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猫になる日。
オープニング
朝起きたら、義兄の耳がネコ耳に変化していた。
零は、今まで様々な奇妙な現象を目の当たりにしてきたせいでもあるのだろう。
大して動揺せぬまま、しかし30男のネコ耳姿という、嗚呼、神様。 もし、見なくて済むのならば、積極的に見ないまま人生を終えたかったのですなんていう、光景を目の当たりにし、とりあえず、この事態はどういう事なのか問い質して見るべきかと、強引に自分を納得させる。
何か、別に良いかなぁ…なんて、投げやりな感情に支配されつつも、「その、耳…、どうしました?」と、零が問い掛けてみれば、「耳が、どうしたんだニャ?」と武彦が答えてきた。
森へ、帰りたい。
別段森生まれでも何でもない零は、ガクリと、床に膝付きながら、何故かそんな郷愁に襲われる。
語尾にニャて、おいおい。
許されるキャラすっごい限定される口調やん。
ていうか、義兄がニャて、ニャて……うあー。
もう、項垂れるしかないという気分になりながらも、零は静かに立ち上がり、そして、「もし、わざとであるのならば、本日限りで、ここをお暇せねばならなくなるので、是非とも他に原因がある事を祈るばかりなのですが……兄さん。 ネコ耳生えてますよ?」と、告げる。
人生において、人に、それも兄に「ネコ耳生えてますよ?」という台詞を吐く機会に恵まれるなんて、私はなんと不幸な人間であろうか…、と自分の境遇を嘆く零に対し、武彦は目を見開き、それから、「プッ」と吹き出すと「なぁに、言ってんだかニャ」と言いながら、自分の耳に手を伸ばし、そして硬直した。
「……なぁぁぁっぁぁぁっぁぁああああああ?! ニャ」
事務所に武彦の絶叫が響き渡った。
「ええぇぇぇ? 誰も、求めてニャイだろ、これ? ええ? 何で、猫ニャ? どういうニーズニャ? ていうか、えーー?」
混乱しきったまま、自分の耳を触りつつ、そう呻く武彦に、零はあくまで冷静に言葉を掛ける。
「まぁ、誰かが求めてどうのこうのって訳じゃないでしょうが……、兄さん、何か心当たりとかありますか? 変な物を拾い食べしたとか」
「そんな、今時、子供でもしないような馬鹿な事しねぇニャ」と、抗議しつつも、「心あた…り?」と首を傾げ、そして、ポンと手を打った。
「そういや、昨日、街頭で、試飲サービスをやっていて、『またたびジュース』とかいう変な飲み物を飲んだ記憶があるニャ。 新製品とか言っていたけど、随分と人通りの少ない道でやっていたので、不思議に思ったニャ」
武彦の言葉に、どうして、そういう怪しげなものを呑んじゃうかなぁ…と呆れつつも、零は「多分それですね。 そういう仕組みかは分かりませんが、その飲み物のせいで、猫化したと考えるのが自然でしょう。 そのジュースを薦めてきた人間の容貌を覚えてますか?」と、聞いた。
武彦は、目を細め、考え込むような素振りを見せた後、「……女だったニャ。 うん。 真っ黒な髪した、何か背の小せぇ、ちんまい感じの……」と、答える。
「その人が、無差別にジュースを配っているとしたら、今頃はもっと騒ぎになっているでしょうから……」
「俺を狙っての、犯行…かニャ」
そう言いながら、武彦は自分の頬をつるりと撫でて、そして、「ひあ!」と素っ頓狂に叫んだ。
「ひ……髭ニャ! うあ! 尻尾も!」
動揺して、そう喚く武彦の鼻の側の頬から、確かに三本の髭がぴょんと生え、そして尾てい骨の辺りから、ズボンの外へ細長い尻尾が飛び出してくる。
さっき迄は、存在しなかったネコ特有の特徴に、武彦はネコ化が進んでいるという事実を悟り、戦慄した。
「ね、ネコになってるニャ! ネコになってるニャーーー!」
武彦が、動転し、ソファーから転げ落ちる姿を眺め、零も流石に、「もしこのまま、兄さんが猫になってしまったら?」という焦りのようなものを覚え、そして、とにかく誰かに助けを求めようと心に決めたのであった。
本編
学校の帰り道の通り道にある百貨店。
その百貨店のショーウィンドゥに飾ってある、新作の水着を眺め、みなもは小さく溜息を付いた。
白いリボンがアクセントになっている、とても可愛い水着。
「いいなー。 欲しいなぁ」
なんて呟けど、手持ちのお小遣いの額を考えれば手を出せそうにない。
「何か良いバイトないかなぁ」と、呟きつつ、良い仕事がないか聞く為に、みなもは興信所へと向かう事にした。
興信所の前まで来たみなもは、何故かバンドグループ「imp」の童顔ベーシスト山口さなと栄養士をしている夏野影踏が扉に耳をぴったり当てて、中の様子に耳を澄ましている姿を目に丸くした。
どちらも、ワクワクと顔を輝かせ子供のような表情で、扉に耳を当てているせいで、みなもは思わず(探偵団ごっこかしら?)なんて、22歳と32歳男性二人に対してとは思えないような推測をしてしまう。
大体まず、なんで、こんなトコに山口さなが?という驚きと、それ以上に、何をしているのかが全く理解出来ず、みなもは恐る恐る二人に声を掛けた。
「あの……、な、何をなさっているんですか?」
と、いうみなもの声に「シィー!」と唇に指を当てつつ、影踏がこちらを振り返る。
「あれ? みなもさんも、呼ばれたんですか?」といわれ、みなもは何の事か分からず目をパチパチとさせると、さなが「零ちゃんが、電話して来たんだ。 助けて欲しいってね。 何だかね、武彦がね、猫になるんだよ」とこれまた意味の分からない事を言ってきた。
「は? え? 猫って、あの、にゃあっていう猫ですか?」
「うん。 にゃあにゃあの猫だね」
さなは、「にゃあ」の部分を心底楽しげに言いながら、「でね…」と言葉を続ける。
「僕は、武彦の為に、わざわざ猫じゃらしを手に入れてまで遊びに来たっていうのに、この中ではヤクザが二人、デッドorアライブで哀川翔を取り合って大喧嘩していて、エマがそんな二人を止めようとして、岩下志摩も決めようとしてるんだ」
意味が分からない。
みなもは、興信所の中でどんな事が繰り広げられているのかちっとも想像できず、影踏に助けを求めて視線を送れど「俺的には、竹内力の方が格好良いと思うんだけど…」なんて的外れな事を言っている。
真面目なみなもは「えーと、じゃあ、整理すると武彦さんは猫で、ヤクザの二人は哀川翔さんのファンで、エマさんは岩下志摩オーディションを今日ここで、開催しようとしているっていう事なんですか?」と言って、じっと黙り込んだ。
益々意味が分からないというか、此処まで来ると最早意味とかどうでも良い。
「でも、エマが頑張ったおかげで、ヤクザ達もしょんぼりさんになってるみたいだからね、僕達はお邪魔する事にしようか」
とさなが言えば、「そうだな。 此処にいても埒があかないし」と頷き「じゃ、お先に」なんて言いながら興信所内に入っていく。
みなもは、そんな二人に慌てて続こうとするも、「ヤ、ヤクザさんが二人もいらっしゃるなら、お帰りになってからお邪魔した方が良いのかしら?」なんて考えてしまい、一瞬扉を開けるのを躊躇する。
そんなみなもの足を、チョイと何かがつつく感触がした。
ビク!っと、大袈裟な位震えるみなも。
何事かと見下ろしてみれば、何故か自分に懐いてくれている斎・黯傅なんて立派な名前をした黒猫がいた。
みなもを見上げ「なぁお」と鳴く黯傅に「貴方も、猫の武彦さんを救いにきたの?」なんて声を掛けながら、抱え上げる。
みなもの首元にスリスリと自分の頭をすり寄せた黯傅はまるで返事をするように「なぅ」と鳴くと、モソモソとみなもの腕の中で体の向きを変え、その後はどっかりと全身を預けてきた。
「何かあったら守ってね?」
なんて言いつつ、ドアノブに手をかけるみなも。
その瞬間室内から「なぁぁに、しとんねぇぇぇん!!」の、物凄いドスの効いた女性の声が聞こえ、思わず凍り付いた。
「い、岩下志摩オーディション中?」
そう怯え、思わずテレビで見た極妻にて、岩下志摩が和服でマシンガンを乱射している光景を思い出すみなも。
「う…撃たれたらどうしよう」なんて、呟くみなもを黯傅が不思議そうに見上げ「なぅ……なぅ…」と鳴きながら、扉を開けるよう前足で、催促してくる。
「だってぇ……」
と、涙目で呟くみなもの耳に、大型バイクの走行音であろう爆音が聞こえてきた。
驚き振り返れば、階下の道路脇にキッと音を立てて、一台の美しいフォルムのバイクが止められるのが見え、そのバイクからはスラリとした見事なプロポーションをした女性が降りてくる。
ヘルメットの下からは、プロポーションから想像できる通りの、美貌が現れ、フルフルと首をふれば、汗のきらめきと共に、艶やかな黒髪が揺れていた。
「っ!」
間違いない。
あの、迫力ある美貌は、確信しても良いだろう。
岩下志摩オーディションの参加者へのなんだ。
みなもはそう思い込むと、女性がこちらにツカツカと歩いてくるのを畏怖の念を込めた眼差しでみつめる。
女性は、階段を上ってくると、扉の前に立ち尽くしているみなもに気付き、男性ならば骨抜きにされてしまいそうな、嫣然とした笑みを浮かべた。
「どうしたの? みなもちゃんだよね? こーんなトコでぼーっとしてさ」なんて、飄々とした口調で言われハッと、気付く。
何度か、ここの仕事で会った事のある人だ。
懸命に、その名を思い出し、「摩耶さん! わ、お久しぶりです」そう、ペコンと頭を下げたみなもに「うん。 久しぶり」と摩耶は答えた。
そして何の頓着もなく、扉を開けようとした摩耶。
みなもは慌てて問い掛ける。
「岩下志摩さんですか?!」
摩耶は、みなもの意味の分からない言葉にポカンとした顔を見せ「は? や、ご期待に添えずごめんなさい。 葛生摩耶です」と、何故か詫びてきた。
みなもは更に、焦って「や、いや、そういう意味じゃないんです。 あの、エマさんが…」
「エマ姐さんが?」
「岩下志摩オーディションをしてるらしくって、ヤクザが哀川翔争奪戦で、武彦さんは猫だったんですぅぅぅ!」と、混乱しながら、更に訳の分からない事を言ってしまう。
摩耶は、「草間さんが猫になりかけちゃってるっていうお話は聞いてるケド、その他の時効はよく分かんないなぁ」と冷静に答えると、ポンポンと軽くみなもの頭を叩き「ま、何が何だか分かんないけど、猫ちゃんがジれてきちゃってるわよ? 中、入りましょ?」と、言って、みなもの腕を引きながら扉を開けた。
中に入ると、何故か、武彦を間に挟んで、蛇とマングースのようにエマと影踏が睨み合っていた。
「え? えぇぇぇ?! どういう状況?」
と、驚いて叫ぶみなもを余所に、
「ま……、アレは日常茶飯事だし」
なんて、あくまで冷静なまま、摩耶がそう呟く。
だが、武彦の姿をマジマジと凝視すると、「へぇ、マジで、猫になりかけちゃってんだ」と面白そうに言った。
その摩耶の言葉に、みなもも慌てて視線を武彦に集中させれば、ピコピコと揺れるネコ耳と、猫ヒゲ、そして尻尾が30男に生えているという、何だろう、悲惨?っていうか、正直、ビシュアル的にはさ、犯罪って断言出来ちゃうよね的、姿に変じていた。
「うあ。 ひどい…」
と、思わず本音の呟きを漏らすみなも。
すると、どこからか(っていうか、何故かみなもの腕の中から)「プッ…ブハッ…」と、男の吹き出すような声が聞こえた。
「え?」
と、疑問の声を上げながら辺りを見回せば、零に協力を要請されたのか、興信所内にいた金蝉や翼、それに見知らぬ女子中学生とスーツ姿の眼帯をした青年とも目が合う。
ヤクザらしき人はいないみたいで、では、先程まで影踏とさなが騒いでいたヤクザの哀川翔争奪戦とはなんだったのだろう?っていうか、何より岩下志摩オーディションは、どうなったのだろう?と首を傾げつつ、ソファー近くで武彦と騒いでいる影踏達に視線を送る。
いつも落ち着いて行動する、憧れの大人の女性だったエマが、必死になって何事かを喚いていた。
「エマさんが、岩下志摩?」
なんて、呟きつつ「なぁお……」と鳴く、黯傅の鳴き声に意識を引き戻され、それにしても、さっきの男性の吹き出した声って、この二人のどちらかのものだったのかしら?疑問を抱くみなも。
金蝉は、相変わらずの、目の覚める程整った顔に不機嫌な表情を浮かべているし、眼帯の青年の方も、キョトンとした顔をしている。
「さっき…誰か吹き出しましたよね? 男性の方が」と、眼帯青年が言うので、この人じゃなかったんだと思いつつみなもが、「えーと…私も聞こえたんだけど……」と言いながら摩耶を見上げ、摩耶は「…あなた達、何か笑った?」と、眼帯青年と金蝉を順々に見回した。
「いいえ?」
眼帯青年は、首を振って答え、金蝉は無愛想な無表情で黙ったままだが、その表情を見ただけで、金蝉が吹き出した訳ではない事が如実に伝わってくる。
「………」
最後に、皆で黯傅に視線を据えるも……「まさか……ねぇ?」の翼の一言で、「そうだよなぁ…」と皆、顔を上げ「気のせいか」という結論に達した。
(なんか、でも、黯傅さんから、笑い声が聞こえた気もするんだけ…ど)
と、思いつつ、でも猫がしゃべるだなんて…と、やはり常識的に考えてしまうみなも。
腕の中の、黯傅が大いに安堵している事になぞ、気付ける筈もない。
いつになく、人の多い興信所内に視線を走らせながら摩耶が気怠げな声で提案した。
「えーと、初めましての人もいるから一応自己紹介する? 私は、葛生摩耶。 宜しく」
短くそう済ませた摩耶に続き、みなもが少しドキドキしながら口を開く。
「私は、海原みなもと言います。 中学生やってます。 それから、彼は斎黯傅さんっていう、人語を解するスーパー天才猫なんです」
と、小さな頭を撫でれば、みなもの紹介に頷くように、黯傅が「なぁう」と短く鳴く。
女子中学生も「鬼丸鵺って言います。 で、この人は……」と言いながら、後ろを指し示し、「鵺お嬢さんの家庭教師と、護衛みたいな事もやってる魏・幇禍です。 どうも」と、促されるように眼帯青年は自己紹介した。
最後に翼が「僕は、蒼王・翼で、彼は桜塚・金蝉」と告げ、これで興信所内にいる人間の一通りのフルネームを幇禍は理解する事が出来た。
応接間のソファーでは、影踏が何か武彦にちょっかいを出し、それをエマが防ごうとしているらしい。
「誰の許可を得て、武彦さんにいかがわしい事しようとしてんのよ、この野郎!」
と、エマが凄んでいるので、みなもは「いかがわしい?って」と疑問に思っていると、その迫力に涙目になりながら、影踏が震える声で言い返していた。
「だって! 可愛いじゃないですか!」
可愛い。 何が?
まさか、武彦を指しての言葉とはどうしても思えず、心から不思議に思うみなも。
「世の中には、ミラクルアイの持ち主がいるもんですね」なんて幇禍が呟いているが、影踏の言葉に同調して「あ! 僕もネコ耳は可愛いと思うぞ!」と、さなが手を挙げ、その両者に対し、
「馬鹿ぁぁぁ! 武彦さんを可愛いと思うのは、私だけの権利なのよーーーー!」
と、エマが思いっきり叫んでいるのが耳に入る。
えーと、草間さんが……可愛い?って、えーと、可愛いって本来の言葉の意味の他に、何か別の意味ってあったっけ?
なんて、みなもが心底疑問を抱くと幇禍は鵺と二人で声を合わせて「「ていうか、可愛いと思ってたんだ」」とヒいたような声で呟いていた。
そんな二人の呟きを騒ぎの最中ですら聞き逃さず、「可愛いわよ!」とエマが怒鳴り返している。
しかしエマは武彦の体を引き寄せて、守るように抱き締めてはいるが、その実うっかり、首のイイトコに入って、当の武彦は窒息しかけているらしい。
おぶおぶと暴れながら土気色に顔色が変わり始めている武彦に「ほ、本気で死んじゃいそうじゃないですか? 草間さん」と怯えたような声で呟けば、傍らにいた摩耶が「女の絞め殺されるだなんて、草間さんにしてみれば、これ以上ない位幸せな死に方だから、別にいいんじゃない?」なんて、薄情な台詞を吐いた。
エマは、一通り騒いだ後、ようやっと、事務所内の人数が増えている事に気付いたらしい。
「れ……零ちゃん? で? 何人の人が来るって言ってくれてたのかな?」
と、完全に傍観者していた零に問い掛ければ、彼女はニコリと笑って、「えーと…、エマさん含め10人の方が、お越し下さる予定だったのですが、有り難い事に、連絡が取れた方以外も来て下さってるみたいです」と答えた。
狭い事務所内は、二桁に突入する程の人数が入れば、もう、満員状態である。
「床、抜けないよね」なんて古い建物への不信故の恐怖感を抱き始めたみなもの耳に、鵺が「案外、人徳あんのかね? オヤビン」なんて鵺が呟いているのが耳に入る。
多分、武彦のピンチに此程の人数が集まった事を指しての感想なのだろう。
しかし、みなもは偶々此処に立ち寄っただけで、武彦の為に此処を訪れた訳ではない。
その事はきちんとお伝えせなば、なんて妙な使命感を抱き、みなもは鵺の言葉を否定する。「いえ、私は、見ての通り…」と言いながら自分のセーラー服のスカートの裾を持ち上げ「…学校帰りに立ち寄っただけなんです。 新しい水着が欲しくて、アルバイト無いかな?って思って。 そうしたら……」とそこまで良い、ちらりと武彦を眺める。
可哀想な草間さん。
心からそう感じ、溜息を吐いた。
「あんなお気の毒な事に……」
しかし、沈んだ声でそう言いつつも、同情に曇る心を落ち着け、みなもは鞄から常備してるデジカメを取り出し、「とにかく、珍しいので記念写真だけ撮っておきますね」と、あっさり言いながら、武彦の姿を数枚撮る。
滅多にというか、普通はこんな事起こり得ないのだ。
写真に収めておかねば勿体ない。
呆れたように、みなもを眺めている鵺。
その鵺の血のように赤い目が、スッと細まり、何かを探るような目つきに変じた。
じぃぃっと、物言わず見つめてくる鵺の、少し居心地の悪さを感じ始めた頃、鵺が口を開く。
「新しい水着って、今年の夏、海にでも行く予定なの? 里帰りでもするのかな?」
と聞かれ、みなもは首を傾げた。
鵺の質問の意図を、掴みかねたのだ。
実際、鵺は『貴方の故郷って海なんじゃないの?』と、みなもの先祖が人魚である事を特殊能力で見抜いたが故の皮肉を言ったのだが、みなもにはそんな言葉の裏を読むような芸当出来やしない。
なーんにも分かってない顔で、みなもは「いえ? 私、別に海の方の育ちじゃないですよ? でも、海に泳ぎに行く予定なんです。 私、水泳好きだから。 鵺さんは、泳ぎ得意ですか?」と、問い返した。
鵺もその返答には、それ以上何も突っ込めなかったのだろう。
少し疲れたような表情を見せ、「や、鵺はそんなに、泳ぐのは好きじゃないなぁ」と答える。
(でも、草間さんがあんな状態なのに、こんな風に雑談していていいのかしら?)
なんて、みなもが不安に思い始めた時だった。
「ここの興信所の主はご在宅かな?」
と、事務所の入り口で、古めかしい言葉遣いをしたハスキーな声が響いた。
「ゲ…、客かにゃ?」
と、身構える武彦。
今や、興信所内は万国博覧会よりも珍しい存在達の集まりになっている。
その上、肝心の主人が猫化の一途を辿っている訳であって、もし、奇跡的にまともな依頼が来たとしても、仕事を受けられる状態ではない。
「どうするんでしょう?」
みなもは心配げに呟く。
皆の中で一番入り口の近くにいて、煙草をふかしていた摩耶がヒラヒラと手を挙げて「私、出るわ」と言った。
エマは、摩耶の事をよっぽど信用しているのだろう。
安堵するような表情になりながら、両手を合わせて「お願い。 客だったら、適当に誤魔化して」と頼む。
「了解」と、短く答えると、摩耶は応接間と入り口を仕切る衝立の向こうへと消えた。
「此程までに、客でなければ良いと願った事は、未だかってないにゃ」と武彦が悲しげに呟いている。
お茶ををいれる為だろう。
興信所内にいる人数を数えていた零が悲しげに呟いた。
「……いつもだったら、お客さん大歓迎なんですけどね」
すると、鵺は零を元気付けようとしているのだろう。
その肩を叩きながら、
「ま、なるようになるって! 犬に噛まれたと思って何もかも忘れるといいよ★」
と、全く解決にならない事を言い、鵺の家庭教師である幇禍も笑いながら、
「長い人生こんな事もある、もし武彦が完全に猫化したら仕方ないから興信所は君が継げば良いよ。 はい! これで、何も問題は無いじゃないか」と、朗らかに言った。。
これで、どちらも心から慰めているつもりなのだろうから始末に負えない。
零もそれは理解しているのだろう、「えー…と…」と苦笑を浮かべつつ、みなもに救いの視線を向けてくるが、みなもも「でも、零さんは未成年だから興信所の経営は難しいし、それに、武彦さんは犬に噛まれてではなく、『またたびジュース』を飲んで猫化しちゃったんですよ? それでですね、提案なんですけど、ここは一つ、エマさんが興信所を引き継げば、今以上にこの興信所は発展し、武彦さんは、毎日高級キャットフードが食べられると思うんです。 羨ましいなぁ」と、のほほんとこれまたずれた発言をかました。
零が苦笑を浮かべ、「あの、ま、そういう問題とは、ちょっと違うんですけどぉ…」と口を開いた時、ズカズカとした乱暴な足音が聞こえ、「ちょっ! あなた、勝手に!」と、誰かを制止しようとする摩耶の声と共に、何故か、武将が入室してきた。
そう、もう一度言うが武将である。
正直、現在の興信所内も、派手な外見を有する者や、人語を解する猫、特殊な能力を持ち、特殊な見た目をしている人間でひしめいている為、みなもは「なんだ、武将かぁ…」と一瞬納得しかけたのだが、やはり、どう頑張っても奇怪な者は奇怪にしか見えない。
武将て…、武将って……なんで?と、首を傾げど、そこにいるのはやはり武将で、何よりも最も奇怪だったのは、その武将にネコ耳が生えていた事だった。
額に、宝玉が埋め込まれている、中国風のシンプルな甲冑を身に纏った、凛々しい青年が興信所内にいる人間を見回しながら、最終的には摩耶に視線を据えて中性的なハスキーボイスで言い放つ。
「ここの主は、何処かと聞いているだけだろう? 大体、興信所というものは、誰にでも門戸を開かれている場所ではないのか?」
摩耶は、武将の視線を受け止めて、呆れたように答えた。
「だから、今、ちょっと取り込んでるって言ってるでしょ? それにね、えーと、泰山府君さんでしたっけ? 貴方、別に客じゃないんだよねぇ? そのお耳の事で、ここに依頼に来た訳ではないだよな?」と摩耶が言えば、泰山府君という青年は不機嫌そうな表情を見せ、「貴様、先程から一体何の話をしているのだ? 耳だと? 耳がどうしたと言うのだ?」と、問うた。
その問いに、近くに立っていた幇禍が、武彦を指し示しながら「つまり、貴方、あの阿呆面の、この興信所の経営者と同じ状態になってますよ?って事です」と告げる。
泰山府君は、「どういう意味だ?」と言いながら、幇禍の指先の方向へと視線を向け、そして固まった。
「な? なんだ、その姿は。 随分と巫山戯た格好ではないか? そんな風体で、興信所の主というのは勤まるものなのか?」
そう戸惑ったように呟きながら、それでも珍しさの余り、じっくりと武彦の姿を眺める泰山府君。
そんな泰山府君に今現在、自分がどんな姿をしているか悟らせるべく、、「あ、あの……」と、みなもは意を決して、声を掛けた。
「あの、まず、えーと、写真を撮らせて貰って良いですか?」と問い掛け、泰山府君が返事をしない内に、パチリとデジカメでその、不思議な姿を撮る。
その後、デジカメのプレビュー画面を見せながら「ほら、草間さんと同じようにネコ耳生えてますよ?」と、あっさり告げた。
画面に映る映像に凍り付く泰山府君。
凛々しい顔が、ピシリと音を立てそうな勢いで固まっている。
武彦と同じ症状が見られる以上、多分、原因はまたたびジュースと鑑みて間違いないだろう。
語尾が「にゃ」に変じていないのは、飲料を飲んだばかりのせいなのか、それとも体質のせいか?
(このお姿で、語尾が「にゃ」だなんて、全然似合わないわ)なんて、またまたずれた事を考えてるみなもの感情を泰山府君は知らないままに、最初のショックから解放されたのだろう。
憤懣やるかたないといった様子で「うぬぅ! たばかられたわ! やはり、先程の、『またたびジュース』なるもの、妖しの飲み物であったのか!」と、歯軋りし、そして武彦を睨み据えると、「貴様も、アレを飲んだのか! なぜ、あのような妖しき飲み物を口にするのだ! 馬鹿か! 馬鹿なのだな!」と自分を棚に上げて責め立てる。
「や、だって。 君も飲んだんだよね?」と冷静に鵺が突っ込めど、「我は喉が渇いていたんだ!」と、無茶苦茶な事を叫び返してきた。
「あー、だったら、しょうがない……の?」
と、泰山府君の自信満々な一言に、思わず納得し掛けてしまっている鵺。
(えー、でも、やっぱ、この人、理不尽なような……)
と、みなもは心中で呟けど、怖くて口には出来ない。
幇禍が「や? でも、やっぱり、結構理不尽ですよ、この人」とみなもの心中を代弁するような一言を鵺に言って、泰山府君に物凄い視線で睨み据えられていた。
そんな呑気なやり取りの間にも、事態は進行していく。
唐突に、泰山府君の事を呆れたような視線で見上げていた摩耶が、武彦達の座っているソファーの後ろにある窓の外へツト視線を向け、そして飛び出すようにして駆け寄った。
「な? 何よ? どうしたの?」
という、エマの問い掛けを無視し、ガラリと窓を開け、素早く腕を窓の外へ突き出している。
「! っと、何やってんのよ? あんた」
驚いてエマがそう問い掛ければ、摩耶はニッと笑って「今日の興信所は千客万来だね」と、武彦に向かって言った。
「どういう意味だにゃ?」
と、問い掛ける武彦に、意味ありげに笑いかけ、勿体ぶるようにゆっくりと何かを持ち上げる摩耶の手の先には、金色の長い髪をした、真っ白なネコ耳の生えた子供がいた。
(いやーーんv 可愛いv)
その子供の、余りにも愛らしい姿に、思わず黯傅を抱く力も強くなり、結果「にゃにゃにゃにゃ!」と、苦しげに胸の中で暴れる。
「放すにゃ! 放すにゃぁ!」
しっかりと襟首を捕まえられ、よっぽど軽いのだろう。
軽々と、細腕の摩耶に持ち上げられている姿は、本物の猫のようで、じたばたと暴れる姿も、何処か愛らしい。
「あちしを、誰だと心得てるにゃ! そんな風に、持ち上げるとは、不届きにゃ!」
そう摩耶に喚いている、その子供の側に近寄って、みなもは優しい声で尋ねた。
「窓の外で、どうしてたのかな? 耳が生えてるって事は、あなたも、ジュースを飲んじゃったのね。 それで困ってここへ来たの?」
零も、怖がらせないように、微笑みながら、「可愛いお客さんなのかしら?」と首を傾げ、「兄さんだけでなく、他に二人もジュースを飲まされた人がいるなんて……、もしかしたら、もっと大きな事件へ発展するかも知れませんね」と呟きながらその子供を覗き込むが、摩耶は冷静な声音で、みなもと零の言葉を否定した。
「こいつ、見た目はこんなだけど、あなた達が考えてるような子供じゃないよ。 ふっつーの子供が、二階にある興信所の窓の外で、しっかも…」
半眼になりながら事務所内に居る人間を見回し「こぉんな、曲者揃いの人間達に気配も気づかれないで、部屋の中の様子窺えると思う?」と冷静に言えば、翼も頷きながら「確かに、もし困って此処に来たのなら、正面から普通に訪ねて来れば良い。 キミ誰だい?」と、問い掛ける。
確かに、言われてみればおかしい感じがする。
だが、こんなに可愛い子が、摩耶達が言う程強かな存在だなんて、ちっとも思えなくて、みなもは子供の愛らしい顔をマジマジと眺めた。。
吊り下げられたままの子供は、別段困った様子もなく「あちしは、ねこだーじぇる・くんなのにゃ!」と誇らしげに名乗った。
そして、小さな手をふるふると振り回すと「降ろすのにゃ! 降ろすのにゃ! にゃぁ、にゃぁ、にゃぁ!」と、身を捩らせる。
そんな様子に、ますます、キュンと、胸が鳴るみなも。
うわぁ、可愛いなぁと、目を細めればみなもだけでなく、ねこだーじぇるという子供を捕獲している摩耶も含む、その他人々も皆一様に同じ様な表情を浮かべている。
しかし、そんな様子に全く頓着しないまま、ぐっとねこだーじぇるの顎をグッと掴むと金蝉は冷たい声で「で、テメェは、外で何してやがったんだ?」と、問い掛けた。
金蝉さんて…。 金蝉さんって……。 血も涙もない。
子供相手に、そんな乱暴な口効かなくてもと、みなもがヤキモキすれば、今度は泰山府君と武彦が二人揃って、「あーーーーーー!!」と叫び声をあげた。
お次は何だと、みなもが二人の視線の先に眼をやれば、そこには背丈ほどの長い黒髪を垂らし、大きな赤い瞳を持つ、ランドセルを背負った小さな女の子が立っている。
小柄で、髪の長い…という特徴が、武彦にジュースを配ったという女性に酷似はしているが、どう見ても小学生にしか見えない。
予想外の人数がいた事、そして一気に注目を集められた事のせいだろう。
少女は「え? ……え? えぇ?」と、怯えたように身を縮こまらせた。
そして、オズオズと「あの……これ…」と、小柄な体一杯に抱えた段ボール箱を差し出す。
「と…届けにき、ました」
か細い声でそう告げた少女の抱えていた段ボール。
そこにはレトリックされた文字で、「またたびジュース」と印刷してあり、猫のキャラクターが描いてある。
瞬間、泰山府君は「よくもぬけぬけと!」と唸り、武彦に至っては、「にゃぁぁぁぁ!」とよく分からない奇声をあげた。
どうも、二人にまたたびジュースを配ったのはこの子らしい。
ただ、それにしては、今や敵の巣窟ともいえる直接この興信所を訪ねてくるのが奇妙に感じられたし、その態度も訳の分からない事態に巻き込まれて戸惑う人間の表情そのものだった。
「小柄! 黒髪! あいつにゃぁぁ!」と、錯乱したように叫ぶ武彦に、何か知っているのか、エマが「ちょっ! 落ち着いて! 彼女は、違うわよ!」と止めようとするが、まさに猫のような身軽さで、ソファーから跳ね起き、一気に少女に飛びかかる。
片や泰山府君は、何処から取り出したのか、狭い事務所内で刃の部分が青龍刀になっている鉾を振りかざすと、唐突に少女に振り下ろそうとした。
「天誅!」そう叫びながらの、凶行に、「ひっ!」と喉の奥で悲鳴を上げるみなも。
しかし、泰山府君の鉾が少女を傷付けるよりも早く、翼が何処から取り出したのか、美しい剣を翳してその斬撃を受け止める。
金属通しのぶつかり合う甲高い音が、興信所内に響いた。
「僕の目の前で、レィディへの乱暴は許さないよ? 例え、君自身が、美しい女性であろうともね」
と、白い歯を見せて笑う翼に、「え? 女? 嘘。 泰山府君さんって、女の人なの?」とみなもは驚き、その他の人々にも「あれで、女かよ!」という純粋な驚きが走るが(そして、金蝉には「なんで、翼は、性別を判断できるんだよ」という別の驚きも)、そんな衝撃を受けている間にも、錯乱武彦は少女に「お前もこれを飲むにゃぁぁぁ!」と叫びながら段ボールをバリバリと破き、中に入っていたジュースを無理矢理ビンごと飲ませている。
「あ! 酷い!」
と、叫べば、今までみなもの胸の中で大人しかった黯傅が、ピョンと抜け出して、武彦の頭の上に乗り、そして思いっきり爪を立てたまま、その背中を滑り落ちた。
「っってぇぇぇ!」
そう叫んで、少女を放す武彦。
その隙に、逃げ出した少女には、既にネコ耳が生えてしまっている。
事務所内にある、大きな机の下に小柄な体を更に縮めて、逃げるように潜り込んだ少女が、ガタガタと身を震わせ「ふっ…ふぇ…ふっふぇぇん」と泣き始めた。
そんな様子を痛ましげに眺め、キっと眉を吊り上げて腰に手を当てると、「武彦さん! あの子は、蒲公英ちゃんよ! ジュースを配っていた女性じゃないわ!」と、エマが叱り、翼も、泰山府君と剣を合わせたままながらも、「女性をしかも、子供を泣かせるだなんて、君の罪は万死に値するね!」と叫ぶ。
そして、ようやく、興信所に、この事件における最後の登場人物が姿を現し、この事件は新たな展開を見せる事になった。
「おや? 立て込んでるみたいですが…大丈夫ですか?」
混乱する興信所内に柔らかな声が、染み渡る。
振り返れば、柔和な笑みを浮かべ応接間の入り口に繊細な佇まいをした青年、モーリスラジアルが立っていた。
「今日は、珍しく、満員御礼じゃないですか」と、穏やかな口調で、ちょっとした冗談を口にするモーリスの隣りに立つ、背の小さな、黒髪の女性を見て、泰山府君は「貴様っ!」と叫びながら、やっと翼と合わせている剣を降ろし、武彦も呆然と、立ち尽くす。
どうやら、今度は本当に、またたびジュースを配っていた女性なのだろう。
優雅な足取りで、その女性の手を取りながら人の間を縫い、「お連れいたしました」と恭しく告げるモーリスに、「え? ど、どうやっ…てにゃ?」と首を傾げた武彦。
「やはり、武彦さんの猫姿は美しくないですね」
と関係ない事を言いながら嘆かわしいといった様子で首を振り、モーリスはそれからツイと、泰山府君に視線を送って微笑み掛けた。
「貴女のように、素敵な女性の猫姿をお目に掛かかれたのは、眼福ですけどね」
笑ってウィンクを自然にするモーリスに、翼除く皆が「だから、何故一発で性別を見分けられるのか? その能力を持っている人間の共通項は、ウィンクが自然に決められるという事なのか?」と疑問を深めるものの、「こちらへ来る前に、試飲を薦められまして、身体的特徴も一致しますし、武彦さんにもジュースを薦めたのはこの方じゃないかな?と思いまして、お話を聞いてみたところ、そうだと言うので………」頬を染めて自分を見上げている女性を見下ろし、笑う。
「…お連れしました」
「連れてこられましたんv」
女性は、身をくねらせて、そう答えた。
そして、アレ?という風に首を傾げると、相変わらず摩耶にぶら下げられたままのねこだーじえるに視線を向けて口を開く。
「ねこだーじえる様? そこで、何をしてるんですかにゃ?」
その瞬間、一瞬気を抜いてしまった摩耶から手からねこだーじえるが逃げだし、窓際に立った。
そしてビッと、女性を指差しながら、
「にゃにゃにゃ! もーう、怒ったにゃ! しかも、お前もにゃーんであっさり連れて来られてるにゃ! 最悪だにゃ! ほんっとーに、猫股は良い男に弱すぎだにゃ!」と喚く。
それから、
「こうなったら……にゃむにゃむにゃむ」
と、チョコンと両手を合わせて口の中で呪文を唱え始めると、「みぃぃんな、猫になるにゃぁぁ!」と、言いながら両手を広げクルンと廻った。
瞬く間にねこだーじえるの手から、キラキラと光る赤い粉振りまかれる。
何事が起こっているのか理解出来ぬまま、無防備に赤い粉を吸い込むみなも。
「クシュン…」と一度くしゃみをした瞬間、ポンと軽い感触と共に、頭に何か違和感が生まれた事に気付く。
「え? ま、ま、まさか…」」
と、震えながら手をのばせば、指先に、フサリとした感触を感じた。
指を這わせれば、ピコピコとした震えが伝わってくる。
「にゃにゃにゃにゃ〜〜ん! またたびジュースの粉末バージョンにゃん! 吸い込んだ人間は皆、猫化するにゃ〜〜ん! みぃぃんな猫になれば良いにゃん!」とねこだーじえるが笑って言うと、ヒラリと身を翻り、窓下へと飛ぶ。
「っ!」
と、息を呑みながら摩耶が窓に走り寄り、窓下を覗き込んだ後、「後、追うよ!」と言いながら興信所を飛び出した。
その姿に、私もじっとはしていられない!と思い「あ! 私も、行きますっ!」と手を挙げみなもは摩耶の後を追う。
肩には、武彦の背中を引っ掻いた後、また戻ってきた黯傅が乗っていた。
タタタタと階段を降り、バイクに跨りエンジンをふかす摩耶に「連れてって下さい!」と大声で言う。
摩耶は振り返り、にっと笑って頷くと、「被りな」と良いながらヘルメットを投げてきた。
みなもは、慌てて受け止め、頭に被ると、「大人しくしててね?」と言いながら、セーラー服の胸元に黯傅を押し込み、摩耶のバイクの後ろに跨ると、彼を押し潰さないように気を付けながら、それでもしっかりと摩耶の腰に手を廻した。
「振り落とされないでね?」
と、笑みを含んだ声で言い、摩耶がアクセルをグッと踏む。
そして、みなもは、今まで感じた事のないスピードに乗せられた。
「っ!」
体中が強張るのを感じながら、同時に、吹き付ける風の心地よさに、快哉をあげたい気分になる。
自分が猫になってしまうかどうかの境目だというのに、なんて私は呑気なのだろうなんて考えつつ、それでもこの風と一体になれる感覚に病みつきになってしまいそうだった。
キィィィ!っと、甲高い、タイヤを削る音をたてて、バイクが唐突に制止する。
「此処に入っていったトコまでは、確認できたんだけど…」
と、呟きながら、バイクを降りる摩耶。
ヘルメットを外しながら、みなもも足を地面につける。
そこは、大きな公園だった。
「流石に、バイクでこん中入ってく訳にはいかないからね。 手分けして、探そう」
という、摩耶の提案に、みなもは頷き、黯傅を降ろす。
「見付けたら、私か摩耶さんを呼びにきて下さいね?」
と言えば、「なぁお」と黯傅は答え、タッと軽い足取りで公園の中へと走っていった。
摩耶とみなもも頷き合い、二手に分かれてねこだーじえるの姿を探す。
平日の公園には、人気は全くと言って良いほどない。
みなもは、とりあえず、遊具が置いてある部分を見回り、そして、噴水のある広場へと出た。
(もし、見つからなかったら…)
もしねこだーじえるが見つからなかったら、私は猫になるのだろうか?
そこまで、考えて、不安な気持ちで一杯になりながらも、こんな事は滅多にっていうか、絶対にない事だからと思い、ネコ耳が生えている自分の姿をデジカメで撮っておく。
口から摂取したものだから、下剤はどうだろう?
あの場にいて、猫に変化しかけている者みなで、下剤一気飲み大会をし、自然と体外へまたたびジュースを出すのだ。
そこまで考え、「でも、それだったら、自然に出るのを待つ方が良いような……っていうか、栄養素としてジュースの中の猫に変化する成分を体内に吸収してしまった後だったら、もう、しょうがないよーな」と、呟き、最終的には、自分の水を自由に操れる能力を行使し、体外に排出させるしかないだろうか?と思えど、自分の身だけならともかく、他人の体の中から、ジュースを排出させるのは、至難の業だろう。
「しかも、私が吸ったのは、またたびジュースの粉だし…」
そう考えると、どんどん鬱々していくのが分かったので、とにかく一刻も早くねこだーじえるを探すべきだと思い、噴水広場の前から、別の場所へと移動しかける。
「さて、他に、探してない場所は…」
とみなもが呟いた時だった、
「っ! 待て! 逃げんじゃない! コラ!」
の摩耶の声と共に、ピョンピョンといった調子でねこだーじえるが追われてくるのが見えた。
その後方を走る摩耶が、みなもの姿を見とめ、大声で「捕まえて!」と叫んでくる。
みなもは、タッと走ると、猫のように素早く走ってくるねこだーじえるの前に立ちふさがった。
「もう! 観念しなさい!」
そう言えど、「やだにゃ!」と答え、別の方向へと転じるねこだーじえる。
しかし、「逃がすものか!」という声と共に、晴天の空から一条の雷撃がねこだーじえるの目の前に落ちた。
「貴様、我にこのような生き恥を晒させた罪、重いと思え。 膾に切り刻んでくれる!」
そう言いながら、現れたのは泰山府君である。
そのタイミングの良さに思わず手を打って、飛び上がりたい気分になるが、みなもはねこだーじえるから視線を逸らさずに声を掛ける。
「ね? ねこだーじえる君。 お願いだから、私達が元の姿になる方法を教えて下さい。 このまま猫になっちゃったら、私達本当に困るの」
すると、追いついた摩耶も頷きながら「教えてくれたら、痛い目なんかには合わせはしないからさ」と言い、ゆっくりとねこだーじえるに近付く。
しかし、ねこだーじえるは首を振ると、「にゃにゃにゃ! 人類猫化計画の為にも、ここで捕まるわけにはいかないのだ!」と意味の分からない事を叫び、そして再び「にゃむにゃむにゃむ」と何事か呟くと「今度は、完全に猫になるがいいにゃ!」と叫びながら、クルリと廻った。
再び、赤い粉が、ねこだーじえうrの手から散布されるのを見て、みなもは咄嗟に噴水に走り寄り、その中に手を入れ水に触れると、精神を集中させ水の羽衣を応用した、水の膜を自分の前だけでなく、摩耶と泰山府君の前にも張った。
粉は、水を通り抜けて、その奥に守られている存在まで到達する事は出来ない。
しかし、自分だけでなく、他人の防御まで請け負ったみなもの精神力の疲労は激しく、また羽衣のように本人の身に纏う形でないために粉が散布している間は、摩耶も泰山府君も、みなもの作った水の壁の前からは容易に動けない。
このままいけば、私の精神力が潰えてしまうと、みなもが危機感を覚えた瞬間だった。
「じゃじゃじゃじゃーーーん! ヒーロー見参!」の明るい声と共に、ずっと潜んでいたのだろう。
噴水の近くに生えていた木の枝から、山口さなが飛び降り、そして、目測を誤ったのだろう。
そのまま、噴水の中へと……落ちた。
派手な水音を立てて、噴水から大きな水飛沫が上がり、そして近くに立っていたねこだーじえるに派手に降り注ぐ。
「にゃーーーーーー!」と悲鳴を上げる、ねこだーじえる。
そう言えば、猫って水が嫌いだったっけ?と、みなもが思う間もなく、「でかした!」と、泰山府君が一声上げて、ねこだーじえるへと突っ込んだ。
そうか、水が頭上から降り注いだ為に、粉が全て地上へと落下したのかと思う間もなく、泰山府君は、一気に距離を詰め興信所内でも振りかざして見せた鉾を脇に構え、ヒュッと鋭い音を立てて、ねこだーじえるを横薙ぎに切り裂こうとした。
「!!」
みなもは、驚き声も出ずに、ただ、何とか止めようと、ふらつく手をのばす。
だが、それよりも早く、バッと飛び出してきた摩耶が、ねこだーじえるを庇うように抱き締めていた。
「っ!」
泰山府君が、瞠目し、鉾を何とか留めようとするも勢いに乗っている刃は、鮮やかに摩耶を切り裂く。
「いやぁーーーーー!!」
目を手で覆い思わず悲鳴をあげるみなも。
そのまま、腰が抜け蹲ってしまう。
「ま……摩耶さん…摩耶さん……」
と、涙声になりながら、その名を何度も呼んだ。
そんなみなもに、「にゃー」と言いながら、茶色の毛並みの良い猫が身を擦り寄せてくる。
先程、噴水に飛び込んだ時に、落下中にまたたびジュースの粉を吸い込んでしまい、猫へと変化してしまったさならしい。
どうして? どうしよう。 どうすれば…。
恐怖と、悲しみで手で顔を覆ったままガタガタと震えるみなもの耳に、「残念だわ。 あなたの刃は私の肌を傷付けられない」と告げる、摩耶の凛とした声が聞こえてきた。
驚き、パッと顔を上げれば、そこには傷一つなく、ねこだーじえるを背後に庇って立つ、摩耶の姿がある。
強い視線を泰山府君に据え、それでも薄く笑っている姿は、息を呑むほどに美しい。
「と、いっても、内蔵への衝撃までは防げないから、強く突かれたり、さっきの雷みたいなの喰らったら一発だろうけどね」
そして摩耶は泰山府君に勢い良く頭を下げた。
「あなたは、凄く強い人だってよく分かる。 多分、その気になれば私ごと、後ろの子も殺せるね。 でも、お願い。 今回の事で、あなたが凄く不快な気分になったのは分かるけど、許してあげて。 この子と、この子を庇ってしまう私を」
顔をあげ、満面の笑みを浮かべて摩耶は言う。
「これは命乞い。 あなたが望むなら、土下座だってしてあげる。 自分の身を守る為だもの、足だって舐められる」
みなもは、こんなに誇り高い命乞いを見た事がなくて、その見事さに息を呑んだ。
摩耶の言葉に答えず泰山府君は、呆然としたままの表情を、安堵の表情に変え、それから掠れた声で「馬鹿者が」と呻く。
「怪我はないか?」
「大丈夫よ。 そういう体質なの」
「だが、痛かったろう」
「アハハ。 平気だって」
「………本当に馬鹿者だ。 我は無益な殺生は好まない。 先程の攻撃とて、寸止めて、脅すだけのつもりであったのに……貴様は…」
そう言いながら、ふうと、溜息を付くと、泰山府君は摩耶に対して一礼した。
「見事である。 感服した」
そして、ねこだーじえるに声を掛ける。
「さて、もう良いだろう? 教えてくれ。 我らが、元の姿に戻る方法を」
ねこだーじえるがというよりも、試飲イベント行っていた猫股族の面々が企んでいた事。
それは、ただ純粋に、あのまたたびジュースを気軽にネコ耳や尻尾が生やせるジュースとして商品化する事だったらしい。
確かに、こういった手合いのものを大っぴらに売り出す事は無理だとしても、それ相応のルートに乗せれば、かなりのヒット商品になるだろうとは考えられる。
ねこだーじえるは、猫達にとっては多大な権力を持つ存在らしく、猫股達にこのジュースを人間に効力があるのか試験したいのだがどうすれば良いだろう?と相談され、この試飲キャンペーンのアイデアを出したらしい。
ただ、あんな危ないジュース無差別に試飲させれば大騒ぎになる。
と、いう事で、ねこだーじえる曰くの「ぴっかぴかの慧眼」で、「またたびジュースを飲んで猫化が始まっても」すぐに警察に飛び込んだり、絶望の余り自傷行為に走ったりしない、それでいてねこだーじえるが見物して面白い人物に限定し、ジュースを飲ませていたそうだ。
で、まんまと、その餌食に泰山府君と武彦が選ばれたという事なのだろう。
ま、そんな事情は、もう、こうなったらどうでも良い。
肝心の元の姿に戻る方法が大事なのだ。
猫になってしまったさなを抱えながら、ねこだーじえるに「で? どうすれば元に戻れるんだ」と、問う摩耶。
しかし、ねこだーじえるは「あー! 蝶々にゃ」とか「水に濡れて気持ち悪いのにゃ」とか「またたびジュースはすこぶる美味なのにゃ」とか、話を逸らしてばかりで一向に質問に答えてくれない。
額に青筋を立て始めた泰山府君が「いい加減にせんと、今度は本気で刻むぞ?」と脅せど、ねこだーじえるは何処吹く風。
自分の顔を猫の仕草で、手で擦り「あちし、何だか眠たくなってきたにゃ」と呟く。
戻ってきた黯傅を抱えたまま、そのやり取りを眺めていたみなもは、ある最悪の可能性を思い至りゾッとしながら問い掛けた。
「あの……もしかして、だけど、元に戻る方法が無いって事、ないですよ…ね?」
すると、ねこだーじえるの耳がピクンと反応し、ニパッと笑いながらこちらを見る。
みなもも、その愛らしい笑顔につられて笑みを返しながら、安堵した。
(まさか、そんな訳ないか!)
すると、ねこだーじえるは笑顔のままで頷いた。
「凄いにゃ! 正解だにゃ!」
その瞬間、みなもを含む、その場にいた全ての者達の視界が一瞬暗くなった。
「殺す! 殺し尽くす! もう、許さん! 成敗してくれる!」
「あー、うん、なんか、それで良いかもーって思えてきた」
「えーーーー?! そんな、駄目ですよ! く、黯傅さん! 何とかして下さい!」
「……なぁぅ」
「さ、さなさんもです!」
「んにゃ?」
「わーーーん、頼りにならないよーー!」
「あちしを殺すと、猫たちの祟りがすんごいにゃよーー?」
「ほら、祟りですよ! 摩耶さん、泰山府君さん祟りですって! きっと、毎日玄関にフンとかされちゃいますよ!」
「や、いいよ、掃除するし」
「今は、こやつの息の根を止める以外の何も望みはない」
「えええ?! ちょっ! 誰か!っていうか、ねこだーじえる君、とりあえず逃げて!」
と、いう騒々しいやり取りを経て、とりあえず興信所へ戻ったねこだーじえる含む面々は、そこで待っていたモーリスの言葉でこれ以上ないほどの脱力を味わう事になる。
「何だか盛り上がっているトコに水を差すのが悪いなぁと思って、能力の事言い出せませんでした」なんてかるーく笑い、「了承さえ賜れば、私の思う通りに人の姿を変える事が出来ます。 あなた方の事も、すぐ元の姿に戻してあげますよ」とあっさり告げた。
その瞬間、「えーと、じゃあ、本当はもっと早くにこの話って終わってた筈って事ですか?」と、みなもは呟き、摩耶に「そんな、登場人物はおろか、ライター本人すら抱えていたツッコミを……」と呻かれた。
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■ 登場人物 ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
受注順に掲載させて頂きました。
【2411/鬼丸・鵺/13歳/中学生】
【3342/魏・幇禍/27歳/家庭教師 殺し屋】
【1252/海原みなも/13歳/中学生】
【0086/シュライン・エマ/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【3317/斎・黯傅/334歳/お守り役の猫】
【2863/蒼王・翼/16歳/F1レーサー兼闇の狩人】
【2916/桜塚・金蝉/21歳/陰陽師】
【1979/葛生・摩耶/20歳/泡姫】
【3415/泰山府君・― /999歳/退魔宝刀守護神】
【1992/弓槻・蒲公英 /7歳/小学生】
【2309/夏野影踏 /22歳/栄養士】
【2640/山口・さな /32歳/ベーシストsana】
【2318/モーリス・ラジアル /527歳/ガードナー・医師・調和師】
【2740/ねこだーじえる・くん /999歳/猫神(ねこ?)】
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■ ライター通信 ■
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まず! 遅れてスイマセンでした!(平身低頭) 初めましての方も、そうでない方もヘタレでほんま、すいません! ライターのmomiziです。 今回、二回目の受注窓オープン。 前回の如く、緩やかに参加表明がなされるであろうと予想していた私を裏切って、14名参加っていうか、喜びと共に正直キョドってしまいました。 あえて、ウェブゲームの醍醐味を追求すべく、同じ物語で、それぞれの視点で書いてみた「猫になる日」。 やぁ、無謀でした。(遠い目) えーと、書いている間に、三度ほど、三途の川を見たのですが、渡らなかった私に、私が乾杯。 一人一人が、別々の感情で動き、見えている真実も違っていたりするので、色々読み比べて下さると、また別のお話の姿が見えたりするように書きました。 他の話にもお目通し下さると、ライター冥利に尽きます。 また、ご縁が御座いますこと、願っております。
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