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花曇り
鬼頭郡司は、春が好きである。
といって、じゃあ何が嫌いかと彼に尋ねれば、おそらく郡司は腕を組んで考え込むだろう。
そうだな、スウガクって奴は苦手だな。地上に顔を出さなかったほんのわずかな間に、あんな面倒くさい学問ができているなんて知らなかった。しかも子供はみんなこれを教わって育つらしい。郡司が通っている寺子屋、いや学校も例外じゃない。わかんねえなあ。数を数えるのは両手の指十本、もしそれで足りなければ両足の指も入れて二十本、それで充分じゃねーの?
ま、他の生徒がみんなあんなに必死で勉強してるんだから、何かいいところがあるんだろうけどさ。
それから、洋服というやつ。これも本当はいただけない。故郷の空の上では褌姿で過ごしていた郡司にとって、ボタンだのベルトだののたくさんくっついた服は、着方を覚えるのが本当に一苦労だった。おまけに脱ぐのも難しい。二、三百年ばかり前までは、この国のキモノは、帯さえほどけばぱぱっと下帯一枚に戻れて本当に楽ちんだったのになあ。
……昔に比べていろんな色とか柄があって、見てるのは面白いけどよ。
(……何の話だったっけ?)
そうそう、春の話だ。
◇
この間の「ごうこん」とかいう宴会で知り合った二宮エリカという女の子と話していて、そろそろ花見の季節ですよねという話題を持ちかけられたのがそもそもの始まりだった。
花見。つまり花を見る。それは何か面白いのだろうかと、郡司はまず疑問に思う。花は綺麗だが食えない。無理をすれば食えないことはないが、味がしないし噛んでももそもそと歯ごたえがないので、あまり食う気がしない。
「花見の季節になると、どうなるんだ?」
「どうって……そうですね。私の知ってる公園では、お花見のシーズンに屋台が立ちます」
「屋台っつーと、食い物か? どんなのがあるんだ?」
「うーん……焼きそばとかたこ焼きとか、あんず飴とか」
「それだけか?」
「いか焼きに、チョコバナナに、クレープ」
「ふんふん。あとは?」
「大判焼、たい焼き、かき氷……」
「へえええ。そんで?」
「……えーと……で、でも、食べる以外の屋台もきっとたくさんありますよ。ヨーヨー釣りとか射的とか、金魚すくいとか」
どちらかというとそれは縁日の屋台だが、郡司にはそのあたりの細かい違いはわからない。。
エリカの科白を吟味していた郡司は、不意にうん、とひとつ頷いて、目の前のエリカの手をがっしと両手で押し包んだ。
おおまじめな顔の異性に真正面から覗き込まれたせいか、エリカがなぜか顔を赤らめて身をひく。
「エリカ」
「は、はい」
「花見に行こう」
「はい……は?」
◇
つまりそういうわけで、ふたりでエリカの知っている公園に花見に行くことになったのだ。
なったのだが、郡司はこのときひとつの決心をしていた。
待ち合わせに遅れるのは日常茶飯事で、時には約束そのものを忘れることもある郡司なのだが、実は彼は、今回ばかりはその轍を踏まぬ覚悟だった。
待ち合わせる相手が人間の女の子だったからだ。
鬼のスケールで見ると一日や二日、ましてや一時間や二時間遅れたところでたいした遅滞ではないのだが、人間にとってはどうやらそうではないらしい。寿命そのものが郡司たちよりもずっと短いのだから、まあ当然だ。
そして女の子であるというのが、第二のポイントである。男に生まれた以上、女には優しくするものだ。惚れた女は当然だが、それ以外の女だってないがしろにしちゃいけない。泣かせたり、待ちぼうけを食わせるなどもってのほか。
そんなわけで郡司は、決して二宮エリカを待たせるようなことをしてはいけないと決心していたのだ。
◇
二宮エリカは、春が好きである。
たとえば、日に日にやわらかさを増していく陽光を受けて、芽吹きはじめる草木の匂いを感じるのが好きだ。たとえばアスファルトのほんのわずかな割れ目から、ちいさな雑草が顔を出しているのを見つけるのが好きだ。
東京という街は無機質で味気ないという人も多いけれど、そんなことはないとエリカは思う。
皆自分のことで忙しすぎて、ちょっとした季節の変化に気づけないだけなのだろう。
遊歩道に踏み込むと、ふわりとかすかな香りがエリカの鼻腔をくすぐる。
視界を彩るのは、白というには濃く、ピンクというには淡い色。薄曇りの今日は肌や髪をすべる風がすこし涼しいが、味気ない白い空に花のうすい色彩がよく映える。こういうの、花曇りというのよね?
(少し早すぎたかな……)
学校が終わってからまっすぐ家に帰って支度をして、電車に揺られて数十分。都心からやや離れた場所にある自然公園は、平日の人の入りはそこそこだ。花見シーズンだけあって賑やかではあるが、身動きの取れないほどの混雑ではない。
公園の時計が待ち合わせの時間を指すには、長針があと九十度ばかり回らねばならないだろう。
遅れるよりはいいけれど、もうちょっとのんびり来てもよかったかしら。
あらためて自分の服装をチェックする。春もののピンクのブラウスに、ニットのベスト。スカートはこの間買ったばかりのおろしたてだ。お花見だから座ったりしてしわになるかもとちょっと躊躇したが、せっかくだからお洒落して出かけたいという気持ちには勝てなかった。
大丈夫。服にはゴミや埃はついていないし、髪の毛もはねてない。
もう一度時計を見てみるが、先ほど見たときからまだ二分しかたっていなかった。歩いて見物して時間をつぶしてもいいのだが、ここを離れている間に郡司が来てしまったら悪いな、なんてつい思ってしまうのがエリカの気の小ささだ。
文庫本でも持ってくればよかったかなと、エリカは小さく息をつく。
今どこにいるか、メールしてみようか。でも郡司さん、難しい機械は苦手だってこの間ぼやいていたような気がする。メールの打ち方、というか携帯電話の使い方、郡司さんは知ってるんだろうか。そもそもあの人、携帯を持ってるんだろうか?
◇
「兄ちゃん。兄ちゃん」
揺すぶられて目を覚ます。見覚えのない坊主頭の中年男が、郡司の顔をのぞきこんでいる。はて、誰だ。そう思う間もなく襟首を引っ張り上げられて、寝転がっていた体を起こされる。鮮やかなアロハシャツから伸びた男の腕は、ずいぶんと逞しい。
公園の桜の合間から見える空はもう明るい。曇ってはいるが、きっともう昼間だ。
「おうい、兄ちゃんが生きてたぞう」
中年男が後ろに手を振って声をかけると、遊歩道の向こうにいた連中がわあっと駆け寄ってくる。
「なんだ、やっぱり寝てただけかよ。人騒がせな兄ちゃんだなあ」
「だからそう言っただろ俺が」
「ああでも本当によかったよ。行き倒れかと思ってあたしゃ寿命が縮まったよ」
「そりゃあ今は花見のシーズンだが、兄ちゃん、飲みすぎはよくないよ」
「それとももしかしてやけ酒かい?」
「女の子にふられたのかい?」
やってきたのは茶髪にピアスの若者から恰幅のいいおばちゃんまで。片手の指にはちょっと足りない程度の人数だ。逃げる間もなく取り囲まれて、前後左右、上中下、三百六十度全方位からマシンガンのごとく質問やねぎらいを浴びせられ、郡司の脳みそはぐらぐらと揺さぶられる。
「……俺、寝てた?」
そりゃもうぐっすりと、と、周囲のみんながうなずく。
「朝早く店の組み立てに来てみたら、あんた、桜の木の下で大の字になって人が倒れてんだもの。しかもでっかい鼾かいてさ。浮浪者かと思ったわよあたし」
「しかもあんたのすぐ側に、桜のでかい枝が落っこちてて」
ピアスの若者がおばちゃんの話を捕捉する。
「こりゃおおかた酔っ払って木に登りでもして、枝が折れて落っこちたんだろうってんでさ。
あんたどう見ても未成年だし。飲酒がばれたらあんた、補導だろたぶん。公園の管理の奴が見回りに来る前に枝を片付けて、寝かしといたわけ、ここに」
ここ、と言われて見回すと、そこは遊歩道に並んでいる屋台群の裏側だった。さっきのアロハの中年男が、たこ焼きをパックに包んで客に渡している。
――前日から公園に泊り込めば、絶対に遅れない。そう思っていちばん大きな桜の木に登って寝たのだが、どうやら寝相が悪くて落っこちてしまったらしい。
それでも起きないのだからたいしたもんだと郡司は我ながら感心する。もっとも天空から落っこちてきたときに比べれば、あの程度の高さはなんでもない。
そのまま寝こけていたところを、テキ屋の人々に拾われたというわけだ。
よほど安心したのかちょっと涙ぐみながら、ごましお頭の老人がばんばんと郡司の肩を叩く。
「自棄になっちゃだめだよ、若いの。まだ人生これからじゃないの」
「じいちゃん、別にこの人身投げしたわけじゃないから」
「女にふられたぐらいなんですか。女なんて星の数ほどねえ……」
話を聞いていないらしい。だが、老人の『女』という言葉に、はっと郡司ははっと我に返る。
「おっちゃん、今何時!?」
◇
おうい、という声がしてエリカは顔を上げる。
待ち合わせの五分前。遊歩道の人の流れを逆走してくる郡司は浅黒い顔を真っ赤にして走ってくる。長袖のTシャツにカーゴパンツという服装には、なぜか桜の花びらがあちこちくっついている。
全速力で走ってきたのか、エリカの前にたどりつくと郡司はぜいぜいと息を切らしながら膝をついた。
「嘘だろ……なんでいるんだよ。五分前なのに」
絶望したように見上げられても、エリカには、なぜ郡司がそんな顔をするのかわからない。どうしたんだろう。そんなに私が先に来てたのがショックだったのかな。
「ちょっと早く来すぎちゃって」
その言葉に力尽きて、郡司はついにばたりと倒れた。薄紅の花びらが層になって降りつもった地面の上、空を見上げて大の字になる。
「ぐ、郡司さん?」
「……せっかく泊り込んだのに」
「あの、何かあったんですか」
「昨日からなんにも食ってねえってのに……」
その言葉を受けて、エリカは、え、とちょっと驚く。郡司の健啖ぶりは合コンですでに確認ずみだ。どれだけの距離を走ったのか知らないが、いつも体力に満ち溢れた郡司がこんなにへばっているのは、もしかして空腹のせいなのか。
「あの、屋台に行きましょう? 私、少しなら、おごりますから」
落ち込みぶりがあまりに哀れでそう声をかけてみる。
がば、といきなり身を起こされて、エリカはあやうく郡司と額をぶつけあうところだった。
「マジ?」
「す、少しなら」
「やー悪いなっ。あのおっちゃんのたこ焼きすっげー美味そうだったんだよな」
「お、おっちゃん?」
「ばーちゃんの焼いてたイカ焼きも、見てたらヨダレ出そうだったぜ。りんご飴もあったな。いやいや、まだ時期的にちょっくら早えがかき氷って手も」
「あ、あの。さっきから何の話を?」
話についていけない。混乱しかけたエリカに業を煮やしてか、郡司はひょいと身軽に立ち上がった。そのまま、エリカの左手をつかむ。
「いいからついてきなって!」
「あ」
強引とも思える強さで引っ張られる。不思議と嫌ではなかった。食べ物のことで頭がいっぱいな少年が、なんだか微笑ましくさえ感じる。はしゃいでいる様子はまるで子供だ。
弟がいたら、もしかしたらこんな感じかしら?
花曇りの午後、桜の花びらがちらちらと舞い落ちる中で。
屋台の立ち並ぶ遊歩道を、少年に手を引かれながら、少女は駆けるようにそれを追いかける。
たこ焼きやイカ焼きやりんご飴を商う屋台の人々が、少女の手を引いて走る少年に冷やかすような野次を飛ばすころには、いつしか二人とも笑いながらその間を走っていた。
鬼頭郡司と二宮エリカは、春が好きである。
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