首を掴み、引きずり下ろす。
「っ! 翼?! ちょっと、離してよ!」
そう喚くエロースに、翼は怒り心頭といった表情で怒鳴りつけた。
「馬鹿! 誰が離すか! 僕の大事な人間と、友人が、とんでもない目に合ってるんだ! すぐに、武彦を元に戻せ!」
そう言う翼に、エロースは面倒臭そうな表情を、見せ、呆れたように言う。
「ヤダよ。 だって、あの、金蝉とかいう奴、むかつくんだモン。 大体、俺は、仮にも神様なんだぜい? それを、あんな態度で。 翼には似合わないよ。 それに、武彦って奴?も、どうでも良いじゃん。 俺が、此処から離れれば、乗客に掛けてある術も解ける。 あの馬鹿二人は放っておいたってどうって事ないよ。 それに、かなり面白い見せもんだぜ? 結構、笑えるじゃん」
楽しげな口調。
ああ、こいつは、本当に、心からのガキなんだ。
そう悟った翼は、突然エロースの頬を、翼は手加減無しにひっぱたいた。
パァンと、派手な音が響き、エロースは頬を真っ赤にして、呆然と翼を見上げる。
「人の! 人の気持ちは、その人だけのものだ! 誰かが自由に、いじくったり、ねじ曲げたりしていいもんじゃないっ! 武彦が、これから先、誰かを愛し、家庭を作ったり、幸福を享受したるする可能性を奪う権利は君にはないんだ!」
翼の大音声に、衝撃を受けたように体を震わせ、そしてエロースは視線を下に落とした。
「死ぬという事は辛い事だろう。 でも、本来の自分の持つべき感情とは違う感情を植え付けられるというのは、死と肩を並べる程の屈辱だ。 僕は許さないよ。 君が、神だろうが、なんだろうが知るものか。 武彦を元の、武彦に戻せ」
厳しい口調でそう言う翼を、涙の滲んだ目で見上げ、エロースが言う。
「だって、だって、だってぇ…、つ、翼が、あいつの、あの金蝉の事が好きなのに気付いて、お、応援してあげたくなったんだ。 ちゃ、ちゃんと、素直に好きって言えば、そうしたら、あいつだって……」
言い募るエロースの言葉を途中で遮り、翼は言った。
「そうだね。 君は、優しい気持ちで、こういう事をしでかしてくれたのかもしれない。 でもね、聞いてくれ。 この感情は、金蝉へのこの感情は、僕のとっても宝物なんだ。 この宝物にはね、誰にも触れて欲しくないし、ましてや弄くっても欲しくないんだよ? その結果で、もっと宝が増える事になっても、僕は全然嬉しくない。 聞いてくれ、エロース。 君の矢が、本当に必要な人もいるだろう。 君の力を心から必要とし、君の力によって後押しされて、幸福を掴む人もいるだろう。 でも、それは僕じゃない。 僕が、本当に必要になったら君を呼ぶ。 大声で呼ぶから、だから、今は良いんだ。 いまは、今の気持ちを大事にさせて欲しい」
翼は、エロースの肩を掴み、真剣な声音で言い聞かせ続けた。





金の矢が、恋情を起こさせるものならば、鉛の矢は嫌悪の矢か。
翼は、エロースの射た鉛の矢によって、金の矢の効力と相殺し、正気を取り戻した武彦の狼狽を眺めながら、遠い目をする。
「ほんっと、船と相性悪いなぁ」
翼は、思わずそう呟いていた。
エロースは既に、天に帰っており、今船内で意識を保っているのは、三人のみという状態なのだが、金蝉はと言えば、発狂寸前といった表情で、物に当たり散らしており、その側で、武彦が気持ち悪げに口を押さえながら、船酔いではない吐き気を堪えている。
その姿は、既にボロボロで、金蝉からどんだけ手酷い攻撃を受けたのか偲ばれるような姿をしていたが、正直、今の金蝉の様子を見ると、生きてる事が奇跡的に感じられ、やはり、あの時酒場で金蝉と語り合った「武彦死期近い説」は、かなり信憑性の高い論だったのだなぁとしみじみした。
しかし、このまま地獄のような風景を傍観し続けている訳にもいかず、客が目を覚まし出す前に、何とか、辺りを片付け、金蝉の機嫌を直し、武彦を客室で慰めてやらねばならない。
一人被害を免れた翼は、その代償として行うべき自分の役割の大変さに、「ふぅ」と深い、深い溜息を吐くと「やっぱり、船とは相性悪いなぁ」と嘆いて、とりあえず、金蝉を何とか宥めようと、口を開いた。