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<東京怪談・PCゲームノベル>


旅立ちのストリングス

 ここに、一冊の雑誌がある。
 5月に発売になったばかりの、『月刊ビジネスフラッシュ』6月号である。スマートな体裁と大胆な切り口の記事が受けて、そこそこ部数を伸ばしているビジネス誌だった。
 今月号をぱらぱらとめくっていたものは――、ふいに、毛色の違うページがあらわれたことに目を止めただろう。そこは、毎号、ユニークな事業や製品を展開している企業を紹介しているコラム欄だった。ビジネス誌の常として、誌面を飾る写真はスーツ姿のビジネスマンが大半だったし、あとはオフィスの風景や、商品写真という段になって、ようやく多少、色めいたヴィジュアルがあらわれるといった程度だったのだが。
 はたして、その写真に映っているのは、まだ若い、白人の女性……それも、目を見張るようなプラチナブロンドの髪を流し、淡い色のソフトスーツを優雅に着こなした美しい女性の、微笑む姿だったのである。

  音楽の素晴らしさを伝えたい
  若い才能を支援する事業を展開
  ――EOLH ウィン・ルクセンブルクさん

 ……そんな見出しが躍る。
「素敵に撮れてるんじゃないですか」
 ウィンは、記事から目を上げると、ちょっと困ったような微笑を浮かべた。
 声を掛けたのは、もともとホテルの営業所を手伝ってくれていた女性事務員だった。今はウィンの会社――EOLHの仕事のほうで働いている。
「会社のPRになるのは嬉しいけれどね」
 肩をすくめてみせたウィンの前に、FAXの束が置かれた。
「さっそく効果は出てますよ。テレビが1件、新聞から2件の取材依頼です」
「ま……」
 ウィンのブルーアイズが当惑したようにしばたかれる。
「んー、せっかくだけど……」
 事務員は、察したように、微笑を浮かべて頷いた。
「お断りしておきましょうか」
「……事業もやっと軌道に乗ってきたところだし、マスコミに露出することも大事だというのはわかってるわ。たとえ……マスコミは、単に、外国人女性が会社をやってるっていう興味本位でしか取り上げないとしたって、マスコミってそういうものだし、うまく利用すればいいんだってわかる。でも今は――」
 無意識に、ウィンの手が自身の下腹にふれる。
「今だけは、自分を大事にしておきたいの。テレビ出演まではちょっとね……。新聞のほうで、簡単な電話インタビューか、FAXで質問に答えるくらいなら構わないと伝えて頂戴」
「わかりました」
「……ご免なさいね、会社が大事な時なのに」
 わかってますよ、とでも言いたげな笑みを残して、事務員は消えた。
 ウィンは椅子の背もたれに体重を預けて、息をつく。
 デスクの上のカレンダーになにげなく手を伸ばし、捲った。このところ、それが彼女のくせのようになってしまっている。6月のある一日についたしるし。
(6月……そういえば、あれも6月のことだった)
 しとしとと降る雨の中、草間興信所から持ち込まれた仕事のために、ある人物のもとを訪れた日のことを、ウィンは思い出した。
(もう一年が経つのね)
 音楽家らしいどこか神経質で、狷介な影を宿した青年の横顔がよみがえる。
 当時、売り出し中といった風情だったヴァイオリニストは、その後、一年のあいだに随分、有名になった。何枚もCDが出ているし、もちろん、それらはウィンも聴いている。
 あの日――。
 はげしい雷雨の中で、彼は一心にヴァイオリンを弾いていた。
 今は失われてしまったあの曲……彼の母が、異界との交信からもたらしたという曲を、演奏していたのだ。そしてかたわらには、その曲と奏者を欲したものの姿があって……
 あのとき、ウィンは叫んだのだった。
(あなたの才能はあなたと、わたしたち人間のものよ! 美しい音楽を奏でる人はこの世の宝だわ。そんな、わけのわからないものになんか渡してたまるもんですか!)
 ふっ、と懐かしい思いに、頬をゆるめる。
 思えば、それは、今、こうしてEOLHを立ち上げた動機にそのまま繋がっているものなのだ。
(そうだ)
 ふいに、ウィンの中でひらいめいたものがあった。
 そして、おもむろに、パソコンに向うと、キーを叩き始めたのである。


「はい?」
 電話の向こうから聞こえるざわめき――、誰かが外から携帯電話でかけてきている、と直感した。
「ウィン・ルクセンブルクさんですね」
 若い男の声だった。
「そうですけど、失礼ですが――」
「クラウス蔦森です」
 一瞬、意味がわからなかった。
「え……ええっ!?」
「お久しぶりですね。その節はほんとうに……本当にお世話になりました」
 忘れもしない、あのどこかしら物憂げな、若い音楽家の声に間違いなかった。
「あなたのEメールを、昨日、ようやく読みました。お返事遅くなってしまって……」
「そんなこと。電話くださって、本当に嬉しいわ。今、どこに?」
「成田です。実はこれからロスに発たなくてはならなくて」
「お忙しいのね」
 言いながら、やはり、例の件は難しいだろう、とウィンは思った。
「それにしても不思議な偶然です。つい先日、ビジネス誌であなたがインタビューを受けているのを読んだんです。今は実業家におなりなんですね、ちっとも知らなくて……」
 まさかクラウスにまで、あの記事のことが知れていようとは。ウィンはちょっと面映いような気がした。
「そんなときメールをいただいたから、これは運命だと思って。……ルクセンブルクさん」
「ウィンと呼んで頂戴」
「ではウィンさん。メールで打診いただいた件、是非、協力させてください」
「本当に!?」
 ウィンの声には、よほど嬉しさがにじんでいたのだろう。電話の向こうでも、彼が微笑むのがわかった。メディアで見るクラウスは、どちらかといえば、いつも気難しい(といって悪ければ生真面目な)顔をしていることが多い。けれども、笑みを浮かべれば、梅雨のあいまの晴天のように、すがすがしい笑顔になるのを、ウィンは知っていた。ドイツ人の母の血が高い鼻梁にやせた頬を、日本人の父の血がやさしげな眼差しを、彼に与えた。
「なんだか、つけこんだみたいで……」
 受話器の向こうで、穏やかな笑い声がした。
「そんなことないですよ。これはほんの、僕の気持ちです」
 クラウス蔦森に、ウィンは、彼女のホテルでの演奏を依頼したのだ。
 むろんそれは、知人だからお願いするといったものではなく、正式に礼をつくしての、ビジネスのつもりだった。それはウィンなりの、礼儀であり、けじめであったけれども、しかしそうなると、今や人気のヴァイオリニストのスケジュールやギャランティーの問題は、少々、頭の痛い問題だった。ギャランティーについては交渉の余地があるとしても、スケジュールに関しては如何ともしがたい。世界的な音楽家であれば、何年も先まで予定が埋まっていることだって少なくないのだから。
「でも、ご都合がつくかしら」
「つけます。……つけますよ。すごく忙しくしているように思われているけれど、実際のところ、僕がその気になれば一日くらいなんとかなるものです。……そうそう、気持ちと言えばもうひとつ――。ささやかな、僕の気持ちを届けさせてください」
「え?」
「こんなところで何だけど……どうぞ、そのまま、受話器を離さないで」
 そして、沈黙――
「もしもし? クラウスさん?」
 電話の向こうから聞こえてくるのは、雑踏の音と、空港のアナウンス……、そして――
「……」
 ヴァイオリンだ。
 まぎれもない、弦楽器の、研ぎすまされた音色が聴こえてくるのだ。
 おそらく――
 空港を行き交う人々は、突然、ヴァイオリンを弾き出した青年に、驚いて足を止めただろう。そしてそのうちの何割かは、彼のことに気づいたに違いない。きっと、あっというまに人だかりができて……警備員が飛んできたかもしれないけれど、どうすることもできず、むしろ、かれらでさえ、その演奏に魅了されたようになり……。
 しかし、そんなことを、ウィンが考えたのはずっと後になってからだった。
 そのときはただ、電話を通して聴こえてくる音色にただ集中し、一音も聞き漏らすまいと、目を閉じていたのだから。
 携帯電話を通して行われた、それはたった独りのためだけのコンサート。
 ヴァイオリニストが、時ならぬ空港のロビーで弾く曲は、電話を通して聴くというコンディションであってさえ、ひどく美しく響き、ウィンの胸をうった。
(ロザリオのソナタ――)
 ドイツの作曲家が書いたそのヴァイオリン曲のことを、ウィンは知っていた。
 クラウスの繊細な弓さばきが、優雅に、その旋律をなぞってゆく。
 そして、再び、沈黙。
「……ちゃんと聴こえました?」
「ブラヴォ」
 ウィンは応えた。
 電話の向こうでも、ぱらぱらと、拍手が鳴るのが聞こえた。
「すみません。本当は直接、と思ったのですけど……」
「誰に聞いたの?」
 ロザリオのソナタ(キリストの秘蹟に基づく15のソナタとパッサカリア)。
 それは、キリストの誕生から磔刑、復活までを物語る楽曲だ。マリアのもとに天使があらわれ、受胎告知を告げる場面を表現したソナタ第1番ニ短調から始まる――。
 クラウスは笑った。ウィンの質問には応えず、ただ、
「おめでとうございます」
 とだけ言った。
「いくらなんでも、マリアさまになぞらえてもらうのはちょっと畏れ多いわ」
「すべての子どもらにとって、母親は聖母です」
 いずことも知れぬ異界へ消えたクラウスの母でさえ――。言外の気持ちを、ウィンは受取る。
「ウィンさんなら、いい母親になられるでしょうけれど。……式のほうは?」
「6月20日。ドイツで挙げるわ。やっとつい先日決まったところなの。母が……顧問弁護士をやってくれているのだけど、ドイツでの手続をお願いすることにして、ほっとしたところ。……招待状をお送りしてもいいかしら?」
「もちろん。どのみち、近いうちにお会いしましょう。……すみません、そろそろ時間で」
「ええ。どうもありがとう。本当に――嬉しかったわ」
「Nichts zu danken. Tschus.」
 電話は切れた。
 しかし、ウィンの耳には、ヴァイオリンの旋律が、いつまでも心地よく鳴り響いているのだった。

(了)

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1588/ウィン・ルクセンブルク/女/25歳/実業家兼大学生】

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■         ライター通信          ■
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リッキー2号です。
NPC登場シチュノベ・ゲームノベル(?)、ご依頼、ありがとうございました!

なんだかとても懐かしい気分で書かせていただきました。
作中でも引用したウィンさんの『屋根の上のヴァイオリン弾き』における台詞……
たぶん、当時のプレイングに書いていただいた内容からだったと思うのですが、
まさに、ウィンさんの「今」につながってるんですね……
ちょっと不思議な思いさえしました。

タイトルは、クラウスが空港にいたことと、ウィンさん自身の新たな
出発を祝する意味で。音楽ネタとドイツ語があいかわらず付け焼き刃なのが
あやうい感じですが、ライター自身、一年前を振り返りつつ書いたせいか
ちょっと特別な、一作になりました。ありがとうございました。