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待ち人は満開の桜の下に
【壱】
立ち上げたブラウザのなかに映し出される文字の列を眺めながら、藤井百合枝は椅子の背凭れに躰を預け小さく伸びをした。仕事を離れてもパソコンに向かっている自分が馬鹿馬鹿しいと思う反面、ひどく心を惹かれる記事が目の前にある現実に結局この世界からは離れられないのかもしれないと思う。
プロバイダのサポートセンターに勤務し始めてから、インターネット環境にあることが常になった。職業からパソコンに、特にインターネット関係の知識には詳しいつもりだ。
しかしこうしてふらふらと当て所なくインターネットのなかを彷徨っていると、特別な知識よりももっと別の知識が必要なのではないだろうかと思う時がある。氾濫した情報。それはどれもこれも曖昧で、声にすれば呟きのように消えていくであろうものたちばかりだけれど、文字としてインターネットのなかを彷徨うことになったそれは不確かな情報を散乱させて歩いている。
特に掲示板という場所はそうしたものの集積所のようだと百合枝は思う。コピーアンドペーストでどこからともなく運ばれてきた情報が、どこに存在するかもわからない名前を偽った者によってばら撒かれていくことが当然になっているような掲示板はある意味無法地帯なのではないかと思うのだ。きちんと管理されているところであればそのようなこともないが、いわゆる荒らしというものにあって管理人が管理放棄してしまったような掲示板ほど悲惨なものはない。
一つ溜息をついて、モニタに向かう。そこに映し出されているのはきちんと管理され、それぞれが個々に持ち寄った情報を投稿して個々の交流を深めているといった風のゴーストネットOFFというホームページ内に設置されている掲示板だ。画面をスクロールさせて、長々と続くスレッドに一通りざっと目を通して、そんな桜が本当に存在しているのだろうかと思った。
【TITLE】:桜の話。
【NAME】:SAKURA
【MESSAGE】:こんにちは。
何処かにある桜の話しだと思うんだけど、それが満開になっているのを見ると死んじゃうみたいなんだ。
ほら桜の下には屍体が埋まっているって云うでしょ?あれみたいに桜が人を殺すんだって。
あれ、桜の下の屍体は殺されたわけじゃなかったっけ?でもね、桜が人を殺すのは本当みたいなの。
女の人が満開の桜の下に立っているのを見ちゃうと死んでしまうんだって。
でもね、なんか哀しい逸話つきみたいで恋人を待っているんだって。
それでその恋人に似ている人がたて続けに死んでるみたい。
もう桜の季節も終わりだけどその桜が満開なのは季節を問わず、みたいなんだよね。
春だけじゃなくて、夏でも冬でも満開の時があるみたいで、
それも決まって夜なんだって。昼間に行っても春でも枯れ木。
でも見える人には見えるみたいなんだ、満開の桜が。
これって調査できたりするのかな?それとも何か有力情報持っている人いる?
ちょっと興味があるので良かったら教えてもらえると嬉しいです。
この記事に続く多くのレスポンスは似たような桜を知っているというものであったり、明確な場所を記しているものさえあった。どこまでが本当で、どこまでが嘘なのか。それともこの記事の内容自体が嘘なのだろうか。だとしたらこのレスポンス総てが嘘になるといっても過言ではない。思って、百合枝は思う。もしかするとこれに誘発されて、真実が潜んでいるかもしれないと。
そして思いついたままに新たなウインドウを開き、検索サイトで思いつくままにキーワードを打ち込んでいく。ヒットするページを絞っていくために、だんだんとキーワードを増やし、リンクを辿り、結局はゴーストネットOFFのようなサイトに行き着くことになった。ロボットサーチの威力はすさまじいな、と思いながらキィを叩く手を止めて百合枝は思案するようにして腕を組んだ。
季節を問わず満開になる桜。その情報はインターネットのなかに無数に存在している。あながち嘘でもないのかもしれないと思って、改めてゴーストネットOFFの掲示板に戻り、じっくりとそれに関するスレッドを読み返した。他のサイトに掲載されていた場所と照らし合わせて、一番有力だと思える場所の住所を控え、地図と照らし合わせて場所を特定する。
するとそれはさほど遠い場所ではないことがわかった。こんな桜が身近にあるなんて気付きもしなかったと思いながら、百合枝は住所とプリントアウトした地図を片手にパソコンの前を離れた。
【弐】
情報が氾濫した社会では人は無力なのかもしれない。電車に揺られながら百合枝はずっとそんなことを考えていた。住所を打ち込んだだけで、だいたいの地図や乗り換え案内はわかってしまう。データベースがなければ不可能なことであったが、現代社会では日々それが更新され、配信され続けている。回線がいかれたりしない限りは世界のどこへでも繋がることができるのだ。いつか世界は0と1に支配されてしまうかもしれないと思いながら電車を降りて、目的地へと爪先を向ける。
手にした地図は全く見知らぬ場所のものではないものだ。ただ大通りから少し入った、住宅地のなかにあることで気が付かなかっただけのこと。ひっそりとした夜の住宅地はぽつりぽつりと明かりが灯ってはいるものの、通りを行く人の姿はない。時折思い出したようにして自転車が通り抜けていくくらいである。
そんな住宅地のなかを百合枝は頭のなかに記憶した地図を頼りに進む。
ヒールの音が軽く響いて、夜のなかに反響するようだった。
公園は、まるで闇なかに口を開けるようにしてぽっかりとそこに存在していた。
近所には団地が並び、四角いその壁面を彩るようにしてぽつりぽつりと明かりが灯っているのがわかった。それを視線でなぞるようにして眺め、百合枝は自転車の乗り入れを防止するための策の間をすり抜け公園内へと一歩を踏み出した。
アスファルトがざらりとした砂に変わる。色褪せた遊具は月の光の下でひっそりと息を潜め、寂れた雰囲気を醸していた、すぐ近くに団地があるというにも拘らずなんて淋しい公園なのだろうか。思いながら百合枝は目的の桜の木の下に立った。
枯れた枝がまるで骨のようにして闇の中に浮かび上がっている。
その姿を前に、これでは人が集まらないのも無理もない。あまりに淋しく、そしてどこか恐怖を与えるような桜だった。きっと昼の日差しの下でも、今と変わらないような姿であるのではないだろうか。日差しの鋭さに耐え切れないとでもいったようにして、精一杯に枝を伸ばして誰かを待ち続けている。桜にはそんな印象が備わっていた。
ゆっくりとまばたきをする。
どうしたものか。思案しながらとりあえず桜の木の周りを一蹴して、百合枝は再び最初の地点に立ち桜の木を仰ぎ見る。
すると不意に視界が明るくなる。
舞い散るは薄紅色の花弁。
刹那のまばたきの後に視界を埋め尽くすのは満開の桜。
枯れた枝など幻であったかのようにして目の前の桜は満開だった。
春の穏やかな日差しの下で見るそれのように、見事なまでの花をつけて咲き誇っている。
風もないというのに花弁が舞い散り、百合枝の足元を埋め尽くしていく。
春でもないのに桜が満開になることがあるなんて本当だったとは、思いながら桜吹雪の切れ間に目を凝らすとひっそりと佇む少女の姿があった。肩の辺りで切り揃え去れた髪がさらさらと揺れて、同じようにしてセーラー服の濃紺の襟が揺れている。
そしてその少女がふっと視線を持ち上げると、百合枝の頭のなかに直に声が響いてきた。
―――待っているの……。ただそれだけなのよ。
その声にふと哀しい逸話を思い出すような心持で、百合枝は問うた。
「誰を?」
―――恋人……。
【参】
少女は緩やかな口調で静かに語った。
まるで一つの物語を語るような淀みない口調で、ひっそりと呟くようにして百合枝にだけ話しかけてきた。
恋人を待ち続けているのだと少女は云う。随分前からの約束なのだと繰り返す。
けれどそれが叶わないものであるということをしっかりと理解していることに百合枝は気付いていた。
見えるのだ。人の心の揺らめきが炎のようなものへと姿を変えて、目の前にあるのがわかる。静謐な透明に近い青。それは哀しいほどの夏の空色にも似て、ひっそりとした諦めの気配を漂わせていた。
「……私には話しを聞いてあげることしかできないわ」
同情を滲ませるでもなく百合枝が云う。
―――わかっているわ。誰もがそうだもの。
少女は当然のことだとでもいうように答える。
「私には人とは違う、そう、特別な力みたいなものがあって、人の心を覗くことができるけど、それだけなのよね……、残念ながら」
打ち明けるように云う百合枝に少女はふっと果敢無い笑みを浮かべた。
―――私にもそれがあれば良かったのかもしれない……。そうすればこんな風にずっと待ち続ける必要もなかったのかもしれないもの。
叶わないとわかっていながら待ち続けるのはとても辛いことなのだと少女は云う。縛られたまま逃れることもできずにいることは本当に辛いのだと、切実な口調で訴えかけてくる。百合枝はその言葉の裏側に、解放してもらいたいという思いが潜んでいるのではないだろうかと思った。肉体を離れ、意識だけの存在になってしまった今となっては自らではどうすることもできないから、そっと手助けをしてほしいと願っているのではないだろうかと。
「離れないの?」
―――もう本当に終わりたいわ。……こんなことを永遠に続けていても、待っている人は来ないの。わかっているのよ。でもやめられないのは、どこかで信じてしまっているからなのよ。
莫迦なの、と呟いて少女はそっと目を伏せた。
―――相手ももう生きているわけがないのよ。でもね、それでもここにいつか来てくれるんじゃないかって期待している私がいるのよ。
「じゃあもう、別にここに未練があるわけじゃないのね」
―――そうよ。
「なら、云ってみればいいのよ。言葉にしてそれを」
百合枝が云うと少女ははっと何かに気付いたようにして顔を上げた。
そしてそれまで閉ざしていた唇をそっと動かす。
花弁の狭間でゆったりと唇が動くのが百合枝の目に映る。
そしてそれは静かに、言葉を綴った。
確かな言葉として百合枝の鼓膜を振るわせた。
「もう終わりにしたいのよ」
言葉と同時に辺りをいっぱいに包み込んでいた桜の花弁の一片一片がはらはらと溶けていく。そしてそれと同じようにして少女の姿もまた緩やかに桜の花弁と共に消えていくのがわかった。
「さようなら……」
百合枝が呟くと、遠く彼方のほうから小さな声が響いた。
―――私、背中を押してもらいたかっただけなのね。
溶けていく桜の花弁の隙間から響いてくる声だった。
―――ありがとう、本当に……。
最後の一片と共に残された言葉がしんと百合枝の頭のなかに響く。
それを確かに受け止めて、百合枝は静かに桜の木に背中を向けた。
そしてまだ社会も捨てたものではないのかもしれないと思う。どんなに情報が蔓延していても、一人が一人の言葉を待ち続けている現実が今ここにあったということが百合枝にそう思わせる。
声になった言葉。
文字になった言葉。
どちらもまだ必要とされている。
たとえどんなにインターネット上に文字に変換された言葉がはびこっていたとしても、まだどちらも必要とされているのだ。胸の内で何度もそう繰り返して、百合枝は日常への一歩を踏み出した。
少女の残した言葉がただ嬉しかった。
それだけがただ純粋に嬉しかった。
鼓膜に残る残響をいとしいと思うことができた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1873/藤井百合枝/女性/25/派遣社員】
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■ ライター通信 ■
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初めまして。この度のご参加ありがとうございます。沓澤佳純と申します。
そっと少女の背中を押して頂くような格好になってしまったのですが、いかがでしょうか?
少しでもこの作品がお気に召して頂ければ幸いです。
それではこの度のご参加本当にありがとうございました。
今後また機会がございましたらどうぞよろしくお願い致します。
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