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<東京怪談ノベル(シングル)>


運命のひと

 ……ついてない。
 まったくもって、ついてない。
「ねえおじさん、あれなあに?」
 頬がまだひりひりする。あの女、本当に思いきりひっぱたきやがった。さっき便所に行ったとき確認したら、よくもまあと感心するくらいくっきり手形がついていた。中華街の通りをすれ違う奴らが、ちらちらと俺の顔を振り返っていくのがわかる。いつもならガンのひとつもくれて追い払うところだが、この顔じゃどうにも迫力がつきやしねえ。
「ねえ、おいしそうな匂いがするよー。食べていいのかな?」
 俺が何をしたというんだと自問する。
 ……何をしたというか、何もしなかった。忙しかったのだから仕方ない。遊びに連れてってやるという約束を反故にすること四回、髪形を変えたことに気づかなかったこと二回、携帯電話に入っていたメールに返事を返せないまま家に帰って倒れるように眠り込むこと……これは何回あったかもう覚えてない。
「ねえってばー。聞こえないの?」
 終わったなと思う。惜しいが仕方ないとも思う。商売柄、元々女には不自由してない。俺はまだ腹も出てないし、自分で言うのもなんだが、ツラだってなかなか男前だと思ってる。だから一人寝の寂しい夜はいつも、店から適当な奴を持ち帰って抱き枕がわりに眠っていた。飲み屋で知り合った今の女と珍しく二ヶ月も続いていたのは、やわらかな抱き心地と、笑ったときにちらりと見える控えめな八重歯がちょっと気に入っていたからだ。
 不用意に出した一言をきっかけに口論になって、ひさしぶりにとった休みは無駄になっちまった。
 やくざ者が柄にもなく、堅気のオツキアイの真似事なんざしたからバチでも当たったか。
「ねえねえ、おじさん」
「ちっと黙ってろ。考え事してんだからよ」
「お代、払ってほしいんですけどね」
「は?」
 今まで呼びかけてきていたのとは明らかに違う声とともに肩をつかまれて振り返る。
 憮然とした顔をした中華料理の屋台のオヤジのうしろで、いまいましい銀色の髪のガキが、さも旨そうに肉まんにかぶりついていやがった。



 池のそばの遊歩道に踏み込むと、図々しいので有名な公園の鳩が一斉に飛び立っていく。
 サングラスごしにちらりと見下ろしてみたら、並んで歩いている例のガキは肉まんをひとつ食い終わって、抱えている紙袋に手を入れるところだった。
「肉まん、俺にもよこせ」
「あと一個しかないよう」
「俺の金で三つも買ったのにお前に全部食われてたまるか。よこせ」
 はあい、と、子供はいかにも渋々と紙袋を差し出してくる。短くなった煙草を落として靴底で押しつぶし、中華街のマークの入った紙袋にがさがさと手をつっこみながら、こいつの名前はなんと言ったっけと頭の隅で考える。今時の子供らしく、ちょっと変わった名前で、ええと。
「水鈴」
「なあに?」
 みれい。そう、水鈴だ。
「迷子なんじゃなかったのか。こんなとこで知らないおっさんと肉まん食ってていいのか」
「あ、ベンチが空いてる。座って食べよ?」
 流された。確かに少々歩き疲れていたから、座れるのはありがたい。小走りでベンチに飛び込む水鈴のあとをのんびりと追って、隣によっこいせと腰を下ろす。

 そもそも俺がこの子供とどうして一緒にいるのかというと、女にひっぱたかれたあと駅への道を引き返す途中で、水鈴が後ろをついてきているのに気がついたのだった。
 ちょっと見かけないぐらいきれいな子供で驚いた。外国人は見慣れてるが、銀色の髪なんて見るのは初めてだ。着ているものもよくあるデパート売りの子供服じゃなくて、リボンやらフリルやらでひらひらした上等のワンピースってやつだ。
 なんでついてくるんだと聞くと、迷子なのと答えられて呆れかえった。
 そのまま電車に乗って帰っちまってもよかったんだが、このあたりは人が多い。人が多けりゃ中には変な奴も混じってる。こんなふうに無防備に知らない大人についていくような世間知らず、しかもこんな毛色の変わった嬢ちゃんを放っておけば、夕方には女児誘拐のニュースがテレビで流れるかもしれない。
 それは後味が悪い。一人のやくざにも五分の良心ってやつだ。いやそんな言葉はないが。
 昔から警察とは反りが合わないので、交番に届けるのは気が進まなかった。
 どうせ暇になったんだと女の顔を思い出してやけを起こして、じゃあ家を探してやると言ってもと来た道を引き返したのが、思えば運の尽きだった。

「うまいか、肉まん」
「うん」
 周囲が俺達をどう見るかはわかってる。金持ちの娘と、それを食べ物でたぶらかすチンピラの図だ。
「子供の頃はなんでもうまいもんなんだよなあ……」
「おじさん、それおいしくないの?」
「いや、うまい」
「なあんだ」
 おいしくないならもらおうと思ったのにと、そう言って水鈴は饅頭にくっついていた薄紙をくしゃくしゃと丸める。
「文句があるみたいな言い方するんだもの、勘違いしちゃう」
 あの屋台に目をつけた水鈴の鼻は確かだった。あそこは中華街でも通好みの名店が出してる屋台で、具はたっぷり、饅頭生地の内側は肉汁が染みてしっとりしてる。ボリューム満点で食べ応えがあるが、それだけにちょっとお高めだ。本当なら今頃、これを食べ歩きながらふたりで中華街見物を……いやいや。
「大人になると、なかなかうまいものをうまいって言えねえもんなんだよ」
「そういうもの?」
「そういうもんさ」
「変なの。素直においしいって言えばいいのに」
「そうだよなあ」

 最後のひとかけを飲み込んで、ベンチにもたれて上を向いて、失礼ながらげっぷをひとつ。サングラスをずらしてみれば、明るい色をした雲が風で流れていく。いい天気だ。
「……さっきの話の続きだが、お前、本当に迷子なんだろうな?」
「本当だよー。ひどい、おじさん、疑う気?」
「どうも体よくたかられてる気がして仕方ねえんだよな……まあいいけどよ肉まんぐらい。大体お前、今日は平日だろう。学校はどうした」
「学校?」
「説教するような柄でもねえが、子供は学校に行くのが仕事じゃねえのか?」
「へえー。じゃあ、おじさんの仕事はなあに?」
「俺か? 俺はだなあ、泡の風呂に……」
 言いかけて、子供にするにはあんまりな話なのでやめた。
「わあ、お風呂屋さん?」
「まあ、そんなとこだ」
 今の商売を恥ずかしいと思ったことはなかった。一口にやくざといったって色々いる。
 人を殴って金を巻き上げるのが仕事の奴らに比べれば、頑張って働く女たちに真っ当に給料を支払っている自分はずいぶんましな方だと思っていたけれど、考えてみりゃあ小さい子供に胸を張って説明できないという点では似たようなもんだ。五十歩百歩とかいうんだったか。
「お風呂屋さんのおじさんは、今日はお仕事は?」
「今日は休み。まあ仕事は元々夕方からだけどな……ふられたから今日はまる一日暇なんだよ」
 また話を流されたのには気づいていたが、そのことを思い出すと軌道修正する気力が失せてがっくりとうなだれてしまう。
「ふられたって、恋人?」
「恋人っつーか……女?」
「それ、恋人とどう違うの?」
 ガキらしいストレートすぎる質問に顔を上げかけて答えを見失う。どうやら最初思った以上に、俺はへこんでいる。認めたくはねえが、後悔している。
 ずっとほったらかしにしていたのだから、せめて今日ぐらいは優しくしてやればよかった。
 くちびるの合間からちらりちらりと見え隠れするあの八重歯をひさしぶりに見たかったのに。

 黙り込んでしまった俺をすこしの間眺めて、うーん、と水鈴は腕組みして考え込んだ。
「おごってもらっちゃったから、おじさんには特別に教えてあげるね」
「あ?」
 遊歩道の向こうから、ベビーカーを押す母親が怪訝そうに俺たちの目の前を通り過ぎた。ベンチでチンピラが落ち込んでいて、美少女が隣でその顔を覗き込んでいるんだからまあ当然だ。
「本当はね、私、運命の人を探しに来たの」
「あ?」
 うんめいの、なんだって?
 意味をとっさにつかみきれずに阿呆のようにくり返す。水鈴の顔は笑っているが、冗談を言っている感じじゃない。なんだそりゃ。運命って、そんな言葉を聞いたのは一体何年ぶりだ?
「私のおうちに伝わってる言い伝えなの。私たちね、ひとりにつきひとり、かならずどこかに運命の人がいるんだって。本当だよ。だって地上に出てからずっと、ここがこんなにあったかいんだもの」
 ここ、と言って水鈴は、ワンピースのリボンの上から胸を押さえた。
「でもね、いるっていうのは分かるんだけど、どこにいるかはわからないの。まるでかくれんぼしてるみたいに、その人の姿は浮かばない。でも、いるっていうのはわかる」
「待て待て待て」
 突拍子もない話を聞かされて、俺はサングラスを外して水鈴の顔をじかに見る。色ガラスごしでない、深い青の瞳が俺を見返していた。嘘のまじっていない、今まで見たこともない宝石みてえな色だ。まっすぐな銀髪が雨のしずくのようだと、柄にもなく思う。
「荒唐無稽な話で煙に巻く気かよ」
「こうとうむけいって、何?」
「あー……とにかくだ。迷子ってのは嘘なんだな? 家出なのか?」
「迷子なのは」
 もう一度、水鈴の手が淡い色の蝶結びのリボンを押さえる。
「ここ。運命の人に会いたくて会いたくて、でも見つからなくて途方に暮れそうになる。もう一生会えないんじゃないかって震えてる。だから私、おじさんのことがわかったの」
「俺?」
「おじさんも、ここが迷子なんだって思った」

 このまま会えなくなるのかと思うと胸のうちがささくれて乾き、ざらつく感情を無理に飲み下そうと。
 壊れたビデオデッキのように頭の中に浮かぶ笑顔を何度もリピートして。

「その女の人のこと、好きなんだね」
「……かもな」
「ほら、また」
「?」
「おいしいものを、おいしいって言わない」
 一本とったと言わんばかりに得意そうな笑顔を向けられて、本当にいまいましいガキだと、俺は口の中で苦虫を噛みつぶす。けれど、それはすぐに苦笑いに変わった。俺も焼きが回った。自分の年齢の半分もない子供に、色恋について諭されるなんて。
「生意気言うんじゃねえよ、ガキが」
「ガキじゃないもん。水鈴だもん」
「わかったわかった。で、どうするよ? どうせ暇だし、そのナンタラの人ってのを」
「運命の人!」
「……そいつを探すのに付き合ってやってもいいぜ。どうする?」
 信じたわけじゃない。そんな夢みてえな話を信じるには、ちっとばかり歳をとりすぎてる。だけど嘘だとしても、その嘘で一体誰が傷つくだろう? この子供に騙されたふりをして何が悪い? 明日になれば俺はどうせ、またあの汚い路地裏に戻るんだから、今日ぐらいこいつのきれいな夢に付き合うのもいいじゃないか。
 意外な言葉だったのか、水鈴はきょとんと俺のことを見返すと、無邪気な顔でにっこり笑った。
「じゃ、付き合ってもらっちゃおうかな。でも」
「でも、なんだ?」
「喉渇いちゃった。なにか飲みたいな」
 やっぱりたかる気かと呆れるが、こうなったらもうジュースの一本ぐらい何でもない。そもそも飲み物なしで肉まんを平らげて、俺も実は口の中がからからだった。さすがに何か飲み物がほしい。
「わかった。向こうに自動販売機があるから、何か買ってきてやるよ。何がいい」
「甘いのがいいな」
 おう、と軽く手を挙げて立ち上がる。財布の中に小銭はあっただろうか。一度振り返ると、水鈴はまだベンチにちょこんと座っていた。
「そこで大人しく座ってろ。知らないおっさんに声かけられても、ついていくなよ」
 俺の冗談に、銀髪の子供はにっこりと笑ってみせた。



 おじさんが缶ジュースを二本持って戻ってきた。ベンチに私がいないのを見て、周囲を見回している。よかった。こっちには気づいてないみたい。
「そろそろ、お夕飯の時間だもん」
 それまでには帰らなくちゃ、パパもママも心配する。間食がばれたらまた怒られるかな。でも育ち盛りだから、食べ物がいくらでも入っちゃうんだもの。夕食を残したりしなければ、大丈夫だよね。
 公園の鳩が、餌をねだるみたいに足元に寄ってくる。ごめんね、何も持ってないの。鳩さんにもそれがわかったみたいで、ばたばたと一斉にはばたいて空に舞い上がる。
 空を翔ける白いカーテンのような鳩の群れを追いかけて、私はおじさんに背を向けて遊歩道を走り出す。
 ちらりと横目で見ると、おじさんはやっと私を探すのをあきらめたみたいだった。携帯電話で誰かと話してる。話し声が切れ切れに聞こえてきて、相手が誰だかわかる。きっとさっきの話に出た、ふられたっていう女の人だ。

「……おう、俺だ。待て待て、切るな。今日は悪かったよ。大人げなかった。すまん」

 ねえおじさん、気づいてる? 今、おじさんの声、すっごく嬉しそう。

「今、どこだ。あ? そっか。じゃあこれからそっちに行く。何が食いたい?」

 とっくに空に舞い上がった鳩のみんなを追いかけて走る速度を上げると、おじさんの声があっという間に遠ざかった。まっしろな雲から太陽がのぞいていて、池の水面がきらきらと光ってる。さあ、どこから水の底のおうちに戻ろうかな。

 その女の人が、おじさんの運命の人だといいね。
 今日も見つけられなかったのは残念だけど、きっと、いつか、私も見つけるよ。