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地上の星 〜崖の上のジュピター〜
床を舐めるように、倒れ込んだ。
低い呻き声。
壁にすがるようにして立ち上がり、スイッチを入れると、裸電球の赤っぽい光が、殺風景な部屋を照らし出した。
東雲紅牙は殺し屋である。
だから二十代半ばの青年であったけれども、彼はときおり、ひどく老成したような表情を見せる。それは殺人をなりわいとするものが抱える、特有の虚無感のあらわれかもしれなかった。
それが――
今の紅牙は、渇いた虚無的な仮面はすっかり剥がれ、痛みに顔を歪める手負いの若い獣だった。
床に坐り、壁にもたれて、呼吸を整える。
標的をしとめられなかった。
この仕事についてから、初めての失敗だ。
しかも、失敗したときは死ぬときだと思っていたのに――、我知らず、逃げ出してしまっていたのだ。伏兵の連中が始末にかかったようだったが、その顛末を見届けずとも、あの男が、負けるはずがないことは、紅牙にはよくわかる。
襲い掛かる敵をすべて蹴散らし、悠々と、月夜の散歩を続行したはずなのだ。
(逃げなければ殺されていた)
紅牙は思う。
ぞくり、と、悪寒のようなものが背筋をかけた。恐怖ではない。もっと別の……複雑な感情だった。
任務の失敗を、組織には咎められるだろう。
場合によっては、味方を置いて逃げ出した紅牙になんらかの処罰があるやもしれない。しかし、今はそんなことはどうでもよかった。
(匂うな)
男の声が耳に甦る。
(血の匂いがしやがる)
ざわり……
壁に落ちた紅牙の影が――揺らいだ。
ハッ、ハッ、ハッ、――という、生ぐさい、何かの吐息。
紅牙の影はただ影ではない。無害な、二次元の絵姿でなど、ありはしないのだ。ぬう、と、影の中から、その鼻づらがのぞいた。
(血の匂いがしやがる)
どろり……と、影の中をしたたる、赤い液体。
「そうだとも」
紅牙は呟く。
「これが俺だ」
血にまみれた牙をむいて、そいつは唸った。
(なんだァ、さっきから。盛りのついた犬がいるな)
脳裏に浮かぶ、にやにや笑い。
「そうだとも」
紅牙は呟く。
「これが俺だ」
みしり、と、音を立てて、鋭い爪をもった獣の前肢が、床を踏んだ。影の中から這い出してくる、それは異形の獣だ。犬でもなく、狼でもなく、爬虫類でもなく、ましてや人でもない、いずこともしれぬ異界で生まれた存在。
いや――
あるいはそれは、紅牙の心の中で育まれたのではなかったか。
影から召喚されるのは、その暗喩ではないのか。文字通り、獣は紅牙の影であり、それはすなわち、紅牙こそ獣の影ではないのか。
影の獣は吼えた。
狂おしく、爪で床を掻き、牙からは泡立つ血がしたたる。
はじめて、獣があらわれたとき、それが屠ったのは、彼の母親だった。次いで、父を咬み殺した獣は、ただ現場を目撃したというだけの幼い少年であれ誰であれ……等しく、その牙で相手の息の根を止めてきたのだ。
今宵、紅牙が任務にしくじったのも初めてなら、影の獣が獲物を殺しそびれたのも初めてのことだった。
「口惜しいか」
紅牙は獣に問うた。
「奴が憎いか」
それは、自問だったのだろうか。
血泡を吹きながら、獣は猛った。
がっし、と、紅牙はその漆黒の身体を抱きとめる。獣の身体は、闇そのもので出来ているように、ひんやりとしていた。
ロデオのように、獣を抑え込むと、それは蒸発するように、霧散してゆく。
「――っ」
紅牙は低く呻いて、シャツを捲った。
殴られた腹のあたりには、くっきりと、打撲の痕が浮かび上がっている。聖痕の奇蹟でも見るかのように、紅牙は、彼自身の傷にそっとふれた。
やがて、のろのろと身を起こすと、手当てをするために、奥の部屋へ。
任務において傷ついたとき、彼はいつも、自分独りで手当てをしてきた。いつだってそうしてきたのだ。だが、今夜の傷は、特に苦い痛みをもたらすものであった。
「――以上だ。なにか質問は?」
紅牙は、逆光によってシルエットとなっている、上司のほうを、目を細めて見遣った。
「あの男は……」
「――?」
「もう追わないのですか」
沈黙が流れた。
紅牙に、次に命じられた仕事は、例の男とはなんら関係のない任務だった。それがわかったとき、闇の中で紅牙の表情がすうっと変わったことに、気づいたものはいない。もしかすると、紅牙自身、気がつかなかったかもしれない。どんな任務で、どんな人間を殺せと言われても、彼は顔色ひとつ変えなかったのだから。
「おまえの言うのは……」
ようやく、上司は紅牙の言わんとすることを悟ったようだった。
声音には困惑と、驚き、そしてかすかな怯えのようなものが混じっていた。紅牙が、口ごたえめいたことや、任務に対する意見を――たとえ必要なものであったとしても――したことなど、皆無だったのだ。
「……それはおまえの知るべきことではない」
「…………すみません」
「この任務に関して、質問は?」
そういうことであれば、質問などない。いつもそうだったのだ。なにも問わず、なにも思わず、ただ命じられるままに、黙々と、そして淡々と、彼は殺人を為す。
「ありません」
「よろしい。では、健闘を祈る」
考えられることはふたつ。
ひとつは、別の暗殺者が任務につき、無事、あの男を始末した。
もうひとつは、組織は、なんらかの理由で、あの男を狙うのをやめた。
後者だ――、と紅牙は直感した。
東雲紅牙という暗殺者が、その組織を出奔したのは、それからまもなくのことだった。
その理由は、誰にもわからなかった。
そして――
月が出ている。
蒼白く、冷たい光を冴々と尖らせて。
その下を、紅牙は彷徨うように歩いているのだ。影法師が長く伸びて、案山子のように、どこか寂しげに揺れた。
ときおり――、その影の中から物騒な眼光をもつ双眸が、きろり、と周囲の様子をうかがうようにのぞくのだった。
(了)
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