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<東京怪談ノベル(シングル)>


call down

−私の声を、聞いて下さい。

 神鳥谷こうは、足を止めた。
 人の流れは水のそれによく似る。
 雑踏を構成する人の群れは絶える事なく、後から続き、先へと進んでそれに沿わぬこうは瀬流に突き出た岩のようにぽつりとその場に取り残される。
 直ぐ後ろを歩いていたと思しき男が聞こえよがしな舌打ちに、追い越し様にあからさま不機嫌な斜視でこうを睨んで通り過ぎて行く。
 肩摩する程に込み入った歩道、その視線に通行の邪魔と教えられ、こうは流れに沿う形で斜めに道を渡り、壁に背を預けて身を置いていた雑踏を眺めた。
 正確には雑踏と、その向こう…車道を背に立つ、黒い服を着た人間なのだが。
 彼は凛と背を正して、抱えた厚手の本の上に掌を置き、胸に押しつけるようにして、往来に声を放っている。
「主は、仰せになりました……」
静かな声は福音に人を迷える者と喩え、その道を知る主の御名を讃えて、幸いなる言葉の連なりで教えを説く。
 だが、道行く人々は誰も、足を止める事はない。
 流れの先に目を向けるが先の男の姿はとうに人の背に紛れて見えず、こうは視線を返して通り過ぎる人々を見る。
 時計を気にして足早に、友人らしき者と話ながら緩やかに、携帯の画面に視線を据え親指を動かしつつ、己の思うように道を行く。
 人々は各々の目的の為に道を行き、神父は神の教えを説く為に足を止める。
 こうと違い、惑いを抱える者はいない…ように、思える。
 道を示される必要もない確かな目的を有して、それを果たす為の歩むにも止まるにも惑いが見えないのだと、こうは自らとの差をそう判じた。
 目的、ならばこうも確かにある。
 主を捜す。
 こう、という意識を自覚した瞬間に命じる声に明示された、彼の存在理由はそれだけだ。
 声は急かしはしないが、緩みもせずただ一言だけで繰り返し促す。
 主を捜せ、と。
 声がこうに与えるのはその一言だけ…否、一度だけ違う言葉でこうを制したか。
 目的の為の障害、人間、を廃そうとした時に炎を喚んだ自分を、人を害するなと制止したのも同じ声だ。
 誰のものとも知れぬ声は、こうに道を示す……それにだけ、従っていれば惑いが生じる事はなかったのだろうか。
 だが、こうは声に反した。
 人を害する…殺す、つもりであったのを止めた青年の言葉が、胸の底に残っている。
『こーう?』
宥めを込めて問う響きに名を呼び、こうの目を掌で覆う事で対象であった人間を視界から隠す。
 掌の冷たさ、吐息の近さに笑いが混ざる。
『やんなら、主の為にやんねーと』
 こうが言葉を交したただ一人の青年は、彼の為のこうの行動を禁じて言う。
『俺の為に手を汚しちゃダメだろう』
血を知った傀儡を、主は拒否するだろうか。
『じゃ、こうが主をめっけてから、主がいいっつったらな』
何故、と思った。
 だが、主の存在を引き合いに出されただけで、それに逆らえない自分も自覚する。
 もし、声の制止が主の言葉であったならば、こうはそれだけで動けなくなっただろう。
 疑念も、反抗も許されない。
 主が赦さねば自分は何一つ自由に出来ない。
 神の道を説く声は、その意志を知らぬそれだけで罪だと言う。
−知りなさい、神の声に耳を傾ける者は幸いである。
 こうは未だ主の名さえ知らない。生きる者として知るのはただ一人だけ、こうに笑って教えをくれる、彼の名と言葉と声と。
 雑踏を挟んだ正面で、神父は緩く閉じた瞼で語る。
 最早、人に向けたそれでない。
 教えを説いて静かな声は響きを深めて賛歌となり、美しい韻律に放たれる言葉は彼の聖なる神への祈りとなる。
「あなたはわたしを究め、わたしを解しておられる」
人は神を賛えて歌い、そうして自分の存在を伝えようとする。
−歩くも伏すも、全ての道に通じ、語らぬ先から全てを察し、前後なく私を囲い、その御手を置いて下さる。至るも叶わぬ大いなる智慧の高みに在る方。
−天に昇ろうとも冥府に下ろうとも、曙の翼を背に海の彼方を臨もうとも、貴方は御手の導きにその右手に私を捉える。
「どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう」
その祈りの言葉に、こうは胸に痛みを覚えた。
 主を捜せ、と声がする。
 時に鈍い痛みを明滅させるようになったそれが、こうに鼓動を錯覚させる。
 逃れる事など、願った事はない。避けようなどと想った事もない……ただ一度、主の存在より先んじた目的を抱いただけだ。
−どうか主よ。
 祈りは続く。
−逆らう者を討ち滅ぼして下さい。離れよ、流血を謀る者。企みを持って御名を唱えて汚し、貴方の町々を虚しくしてしまう者よ。
 神は罪在る者を認めない、こうの主もそうだろうか。
−貴方の憎む者を私も憎み、立ち向かう者を忌むべき者とし。激しい憎しみで以て彼等を私の敵とします。
 もしも、主が彼を敵としたならば。こうはそれに逆らえない…滅せよと命じられればその言葉に従う、意志なき傀儡。
−主よ、
 主よ。
 願わくは。
 まだ見ぬ主をこうは想うが、それ以上の言葉は内から湧き出でず、主の位置を占める空虚に琥珀の眼差しを悼むように伏せれば、青みを帯びた髪が頬にかかり、表情に欠けるこうの顔を半ば隠した。
−私の声を、お聞き届け下さい……。
 彼の声は、望む相手に届いただろうか。
 こうは左胸を手で押さえた。
 響く律は鼓動ではない、けれど、それに耳を澄ますように目を閉じる…こうのそれは、聖書を胸に天に祈りを捧げる、神父の所作によく似ていた。