|
破滅に至る病 〜望み〜
「もう、なんて事をしてくれたの!!」
ヒステリックな声が響き渡る。普段は温厚で優しい母親を演じている彼女だが、いったん頭に血が上ると自分でも制御出来なかった。
足下に倒れているのは幼稚園に通い始めたばかりの男の子。小さく身体を丸め、泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返している。
怒っている理由は幼稚園で同じクラスの子供を突き飛ばし、頭にたんこぶを作った、という先生の連絡だった。
幼稚園での事は幼稚園で解決しますが、家庭でもし同じような事をする事があったら注意してあげて下さいね。先生はそう言った。そして相手の名前を教える様な事は決してしない。
注意は怒りにかわり、帰ってきた我が子の頭を思い切り叩いた。
子供は何故自分がそれをされているのか全くわからない。ただ恐怖故に謝る。母親が許してくれるまで。
そう、何度も、何度も。
ピアノの先生をやっている家には、防音がしっかりしていて、その部屋に連れ込んでしまえば周囲に声は聞こえない。
これはしつけ。
悪い事をしたのだから怒るのは当然。
痛みは痛みで教えてやらなければならない。
身体に教え込まなければならない。
数度体中を殴り、丸くなった身体を忌々しげに蹴飛ばした。
母親は自分の憤りだけを消化すると、部屋から出て行った。
「階段で転んじゃって」
身体に残る痣をそう説明する母親。人好きするような笑みに、疑いを向けるものはいない。
そしてまた帰ってきた息子をなじり、叩くのだろう。その手入れの行き届いた手で、足で。
男の子は庭の隅で遊んでいた。
また誰かを傷つけて怒られるのが嫌だったからだ。
未だじくじくと痛む背中を感じつつ、幼い思考なりに怒られない方法を考えていた。
そうだ、もうすぐお母さんの誕生日だ。なにかプレゼントを作ってあげよう。
男の子の頭の中はそれでいっぱいになっていた。
怒られても殴られても蹴られても、男の子は母親の事が好きだった。
何がいいだろう。お母さんの好きなキラキラする宝石は買ってあげられない。料理もできないし、お小遣いがあるわけではないから何かを買ってあげる事はできない。
「ねぇ先生。お母さんの誕生日になにかしてあげたんだけど、何をしたらいいかな?」
「そうねぇ。おうちのお手伝いをしてあげる、っていうのはどうかな? きっとお母さんは喜ぶよ」
満面な笑みの先生をみて、男の子はぱあっと顔を明るくした。
「お母さん喜んでぎゅって抱きしめてくれるかな?」
「うん、大丈夫よ」
「お母さん買い物に行ってくるから、ちゃんと留守番してるのよ?」
小さい頃からずっと留守番だった。だから慣れていた。男の子は大きく頷いて、お母さんが帰ってきたらびっくりするような事をしていてあげよう、と期待で小さな胸を躍らせていた。
幼稚園で教わった折り紙でいろいろな動物を作って。下手なりに手紙を書いて。部屋のお掃除をしてあげよう! と思いついて掃除をはじめた。
それは幼い子供故に全てが中途半端で。
みずびだしの廊下に、ぐちゃぐちゃになったカーペット。それでも男の子は必死だった。
「ただいま」
母親の声が聞こえて、男の子はこんなに頑張ったんだよ、と胸をはって言おうとして、いきなり左頬に衝撃を感じた。
そしてどこかにぶつかって再び鈍痛が走り、目の前がくらくらしてチカチカする。
「おかあさ……」
「何をやってたの!?」
声をかけようとしたその言葉を遮って、母親のヒステリックな声が響いた。
そしてそのままずるずるとピアノの部屋へと連れて行かれる。
「ここまでこんなに散らかして!!」
ピアノの上には折り紙で作った動物がおかれていた。
それは子供なりに母親のピアノを飾っていたつもりだった。
「お母さんおたん……」
バシッと再び殴られて、男の子はどうしたらいいかわからなくっていた。いつものように「ごめんなさい」と謝る事もできない。
「この子は謝りもしないで!! こういう時はごめんなさい、でしょ!!」
母親の声と一緒に自分を叩く衝撃。体中あちこちを殴られ、蹴られ、つねられ。男の子はまた夢中で「ごめんなさい」を繰り返した。
しかしその日の母親は虫の居所がとくに悪かったのかそれだけではすまかった。
いきなり息子の手をつかむと、ピアノの蓋をあけ、そこに小さな手をおいた。男の子の顔が恐怖にゆがむ。
「やめて、やめてお母さん!! ごめんなさい、ごめんなさい!!」
泣き叫んでも聞いてくれない。誰も助けてくれない。
少し持ち上げた蓋を離すと、手に上にそれが落ちてきた。
あまりの痛さに声もでない。手の骨が折れなかったのは幸いかもしれない。しかしそれは一度ではなかった。二度三度、と繰り返される。男の子は痛みで目がくらみ、気を失ってしまった。
そしてまた、自分の憤りだけを消化した母親は部屋を出て行く。男の子の事は振り返らずに。ただ心配しているのは、男の子がやった後始末の事だけ。
冷たい床にそのまま寝かされている事に気がついた。手はじんじんとしびれて感触がなく、しかし猛烈にそこだけが熱かった。
身体を丸めたまま嗚咽する。しかし息する事さえままならない。
お母さんは本当は僕なんていらないんじゃないだろうか、と思う。
男の子は常々そういわれていたのだ。
「お前さえいなければ」
と。
涙のせいで床がぬれる。これも拭いておかないと怒られるな、と思うが身体は動かない。
「……?」
その頭に優しく触れる手があった。
母親が戻ってきて介抱してくれようとしているのか? と淡い期待で顔をあげるとそこには赤い着物を着た女の子が立っていた。
「お姉ちゃん、誰?」
その言葉に返答はない。ただ、少女は憂いを帯びたような表情を浮かべただけだった。
「まったくあの子ときたら、人の仕事ばっかりふやして!」
再び怒りに火をつけて、まだピアノ室で丸まっている息子の元へと大股で歩いてきた。
「どーしてあんなに廊下をびしょびしょにしたの!!」
ばたんとドアをしめるなり母親が叫ぶ。
床には丸まったまま嗚咽している息子の姿。
その姿にそのまま蹴りをいれて、持ってきたモップで背中を数度叩く。ごめんなさい、という声は聞こえない。
「何黙ってるの!!」
と髪の毛をつかんで持ち上げる。
否、持ち上げたと思ったが、髪の毛だけがごっそりと抜け落ちた。
「気持ち悪いわね!」
息子の心配よりも先に、手についた髪の毛を振り払う。
「どーしてあんたって子はこうあたしをイライラさせるの!!」
バシバシと布袋を叩くような音が防音室の中で消えていく。
そして十数回目叩いたところで、モップの柄が男の子の身体にめりこんだ。
「声が出せないっていうなら出させてあげるわ」
と母親はキッチンからわかしたてのお湯をもってくる。
いまだ湯気をたてているそれを、男の子の身体にざばざば、とかけた瞬間、天井からいきなり熱湯がふってきた。
「あつい! なにこれはっ」
身体にかかる熱湯を避けながら天井を見上げるが、ぬれている気配はない。
しかし次の瞬間、上から突然棒がふってきて母親を殴る。
「痛い! 痛い! なにこれはっ」
先ほどを同じ事を言いながら逃げ回る。
そして思わず息子を踏みつけ、いらだたしげににらみつけた。
「邪魔よ! こんなとこでいつまでも寝てるんじゃないの!!」
叫んだ時、今度は天井から足がはえてきて母親を踏みつぶした。
「ぐえっ」
蛙がつぶれたような声で母親は床にたたきつけられた。
「同じ事をされる気分はどうじゃの?」
不意に声が聞こえて、その声の主を捜す。
「誰?」
そこには赤い着物をきた少女が立っていた。
「我が子の痛みはその親が受けるもの。心して味わうがよかろう」
言って少女は笑った。
刹那、何か大きなものがふってきて母親の手を打ち据える。何度も、何度も。それがピアノの蓋だと気がついたのは五度目くらいの時だった。
次に手足が飛んできて殴られ、蹴られ、母親の身体はサッカーボールのように部屋の中を飛び交い、壁に打ち付けられる。
「やめて、もうやめて、お願い……」
「自分が今までしてきた事じゃ。全てをその身に受けるまで終わる事はないぞ」
「そんな……」
「自分に痛みを感じた時だけ許しをこうなんてあさましや」
「うぐっ」
母親の腹につま先がめり込んだ。
もうすでにどこかの骨が折れているかもしれなかった。しかしやまない。
手放しそうな意識の中で、母親は何かをつかんだ。
それは手紙だった。
幼い、まだあまりうまくかけない文字で、しかし一部よみとれた。
『おかあさん おたんじょうびおめでとう ぼくいいこにするからね だからわらってください』
「ああ、ああああああああああああああああああああ」
絶叫した。
そして丸くなって倒れている息子へと視線をやり、そして再びのしかかってきた痛みに、とうとう意識を手放した。
救急車が2台、家の前にとまっていた。
帰宅した父親が、倒れている母子を見つけたのだ。
息子は肋骨骨折に、両手をひどく打撲していた。
しかし3ヶ月後、すっかりよくなった息子は、祖母の家から幼稚園に通っていた。
「お母さんどうしてるかな……」
寂しそうに空を見上げた息子の前には、もう母親の姿はない。
「ふふふふ、あはははははは」
真っ白な壁の中、母親は笑っていた。口腔からだらしなくよだれをたらして。
その姿をみて父親は首をふる。
あの日、身体的異常はひとつも見られなかった母親だったのだが、精神的異常をきたしていた。
どこか遙か遠くを見つめ、ただ笑っている。それはとまることがない。
「あははははは」
もう母親の手は誰も殴らない。母親の足は誰も蹴らない。
母親は笑い続ける。息子がそう望んだように……。
*終わり*
|
|
|