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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


スウィート・バトル

 一難去ってまた一難。
「この前の論文はなかなか良かったよ。あれは大学の紀要に載せるよう、私が推薦しておいた。――で、そろそろ課題研究レポートに手をつけてみないかね? 学問的水準を満たしていると判断できれば、修士論文に代えることも可能だよ」
 担当教官であるところの現代経済学の教授にそう言われてから、2週間が経過してしまった。
 修士論文の提出はまだ先の話なので、すぐにまとめなければならないものでもない。だが、課題研究のテーマくらいは絞り込んで教授に報告したいものだと思いながらの、2週間なのである。
「うあー。まとまんない」
 藤井葛は、大学の図書館から借りてきた書籍をぱたんと閉じ、机の上に積んだ。
 ついでに自分の頭も、ぱふっとその上に乗せる。さらりとした黒髪が、本の山の上に広がった。
「やっぱ、大学にある参考文献だけじゃだめか。都立図書館に行かなきゃかな」
 前の論文を作成したときに助言してくれた、甘味仲間(?)の某都立図書館司書なら、参考文献を的確に選び出すことだろう。近いうちに会いに行ってみよう。
 堆積した本によって、愛しのパソコンとキーボードは隠されてしまっている。
 パソコンはネットゲーム以外にも使える文明の利器であるし、資料収集にも論文の下書きにも利用していい機械であるのだが。
 いったん電源を入れてしまったら最後、相棒とともにバーチャル世界へ旅立たなければ「ならない」気分になってしまうのだ。
 だから本の山の目隠しは、いわば、紙による電脳の『封印』だったりする。
 しかし――
 経済学とは雲を掴むようなものだと、葛はつくづく思う。大学院に進んでからはなおのことだ。
 国富論も資本論も流動性選好理論も、調べれば調べるほどに本質から遠ざかる気がする。
(アダム・スミスやマルクスやJ・M・ケインズは、ちゃんと雲を掴んでいたのかなぁ……?)
 ほこりくさい本の表紙に頬を乗せたまま、葛はつぶやく。
「持ち主さんは、くもをつかまえたいなの? くもは苦手なの」
「あー。そのくもじゃないから」
 小さな首を傾げてみせる緑の髪の居候に、軽く手を振ったとき。
 葛の携帯が鳴った。着信メロディは、その電話が藍原和馬からであることを示している。
「よウ。久しぶり。相変わらず煮詰まってるかぁ?」
 もしもしも言わないで、第一声がそれである。
「……わりと」
「気分転換する気はないか」
「ネットは封印中なんだ」
「だから、オフラインでさ。土産話が積もってンだよ。イスタンブールで何があったと思う?」
 和馬は、おなじみの怪奇探偵からの調査依頼を受け、しばらく日本を離れていた。それもあっての、ネット封印だったのである。
 彼は、どこへ行くとも誰と行くともどんな事件だとも、いっさいを葛には話さないまま旅だった。
 ちょっと遠出してくる。そんなメールを寄こしただけだ。
「何さイスタンブールって。今初めて聞いたよ?」

 別にいいんだけど。
 平気なんだけど。
 でもまったく気にならないかっていったら、そんなこともなくて。

 葛の声に潜むささやかな焦燥に、気づいたのか気づかないのか。
 季節風のように舞い戻ってきて、この男は言うのだ。
 葛の予想を超えた、思いもよらないことを。
「だから。海を見に行かないか」

 ◇ ◇

 和馬の車は、ルート134号を走っていた。湘南ドライブの定番コースである。
 葛がドライブの誘いに応じてくれたとあって、和馬のテンションは高かった。
 依頼人の妻が残した奇妙な書き置きの解読と、イスタンブールの貯水池跡での出来事と、調査終了後の観光の話などを語った……のだが。
 葛は心ここにあらずといった風情で、相槌も生返事だった。
 和馬もやがて口ごもり、沈黙が車内に満ちる。
 由比ヶ浜を抜けてから、ようやく葛が言葉を放った。
「それで、なんで海なわけ?」
「いや、何となく――もしかして機嫌悪いか?」
「……朝から何も食べてないだけ。あと、今日は、弁当は作ってきてないから」
「そっか。不機嫌の理由は腹減ってるせいか。よしよし、かわいそうにな」
「ええい。触るなっ。うっとおしい」
 右手でハンドルを操りながら、左手を伸ばして頭を撫でようとした和馬は、ぴしゃりとはねつけられてしまった。
 気まずさを誤魔化すために、頭など掻いてみる。
(う〜ん。もしかして俺は、葛を怒らせるようなことをしたのか? そうなのか?)
 心の中で首をひねりまくる和馬だが、どうにも見当がつかない。
(何が原因だろう。土産話か……? ああそうか! 土産『話』だけなのがマズかったか!)
 そうかそうかと、ひとり頷く。
(あの人魚の嬢ちゃんが家族の土産にしてた、トルコ石のクロスとか銀細工の腕輪とかみたいな、あーゆーきらきらしたやつを、俺もひとつくらい買ってくればよかったア)
 的はずれな後悔に苛まれている和馬の百面相を不審そうに眺め、葛はぼそっと言った。
「甘いものが食べたい」
「んあ?」
「頭の芯がどうにかなりそうなくらいに、甘いものが食べたい」

 ◇ ◇

 海岸線沿いのログハウス調のレストランに、ふたりは立ち寄ることにした。
 焼きたてのパンの匂いが漂う店内である。広々としたテラス席からは、稲村ヶ崎が一望できた。
 ご機嫌ななめだった葛の顔は、メニューを見るなり、ぱっと明るくなる。
「これっ。これください。特製ジャンボ金魚鉢パフェ!」
 間髪を入れずメニュー中央をびっと指さした葛に、和馬も、注文を取りに来たウエイトレスも、目をぱちくりさせた。
 が、ウエイトレス嬢はプロであった。こほんと咳払いをして、パフェの説明を始める。どうやらこの金魚鉢パフェは、事前確認が必要な特殊商品であるらしい。
「お客様。当店自慢の特製ジャンボ金魚鉢パフェは、かなりエキセントリックなボリュームですが、よろしいですか?」
「うん。受けて立つ!」
 力強く答えた葛を頼もしそうに見てから、ウエイトレス嬢は和馬に向き直った。彼女はこう仰ってますがアナタはどうなさいます? と、その目が聞いている。
「あ、や、俺はエキセントリックはパスで。そうだな、『三色ハンバーグプレートセット』を」
「かしこまりました」
 一礼して去ってのち、パフェとハンバーグは同時にやってきた。
 パフェは想像以上のボリュームだった。金魚鉢を模したガラスの器に、14種類のフルーツと7種類のアイスがこんもりと盛られていて、テーブルフラワーのような華やかさである。
「いただきまーす」
 勢い込んで葛はスプーンを構える。
 バナナにビワに白桃に桜桃にライチにアンズにゴールデンキウイ。モカに抹茶にラズベリーに生チョコ。
 山盛りのパフェは、みるみるうちにたいらげられていく。
 ――が。
 半分を超えたあたりで、スプーンを動かす手は徐々にスピードダウンしつつあった。
 ハンバーグをほおばりながら、和馬はじっとその手元を見る。
「うまい……か?」
「うまい」
「完食できそうか?」
「……努力する」
 そう言いながらも、やがて葛はアイスにスプーンを突き刺したまま、ふうと一息ついた。
 金魚鉢の中にはまだ、イチゴとパインと黄桃とオレンジとリンゴとプルーンとマンゴーと、バニラとブルーベリーとラムレーズンが残っている。
「無理すんなや、葛サン」
 すでにハンバーグを食べ終えていた和馬は、セットのコーヒーを飲んでいるところだった。
 片手を上げてくだんのウエイトレス嬢を呼び、新しくスプーンを調達した。
「手伝ってやる」
 おもむろに、葛の加勢に取りかかったのだが。
 ――甘い。
 フルーツもアイスも上質な素材を使っていて、決して大味なパフェではない。しかし、いかんせん、量が量だ。
 果汁とバニラビーンズが混ざった香りにむせかえりながら、それでも和馬は食べ続けた。
 葛は葛で、かなりゆっくりとではあるが、またも手を動かしはじめる。金魚鉢の中を、お互いのスプーンが行き交うように泳ぐ。
 かちかちと器に当たる金属音が響き、そして。
  
  かつん。

 スプーンとスプーンの背がぶつかった。
 はっとして、和馬は手を止める。
 思わず上げた視線が、葛とかち合う。
 翠の瞳。和馬の長い人生の節々で光彩を放ってきた、運命の色。
「……何?」
 葛はまっすぐに見返す。和馬のとまどいなど通じない目で。
 心底、不思議そうに。
「いや――あの」
「だから何」
「その。なんで怒ってるのかなって。土産を買ってこなかったせい――じゃないよなア?」 
 ちょっと眉間にしわを寄せ、葛はバニラアイスを口に運ぶ。
「経済学ってさ」
「……はい?」
「雲を掴むような代物なわけ」
「はア」
「でも、いつかは掴みたいわけ。だから、いきなり消えられると困るんだ」
「そりゃ、困るわな」
「――あんたもだよ。調査依頼だか何だか知らないけど、旅行に行くときは、前もって日程くらい教えといて」
「葛」
 口に放り込んだマンゴーが、ごっくんと飲み込まれる。和馬はスプーンをくわえたまま、翠の瞳の大学院生を見つめる。
 あの調査依頼――永遠の時を生きる八百比丘尼と、普通の人間の男が夫婦となり、そして起きたトラブル。
 詳細を葛には告げずに旅だったのは、あれがどこかの誰かにオーバーラップするような気がしたからだ。
 ずっと目を背けてきた不安。お互いの生きる時間軸の違いを。
 だが――
 葛の不機嫌が、「何も伝えなかった」ことに起因すると言うのなら。
 口の中に胸の中に、やわらかな甘味が満ちる。
「悪かった。今度はちゃんと話すよ」
「別に。気にしてないし」
「嘘つけ」

 笑いながら、ラムレーズンをさらに一口。
 うつむいた葛の顔は垂らされた前髪に隠されて、その表情は見えない。
 
 
 ――Fin.