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<東京怪談ノベル(シングル)>


月と蜜




 連日降っていた雨が、下校途中でようやく止んだ。
 空は灰色の上に橙を浮かべることで雨を飲み干していたが、土はまだしっとりと湿っている。触れれば、土は身体を包み込むようにへこみ、雨の残る匂いを肌に染み渡らせた。
 その匂いで、夕暮れの中に夜を燈す。


 始まりは、お父さんの手紙である。


 郵便受けに入っていた茶封筒は湿気を含んでいた。指に吸い付くように手に収まり、あたしは差出人のところに目を通した。
 ――お父さんからだ――
 手紙だけを寄越すなんて、珍しいな。いつもは変わったお土産も一緒に送ってくるのに、今日は手紙だけ。
(近況報告かな?)
 表情の端のところに、笑顔が浮かぶ。
 ――お父さんの日常ってどんな風なんだろう――
 あたしには、お父さんのお仕事のことはよくわからない。お父さんは自分のことを積極的に話したりしないからだ。
 会話をしていても、お父さんはあたしを見守るように眺めているのが殆ど。優しい目は、あたしをからかうと同時に、包み込んでくれる。
 ……それはそれで嬉しいのだが、心寂しいときがない訳でもない。
(もっと話してくれたらいいのにな……)
 時折、お父さんは言葉の隅のところに、自分の仕事の匂いを漂わせる。
 小さな宝石のようなもの。それらを落とさないように一粒一粒拾っていって、並べた記憶――それがあたしにとってのお父さんの仕事に繋がっている。
 ――何が書いてあるんだろう――
 雨とぬくもりを吸った手紙を持って、家の中に入る。かすかに濡れた髪から、夕暮れの匂いがする。夜の前のつめたさである。
 テーブルの上に手紙を置いてから、タオルで髪を拭いた。雫が手紙の上に落ちたら、たまらない。

 封筒に入っていたのは、予想に反したものだった。二枚の用紙、一枚はお父さんからの手紙、もう一枚は黄ばんだ古い紙切れ――。
 近況報告ではなさそうだ。
(ちょっと残念……)
 それでも興味をそそられて、古紙を広げる。日本語ではない、何か他の国の言葉が雑に記されている。古反故にも見えた。
 湿った指に乾いた感触が残る。

 人魚としての力を増幅させる紙――と父は書いている。
 まず水を入れた小皿を用意すること。それに紙を溶かし込んで、満月の夜を待つ。
 満月の夜を迎えたら、月光に一糸纏わぬ姿を晒し、水を飲み干せ――というのだ。

 ――満月の夜は、今日だ――
 今、空は灰色と黒の交じり合った色をしている。その奥に、ぼんやりとだが、丸い月が見えていた。
 これを逃がしたら――逃がしてはいけない。
「どうせ、お父さんの悪戯だもん」
 意識して毒づく。やはり気になるのである。もし、少しでも力が強くなるのなら。
 古紙にある書きなぐられたような文字は、到底あたしには読めそうにない。
 下に日本語訳がついてはいるのだが、

 忘れてくれるな、鳥どもよ、蜜色の下に捧げられた少女の身空を、
 忘れてくれるな、僕らよ、少女は意思として夜に抱かれる

 これでは意味を掴みきれない。力を増幅させるのかどうかの手がかりにはならなかった。
 だから、やろう。手がかりがないのなら、なおさらだ。


 夜が迫る。黒いカーテンが空を覆いつくすが、気温は下がらず、肌には汗の粒が浮かび始める。
 人々は窓を開ける。誘われるように室内へ入り込むのは、雨の匂いである。
 雨は人の肌に寄り添い、あたかも今雨が降っているように思わせる。心の中で雨が降り始め、なかなか止むことがない。

 雨は降らない。
 されど匂いで夜を燈す。


 皆が眠りにつく時間を見計らって、あたしは布団から身体を起こした。
 午前二時三十分。
 水を入れた小皿と紙を手に持ち、床がたてるギシギシという音に怯えながら、縁側へ出る。
 濃い蜜色の光を受けた土が、おいでおいでと呼んでいるようだ。
 ――服を、脱がなければならない。
 あたしはパジャマを着ていた。今の気温に似合わず、長袖である。ボタンの一つ一つを外し、脱ぐと、肌は微かに汗ばんでいた。
 衣類にはまだぬくもりがある。それを縁側に置き、まだ脱がなければならないと思うと、抵抗を感じたが、やがて脱ぎだす。
 ――人魚としてやっていけるくらいの力がなくちゃ――
 地面に降り注ぐ月光は、土を湿らせているようにも見える。対照的に、視線を上へ持っていけば、月自身は乾ききり、飢えているようだ。
 ……月はあたしが欲しいのかもしれない。
 呼んでいるような、声がする。早く早く――と月は言う。こちらへ来るんだ。

 早く早くはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやく、さぁ!

 心が空に惹き込まれる。最後の一枚を脱ぎ捨てるときには、何の迷いもなかった。
 靴もやめた方がいいだろうと、裸足である。
 一歩踏み出すごとに、土は愛しそうに足を受け入れる。最初は遠慮がちに、やがて蔦のように素足に絡みつき、

 ピチャ、ピチャ、ピチャ……。

 水と土が混ざりあった音が、歩くたびに聞こえてくる。
 背中に冷気を当てられたように、ゾクゾクとした感覚が走った。怖いような、それでいて走り回りたいような――。
 立ち止まれば、あるのは静寂のみである。
 ――怖い――
 足を止めれば静寂を恐ろしく思い、歩けば音に怯えながらも楽しんでいる。ピチャ、ピチャ、ピチャ…………。

 庭の中央まで来ると、紙を小皿の水に浸した。
 乾いた紙が水に溺れる。深海に潜るような音を奏でて、紙は、山吹色に染まる。
 指で掬い取れば水飴よりも粘っこく、今にも甘い香りが漂いそうだ。
 ――蜜みたい――
 なまぬるい風が吹く。
 あたしを見下ろすのは、月である。見下ろし、促している。
 ――言葉を記そう。

 忘れてくれるな、
 蜜色の下に捧げられた少女の身空を、

 白い陶器を唇にあてる。硬く、氷のような冷たさである。
 ――冷たい――
 陶器以上に冷たかったのは、液体だった。舌を痺れさせる程の温度な上に、それは舌に絡み付いて離れない。冷たさが引けば、口の中に甘ったるさが広がる。余計に舌に絡み、唾液が増えるのを待っては飲み込んで、やっとである。
 小皿には、粘液のようにへばりついた蜜がある。唇を指の腹でこすって月光に照らせば、山吹が煌めいた。
 飲み干して最初に感じたのは、眩暈だった。足元が不安定に揺れ始めたかと思うと、あたしは意思とかかわらずに身体を土の海へと沈めていた。


 誰かが言った。
『月との契りのようだ』


 空が、深いのである。

 ――どこまでも落ちていきそう――
 逞しくなった想像力を広げるように、身体に変化が起こった。
 ――足が動かない――
 足首から徐々に、透明な塊と化してきている。
 水晶だ、と気付いたがどうしようもない。
(やっぱり、お父さんの冗談だったんだ)
 怒りは湧いてこない、感情が月に飲まれているせいだ。
 ――月が来る――
 心を絡めとる月が、あたしの身体を夜に浮かび上がらせる。飢えた光が、あたしを石にしていく。
 それは痛みである。熱い手で身体に触れられるような、痛みである。
 反射的に逃げようとする。だがどこへ行けば逃げることになるのか。足だって動かないのに。
(月が、月が!)
 あっ、と呻く。這うように身体を動かし、土に爪を立て、小さな抵抗でもするように――呻く。
 それは水面に波紋を作るような行為に過ぎない。腿が水晶に、腰が、背中を通り、胸が、腕が、震える肩が。
 無意識に涙ぐむ。奥に見えるのは、ぼやけた月だけだった。


 柔らかな月光を受け入れ、輝く水晶がある。
 蜜色の身空は、見た人間の食指を動かす。飴細工のような、美しさである。


 夜空に抱かれるように眠る少女と、残された水晶が何を思うのか。
 水晶は呟く。
 ――何だか、変な感じ――
 自分の中の一部分――少女は寝息をたてている。すう、すうと幸福な音が胸の辺りからするのである。
 ではここにいるのは誰なのか。
 ……水晶にとっては、遠い御伽噺である。
(あたしは、今日何をしていたんだっけ?)
 縁側に、脱ぎ捨てた衣類が見える。そう、あれを脱いでここへ来たんだった。
 ――夜のもとへ――
 夜の静寂に身を預けることの心地よさを、水晶は知っている。
 身体が、土と雨と交じり合い、一つになる感覚。呼吸するかのように、土の激しさ、雨の優しさがわかる。
 ――このままでいたい――
 朝を迎えて、夕を映し、夜に身を置ければいい。


 叶わぬ願いである。


 三日後、あたしは朝の訪れと共に目を覚ました。
 ――身体がだるい――
 起き上がってまず驚いたのは、自分が庭にいること。
 それから、裸でいること。
 土はとうに乾いている。肌を覆っていた筈の湿っぽい感触はなくなり、水気のないくすぐったさがあるばかりである。
 悲鳴をあげそうになるのを、喉の辺りで無理やり押さえ、縁側へ走る。早く服を着たいからだ。
(なんでこんな恥ずかしいこと……)
「お父さんって、すぐあたしをからかうんだから」
 三日前には思わなかった文句を言う。
 けれど、一番恥ずかしいのは三日前の自分の心だ。
 ――水晶になった時、確かにあたしは悦んでいた――
 頬が赤くなる。
(ないない。そんなこと思うわけないもん)
 慌ててお風呂に入り、濡れた髪を放って鞄に教科書を詰め込みながら、首を思い切り横に振る。
(ぜーったい、ない!)
 今考えなくちゃいけないのは学校のこと。余計なことを考えたら、遅刻しちゃうんだから。

 ――全部忘れよう――
 とにかくなかったことにしよう。
 火照った頬で、小さな意地を張るのだ。


 忘れてくれるな、
 少女は意思として夜に抱かれる

 ……字、違うもん。




終。