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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


水妖の夢

【壱】

 ひっそりと吹く風に雨の香りが滲む。時折小さな雫がフロントガラスを濡らし、まだ翳る気配を見せない陽光の下にその姿を消してしまう。細く開かれたウィンドウからも風とともに小さな水の雫が忍び込んで来る。それを受け止めるようにして海原みそのは窓の外に視線を向けている。長い漆黒の髪が窓から吹き込む風に艶やかに揺れて、そこから匂い立つ仄かな香りに動揺を隠せない三下忠雄がハンドルを握っている。たとえみそのの姿が黒のビニール製の雨合羽に包み込まれていても、その下が漆黒の大人びたビキニとパレオであり、そして何よりしんとした水底のような雰囲気と妖艶な色香が三下を動揺させるのだ。
 どうしてこんなことになったのだろうかと、ふと三下は思う。意味もなく妖の類に好かれる人種であることは経験からそこはかとなく感じられる。けれど今まで一度だってこんなにもしっとりとした雰囲気を持つ女性を車の隣に乗せたことなどなかった。仕事だからか、思う心とは裏腹にいつかこんな日が来ればいいのにと思う自分も本当だった。
「三下さん」
 不意にみそのが口を開く。
「はっ、はい……」
 心の内を見抜かれたような気がしてふと切りそこねそうになったハンドルをぐっと握り締めて、三下は答える。
「そんなに緊張なさらないで下さい」
 柔らかな微笑と共に云われて、三下は余計に躰を縮める。明らかに年下である外見であるというにも拘らず、みそのの持つ独特の雰囲気がそれを否定させる。長き年月を重ねてきた女性のような雰囲気はとても落ち着き、僅かな隙も感じられなかった。
「わたくしにできることが本当にあるのかもわからないのですから、そんな腫れ物を触るように接されましても期待されてしまっているようでかえってこちらが恐縮してしまいます」
 みそのは云って、どこまで躰を小さくする気でいるのだろうかという三下に再度微笑みを向ける。
 ふと耳元を撫ぜるように吹き抜けていった噂が、みそのを今ここに導いた。湖での連続失踪。それも示し合わせたように男性ばかり。近隣の住人は水神様の祟りだと恐れているのだそうだ。
 果たしてその噂のどこまでが本当で、どこまでが噂なのであろうか。思いながら水の匂いが濃厚になる空気を頬で受け止めるようにみそのは窓の外へと視線を向ける。
 空にはまだ雲一つない。
 けれど気配でわかる。
 もうすぐ雨が来る。
 感覚がそれを確信していた。

【弐】

 三下の運転する車を降りて、細い獣道をしばらく歩くと不意に視界が開けた。
 目の前に広がる広大な湖。その水面は静かに息を潜めるようにしんとして、祟りの気配など微塵もない。みそのはただの噂なのだと直感する。噂とは当人を置き去りにして、事実だけが先走るものだ。口さがない人々の口から口へと渡り歩き、いつの間にか当然のようなフォルムを形成してしまっている。水神様の祟りなどと云われている当人が誰よりも迷惑している筈だろう。
 ―――おまえも、あたしの祟りだと云いたいのかい?
 不意に辺りに鈍く声が響く。
 まるで水底で聞く音のようだと思うみそのの背後で、三下の小さな悲鳴だけが鋭く空気を震えさせた。その響きと声の響きが確かに違うものであることを確認してみそのは小さく息を吸い込む。
 ―――人は愚かだね。何時の世も変わらぬ。
「ではあなた様ではないとおっしゃるのですね」
 凛とした声でみそのが云うと不意に辺りに微笑の気配が満ちる気がした。
 濃密になる水の香り。
 肌を撫ぜるしっとりとした空気。
 ―――どうしてあたしが下賎な人間の男の相手などをしなければならないと云うんだい。
 声と共に、みそのは不意に腕を引かれるような強さと背後で響いた三下の悲鳴を感じて、はっと我に返ると目の前に整った顔立ちの女性がいることに気が付いた。
 水底の気配。
 柔らかな水が全身を包む。
 けれど苦しくはない。
 泳ぐことはできないのというのにそうした恐怖ない。
 ただ懐かしいと思うだけだ。
 ―――おまえは巫女だね……。
 確信を得ているような女性の問いにみそのは丁重に頷く。腕を掴んだままの手の冷たさは水の温度。水中を漂う水草のように長い黒髪がゆらゆらと揺れる。優雅に水中を漂い、湖を統治している絶対的な気配。
 神なのだと思った。
 思慮深い声で女性は云う。
 ―――ついておいで。
導かれるようにして腕を引かれ、どこまでも深く潜っていく。水が二人のために道を開いてくれるかのように抵抗を感じない。ゆるゆると深く沈んでいく感覚はただ心地良く、眩暈すら覚えるほどだ。長い黒髪同士が縺れ合う。水は一本一本を慈しむかのように撫ぜ、櫛を通すかのように静かに流れていく。
 ―――あたしの過ちを見ておくれよ。おまえなら、何かよい策を持っているのかもしれないだろうしね。
 その言葉を最後に、どれだけ下降し続けたことだろう。
 女性はみそのの手を掴んだまま、緩やかに水を掻いて水底を目指す。導かれるようにしながら突き進み、ふとみそのは辺りに小魚一匹姿がないことに気が付いた。どんな所でもこれだけ深く潜れば魚の一匹くらいはいるものである。それが全く見当たらない。魚だけではなく水草も、そしてわずかな微生物の気配もなかった。
 そして不意に一つの答えに辿り着いた。
 時間が流れていない。
 止まっているのだ。
 ある一定のところで停止したまま、動くことを止めているのだ。
 ―――この骸の山を見てごらん。これがあたしの過ちさ。
 女性が手を離す。するとみそのの躰は静かに水に包まれ、支えられるようにして水底に着地する。半透明な鰭が視界を過ぎる。ふとそれに視線を向けると、女性の下半身は美しい薄水色の鱗に包まれ、滑らかな鰭を水中に遊ばせる魚のようなそれだった。
 ―――人間を愛したのが総ての始まりだったんだ。
 回遊するようにみそのの周りを滑らかに泳ぎながら女性が云う。
 ―――禁忌に触れたのさ。だから罰を受けた。この湖は死に覆われ、魚も水草も、微生物さえも失われてしまった。
 違うとみそのは思う。
 目の前に広がる女性が云う骸の山に死の気配はない。ただひっそりと停止している気配があるだけである。眼前の骸の山だけではない。湖自体が、今みそのを包む水自体が停止しているのだ。
 なぜ気付かないのだろうか。
 こんなにも明らかな時間の停止に、どうしてこの湖の主である女性自身が気付かないのか。
 ―――罰なんだよ。人間との間に子どもがほしいと思ったあたしの浅はかな願いに対するね。
 その言葉にこの時間の停止こそが罰なのだとみそのは気付く。
 そして女性自身がそれに気付けないことが罰なのだとも。
「本当に愛していらしたのですか?」
 ―――でなければこの姿を見せたりはしなかったさ。そしてこの姿を偽ってまで陸に上がりなどしなかったよ。
「後悔なさっていますか?」
 ―――いや。……この男たちを不憫だとは思うけれどね、己の行動に負い目を感じることなど少しもないさ。本当にあいつがいればそれだけでよかったのだからね。浅はかなことだとおまえは笑うかもしれないが……。
 女性の言葉に、みそのは流れを戻すことなど容易いことだと思う。止まっていることこそがおかしいのだ。それを進めることなど容易い。
「では、あなたの罰を解いて差し上げましょう」
 云って、みそのはそっと停滞した時間の縺れに手を伸ばすように目蓋を閉ざす。鎖に絡め取られた時間の流れをそっと元に戻すために、流れの根源を求めるようにして目蓋の裏側に広がる闇の向こうを見極めようと努める。手探りにそっと解れをほどき、当然の流れを取り戻す。
 来た。
 思った刹那、不意につんざくような女性の悲鳴が水中に木霊した。
 はっと目を開くと目の前に腐敗の光景。堆く積み上げられていた人間の躰がぼろぼろと崩れていく。そしてそれらの人々の目は一様に同じ色、同じ雰囲気を宿して女性に向けられていた。
 ――――……っ!
 女性がみそのの知らない男の名前を呼ぶ。
 これが罰だったのだ。
 愛した者から向けられる憎しみを受けること。
 それが罰だったのだ。
 思った途端、みそのは不意に息苦しさを感じた。水が器官を浸食していくような気配。守られていたのだと気付いた時には既に遅かった。
 女性は我を忘れて、ただひたすらに謝罪の言葉を繰り返している。共に時を重ねることができないというのに同じ時を生きようと約束したことを。同じ世界で生きられもしないのに約束したそのことを。悔いて、謝罪の言葉として繰り返す。それが積み重ねられていく度に、水が淀んでいくような気がした。瞬く間に死臭が満ちる。
 朦朧とした意識のなかでそれを感じながら、この湖はこの罰のためを成就させるためだけにここにあったのだと思い、みそのはそっと意識を手放した。

【参】

「神だかなんだか知らないけどね、結局は女の業だね……」
 事の顛末を報告に行くと、碇麗香はぽつりと呟くようにそう云って口を閉ざした。三下は自分が何もしていないことを後ろめたく思っているのか、俯いて黙ったままだ。みそのは自分がしたことに対して、僅かな罪の意識を感じていた。
 あの時、流れを戻すことせずに別の手段を選んでいればあの者たちが死ぬようなことはなかったのではないのだろうかと思う。
 意識を取り戻して見たあの湖の姿は、ひどく哀れな姿だった。雨が降っていた。強い雨が打ち付ける湖面のあの暗い色彩。透明な水を失い、淀んでどろりとしたそれからは鼻を突くような腐臭さえした。手をひいてくれたあの美しい女性がそのなかでどうしているのかを思うと、自らのしたことが傲慢なことではなかったのだろうかと思うのだ。
「気に病むことではないさ。いつかはこうなることだったんだろうからね。―――まぁ、後味の悪いことではあるけどね」
 云って碇はそっと両腕を組んだ。
 そして真っ直ぐにみそのを見て云った。
「自分の立場をわきまえないとこうなるということ。それだけのことなんだよ。人だろうが神だろうが関係ない。世界の秩序はそれで成り立っているんだ。そう思って、諦めなさい」
 慰めてくれているのだろうか。
 思ってみそのがそっと視線を上げると、碇は滅多に見ることのできない柔和な笑みを浮かべて云った。
「大丈夫だよ。誰も恨んでいやしないから」
 その言葉にみそのはようやく久しぶりに微笑むことができた。柔らかに、穏やかに、ひっそりとした微笑。それを横目に見た三下がだらしなく表情を緩めたのを見とめた碇がすかさず、
「にやけてないで自分の立場をわきまえなさい!」
と怒鳴りつける。
 みそのはそれに情けない云い訳を紡ぐ三下を見て、これでいいのだと思おうと思った。
 もう戻らない。
 停滞した時間を動かすことはできても、過去をやり直すことは叶わないのだ。
 だから過ぎてしまった今となってはそれを許容するほかない。
 それだけなのだと思って、みそのは激しいやり取りを交わす二人に穏やかな挨拶を残して編集部を後にした。




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1388/海原みその/女性/13/深淵の巫女】


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■         ライター通信          ■
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いつもお世話になっております。沓澤佳純です。
少々後味の悪い展開になってしまったのですが、いかがでしょうか?
少しでもお気に召して頂ければ幸いです。
私、個人としてはみその様の装いがいつも楽しみであったりします。
それでは、この度のご参加本当にありがとうございました。
今後また機会がございましたらどうぞよろしくお願い致します。