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<東京怪談ノベル(シングル)>


運命執行猶予

 血族。輪廻。宿命。断罪。
 無知。幼子。泣声。未来。

 ────願わくば、今少しの猶予を。

 ************

「釣れません、ねえ……」
 のんびりと伸ばされた語尾が欠伸に取って代わる。ふああと開けた大口を隠しもせずに、都築秋成は手応えの無い釣竿の先を半眼で見遣った。
 大洋を望んだ堤防の先端、太公望然と糸を垂らし始めてから早数時間が経過している。朝の天気予報では晴れだと言っていたのにこの曇天。バケツの中で尾鰭を振っているのは小さな雑魚が二匹ほど。釣りが趣味だと自称している秋成にとっては全く以って不本意な釣果だ。
 内海は穏やかに凪いでいたが、空の雲は分厚く、今にも一雨来そうな灰色だった。秋成は形の良い鼻梁をぽりぽりと掻きながら嘆息を一つ零す。そろそろ引き時のようだ。
「ここに来る道中が良いドライブにはなったことだし……まあ良しとしましょうか」
 バケツの中身を海に空けてリールを巻き取る。一応針を確認したが餌は食い逃げされていた。してやられたり。
 愛車は堤防の付け根に停めていた。水気を多分に含んだ生々しい潮の香と、ざああんざああん、星の奏でる規則的なリズムが車内にまで這入りこんでくる。ざああんざああん。リクライニングを倒し寝転ぶと視界一杯──フロントガラス一杯に鈍色の空が広がって、秋成は組んだ手枕にてそれを眺める。潮風に当たっていた身体は少し、疲れているようだった。
 ざああん、ざああん。────どうしよういっそ午睡を貪ろうか。
 ざああん、ざああん。────ああでも転寝は風邪を呼ぶし。
「ふ、ああああ」
 考えている内にまた大きな欠伸が出た。失笑。
「……まあ、少しくらいなら」
 天気のせいか、今日が平日だからか。堤防に砂浜、辺りを見まわしても人影は覗えない。生来穏やかな気質の秋成は(眠気も手伝ってか)それだけで安心してしまったらしい。波の音を子守唄にして、その瞼はいつしかとろんと閉じていった。

 ざああん、ざああん。 ざああん、ざああん。
 寄せては返す波の音。
 洗うは砂子の浜辺。現すは埋もれていた真白の貝殻。
 ざああん、ざああん。 ざああん、ざああん。
 寄せては返す時間の音。
 洗うは記憶の浜辺。現すは忘れていた思い出の欠片。

 ────潮の香が、鼻腔を擽った。


『…………』
 足元を掬われていく感覚に秋成ははたと気がつく。
 立っていたのは静かな波打ち際。音が寄せ、音が返す海と陸との境。足の裏は素肌で、下敷きになっている砂が波に引かれていくのを直に感じた。だが秋成はすぐに了解する。────そうかこれは夢だ。
 夢に海が出てくるのは珍しかった。波の音を聴きながら眠ったせいだろうか。ジーンズに手を突っ込みながら秋成は水平線の彼方を見遣る。夢の中でも空は雨降り手前の曇り空で、それが、何だか無性に、気になった。
 ────思い出したのは、その時だった。
『…………あ』
 脳裏に突如映像が過る。スライドのようにカシャカシャと秒単位で記憶のポートレートが切り替わる。蘇った思い出は些細と言えばそうかもしれないが、しかし秋成が瞠目するには充分過ぎるほどだった。
 それは昔、自分がまだ幼かった頃の一時期に怖がっていた三つのもの。
 家の和室の四隅。木目の浮かんだ天井。そして、台所の蛇口。
 どれもが皆ありふれた光景の一つ。取り立てるほどもない風景の破片。しかし幼い秋成はそれらを異様なほどに恐れた。(何故忘れていた) 怖くて怖くて、涙を零した事だってある。(どうして忘れていた) 思い出す、あの芯から震えが来る恐怖。
『何故、思い出したんですか……』
 波は寄せて引くばかり。ひやり、と背筋に冷たいものが走った。


 秋成はそこで一度目を覚ました。
 何時の間にかフロントガラスに水滴がついている。どうやら雨が降り出したらしい。早めに引き上げて良かった。
 細かな雫が眼前のスクリーンを覆っていくのを秋成は見ていた。聞こえてくるのはやはり波の音で、天の涙は慎ましく、そして静かだ。だから秋成も息を潜める。まるで、水底に這う小さな魚であるかのように。
 夢の記憶は健在だった。
 鮮やかに蘇った恐怖、三十路を越した今ならばあの得体の知れない恐ろしさを説明することが出来る。
 つまり自分は、あの頃から感じていたのだ。人ならぬモノの影を、身の内に潜む忌まわしき圧倒的なモノの存在を。
 部屋の隅と天井は光が届きにくい所、つまり闇に属するモノたちが滞る、言うなれば鬼門だ。幼い自分はきっと、それと認識せずにそこで何かを”視”た。目にして、反射的に怯えて、けれど何なのか分からなくてただ忌避した。そして忘れた。あえらかな抵抗だと思う。
 そして今一つの蛇口とは水を流れ落とす象徴。細流を生み出す昏い口。流れ。川。それらが表すのは────。
「くちなわ……」

 ────フロントガラスに当たった一滴が、長く尾を引き流れて落ちた。


『…………』
 夢の続きはやはり波の音から始まった。
 砕ける波涛は白なれど波自体は墨色。打ち寄せる波頭が少し高くなった気がする。嵐が来るのだろうか。
 波の音は繰り返す。ざああん、ざああん。実際に聞こえているのか耳の奥で谺しているだけなのか最早判然としない。ただ繰り返す、音が。ざああん、ざああん。音が。
 やがてその旋律に別の音が入り込み重なった。それは人の声に、泣き声に聞こえて────秋成はゆっくりと横を向く。少し離れたやはり波打ち際に子供が一人立っていた。立ち竦んでいた。天を仰いで嗚咽を洩らすその少年の横顔に秋成の目は一度見開かれ、そして細められる。
『……俺…』
 今よりずっと片幅が狭く、色も白く、肉よりも骨の目立つ身体。今はもうない自分の姿、過去の姿。
 幼い秋成は泣いていた。首をいやいやと小刻みに打ち振って、震えて、怯えて。──恐れて。溢れてきそうになる何かを必死に耐え、けれども耐えきれなくて。
 ────あああ、あ、ああ、あああ。
 氷雨のような泣き声。目を逸らすことも見つめ続けることも出来ない秋成は瞼を下して映像を遮断する。しかし音は追って来た。波だ、涙。なみだの音が思考の裡にまでも追って来た。
 秋成が初めて血の力を自覚したのは高校生のときだ。都築家に生まれながら力の発現しない自分にどこか安堵していた。だが受け継がれてきた血の中にそれは成りを潜めていただけで、秋成は己が身に宿るモノを最悪の形で目の当たりにする。檻を飛び出したそれの姿を、凶行を、惨劇を、秋成は未だ忘れ去ること叶わない。いやむしろ、消そうと思ってはいないのかもしれない。何故ならば────。
『…………』
 目を開ける。ゆっくりと。
 子供が泣いている。ああ、ああ、正体の知れぬ恐怖に怯えて、未来に刻まれる痛みや苦痛をまだ知らないで。
『……そうです、知らないならば』
 足を、一歩踏み出す。
 近づいて、頼りなげな肩を親鳥のように包み込んだ。
 しゅるしゅると冷たく、細く長いモノに身体を巻かれていく感触。少年が震える。縋ってくる。その殻の罅から洩れ出づるモノに、少年ごと絡めとられていく悪寒。額が熱を帯び疼く。内側から囁くあの声。突き上げてくる、容赦なく。渡せ壊せ砕け、全身を巡る血が自分の意に反して逆流する。
『……でも』
 でも、でも意識までは呉れてやらない。頬を少年の髪に押しつける。強く強く。嵐を前にした波打ち際に立つ少年よ、何か分からぬモノに呑まれそうで怯えることしか出来ない雛鳥よ。
『どうせ……あの悲劇を避けられないんですからねえ』

 その痛み悲しみ苦しみ辛み。せめて今しばらくの猶予を。
 定めて襲い来る宿命ならば、せめて、執行猶予をこの子に。

 抱き締める腕に力を──凶器ではない力を籠めると、ぬらりと濡れた気配が消えた。滅したわけではなくただ穴倉に戻っただけのこと、しかし少年のしゃくりあげる涙は収まったようだ。とん、とん、と背中を叩く。自身を宥めるなんて少々気恥ずかしいものの、ああどうぞこれで安らかにと願う心が勝った。
 どうぞせめて今だけは、時が来るまでは安らかに──安らかでいさせて下さい。そうでなきゃ。
『……挫けたくなりますよ』

  ────波の音がまた、耳の奥で砕けた。


「…………」
 雨はまだ止んでいなかった。
 ワイパーを動かしていないから窓はすっかり水滴に覆われて、外の景色など見えたものではない。
 秋成は息を吐き出す。六月の始め、まだ気温は低く寝ている内に肌が粟立っていた。寒いですね、呟きが微かに残る磯の香へと溶ける。
 雨は止まない。いつ雲が切れるのかも分からない。確かなことは今この時にも身の内にあれがいるということだけだ。それだけが絶対不動の確定条件として秋成の身体に楔を打ち込んでいる。雨は止まない。運命が執行された時よりずっと止まない。未だ晴れ間は覗えない。────それはいつまで? いつまで、いつまで?
「……まあ、でも」

 いつか。いつかと今は念じる、いつかと。
 まだ負けていない。勝ってはいないけれど、負けてもいない。

「だからまあ……ゆっくりいきましょうよ。ね?」
 唇にほんのり笑みを乗せ、秋成はしばらく、降り頻る雨をただ眺めていた。

 了