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雪と出会いと
ある雑居ビルの中にある薬局の自動ドアが開き、サラリーマン風の男が出て来る。
「……雪か」
天から舞い降りてきたそれは、男の頬に冷たい感触を少し残し、消える様に溶けていった。――目の前には寒さも忘れてはしゃぐ塾帰りの子供達が通り過ぎる。
思わず男は、自分も子供の頃はあんな風だったな、と口元をゆるめる。
そして――口の中で呟く。
「……そういやあの時も、こんな雪が降っていたな……」
男は天を仰ぎ、一年前の出来事に思いを馳せた。
「くそっ、あいつら……丸腰相手に刃物はないだろうが……っ!」
暦も師走に入り、日本中の街と言う街がの赤色と緑色に彩られ、全てが浮き足立った様な季節。
そんな夜の繁華街の路地裏、一人の男が息も絶え絶えに走る。
男の名は藤巻・諫矢(ふじまき・いさざ)。某製薬会社のごく普通の営業セールスマンである。
だが、今の諫矢の姿はその肩書きを裏切るのに十分すぎるほど衝撃的な姿であった。
スーツやコートと言う服装こそサラリーマンらしい代物ではあったが、その上から刃物で何回も切り裂かれて傷ついたその姿――それは町の薬屋相手に一般薬を売ってる会社員には絶対あり得ない代物。
何故諫矢がこんな目に遭ってしまったかの根本的原因は、彼の実家の家業にある。
彼の家は、『組』とか『シマ』とか『代紋』とかの業務用語を使用する、裏の世界の仕事を生業としているのだ。
裏の世界と言うのは何かと騒がしく、血の気が多い。ほんの些細な事で衝突が起こるのは日常茶飯事。
そのため、裏の世界で生きる諫矢の父やその下で働く者達、その彼らから一目置かれる諫矢自身の存在を快く思わない者が、本人達があずかり知らぬところで自動的に増えていく。
さらにはそれを理由に戦いを仕掛けてくる組織もある位だ。このあたりを業務用語で言うなら『メンツを保つための抗争』と言ったところか。
話を戻して。
今までも諫矢の身にこのような襲撃は何度か起こっていたのだが、その度に返り討ちで済ましていた。
だが、今回は違った。
倒しても倒してもキリのない位の人数、そしてその手に光る刃物。
そしてこっちはたったの一人。そしてその手は何もない丸腰。
――全くと言っていいほど勝ち目はなかった。
「もうこんな時間……急がないと」
和装の女性は、携帯電話で改めて時刻を確かめると、鞄を胸にきつく抱えて小走りに進む。
彼女の名前は東条・花翆(とうじょう・かすい)。都内の大学に通う二回生である。
日本舞踊の稽古が終わった後、色々と話していたら思った以上に盛り上がってしまい――教室を出る頃にはもう見事なまでの真っ暗な空。
さらに、凍てつく様な北風とちらちらと降り出した雪とくれば、否が応でも急いで家に帰りたくなるものだ。
そんなこんなでいつもの公園の入り口にさしかかったその時である。
花翠は公園の中から微かに漂う妙な匂いに気づいた。
気になった花翠は匂いを辿り、外灯下のベンチの方に向かうと――そこには、サラリーマン風の男――諫矢がなかば倒れる様な形で座っていた。
諫矢の座るベンチは血で濡れ、何とも言えない濃厚な匂いを辺りに振りまく。
その異様な風景に――花翠は思わず、息を飲み込んだ。
「……誰だ……」
諫矢は少しだけ顔を上げ、花翠を見る。
その息は荒く、今にも息絶えそうな雰囲気を花翠に与えた。
「だ……大丈夫ですか……その、病院に……!」
少し脅えながら花翠は諫矢に近づく。
「……いや……気にしなくていい……」
「で、でもっ!」
「……本当にいいんだ。……早くこの場を去った……」
息絶え絶えの諫矢が言い終わるより早く、花翠は近くにあった清掃用の蛇口を捻り手早くハンカチを濡らして――諫矢の額に当てる。
桜模様のハンカチ越しの花翠の手に、怪我による発熱が感じて取れた。
「……ちょっと、身体の力を抜いて貰えませんか?」
花翠に気圧されたのか、諫矢は彼女の言うままに身体の力を抜く。
すると――ハンカチ越しに放たれた何かしらの柔らかな『力』が放たれ、諫矢の身体の中に染み渡ってゆくのが感じ取れた。――そして、しばらくすると諫矢の身体の傷の痛みはほぼ消えていった。
「これでちょっとは良くなったと思います」
「……すまない……」
その数分後、二人は何も言わずにその場を離れた。
お互いの身の上どころか、名前も言わず聞かず――。
――これが、最初の出会い。
それから数週間が経ち、年が明けてすぐの話。
「……初詣?」
「ああ、たまには親子水入らずでな」
場所はうって変わり、ここは諫矢の実家。
正月特有のけだるさ漂う昼下がりは、ヤクザ稼業の彼らの家にも平等に訪れる。
「親子水入らずと言っても……どうせ、下の奴らも付いて来るんだろう?」
ようやく傷も癒え、包帯も取れた諫矢は父親の言葉に不満気な表情でこたつに顔を埋める。
「我慢しろ。前みたいに襲われたらどうするんだ?」
「……解ったよ」
それから一時間後、高級かつ頑丈そうな車がこれまた高級そうなガレージから出てくる。
中に乗るは運転手と父と諫矢と――。
「何が起こるかわからんこんなご時世だ、要人に越した事はない」
「…………」
スーツ姿の諫矢はいかにもと言う感じの父の部下に挟まれ、窮屈そうな顔をしていた。
二人とその他数名は、何事もなく参拝を終えて、帰りの参道の方へ向かおうとしたその時――諫矢の目に一人の女性の姿が目に入った。
「(あれは……)」
諫矢は一瞬目を細め、後ろの父の方を振り返った。
「ちょっと縁起物でも見てくる」
「誰も連れていかんでいいのか?」
「いい。一人で行く」
「……そうか」
父は同行しようとした部下達に目で合図を送り、参道の方へ歩く。
「ワシらは車に戻っておくぞ。ここは人が多くてたまらん」
「……ふう」
花翠は売り場の奥から絵馬の束を取り出し、売り場に置いてから急いで座る。
神社の販売所では、おみくじを引く客や縁起物を買い求める客が絶えない。その客の量は、この神社に住む花翆やその家族総出の上、なおかつ臨時バイトを雇わなければフォローできない位の忙しさである。
そんな時、また一人、客が花翆の前に並び声をかける。
その客とは、諫矢だった。
とは言え、カラーコンタクトで瞳の色を変えてさらに眼鏡もかけているので、見た目はほぼ別人のようだ。
「……すまない、これ、貰えないか?」
諫矢は微笑みと共に幾種のお守りから紺地に金糸をあしらった大きめのものを指差す。
それは前に花翆が会った時とはうって変わって優しく穏やかな表情。
「……交通安全のお守りですね。600円になります」
「新年から大変だけど、頑張ってな」
「はい、ありがとうございます! 頑張りますね」
「ああ」
諫矢はもう一度微笑むと、花翆の手からお守りを受け取って、そのまま人混みに消えていった。
「(あの人……誰だったかしら……何処かで見た気もするんだけど)」
さっきの男にまったく覚えはないはずなのに――思わず、少し考え込んでしまう。
「ねぇ、どうしたの?ぼーっとしちゃって」
同年代のバイトに肩を叩かれ、花翆は我に返る。
「……わ、私そんなにぼーっとっしてましたかっ!?」
花翠の見事な慌てぶりにバイト女性は苦笑してうなずく。
「花翠ちゃん、疲れてるんじゃない?……ほら、今日朝から全然休んでないし」
「大丈夫ですよ……」
「そんなこと言っても、お客さんもまだまだ来る訳だし」
「……でも」
「あーもう! 交代してあげるから、休んで来なよ、ね!?」
バイトさんに半ば追い出された様な形で花翆は販売所の裏口から出た。
振り返ると、賑やかな人混み。
男はあの中に消えていったのだ。
どこかで見た様な顔。
どこかで聞いた様な声。
ふと、数週間前の公園での出来事を思い出す。
「(……でも……雰囲気も瞳の色も全然違うし……)」
花翆はたまらなくなって――人混みをかき分けて、先ほどの姿を探しながら外の鳥居まで走った。
だが、もう先ほどの姿は見あたらず――何とも言えない居心地の悪い気持ちは胸に残ったまま。
「もう帰りましたよね……やっぱり……」
花翠がため息を付いて、空を仰ぐと――今年最初の雪が、ひとひら、ひらり。
乙女は、いつか見た男に思いを馳せる。
――これが、二度目の出会い。
そして三度目の出会いは――あと雪が何度か止んでからの話。
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