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<東京怪談ノベル(シングル)>


地上の星 〜水底のシリウス〜

「お。なんだこりゃ」
 和馬は、スーツの下衿が、ぱっくりと裂けているのに気づいた。
 部屋の隅にたてかけてある姿見に映して、しげしげと眺めてみた。切り口はあざやかである。
 時刻は真夜中を回る頃だ。散歩の途上に巻き込まれた小競り合い(というのが彼の認識だった)を軽くいなして、部屋に帰ったところだった。――藍原和馬がどこに住んでいるのか、どんな暮らしをしているのか、知っているものは少ない。いや、皆無と言っていいだろう。どうやら転々としているらしかったが、しかし、すくなくとも並程度に文明的な生活ではあるようだった。
 その証こそ、他ならぬ黒いスーツだ。和馬のトレードマークとも、制服とも言えるその格好は、いつもそれなりにこざっぱりしている。
「ちっ」
 そのスーツが切り裂かれて、和馬は気分を害したようだった。それでなくとも、乱闘のおかげで、スーツはだいぶ汚れているのだ。舌打ちすると、上着を脱ぐ。これはもう着られそうになかった。永い永いあいだ、独りで生活している和馬である、洗濯くらいはできたであろうが、裁縫となると話は別だった。
「あいつだな。鋼糸が得物の小僧だ」
 今しがた、月下の倉庫街で出会った刺客を思い出した。
 鋭く研ぎすまされた鋼の糸の一撃。首を落とされるのは免れたものの、着衣にはかすってしまったのだ。
「ったく。おちおち散歩も出来やしねぇ」
 スーツの下の白いシャツも、すっかり汚れてしまっている。和馬は忌々しげに、これもまたあらっぽく脱ぎすてた。
 切れかかった蛍光灯のまたたきの中に、彼の半裸が浮かび上がる。
「……」
 よく鍛えられた胸板の下……、まったくむだなく引き締まった脇腹とのあいだに、傷痕があるのが見て取れた。
 そういえば――、ずっと、今夜の彼の行動を注視していた目が、もしあったなら、不思議に思ったかもしれない。倉庫街での闘いで、和馬は、暗殺者の影の中にひそんでいた異形の獣とも一戦を交えたのだ。奈落のような闇の中から襲い掛かってきた、血塗られた獰猛な牙と、狂気じみた怒りに燃える目をもった獣。不意をつかれたということもあるが、殺し屋本人よりも、その獣のほうが強敵であった。
 その顎が、和馬の腕に喰い付き、牙は皮膚を突き破り、少なからぬ腕の肉をえぐられたはずであった。現に、脱ぎ捨てられた上着とシャツは、無惨な穴が開き(だから、下衿が切れたのどうの、と言わずとも、それはもう台なしになっていたのである)、白いシャツには、もう赤黒く変色しているが、血がじっとりと染みている。
 しかし、着衣を脱いだ和馬の腕には、かすり傷ひとつ見当たらない。褐色に近い肌は、むしろ、なめし革のように滑らかでさえあった。
 和馬自身もそれに気づいたように、獣の牙につけられた傷が残っていないか、自分の腕を点検し、鏡の前で動かしてみせた。肘を曲げたり伸ばしたりして、筋肉に力を入れて漲らせてみる。問題ないようだった。彼の常人離れした治癒力が、それをなしとげていた。
 それならばなぜ――、和馬の胸には古傷が残っているのか。
「俺を殺りたきゃ、銀の糸にすりゃいいのによ」
 ぼそり、と、一人ごちた。
 一瞬――、
 灰色の空から舞落ちて来る雪を背景に、彼に向ってきた刃の輝きが、和馬の脳裏をかすめた。
 灼けつくような痛み――。血がほとばしるような、女の叫び声。
(……このオオカミ!)
 そう――
 人であり、獣である存在は、ただ、銀製品によってのみ傷つけられる。
 その伝説を、憶えていたものが、かつていたのだ。
(そうだ、あいつ……)
 血を映したような……まるで、自分自身が今まで手にかけてきたものたちの、血に染まったとでもいうような、深紅の瞳をもった青年だった。
 小器用だが、所詮それだけの、鋼糸の技になど、和馬は後れをとらない。
 だが、影の中から彼の駆る獣に襲われた瞬間、和馬が思い出したのは、まさに、あの雪の日に、和馬の身体に突き立てられた銀の刃のことだったのだ。
(どこか、似てやがるんだ)
 和馬にとって、人間というものの謎と神秘を象徴する翠の瞳を持った女と、熱病のような昏いかぎろいを灯す紅の瞳の殺し屋とが。
 どこにも、似ているところなどあろうはずがない、と頭では思うのだ。……思うのだが――
(切羽詰まってやがるんだな……)
 銀の短剣は、肋骨の間をすりぬけて、あやうく、和馬の心臓に達するところだった。いかな和馬であれ、銀の武器で心臓を突かれては、おしまいだった。そこまでのことができたのは、和馬の油断もあったかもしれないが、とりもなおさず、あの女の一撃が、彼女の全人生の重みをかけて行われたことを意味していたのだ――。
(あの小僧は、大物だな)
 和馬は思う。
(あの物騒なペットを飼ってるってだけでも……大したヤツだ)
 それは、しかし、ほんのひとときの追憶だったし、物思いだった。
 それから和馬は、さっさとスラックスのほうも脱ぎ散らかすと、シャワーへ直行。鼻歌まじりに汗と埃を落とすと、さっさとベッドにもぐりこんでしまった。今夜ばかりは、日課のネットゲームもやらなかった。
 うっすらと、東の空は白みはじめていたが、和馬は高いびきで、白河夜船。
 なにかいい夢を見ていたらしく(あんな目に遭った後だというのに)、その顔は、妙ににやにやしているのだった。


 藍原和馬は、もの憶えがそう悪いほうではない。
 しかし、彼が、普通に出会った人の名を、体験した出来事の数々を、記憶していくことはある意味で虚しいことだった。
 なぜならば……、
 彼の知り合った人間たちは、何十年かの後には必ず老いて死んでゆくのだし、そうなると百年前の出来事の記憶は、持っていても意味がない。
 だから、出会った人間のことを、和馬はいちどは忘れるのである。
 もしその必要があるならば、運命はふたりをまた引き合わせるだろう。そのときに、またあらためて、思い起こせばいいのである。
 だから、翌日にはもう、彼はけろりとして、昨晩の襲撃のことも、紅い瞳の殺し屋のことも、思い出すことはないのだった。

 だがそれでも、月の晩に、ふらふらと夜道を行くときには……
(そういや、あいつ……)
 口の端に意味ありげな微笑を浮かべて、
(今頃、どうしてんのかねェ――)
 などと思ったりもするのである。
 新しいシャツの下、和馬の肌の上に銀のナイフがつけた傷が、いまだ消え残っているように……、あの青年の記憶も、決して消えたわけではないのである。
(おっと)
(てめぇの命を狙った野郎の消息を心配するたぁ)
(俺もお人好しが過ぎるってもンだ)

 そして、和馬は今夜も、
(おウ、いい月だ――)
 月下の散歩をやめないのである。

(了)