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<東京怪談ノベル(シングル)>


花封じの雨


 純色を伸ばしたような、薄く煙りたる空模様の中を、紅の色彩が滑ってゆく。
 水気を含みしっとりと濡つ切り揃えの黒髪も、常なら軽やかに肩を撫でゆくものを、今日ばかりは重く頬に絡むさえある。紅い牡丹のあしらわれた振袖のはっとするような鮮烈な色合いは、曇天の褪せた景にあっては尚のこと眼を惹き――尤も、辺りに人影はなく、時折近くの通りを過ぐ車の水裂く音が、微かに届くばかりであった。
 住宅の密集した路地の辻にて、ゆるゆると己が来た道と、往こうとする道とを見較べ暫く佇んでいたが、求む気配は無しと知るや再び道筋を辿る。
 ――何処に。
 想う姿は霞むことなくこの裡に。
 ――あの方は何処に居られるのでしょうか。
 衣擦れの音も、湿り満ち満ちた空間に奪われて少女は、否、少女を模した日本人形は、また別の路地へと姿を翻した。

 人形は名を、灯火といった。
 姓を訊かれれば四宮と答える。嘗て灯火は四宮家の長女の傍に在り、刻まれた記憶を解いてゆくことでしか当時の様子は知れぬものの、確かに其処には現在にはない何か――言葉で表せぬ足りたものがあったように思う。この「思う」と云う行為ですら、その時の灯火にはなかったものではあるが、思い出せば戻りたい、逢いたいと、切な願いが降る度に、きっと自分はあの方の許にあるのが相応しいのだと感じて、灯火は今日もその姿を捜し続けている。
 もう幾つめになるか知れぬ路地を曲がり、或いは直接転移した先には、何処も同じような冷たく整備された住宅が並ぶばかり。光を映さぬ切れ長の青の眸がそれらを鋭く横切り、都度落胆の色をその視線に滲ませながら、灯火の紅色は蝶が舞うように道をふわりと巡った。
 どの道も、角も、すべてが同じ色形。
 果てなく抜ける空でさえ、今日は暗い雲に遮られて、閉鎖されたこの世界の何処かにあの方が居られるのならば、常よりは幾分か捜し易かろうと思うたけれど。
 ただ重く押し潰されそうな心地では、あの方が心細くしてはいないだろうかと、そう案ずることしか出来ぬこの身。
 頬に張り付いた髪を流し、湿度の高きを疎んじて、別の場処へ向かおうとした、際、
 真藍の、
 色褪せた空間に唐突の鮮やかさ。
 小さな花が寄り集まり大輪と成す――紫陽花を見付け、灯火は足を止めた。
 それは懐かしき花。
 近付き、袂を押さえてそっと花に触れる。花は揺れ、萼から零れた先の雨の名残の一滴が、落ちる。花の色は記憶のそれと重なって、ぶれて、また合わさり、四宮の家の庭に咲いていた色合いが、まざまざと浮かんだ。
 あの方の家にも咲いていた花。
 今頃も、変わらずあの庭で咲いているのであろうか。当時の灯火は、家の中からその姿を眺めることしか出来なかったが、青の藍の紫のと、取り取りの階調が特に雨降る庭では一等美しく、自分を撫でる手の温かさと共に甘く覚えている。
 それは恋しき花。
 ふと、肩を軽く打つ音が耳に届く。
 空を仰げば頬にも、と、ともうひとつ。雨は再び降り出したよう、すぐさま次々に落ちてきて、灯火は着物が濡れては困ると袖で顔を覆ったかと思うと、緩やかな風に紛れたように、ふいと姿を消した。
 次の瞬間には、砂利を踏む。先程の紫陽花が見える家の軒先屋根の下、灯火の小さな体は其処に在った。僅かに湿ってしまった振袖を一撫でし、改めて雨の風色に沈む花を眺め遣る。つい先程までその場処に居たというに、まるで其処だけ切り取られたように灰色の中に藍は密に存在し、何者をも拒んでいるようでもあった。雨に打たれた葉が時折ゆらりと揺れるのが、雨音の他に何も聴こえぬ広がりでは不思議な様に見える。
 否、動くものはそれだけではない。
 雨に動かしていたのかと思われた葉の一枚が、明らかに規則的な韻律を刻んでいる。暫く凝視していると、その葉を打っているのは雨ではなく、人の指であると気付いて、灯火は頸を傾げた。とん、とんと、葉が揺れる。揺らされる。指が葉を叩き、葉は応えて揺れている。細く白い指で、雨靄の中でも尚ぼんやりとした光を纏い、人差し指で、葉を叩く。
 葉の上にあるのは、指だけである。
 傾げた頭を戻して、眼を凝らす。やはり指は指だけで、葉を叩き続けている。灯火はそっと腕を持ち上げ、指先をその葉の方へ向けて――葉の動きを止めた。念動力である。
 葉が止まった後も指は葉を叩いていたが、葉が灯火の力に因って固定されたままであるので、暫くして指の動きも止まった。指は、葉脈を辿るように葉の上を引き摺り、そのまま葉を離れて宙に浮き、そして空中を移動する。此方へと。灯火は腕を下ろし、凡そ表情と云うものの無い整った顔立ちを上向かせ、その指の動きを見詰めた。だらりと下げられた指は灯火の前で止まり、弧を描くように上へと動いて、灯火の頬に触れた。灯火はちらりと視線を其方へ刹那向けたが、すぐに眸は自分より高い位置のそれを捉える。
 金色の双眸。
 頬に触れていた指の感触が消えたが、併し灯火から離れることはなく、いつの間にか指は指だけではなく掌を伴ってい、その大きな白い手で以て灯火の眼を覆い隠した。
「……人形か?」
 酷く硬質な声。
 灯火の視線を遮っていた手が退けられる。
 眼の前には指と眸だけではなく、すべてを揃えた人間の形をしたものが、居た。灯火も人を模して作られた物ではあるが、この相手は人間の手で作られた存在ではないと云うことは、先程触れた時に判った。故に意思の感じられぬ相手である。
 灯火は問いに答える代わりに、浅く礼を返す。頭上では小さく笑みを洩らす気配。顔を上げ直し改めて相手をまじまじと見れば、黒髪の男であった。年の頃は二十とも三十とも取れる不思議な顔立ち、眼を凝らしてもその肌も輪郭も薄ぼんやりとしているので詳らかには知れぬのである。長い前髪が目許に懸かるもその奥で金色の眸がぎょろりと見据える。黒の瞳孔は、縦に伸びていた。
「……貴方は蛇、でしょうか」
 問いを返せば男は僅かに目を瞠り、次いでゆっくりと口の端を吊り上げる。先程そうしたように灯火に再び触れようとしてきたので、僅かに身を引くと、代わりとばかりに頭を撫でられた。その仕種が存外優しげであったので、灯火が特に嫌がりもせずにいると、また男は笑った。
「ヒトカタ、お前に名はあるか」
「……四宮灯火、と」
「成程、ヒトのものか。今も?」
「はい。……併し違うのです」
「違う?」
「わたくしの主は、今のお方ではないのです」
 ほう、と男は頷き、灯火の傍らに並んで壁に寄り掛かる。今まで雨の降る中に立っていたが、男は少しも濡れていなかった。
 灯火の持ち主は、四宮家の長女であり、競売で灯火を手に入れたその人ではないのだ。
「……あの方は、何処に……」
 呟きは強まるばかりの雨音に吸い込まれ、届くのもやはり雨打つ音それのみである。
 灯火は男を見上げ、問うた。
「貴方はあの方を、ご存知ありませんか……?」
 男は灯火から視線を外し、「知らぬな」と短く答えた。
 灯火も「そうですか」と応じ、顔を再びあの紫陽花へと向けた。雨は強く、止む気配もない。藍の花は打たれ打たれて、はらりと一枚花を落とした。
「……紫陽花には、香りがあるのでしょうか」
 ふと、灯火は過ぎった疑問を口にした。
「良い香りだぞ」
 男は笑みを含んだ声で答う。
「お前は香りを感ずるか」
 灯火は頸を左右に振り、袖に触れる。長居をし過ぎたか、大事な着物は幾分重くなってしまったよう。
「……けれど此処に居るのは良くないと、それは分かります。わたくしの体は木を削って作られております故に」
「ではそろそろ帰るか」
「そう致します。此処には居ない……あの方を、捜さなければなりませんから」
「主が早く見付かると良いな」
 灯火は頷き、深く辞儀してその場を去る。空間に融け込む間際、男が大蛇に変じて同じく雨降る中へ消えゆくのが見えた。
 ――あの方にお逢い出来たら、紫陽花とはどんな香りかと尋ねてみましょうか。
 今は雨の満ちた世界に封じられて、花の香りはまったく分からぬけれど。
 再会が晴れた日であれば良いと思いながら、灯火は雨から逃れて空間を飛んだ。

 闇にぽつりと紅が咲く。
 大輪の牡丹が深い闇の狭間に舞う。
 言問うことは唯ひとつ。
 ――あの方は、何処に居られるのでしょう?
 青の眸は濡れもせず揺れもせず、また夜に沈んでゆく。
 今宵も。


 <了>