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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


花香折る苑歓葉施

『 屠るだなんて、そんな醜いことはしない。飽くまでも、美しいものを美しいまま 』
 花を一輪、手折った。
 何故かは知らない。名も知らない。何処かも知れない、ただ花を。
 夢の中で橘都昏は、花を一輪手折った。
『 美しいものを美しいまま。欲する心は渇望に似て 』
 都昏の掌中、花は見る見る内に色彩を失いついには枯れ、風に吹かれて粉々と砂塵と帰して散り消える。
 それを見送った都昏はゆっくりと面を上げた。双眸の色は禍禍しいまでに金。まるで黄金色の月が叢雲から姿を現すように、淫魔の瞳がじわりと絶世の光を放ちだす。
『 ────足りない、まだ。この身の渇きは潤されぬ 』
 都昏は手を伸ばす。指先は一度虚空を掻いたかと思うと、不意に長い長い黒髪を鷲掴む。途端に身の内へと流れ込んでくるは愉悦。明らかな笑みを形取るは唇。豊かな髪が次第に色褪せるのに反して月の瞳は輝きを増してゆく。
 やがて髪の主の身体から重みが抜けた。都昏は髪を引く。仰向けに落ちてくるその人の顔──精気の失せたその顔が金の瞳に明瞭りと映った。
 ────それは、花と同じく枯れ果てたいつかの名も知らぬ女性の骸。

「…………」
 目覚めたのは夜の闇の中。寝汗に身を震わせながら都昏は己を掻き抱く。
 夢にしては余りにも生々しい感触が、指の──彼女の髪を掴んだ爪の先にまで烙印のように残っていた。


**************

 よいしょ、と掛声を掛けながら数藤明日奈はバンに乗せていた花束を両手一杯に抱え込む。置き忘れがないことを確認し、初めて訪れる中学校の校門をいそいそと潜った。
 頃は初夏、緑が殊更眩しく生える季節のことである。
 「アーネンエルベ」という小さな花屋の店員をしている明日奈は今日、とある中学校に花束の配達に来ていた。何でも教育実習生への送別品だとかで、「若い人が喜ぶよう色取り取りの花束にして下さい」との注文を受けた明日奈は張り切って花を選び、アレンジを仕上げた。この山盛りの花束は、つまりその真心を込めた集大成というわけだ。
「ええと、職員室は……こちらですね」
 一つ目の角を、渡り廊下へと折れる。
 右手には先刻入ってきた校門が遠くに見え、左手には校舎に挟まれた中庭がある。空はからりと晴れ上がった青空で、首筋に浮かんだ玉の汗を涼風が撫でていくのが清清しい。またその谷間を行く風に中庭の花壇に植わった花々もが揺らめいていて、明日奈は自然目を細める。良い光景だ。そう思いながら、懐中の花々へと話しかけた。
「皆はどうですか? そう思いません?」
『──良い天気、晴れた空──』 『──美しい風、優しい風──』
「……ふふ、そうですね。良いお天気です」
 足を止め、天を振り仰いだ明日奈の耳に届いたのは花の声。その能力が聞き取った、この宝石たちの声だ。快いその囀りに明日奈は微笑を浮かべる。さて先を急がなくてはと歩き出した────その歩みが。
「……あら?」
 ふと、もう一度止まる
 ぱちりと一度瞬きしてもう一度花壇を見遣れば、視界に引っ掛かったのは花ではなくそこに立っている人影だった。何だか憂いを含んだような横顔が見つめているのは、土より生い出でし花々。詰襟の学ラン姿から一見してここの学生だということは知れるが、明日奈はその髪に瞳に面立ちに強烈な既視感を覚える。あれは、あの少年は、確か────。
「………あ、」
 閃きに、思わず声が上がる。思い出した、あれは、あの少年は。
「あのっ、すいません」
 廊下を外れ中庭に出る。声に気付いたその肩がびくりと反応し──振り向いた少年の顔に、明日奈は間違いないと確信する。花を揺らしながら駆け寄り、「お久しぶりです」と首を傾いで微笑んだ。赤紫色の髪を持つその少年は──そう、先日明日奈が店で助けて介抱した少年は、そこで大きく目を見開いた。
「ここの学生さんだったんですね。驚きました。その後、御体の調子はどうですか? きちんと眠れています? あ、私、今日はこの花束を届に来たんですけれど……」
 嬉々として話しかけるこちらとは対称的に少年は驚愕で表情を凍らせている。瞬きを繰り返し、困惑に視線を泳がせているのが見て取れるほどだ。素直に再会を喜んでいた明日奈はそれに気付き、「あ」と洩らして口を噤む。
「ごめんなさい。驚かせてしまいましたね……」
「………、ゃ」
「え?」
「いや、……ちが、っ」
 彼の声は掠れていた、まるで喉が引き攣ったかのように。
 初め明日奈は、突然声を掛けたことが不快だったのかとも思った。だが何やら様子がおかしい。ふと見れば、口許に遣った彼の指先が震えている。ああもしかしてまた具合が良くないのだろうかと、思い至り、明日奈が眉を寄せた────その瞬間。
「きゃっ!」 「わっ…!」
 風が吹いた。一陣の突風が。
 激しいビル風は中庭を一直線に吹き抜けて明日奈の長い黒髪をばさばさとはためかせる。視界を覆って余りある漆黒。明日奈は思わず片手を伸ばす。身を屈め、髪を頭を必死に押さえた。────その時、とす、と軽い音がした。
「…………」
 風が収まったのを確認し明日奈は恐る恐る顔を上げる。髪を後ろへと払いふうと息を吐いて、気付いた。
 ────自分と少年との間に、取り落としたのだろう花束がひとつ。
 明日奈は残りの花束を零さぬよう慎重に手を伸ばす。だが、それが到達する前にもう一つの手が──咄嗟に差し伸べたのだろう彼の手が落ちた花束に触れかけていた。
「あ、……」
 少年の戸惑う瞳と屈みかけた明日奈の視線とがかち合う。何故か漣のように揺れているその双眸。見て取って、明日奈は安心させるようにゆっくりと微笑む。
「ありがとう」
 先んじてそう言えば、彼はおずおずながらも花を掴んでこちらへ渡してくれ────。

『 美しいものを美しいまま この身の渇きを潤すために 』

「………!」
 その時、衝撃が二人を貫いた。
 少年の指先が触れた瞬間、その一瞬で花が。
 陽光に照らされ風に揺られていたその色取り取りの花が。
「……枯れ、た……?」
 二つの双眸が見開かれる。明日奈が呆然と呟いた途端、少年の足が地を蹴った。
 枯れた花を地に取り落とし、踵を返して背を向けて。引き留める間もなくその後ろ姿は校舎の角を曲がり、あっという間に姿を消してしまう。────それこそ、逃げるかのような素早さで。
「……どういうこと、なんでしょう……?」
 明日奈は今更追うことも出来ず、ただ形の良い眉を寄せて困惑を露にする。拾い上げた花束は見るも無残に色褪せ、枯れ果てていた。まるで命を、この空の元に華やいでいた花の命を根こそぎ奪われてしまった、そんな風情だ。
 そう、灰燼に帰したのだ。花が。命が。
 花が。
「……どうしてですか?」
 穏やかな風が通り抜ける。明日奈の髪が揺れ、最早砂塵となった茎が葉が花弁が、揺れ吹かれるのに任せて砕けていく。
 その行く末を、明日奈は常ならぬ憂いを帯びた表情で見つめていた。

**************


 満ちる。────月が新円へと近づくように。
 満ちる。────潮が星の力に引かれるように。
 満ちる。────甘く芳しく切なく疼く。

『 喉元に突き上げる。確かに貪ったという生々しい充実感 』

 ────命を食んだという恍惚感。


**************

 中庭を一気に駆け抜けた都昏は人気のない水飲み場で漸く足を止めた。
 肩で呼吸を繰り返す。蛇口を全開まで捻り、溢れ出た水で口を漱いだ。口内に滲むものを洗い流すように無理矢理水を注ぎ込んだ。
「僕は、あんなことを……」
 口先と理性が驚愕するのとは裏腹に体は明らかな満足感を得ていた。一時の凌ぎとはいえ──いやだからこそ、乾いた砂漠に注がれた一滴の雫は見る見るうちに都昏の渇きを満たし、そして煽っていく。
 もっと。 もっと。 もっと、もっと。
 昼食後の休み時間にふと足を止めただけだった。他意はなかった。でも、足が止まったのは花の前だった。狙っていたのか。欲していたのか。理由は後からつけられる、でも後からつけるに相応しい理由が都昏には在る。
 もっと。 もっと。 もっと、もっと。
 まさかあの女性と再会するとは夢にも思っていなかった。自ら遠ざかったのにこんな生活圏で出くわすなんて。これも自分の力の内か。それほどまでにこの血は仕組まれているのか。
 彼女の前で花の精気を吸ってしまうなんて、もう。(もっと、もっと)
 彼女という花の精気を欲してしまうなんて、もう。(もっと、もっと)
 ────もっと欲しい、だろう?
「…………っ」
 都昏の身が明け方と同じく震える。水音が、やけに耳の奥で反響していた。



 午後の授業を上の空で遣り過ごした都昏は、早々に帰宅するべく鞄を持ち、教室を後にした。放課後の喧騒が早満ち始めている校内を足早に過ぎ行く。視線はずっと足元に落としたままだ。悪心の理由など問うまでもなく、つまりは極度の渇きのせい。花の命を吸ったせいだ。なまじ与えたから余計に飢えが際立つ。だから我慢していればその内忘れる。対処両方でしかないけれど遣り過ごせる────。
 足が僅かにふらついていたけれど、頭は冴えていた。いやむしろ、叱責して理性を保とうとしていたのかもしれない。呑まれてたまるかと、細い腕であえらかに抗って。
 ────だからその影が見えた時、一瞬意識が遠のくかと思った。
「……お帰り、ですね?」
 最初に目に入ったのは影になった頭の部分。顔を上げていくにつれ革靴の爪先が現れ、そして長いスカートが、ふわりと豊かな黒髪が揺れ。先の無残な花の骸、それを抱えている腕を辿っていったところに。
「…………」
 都昏は息を呑み、これ以上ないほどに瞠目した。
 あの女性がそこに、校門のすぐ前に、立っていた。
「注文されていたお花が一つ足らなくなったので、一度店に戻り、それからまた配達に来たんです。待ち伏せてたわけではないんですけど……」
 ────待っては、いたのかもしれませんね。彼女は僅か苦笑して首を傾ぐ。
「……訊いてもよろしいですか?」
 何を、と彼女は言わなかった。都昏も問わなかった。
 ただ、彼女は無言のまま先の花束を差し出して。都昏はそれから目を背けて。
「……もしも言いたくないならば、無理に聞き出したりはしません。でもずっと、出会ったときからずっと貴方……この枯れてしまった花のよう。痛ましいほど渇いているのに言葉を持たないでいる花のよう……だと、あの時から感じているんです」
 だから。
「せめて私が貴方の言葉に耳を傾けたい……と思うのは、身勝手過ぎるでしょうか?」
 彼女の声は穏やかだった。耳より入りて心に沁むる。満ち、満ちる。
「…………」
 都昏はゆっくりと視線を戻す。彼女の少し思いつめたような顔。青い瞳。その手にある枯渇した花。枯れた命。
 喧騒は遠い。人影はない、彼女と自分の二人きり。
 風が髪を揺らす。彼女の声が琴線を揺らす。
 どうしてか。────でも、確かに。
「………き、を」
「え?」
「精気を、吸いました。僕は……人ではないから」
 口にしたら、胸にちくりと棘が刺さった。ああやっぱりそうなんだと、思い知るのが痛かった。
「僕の両親は、異世界の住人で、共に”淫魔”という種族なんです。だから、僕もその血を引いている。”淫魔”は、他の生き物の精気を、吸い取る種族。花の精気だって、奪って、しまって、」
「……だから、花が枯れたんですか?」
 首肯する、その面を上げられない。彼女の表情を覗うのが何故か怖かった。居たたまれなくて、また逃げ出したかった。
 ────暫く沈黙が下りた。
 彼女は突然の話を懸命に咀嚼しているのかもしれない。自分は、それを待つことしか出来ない。
 その間にも”淫魔”は──自分の一部は誘惑する。飢えを満たせ。渇きを癒せ。そこに極上の花があるだろう?
(花を一輪、手折った)
 花の蜜は甘かろう。芳しかろう、抗い難かろう。夢のように手折ればいい。髪を掴んで引き倒し。
(途端に身の内へと流れ込んでくるは愉悦)
 美しき花を美しいまま、この身の糧としてしまえばいい。

「でも花を……本当は枯らしたくないんですよね?」

 沈黙の帳を破った一声。都昏は弾かれたように顔を上げる。────そこには、意外にも彼女の優しい微笑が待っていた。
「好きで枯らしているんじゃない。辛くて堪らないから、渇きを癒したいから枯らさざるを得ない。そうなんですよね?」
 だったら、と彼女は接いで。
「少しずつなら、枯らすことも我慢することもないんじゃないですか?」
 その言葉を咄嗟には理解することが出来なくて都昏は瞬きを繰り返す。
「ええとですから……定期的に、私の精気を貴方にあげられたらいいんじゃないかと、思ったんですけど」
「…………」
「……あの?」
 都昏はごくりと喉を鳴らす。漸く洩れたのはか細い呟きだった。
「じょうだ、」
「いいえ」
「……本気、ですか?」
 はい、と頷いた彼女の微笑は崩れない。翳らない、曇らない。つまり大真面目だということだ。
「だってそんなこと、僕は、人として……”淫魔”ではなくて、だから、そんなことを、」
 戸惑う都昏の手を不意に彼女が取った。綺麗な両手で、そっと都昏の手を包み込む。びくり、と硬直したその指先から血流のように温かいものが注ぎ込みかけて、都昏は慌てて彼女の緩い拘束から逃げ出した。
「本気なん、ですか?」
 一歩身を引いた格好。上目遣いで彼女に問う。
「ええ、そうですよ」
 答えたのは春風に似た声。地を干す陽光ではなく、心を温める日の光。
 たおやかな外見に反して彼女の意志は強そうだ。(その花の蜜は如何程甘いか)人の精気を吸うことは自分の目指す生き方に沿わない。彼女の言う通りにすればこの極度の渇きは潤される。(その花の蜜は如何程芳しいか)もしもこれ以上と欲してしまったらその時は、その時は────。
「数藤明日奈、といいます」
 思考が錯綜していた都昏に、彼女──明日奈はそう告げた。そして何の衒いもなく、今一度手を差し伸べてくる。
「これからよろしくお願いしますね。あ、そうだわ、貴方のお名前も教えてもらえますか?」
「…………」
 ────負けた。都昏はがっくりと肩を落として白旗を上げる。
 何てことだろう。自分の悩む様々を彼女は容易く薙ぎ払うのか、こんな無造作にその手を伸べてくれるのか。────ああ、もう。
「お名前は?」
 問うた明日奈に、観念した都昏はひとつ息を吐き出してから答えた。
「橘、都昏です。……よろしく」
「都昏君ですね。こちらこそ」

 二人の手と指とが交わる。
 明日奈の微笑みが花と咲く。
 都昏の瞳が一瞬黄金色に揺らめき。
 あの夢の残像が脳裏に閃いたけれど。
(花と同じき女性の骸)
 振り払う、今は。
 あそこに辿り着きはしない。決して。
 この邂逅は”淫魔”を悦こばすためにあらず。
 今自分は、人としてこの女性と触れ合っているのだ。

( 花を一輪 、 手折った )

 ────それが、自分の矜持。



 決められていたかのように交わった、二人の道。
 都昏と明日奈の奇妙な関係は、この時より始まる。

 了