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呼ぶ光
空を厚く覆う雲間から今にも雨粒が落ちて来そうで、なかなか落ちてこない鬱陶しい梅雨の1日。
ジメジメとして暑いがエアコンをつけるには贅沢で、扇風機は昨年の夏に壊れたまま。
無風の草間興信所で話しをするでもなくソファに腰掛けた2人の男に、外出から帰った草間が声を掛けた。
「来てたのか」
2人に冷たいコーヒーを振る舞うほど気の利いた人間ではない。2人の前を通り過ぎて自分の椅子に腰を下ろす。
1人の男は足を組んで宙に煙を吐き、もう1人は何を見るでもなく窓の外に目を向けている。
「暇そうだな」
と言われて、外から草間に目をやり「暇でなけりゃこんな処に来ちゃいないさ」と言い放つのは香坂連。
その正面でせっせと煙を吐きつつ頷くのは真名神慶悟。
平日の午前。こんなところでぼんやりしているからと言って決して無職ではない。
立派なヴァイオリニストと陰陽師だ。
暴言を物ともせず、草間は机から一枚の書類を取り上げて2人に見せる。
「暇なら、働け。報酬ははずむそうだぞ。今は人手がないから2人でやって貰う事になるが……」
「……浄霊か。暇潰しが出来て金が稼げるなら好都合だ」
書類に簡単に目を通してから慶悟は蓮を見る。
「ここで窓の外とおまえの顔を見ていても仕方がない」
やっても良い、と言って蓮は目を通した書類を草間に戻す。
至急、の赤い判子がチラチラと踊るように見えた。
「しかし、こんな天気の中を出掛けるのか……」
最後の煙を吐き、灰皿に煙草を押しつけながら慶悟は外を見る。
どんよりとして重苦しい、気の滅入って来そうな空模様。動けばその分、暑さと不快さが増しそうだ。
少し顔をしかめた慶悟に、蓮が笑う。
「地下鉄もどこも、人の集まるところはエアコンが効いているだろう、ここよりはマシだ」
「それはそうだな。外に行けば冷たいコーヒーにもありつけるだろうし……」
行くか、と2人は立ち上がり怠惰な体に鞭を打つ。
締めた扉の向こうから、「いちいちイヤミを言わにゃ動けんのか、あいつ等は」と、小さな溜息が漏れていたが、2人の耳には届かなかった。
「報酬は破格、御車代に御膳料も付いて、至急、か。よほど切羽詰まった状況なのか?」
歩きながら書類に目を通す蓮に、慶悟が訊ねる。
依頼自体は極簡単な浄霊だが、報酬はかなりの額だ。
「いや……、切羽詰まったと言うよりも、これは多分、依頼人がイヤなんだろう」
「イヤ?霊が出るのがか?」
それは勿論、霊が出ると聞いて気持ち良い筈がない。
「ああ、多分。依頼人自体が霊と何かしらの関わりがあるか、余程の恐がりか……、」
2人が浄霊を行う霊がいるのは、オフィス街のビル。
依頼人はそのビルの持ち主であり、社長だ。
何でも、ビルから飛び降りた霊が成仏出来ずに留まり、何度も何度も自殺を繰り返しているのだと言う。
今の所、噂が広まって困るほどの目撃者はいないらしいが、それでもそのビルに勤める社員の中でも霊感が強いと言われる者は何度か目撃しているらしい。
「てことは、その依頼人も霊感があるんだな?」
訊ねる慶悟に、蓮は首を振った。
「それが、違うらしい。依頼人には霊感の類が一切ない。しかし、どう言う訳かこの自殺霊だけは見えるんだそうだ」
これまで一度も霊らしいものを見たことがなく、その存在さえ信じていなかった。
しかし、何故か自分のビルで自殺した霊だけは見える。イヤと言うほど見える。飛び降り自殺など凄惨で気持ちが悪くて仕方がない。どうか早急に浄霊して欲しい、完全に浄霊出来るのならば、報酬ははずむ、と。
蓮から書類を受け取り、慶悟はそこに記された事故の内容を読む。
事故があったのは丁度1年前。
ビルに勤める女性社員の1人が突然の自殺を図った。原因は当時婚約していた男性との婚約破棄と言われている。
昼休みに、屋上から中庭に身を投げ……、即死だった。
「依頼人と霊の関係は?」
「そこには社長と社員としか書かれてないだろう?だが、霊感のない依頼主に何故自殺者の霊が見えるんだろうな?」
「何か関わりがあったと考えて妥当、か」
「そう言うことだ」
頷いて、蓮は足を止める。
目の前に古びているがそこそこに大きなビルがあった。
正面に出た社名を見て、2人は頷く。
間違いなく、依頼のあったビルだ。
受付に行って、まず依頼人である社長を呼び出す。
2人が出た後に草間の方から連絡が入っていた筈だ。
暫し待たされて、姿を現した依頼人は50代後半の太った男。
草間興信所から来た2人をまるで神か仏のように崇めてヘコヘコと頭を下げた。
しかし、事故現場への案内を乞うと、余程自殺の現場を目の当たりにするのがイヤなのだろう、受付の若い社員に言いつけて自分はさっさと戻ってしまった。
若い社員は2人を中庭の一角に案内した。
派手な出で立ちの男とヴァイオリンケースを抱えた男が、一体何の用があるのか興味があるらしいが要らぬ口か利かない。
こちらです、と社長に言われた通りの場所に2人を連れて行き、暫し首を傾げる。
「ん?」
不意に慶悟が空を見上げた。
「どうした、」
つられて蓮も空を見上げ、その横で社員も顔を上げる。
灰色のコンクリートに囲まれた屋上に、1人の女がいた。
目の前の社員と同じ紺色の制服を着た若い女。
あ、と思った次の瞬間に、女は宙に身を躍らせた。
悲鳴もなく、その体が地面に叩きつけられ、硝子玉のような黒い目から血が流れる。中庭の芝生の上に、絵の具のような血が広がる。
実際は即死だったが、霊は叩きつけられた地面で苦悩の表情を浮かべ、助けを求めるように手を伸ばす。血に濡れた手で芝生を掴み、立ち上がろうと体をくねらせる。
何か訴えようとしているのか、血の滴る唇を何度か上下させる。
「う……」
思わず蓮は口元を覆った。
慶悟も一瞬目を背けてしまう。
しかし、その様子が全く見えていないらしい社員は不思議そうな顔で2人を見るばかり。
確かに、霊感の強い者にしか見えていないようだ。
慶悟と蓮は頷き合って社員に礼を言い、仕事に戻るように言った。
首を傾げながら仕事に戻る社員の背を見送って、2人は自殺者が叩きつけられた地面を見る。
「さて、始めるか」
「ああ、」
「かけまくもかしこきいざなぎのおほかみ。つくしのひむかのたちばなのおどのあはぎはらにみそぎはらひへたまひしときになりませるはらへどのおほかみたち。もろもろのまがごとつみけがれあらむをばはらひたまひこよめたまへともほすことをきこしめせとかしこみかしこみもほす」
簡単な結界を張り、周囲に式神を放った後に慶悟の口から紡がれた言葉は、蓮の耳には歌のように聞こえた。
一旦言葉を句切り、準備が出来たと目で合図を送る慶悟。
それに従い、蓮はヴァイオリンを取り出して構えた。
静かな中庭に、最初の一音が滑り出す。
緩やかに、しかし絶えることなく伸びやかに。
慶悟には、蓮の奏でる音楽に関する知識がない。
浄霊に来たのだから、それらしい曲を選んでいるのだろう。
「死者の永遠の安息を祈る曲だ」
少し笑って、蓮は言った。
「主とキリストに憐れみを求め、罪と地獄から救われるように祈る」
そこへ再び、あの霊が飛び降りて来た。
繰り返す痛みと苦しみ。
慶悟はすかさず呪を唱えて霊を捕らえる。
霊は苦しみから解き放たれたい一心で屋上へ戻ろうとする。屋上から飛び降りて、この地に叩きつけられるまでの僅かな時間だけが、痛みも苦しみもない自由な時。
血を流しながら女は、苦しみに顔を歪めて唇を震わせる。
たすけて、と、声にならない声が聞こえる気がした。
ヴァイオリンの音が僅かに変わった。
女の気を鎮めようとしているのだろう、先程よりも更に緩やかな曲に変わる。
それに合わせて、慶悟は鎮魂の呪を唱える。
捕らわれた痛みと苦しみから解き放ち、行くべき道を示す。
光が見えない、と女が言った。
「あんたが下を向いているからだ。空を見ろ。雲間にあんたを呼ぶ光が見えるだろう」
言って、慶悟は空を指差した。
「俺が送る曲を弾いてやる。キリストを敬い、主に憐れみを求める曲を弾いてやる。光を求めて行け、おまえの逝く先は天国だ」
続くヴァイオリンの音色、慶悟の唱える鎮魂と葬送の呪。
女が立ち上がり、生前の美しい姿を取り戻す。
白い手を伸ばし、雲間の光を求めて飛び立つのを2人は見送った。
最後まで呪を唱え、慶悟が蓮を見る。
蓮の曲も最後の一音を奏でた。
「無事、逝った」
「ご苦労さん」
笑みを交わしてから、2人は暫し次の言葉を発するまでに時間を要した。
「……で、どうするんだ、これは」
「……どうするもこうするも……」
顔を合わせたまま、取り敢えず後始末を始める。
蓮はヴァイオリンをケースに仕舞い、慶悟は結界を解き、放ってあった式神を呼び戻す。
途端に、声が上がった。
儀式の途中から集まり始めた社員や通りがかりの人々。
気が付けば2人はかなりの人数に取り囲まれていた。
「えー、もうお終いなんですかー?」
「アンコール!」
「こんなところでどうして演奏なんてしてるんですか?大道芸か何か?」
浄霊の厳かな儀式が大道芸に見えるのか、と慶悟と蓮は苦笑さえ出来ない。
「「ボランティアだ」」
2人同時に答える。と、チャリンチャリン、と小銭が転がる音。
2人の足元に転がった小銭は結構な額になった。
「あんた、ヴァイオリニストなんぞ辞めて芸能人にでもなった方が良いんじゃないのか」
昼食を摂る為に入った店で、数人の女性の視線を感じつつ慶悟は言った。
見た目の派手な自分よりも、童顔な目の前の蓮の方が視線を集めているのは確かだ。
しかし年齢でいけば自分の方が4歳も若いんだぞ!と、主張をしてみたくなる。
「そう言うおまえは手品師にでもなった方が良いんじゃないか。ほら、いつも周りをチョロチョロ飛んでるのに手伝いをさせて」
チョロチョロ飛んでいるの、と言われて、慶悟は数体の式神を放つ。
「そうそう、こいつ等。イカサマでも何でも、やりたい放題だ」
「失敬だな。式神はそんな事には使わない」
「そう言いながら式神に醤油を取らすな」
昼定食の焼き魚に醤油を垂らす式神に、蓮は笑う。
「ところで、どうしてあの社長に霊の姿が見えたのか分かった」
式神が注いでくれた麦茶を飲みながら蓮は言った。
慶悟が無言で促すと、蓮は受付嬢に聞いたのだと言う話しを始めた。
「社長には娘が一人いる。その娘ってのは死んだ女と同い年で、取り引き先の男を好きになった。男は婚約していたが、普通のOLと結婚するより社長令嬢と結婚した方が良いと思ったんだろうな。婚約を破棄して社長の娘を選んだんだ」
「その男が死んだ女の婚約者か……」
「ああ。社長の方には自分の娘が原因で社員が死んだって罪悪感があったんだろう」
「罪悪感が霊の姿を見せた、か。しかし何時の間にそんな話しを聞いたんだ?」
「おまえが社長に浄霊が終わったと報告していた間だ」
慶悟は箸を休めて意外そうに蓮を見た。
「あんた、結構手が早いんだな?」
「時間を無駄にしていないだけだ」
蓮は笑いもせずに箸を動かす。
慶悟は少し笑ってコップを差し出した。
しかし、そこには何時までたっても麦茶が注がれない。
「お茶、」
慶悟は式神を見て言うが、式神の方は慶悟を見ようともしない。
「人徳だな」
蓮は平然と式神が蓋を取ってくれた碗の味噌汁を飲む。
「おい、こらっ」
慶悟は式神を叱ってみたが、アッサリと無視されてしまった。
花に群がる蝶のように蓮の周囲を飛び回る式神達。
蓮は面白がって式神に漬け物を分け与える。
「餌付けするんじゃないっ」
怒る慶悟に笑う蓮、その周囲を漂う式神達。
……多分、他の客の目には若い男2人が人形を使ったコントをしているようにしか見えなかったに違いない。
end
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