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忍び寄るは腐敗臭
愛シテルワ…。
暗い部屋の片隅で、彼女はそっと呟いた。腐臭を帯びた淀んだ空気が僅かに揺れる。
愛シテル、愛シテルノヨ…。
貴方ヲ。
貴方ダケヲ。
ソレナノニ、アァ…酷イ人…。
呟く声が涙に濡れた。部屋の中に女のすすり泣きが満ちていく。静かに、そして次第に激しく。やがて、そこに嬌声が入り混じった。
笑う。
狂ったように彼女が笑っている。
笑いながら、彼女はゆらりと立ち上がった。イブニングドレスにも似た長い緑の裾を、腐臭を立つ床の上に優雅に広げながら。
足元に広がったベルベットを思わせる裾の表面が、まるで生き物のようにボコリと大きく波打った…。
「…また増えたな」
東京郊外にある旧式のアパート、ミツバ荘203号室の住人である戸塚は、窓の外に設えられている狭いベランダを見てため息をついた。彼の目線の先には、びっしりと緑色のカビに覆われたベランダの手摺がある。それも、埃のような細かいカビではない。ふわふわとした綿のようなカビがびっしりと手摺を覆っているのだ。
昨日、綺麗に掃除したばかりだというのに…。
「参ったな、こりゃ…」
戸塚は、大きくため息をついた。
ミツバ荘の2階にカビが生え始めたのは、2週間ほど前のことだった、と戸塚は記憶している。最初に生えたのは、201号室辺りだったと思う。それが、みるみるうちに増殖し、あっと言う間に202号室に侵食した挙句、その住人を追い出してしまった。そして、今度は戸塚の住む203号室に迫ろうとしている。今年は梅雨入りが早いのかなどと笑っていた戸塚だったが、最早笑っている余裕など彼には、なかった。
掃除しても掃除しても、もの凄い速さで成長し、部屋へと迫ってくるカビの一群は、超常現象の域に達しているのではないのか、とも思えてくる。
「そういや、1階に住んでる奥さん方が、2階の空部屋に人影を見たって噂していたな。」
…やっぱり、なんか出るのか、このアパートは?
ガリガリと頭をかき回しながら、彼はもう一度大きくため息をついた。
数日後、戸塚は関東一の規模を誇る怪奇現象系サイト、ゴーストネットOFFに一つの記事を投稿した。何かに取り付かれたかのようにキーボードを叩き、藁にもすがる思いで『投稿』ボタンを押す。ささやかなるSOS信号が、ミツバ荘203号室からネットの海に流された瞬間だった。
カビが異常繁殖を始めてから、3週間目。
ついに、カビは203号室の室内にまで、侵食し始めていた…。
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(本文)
愛しいが故に…。
■1
東から昇った太陽が、ゆっくりと南天の空にかかる頃。
梅雨時のどろんとした灰色の雲の隙間から柔らかな色をたたえた空がのぞいた。それは、曇り空の下にわだかまっていた鬱々とした気配を吹き飛ばそうとするかのように、ゆっくりと、しかし確実に、都心の空を灰色から青へと染め替えていく。
そんな晴天になりかけた空の下を、武田・一馬(たけだ・かずま)を乗せたアメリカンタイプのカスタマイズ・バイクが、排気音も高らかに走り抜けていった。
都心を過ぎると交通量は、ぐんと目に見えて減った。土曜日だというのに、1度も渋滞に引っ掛かることがなかったのは、やはり時期的なものがあるのだろうか。
そんな事を思いながら、一馬は少しバイクのスピードを上げた。途端にエンジンの回転速度が跳ね上がり、それまで無機質だった金属の固まりが、まるで生物のように息づき始める。生きているかのような息遣いを身体の下に感じる一瞬だ。それと同時に、透明な風の中に己の身体が溶けていくような感覚が広がる。ざぁっと音を立てながら、フルフェイスヘルメットの向こう側で、左右に割れた景色が残像の糸を引きながら後方へと吹き飛んでいく。
アスファルトを走るタイヤの音が聞こえる。ヘルメットの向こうで風が吼えている。心地よいとも思えるエンジンの重低音、宙に散っていく軽快な排気音。風になる。透明な風に。
様々な音に包まれたまま、一馬を乗せたバイクは走り続ける。
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件名:カビが… 投稿者:I.T
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最近、私の住むアパートで変な現象が起きています。
それは、異常な速さで成長を続けるカビなのです。
隣の部屋はすでにカビに埋もれてしまい、住んでいた方は引っ越して行ってしまいました。
次は私の部屋の番なのです。
お願いです、どなたか、私を助けてください。
アドバイスだけでも構いません。
ご連絡お待ちしています。
そんな書きこみを一馬が見つけたのは、今週も半ばにさしかかった、雨の日の事だった。じめじめした空気に耐えきれず、汗を引かせる為…と次の講義の時間までの暇つぶしに入った大学のITルームで、たまたまゴーストネットを開いたのが始まり。
「カビねぇ…梅雨時期だからなぁ…」
ディスプレイを見つめながら、一馬はぼそりと呟いた。梅雨時期にカビが大量発生するのは、別に不思議でもなんでもない事のはずだ。しかし…
「引越ししなきゃいけないほどっていうのは、異常だよな」
たかがカビ、されどカビ。とにかく投稿者が困っていることだけは、間違いなかった。そして、この書きこみが、何処か妙な気配を漂わせている事も。
「…連絡してみるッスかね、とりあえずは。」
なんとなく、放っておけない気分に駆られて、一馬は書き込みに付けられていたメールアドレスへとメールを送信した。
信号が赤から青に変わる。
信号1つ分先に走り、視界に飛び込んできた左手角にあるコンビニの横を左折すると、風景は商店街から住宅街へと切り替わった。それを確認し、一馬はゆっくりとバイクのスピードを落としていく。目的地は、もうすぐの筈だからだ。
ミツバ荘、203号室。
そこが、今回の事件の起きている現場であるらしい。一馬が連絡を取った投稿者は、彼への返信にて、その旨とミツバ荘の住所、そして簡易地図を送って寄越していた。今日、一馬がミツバ荘を尋ねることも無論了承済みだ。
「ミツバ荘、ミツバ荘…っと」
周りに何軒かアパートがありますが、中でも一番古いのがミツバ荘です、送られてきた地図の下に書き添えられていた文句を思い出しながら、一馬は込み入った住宅地へと目を凝らす。道路沿いからは、比較的新しそうなアパートが何軒か見えるのだが…
「もう少し中の方ッスかね?…ん?」
道を外れて、もう少し住宅地の中へ入ってみようか。目的地を探しながら、一馬がそんな事を思ったその時、彼の目に、見た事のある後ろ姿がとまった。
長身の少年だ。何か探しているのか、周囲をキョロキョロと見まわしている。以前、別の事件に関った時に顔を合わせた事があったと思う。名前は、確か…。
「蒼月くんッスよね?こんな所で、どうしたの?」
後ろから声をかけたためだろうか、目の前の少年の肩がビクリと跳ね上がった。その様子に、人違いだったかな…と一馬が思いかけた時、振り向いた相手が安堵のため息と共に彼の名前を呼んだ。
「武田さん!?うわぁ、お久しぶりです」
知人の姿を認めた為か、蒼月支倉(あおつき・はせくら)の青い目が嬉しそうに輝く。しかし、それはすぐに困ったような色に変化してしまった。
「どうかしたんスか?」
「いやぁ、実はココに行きたいんですけど。中々見つからなくて…武田さん、この辺詳しいんですか?」
困ったような顔でピラリと目の前に差出された紙に一馬は視線を落とした。目印になる建物と道を、簡単な線だけで書いた地図だ。その中に赤丸で書かれた場所がある。
ここが目的地なんだろうな。
そう思って一馬は、赤丸の中に書いてある文字を読んだ。
「ミツバ荘…ん?ミツバ荘って事は、もしかして蒼月くんもゴーストネットの記事を見てきたのかい?」
「『も』って事は、武田さんもですか?」
「そうなんだ。なんだか気になる記事だったしね」
驚いたように大きく1つ瞬きをした支倉に、一馬はそう言うと、もう1度目の前の地図に視線を戻した。
駅前の大通りを南へ下り、信号を2つ越して、コンビニの角を左折…今まで通って来た道を地図を見ながら反芻してみる。
じっくりと地図を見る2人に横を黒塗りの高級車が通り過ぎた。こんな住宅地の中を走るには些か不似合いなそれの後を2人の視線が追う。車は、50メートルほど先で、ピタリと止まった。運転席から降りた運転手が慣れた手付きで後部座席のドアを恭しく開ける。そこから、ゆっくりと歩道に姿を現した知人の姿に一馬と支倉は目を見張った。そんな2人に気付いているのかいないのか、セレスティ・カーニンガム(−・−)は、目の前の建物を見上げ、それから。ふわりとした微笑を浮かべて2人の方へと顔を向ける。
そんな彼の背後には、『ミツバ荘』と書かれた古い看板が、ひっそりと立っていた。
ミツバ荘は確かに古そうなアパートだった。2階建ての薄汚れた建物に、色のあせたドアが並んでいる。
「古いと言っても、築15年といった所ですけれどね」
2階へ続く外付け階段を昇りながら、セレスティは穏やかな口調でそう言った。そして、来る前に少し調べてみたのですが…と前置きした上で、彼の知り得たミツバ荘の情報を言の葉に乗せる。
総部屋数10個、そのうち住民が入っている部屋が7部屋。日当たりは比較的良好…云々。
その情報に、一馬は首を捻った。
「ここって、あんまりカビとか生える環境じゃないッスよね?」
「えぇ、各部屋の状態までは分かりませんけど、調べた限りでは。」
「それじゃ、今の状態は異常なんですね?…やっぱり、何か霊的なものとか関ってるのかなぁ…?」
ギシギシと音を立てる錆びた階段を昇りながら、そう言ったのは支倉だ。その言葉に、セレスティは薄らと微笑を浮かべて、口を開いた。
「普通でないのは確かだと思いますよ。霊的なものが関っているかどうかは分かりませんけれど。」
「カビ原因が、ミツバ荘の立地条件でない事は間違いないみたいッスね」
そんな会話を交わしながら、階段を昇りきった一同は2階に着いた途端に一斉に顔を顰めた。酸っぱいような、埃っぽいような、独特の異臭が鼻をついたのだ。
「カビ臭…っ」
半ば吐き捨てるように呟いた支倉が、片手で口元を覆う。1階にいた時は殆ど感じなかった異臭だが、2階に漂うそれは異常と言っても差し支えのないものだった。
「思っていたよりも酷いですね…」
「ココまで酷いとは想像してなかったんスけどね」
柳眉を潜めながら誰にいうでもなく呟いたセレスティに言葉に頷きつつ、一馬は顔を顰めたまま異臭漂う2階の廊下に足を踏み出した。
外付け階段を昇りきったところにある部屋にプレートは205。彼らの目指す203号室は、この異臭漂う部屋の先にあるのだ。足を踏み出すごとに、濃くなっていく異臭に顔を歪めながら、それでも彼らは203号室に前に辿りついた。他の部屋と変わらないペンキの剥げ落ちそうなドア。まだ、ここまではカビも及んでいないのか、侵蝕されているようには見えない。
一同を代表して、支倉がドアの脇のインターホンを押した。ピンポーン…という軽い音がドアの向こうで反響している。ドアはすぐに内側から開かれた。
ドアの向こうからくたびれた様子の男性が、顔をのぞかせる。それは、この203号室の住人で、ゴーストネットに例の記事を書きこんだ人物、戸塚郁夫だった。
「本当に来て下さって、ありがとうございます」
部屋の主である戸塚は、そう言って何度も頭を下げながら、一同を部屋の中へと迎え入れた。彼の部屋の中にも廊下と同じ臭いが満ちているのが分かる。同じ、いや、もっと濃い異臭。
1歩足を踏み入れた途端、誰かが息を詰らせるような音がした。
濃い緑色が部屋を覆ってる。
壁、窓、ベランダを埋め尽くす、緑色の…何か。
それがカビだと気がづくまでには、幾ばくかの時間が必要だった。
「酷いもんでしょう、昨日も掃除したんですがね…」
まだカビに侵蝕されていない部屋の隅にあるテーブルで3人分のお茶を用意しながら、戸塚は疲れきったように溜息をついた。そうしていると、彼の冴えない中年男風の容貌に拍車がかかる。
「どうぞ、お構いなく。ところで、あのカビですが…一体、何時頃から生え出したのです?」
「…3週間くらい前だったと思います。正確な所はわかりませんが。」
セレスティの問いに戸塚は、オレンジを切っていた手を止めて済まなそうに言った。
「その時期に何か変わった事とかはなかったッスかね?」
「あー…1つだけ。空家のはずの201号室に人影を見たという噂が広がったのも、あの頃じゃなかったかなぁ…」
「それ、噂かどうか確かめた人とかはいるんですか?例えば、201号室に入ったとか…」
一馬の問いを引きついだ支倉の質問に、戸塚は静かに首を横に振った。
「いや、誰も確かめてないと思いますよ。ここの管理人さんは、老婦人でね。少し離れた所に住んでいる事もあるんですが、あまりここには来ないんですよ。だから、噂のことも知らないんじゃないですかね?」
はぁ…と溜息をついて、戸塚はオレンジを皿の上に並べ、どうぞ、と一言付け足した。カビの生えた部屋で何かを食べる気には到底なれないのだが、戸塚の心遣いを無駄にしては申し訳ない…そう思った一馬は、オレンジに手を伸ばしかけて固まった。
「武田さん、どうかしました?」
無邪気に問いかける支倉も、また一馬の目線の先にある物をみて言葉を失う。
彼らの視線の先にあるのは、たった今、斬られたはずのオレンジの表面に、何時の間にか作られた緑色の染みだった。
「戸塚さん、これは…?」
「ここ、3日ほどのことなんですけど、時々、起きるんですよ。剥いたばかりの林檎や作ったばかりの料理にカビが生えるんです…」
セレスティの問いに答えながら、戸塚は心底、気味が悪いという風に首をすくめた。部屋の中にもカビ、切ったばかりのオレンジにもカビ。カビ、カビ、カビ。些か所の騒ぎではない、間違いなくこれは異常だ。思わず、彼らは顔を見合せる。状況だけでなく、もう1つ、異常だと思う事があったからだ。
「戸塚さん、貴方、どうして未だにここに留まっているのです?隣の方のように出ていくのが普通だと思うのですが…。」
全員が不思議に思っていた事を、セレスティが口にする。その問いに、戸塚は困ったような笑いを一瞬だけ口元に浮かべ、視線を棚の上へと向けた。正確には、その上に置かれた小さな小箱に。
「…どうしても、あれを渡したい人がいるんですよ。以前、ここに住んでいた人で…。何時戻ってくるか分かりませんからね」
そういって、戸塚は、もう1度困ったような、そして何処か悲しそうな笑みを浮かべた。
■2
「さて、それじゃ、掃除してみるとしますか」
カビ塗れになっている203号室のベランダで、一馬は腕まくりをしながら気合を入れる。支倉とセレスティは、それぞれ情報収集をすると言い、また明日会う事を決めて203号室を去った後だ。一馬は、この部屋に蔓延ってるカビを掃除してみようと1人、この場所に残ったのである。
彼の両手には戸塚に借りたゴム製の長手袋がはめられ、右手にボロボロのデッキブラシ、左手にこれまたボロボロになっている洗剤が握られている。デッキブラシと洗剤は、一馬が地獄から召喚した『品物の幽霊』だった。これで、例の異常繁殖を続けるカビを掃除してみようというのである。
古ぼけてはいるが、まだなんとか使える洗剤をカビの上に降り掛けて、デッキブラシで擦る。異常繁殖していてもカビはカビといった所なのか。一馬の予想以上にあっさりと、デッキブラシで擦った場所からカビが消えた。
「うーん…カビ自体に何か能力があるとかじゃなさそうだなぁ」
呟きながらも手は止めず、彼はゴシゴシと緑の絨毯に覆われてしまったベランダの床をこすり続ける。そんな一馬に、部屋の中から顔を出した戸塚が申し訳なさそうに声をかけた。
「すみませんね、武田さん。掃除までして頂いて…」
「いえ、お気遣いなく。困った時はお互い様ッスから!」
にかっと笑いながら、そう返した一馬に、戸塚も僅かに安心したような笑みを浮かべたが、棚の上の箱が目に止まると同時に、その顔が再び曇った。
「…あの、聞いちゃマズイ事かもしれないんですけど、その箱を渡したい人って、戸塚さんの…恋人さんだったりしますか?」
床を擦る手を止めて、部屋の中を振り返った一馬は思いきって聞いた。その言葉に、戸塚は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、苦笑いにも似た表情で首を横に振る。
「違いますよ、私の恋人じゃありません。恋人…はあってますけど、私の親友の恋人なんですよ」
そう言いながら戸塚は、棚の上の箱に手を伸ばし、それを下ろすと、もう1度口を開いた。
「そいつは、中学時代からの友人でしてね。高校卒業後に家出同然で、彼女と田舎と飛び出しちまったんです。そのまま、数年間、行方知れずだったんですが、3年間にそいつの家族に無理矢理、田舎に連れ戻されましてね…そのまま、病院に入院しちまって。丁度、1年くらい前に亡くなったんですよ。亡くなる前に何度か会いにいったんですが、その度に『東京に残して来た彼女が心配だ』って言ってね…その後で知ったんですが、あいつの彼女、東京で行方不明になってるらしいんですよ…」
戸塚の手の中で箱が小さな音を立てて開く。その中には、小さな指輪が1つ入っていた。
「死ぬ前にコイツを預かったんです、彼女に会ったら渡して欲しいってね。それで今年、東京に転勤になった時に思いきって、この部屋を借りました。あいつが彼女と一緒に住んでたアパートでしたから、もしかしたら、行方不明になってる彼女が戻ってくる事もあるかもしれないと思って。」
「戸塚さん…」
小さく呟いた一馬に、戸塚は静かに笑って言った。
「だから、立ち退きたくないんです。あいつの最後の願いくらいは、叶えてやりたい…」
その笑顔は悲しさに満ちていて…一馬は、無言のまま、戸塚から視線を外すと、カビ掃除へと意識を向けた。
■3
翌日、一同はミツバ荘で再び顔を合わせた。まず、203号室の戸塚の元へと向う。戸塚は、ますます疲れきったような表情を浮かべ、部屋の中へ目線を向けた。部屋の中に目を向けた一同は、一斉に息を飲んだ。昨日、一馬が懸命に掃除し、カビを全て撤去したのにも関らず、一晩のうちにカビに覆われてしまっていたのだ。
「異常でもカビはカビ…って訳にはいかなかったッスか…」
はぁ…と疲労感を覚えて呟く一馬の横で、同じように溜息をついたセレスティが口を開く。
「とにかく、原因を探ってみましょう。何かあるとすれば、恐らく…」
そこで言葉を切って、彼は東の1番端へと視線を向ける。
「201号室でしょ、やっぱり。管理人さんから許可は貰ってあるし、早速調べてみよう!」
セレスティの言葉を引き継いだ支倉は、昨日のうちに管理人から借りた201号室の鍵を手の中で、シャランと鳴らしてみせた。
ミツバ荘201号室。
かつて、戸塚の親友が住んだという部屋は、3年前、その部屋に住んでいた女性の失踪事件の後に閉じられたままだという。恐らくカビの大量発生源となっている部屋の中は一体、どうなっているのか。
…死体とか転がっていないといいんスけどね。
一馬は、ふとそんな事を考えたが、不謹慎だと思い、口に出すのを止めた。
どことなく、ワクワクした様子で支倉が鍵穴にさしこんだ鍵をぐるりと回す。その横では平素と変わらぬ穏やかな顔でセレスティと些か緊張した様子の一馬が、後ろには気味悪そうな様子の戸塚が息を呑んで見守っている。戸塚の手には、留守中にカビにやられると困るから…と、例の箱が握られている。その中で、扉はギィ…という気味の悪い金属音と共に開いた。開くと同時に部屋の中から、あのカビ独特の異臭が噴出するかのように彼らの方へと吹きつける。
部屋の中はカーテンが閉まっているかのように薄暗く、1歩足を踏み入れた瞬間、足がズブリと沈んだ。
「うわ…床にまで、カビが生えてる…!」
緑色のカビがこびり付いた靴底を持ち上げて、気持ち悪そうに支倉が言う。その様子を穏やかな笑みを浮かべながら見ていたセレスティが部屋の中へ更に1歩踏み出そうとした、その時。
ガタリという大きな音が頭上で響くと同時に、彼の目の前に天井から黒い影が落ちた。
それは、何が落ちて来たのか一同が把握する前に、予想外の早さで正面にいたセレスティに向って突進した。体当たりを食らわそうかとするかのような突進に、意表を付かれたセレスティが毛足の長い絨毯のようなカビに足を取られてよろめく。影が、彼の体にぶつかる寸前、脇から勢い良く吹き出した白い泡が影を吹き飛ばした。
「大丈夫ですか、セレスティさん?!」
ボロボロの消化器、否、消化器の幽霊を手にした一馬がセレスティに声をかける。彼は、セレスティが危険と判断するやいなや、地獄から、この消化器を呼び寄せたのだ。白い泡は、彼の手にした消化器が吹き出したものだった。
「カビ!?まだ、動いてる…!」
白い泡に包まれて吹き飛んだはずの物体が再び蠢き始めるのを見た支倉が声を上げる。窓際の僅かな明かりに透かされたそれは、まさに異形だった。
緑色のカビだ。それが生物のように蠢いている。まるで、そう。アメーバーのように。それが蠢きながら、壁際に立ち上がろうとしているのだ。
「カビの中に、何かの意識が宿った…と考えるのが妥当でしょうか…」
セレスティは、後ろに下がりながら呟いた。化物…と叫びそうな様子で、その光景を見つめる戸塚と一旦後ろに引いたセレスティの前に支倉と一馬が壁になる。
「燃え尽きろ!」
ゆらりと立ち上がったそれが、再び向ってくる前に、支倉の作り出した蒼い狐火が蠢くカビを包み込んだ。ミツバ荘を燃やさないように作り出された狐火は、確実に目標物だけを包み込み、焼いていく。全てが蒼い炎に飲み込まれて、彼らの目の前で溶けていく。誰もが安堵のため息をつこうとした時、それまで静観していたセレスティが声を上げた。
「まだ、です。負の気配がします…!」
その声が合図になったのか。
蒼い炎の中から、ゆっくりと白い物が表れる。
まず、腕が。それから足が。落ち窪んだ眼窩に、穴のように明けられた口…。
それは、白い頭蓋骨を抱えた白骨だった。それが、生きた人間のように動いている。
「冗談じゃないッスよ…」
死体があったら…201号室に入る前に、一馬は確かにそう思った。その予感が、まさか当ってしまうなんて。
1歩、また1歩と蒼い炎を纏ったまま、緑の絨毯を踏みしめて白骨死体が歩いてくる。歩くたびに、足元の緑が、意志あるもののように、その死体に纏わり付き、ビロードでできたドレスのように白骨を包みこむ。緑色の夜会服を纏ったレディが、ドレスの裾を引いてやってくる。カタカタと頭蓋骨の顎が揺れ、耳障りな音が響いた。
…アノ人ニ、会ウノ…。
喋っているのだ。声帯を持たない頭蓋骨が喋っている。
アタシヲ捨テタ、アノ人ニ。
会ッテ、アタシガ、ドレダケ愛シテタカ、教エテアゲルノ…。
「あの白骨、女の人なのかな?」
ふと、そんな事を呟いた支倉の言葉にセレスティが頷いた。彼には、目の前の白骨が誰であるのかが分かっていたのだ。
「女性です。2人とも」
「2人?」
セレスティの言葉に引っ掛かりを覚えた一馬が聞き返す。
「2人です。1人は、5年前にミツバ荘201号室から失踪した女性。もう1人は、3年前に同じ部屋から行方不明になった方でしょう。彼女の骨の色を見てください。頭蓋骨と身体の色が違いっているでしょう?恐らく、腕に抱えられている頭蓋骨が、あの身体本来の持ち主の物ですよ」
セレスティの言葉通り、白骨の上に乗っている頭蓋骨は、僅かに黄色く、古い物のように見えた。先ほどから喋っているのは、こちらの頭蓋骨だ。セレスティが身体本来の…と言った白い頭蓋骨は、白骨の腕に抱えられたまま、一言も喋っていない。それは意志がない為なのか、否か。そこまで知る事はできないが…。
「…つまり、こういう事ッスか?5年前に201号室で失踪した女性は殺されてた。その女性が、3年前に失踪した女性を殺して体を乗っ取った…?」
「詳しい事は分かりませんが、そんな所でしょう。」
「それより、どうすれば?!僕の炎でも燃え尽きないし、放ってもおけないし」
近づいてくる白骨女性を油断なく見つめながらも飛交う3人の声の中で、小さく震える声が響いた。
「祥子さん…?キミが柳瀬、祥子さん、なのか…?」
戸塚だ。あの箱を震える両手で握り締め、額に冷や汗を浮かべながら、彼は白骨を見つめて問いかける。
「渡したい物があるんだ、あいつの…キミの恋人が残していった物なんだ…」
腕の中の頭蓋骨が、その言葉に僅かに反応したような気がした。それに気がついているのかいないのか、白い身体の上の黄色い頭蓋が声をあげる。
何言ッテイルノ?
誰ニ言ッテイルノ?
私タチ、二人トモ、愛シイ人ニ置イテイカレタノヨ。
私ハ、殺サレテ捨テラレタ。
彼女ハ、恋人ニ捨テラレタ。
ダカラ、彼女ヲ仲間ニシタノ。
ダカラ、彼女ノ体ヲモラッタノ。
アノ人ニ、会ウ為ニ。
アノ人ニ、復讐スル為ニ。
愛シイ、愛シイ…ソシテ、憎ラシイ、アノ人!!
捨てられた女の絶叫。狂おしいほどに、悲痛な声が空気を震わせる。その叫びに、顔を青白く染めながらも、戸塚はもう1度口を開いた。
「最期まで、あいつ…キミの事を心配してたんだ。キミが失踪したって田舎で聞いて。ここにあるのは、あいつの気持ちなんだよ…!」
白い腕に抱かれた白骨は喋らない。その黒い眼窩に向って、セレスティは静かに言った。
「貴方はどうしたいんです、柳瀬祥子さん?貴方が望むのは復讐ですか?それとも、彼の元へいく事ですか?」
ワタシハ…。
腕の中の頭蓋の黒い眼窩に蒼い光が宿る。白い腕が身体の上に乗った、黄色い女の頭蓋を壁に叩きつけるように放り出した。代わりに据えられる白い頭蓋。貴婦人のように、神父の前へ向う花嫁のように、緑のドレスを纏った白骨が、戸塚の前へと足を進める。壁になっていた、一馬と支倉が彼女に道を譲った。
自分に向って近づいてくる白骨に震える戸塚の肩を、一馬が軽く押しだす。
「渡してあげてください、戸塚さん。友人の頼みだったんでしょ?」
パチリを小さな音を立てて開いた箱から取り出した指輪を、戸塚は指し伸ばされた白い骨だけの左手薬指にはめた。
アノ人、ノ…。
胸元に指輪を嵌めた左手ををだくように引き寄せて。
幸福そうに呟いたまま。
柳瀬祥子は、糸の切れた人形のように、床の上に崩れ落ちた。
「終ったんだよね、これで…」
緑色のカビに覆われた床の上に散ばる白骨と、黄色い頭蓋骨の破片に目をやって、支倉がやりきれなさそうに言った声が、四方の壁に当って、腐敗臭溢れる部屋の中に散っていった。
ミツバ荘のカビ騒動は、終結した。
その後、戸塚から届いたメールによれば、管理人の手配の元、清掃業者によって全てのカビは綺麗に掃除され、出て行ってしまった住人も何人か戻ってくるらしい。
そのメールの最後に、戸塚は次の休みに柳瀬祥子の遺骨を伴って田舎に帰り、親友と同じ寺に預けるつもりだと、簡単に記されていた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
1559/武田・一馬/男/20歳/大学生
1651/蒼月・支倉/男/15歳/高校生兼プロバスケットボール選手
1883/セレスティ・カーニンガム/男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、ライターの陽介です。
一馬様、初めまして。
セレスティ様、支倉様、今回もご参加くださってありがとうございます。
大変長らくお待たせしてしまって、本当に申し訳ありません。
御参加くださった皆様に、不快な思いをさせてしまった事を、
深く反省し、お詫びする次第です。
前回に引き続いての遅延、大変申し訳ありませんでした。
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