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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


月の無い夜。
 
『斎月、僕のことは忘れて…幸せになってね』
 未だに記憶にこびり付いて離れることの無い、声。そして最後の笑顔。失ってからもう三年も経つのに、それは色褪せることは一度も無いまま。
 今でこそ、一応真面目に。
 梓ノ宮 斎月(しのみやゆつき)はきちんとした職に就き、周りに溶け込むことは無くとも、それなりに仕事をこなし、何不自由なくの生活を送っている。そして、新しい恋人も傍にいる。
 そう、何も。
 苦労することも、不安も、焦りも。
 彼には、持ち合わせないものだと思っていた。全く感じられない、と言う訳ではないのだが。
 ゆっくりと流れていく時間が。全てを洗い流し、そして記憶の淵からさらさらと、消し去っていくのだろうと思っていた。
『斎月…』
 しかし、その声を思い出すたびに。
 斎月は鮮明に、あの日手のひらから崩れ落ちた存在を、思い出してしまうのだ。
 毎日に光を感じられず、犯罪を『悪』とも思えなくなってしまっていた、『あの頃』。高校時代から、俗に言う『不良』であった彼は、一通りの軽犯罪を数知れず渡り歩いていた。満たされるものは何も無いながらも、生きていると感じられるのが、『まともな生活』からは感じられることが出来なかったからだ。
 酒も煙草も、女の扱いも、躓くことなくすり抜けてこれた。売られた喧嘩も逃げることなく買い、負けることも無かった。
 そんな毎日を繰り返し続けているうちに、斎月は、『楽しい』という感情を、その基準を、狂わせていたのだ。気づきもせずに。
 高校を卒業する頃には、彼の身は表社会には知られることの無い、ある組織の中に置かれていた。それをおかしいと思える時間など、何処にも見当たらなかった。斎月の周りには、『既に狂っている』人間ばかりが存在するのみであったから。
『堕ちた人間は、そう簡単には日の目を見ることは出来ねぇのさ』
 そう言ったのは、仲間内の男だったか。
 斎月はその言葉を、遠くで受け止め、特に気に留めることも無く、聞き流す程度で耳にしていた記憶がある。
 ただ、自分もその『堕ちた人間』の側にいるのだと。それだけは、自覚していたのだが。気がついたところで、どうすればいいのかさえ。
 斎月の左腕には、消し去ることが出来ない刺青がある。それは組織の人間であるという証なのだ。
 二度と、この場から抜け出すことは出来ないとの、証でもあったのだが。
 そのうち、自分は此処で死んでいくのだろうと。そして死体など何処かに打ち捨てられて、人知れず朽ち果てていくのだろうと。
 そこまで考え付いても、彼は焦りなどを感じることは無かった。その感情すらも、おそらくは鈍っていたのだろうと思うのは、全て、失くしてしまった今だから、気がつく現実だ。
「斎月は綺麗な瞳を持っているのに、どうしてそれを自分で殺しているの?」
 見るからに近寄りがたい雰囲気を持ち合わせていただろう、当時の斎月に、臆することも無く。顔を近づけ、そう言ったのは、御陵 倖(みささぎゆき)と言う、少年だった。出会いなど、もう憶えてもいない。何処にでもいるような、眼鏡を手放せない、勉学少年。成績も優秀で、進学校に通いながら、気がつけば斎月の世話をしているのは、この少年だった。
 家が近かったのか。
 学校が終わると、倖はその足で必ず斎月の住むアパートに顔を出していた。家族もいるだろうに、彼は『そんなのどうでもいい』と言いながら、斎月の傍にいることを、何より望んだ少年だった。
 斎月はこの少年によって、目覚めさせられたのだ。何が原因だとか、そんな理由などはそこには存在しない。必要なかったから。
 倖の笑顔が愛しいと思った。自分のみに送られるそれを、いつまでも守りたいと思い始めた。そこで初めて、斎月は組織を離れる決意をする。自分を好きだと言ってくれた、倖の手を取って。
 倖は家族よりも何よりも、斎月を選んだ少年だった。彼といつまでも一緒にいられるなら、他はどうなってもいいと。その大人しそうな外見からは想像もつかないほど、心根は強く、何事にも動ずることも、斎月の伸ばした手のひらに戸惑うことも無く。
「…倖、逃げ切ったら、一緒に暮らそう」
「うん。…きっとだよ、斎月」
 二人で長い路地を走りながら。
 そんな言葉を交わした。目の前を光を掴めば、そこには『自由』が存在して、誰にも邪魔されること無く、幸せを掴み取ることが出来ると、そんな期待ばかりが広がっていた。
 ゆっくりと、流れる光景。
 もう少し。
 後少し。
 腕を伸ばせば、その先の光に飛び込んでいけると、気を緩めた一瞬――。
「…斎月ッ…!!」
 斎月の背後で聞こえた、倖の声。その声に遅れを取ることなく、彼は後ろの倖を、振り返る。
 同時に、左肩から全身に伝わった、電流のような痺れ。
 その時から斎月の目に映るものが、急にスローになった気がした。彼は其れに逆らうことをせずに、倒れこんでくる重みに、身体を預けていた。

『僕、貴方が好き…』

『斎月、僕がずっと傍にいてあげる。だから一緒に、前へ進もうよ』

『…愛してる、斎月。僕には、斎月だけだよ…』

「斎月…僕のことは忘れて…幸せになってね…」

 記憶と現実が、綯交ぜになっていたように思える。
 瞼が、重かった。
 それでもゆっくりと上瞼をあげると、目に映ったのは濁った夜空だった。
「………」
 何が、起こったのか。
 それを頭の中で整理するのに、少しだけ時間がかかったように思える。
 最初に、自分の身体の上に、知っている重みを感じた。その次に、右腕が動いた。それをゆっくりと目線まで持ってこようと、斎月は徐に腕を上げる。その瞬間、どろりとした感触が、手のひらをなぞった。
「………え?」
 そこで、斎月の意識は覚醒する。勢いで身体を起こそうとするが、左肩から背中、胸にかけての激痛に、一瞬だけ動きを止める。
「……ゆき…?」
 自分の知っている身体の重みは。
 斎月の問いかけには応えることは無かった。
 頭を起こし、目に入ってくる、血の海。
 今更、その血に咽かえるような事は無い。血の海の惨状など、数え切れぬほど目にしてきた。だが、今のこの状態だけは、斎月には酷なだけかもしれない。
 足の先まで流れている鮮血。
 左肩に置かれたままの、白い手のひら。
「…ゆき……倖ッ!!」
 倖の身体は追っ手による攻撃で、肩口からぱっくりと裂け、斎月の上に圧し掛かるように倒れていた。その姿は見るも無残、と表現すれば、解りやすいだろうか。止血、と言う言葉さえ浮かばない。倖はその小さな身体全部で、後ろから狙われていた斎月を庇ったのだ。庇いきれずに、斎月の左肩は裂けた状態にあるのだが…倖の手のひらがその場に置かれているということは、彼が持ち合わせていた治癒能力で、斎月の傷を癒していたのだろう。
「……嘘、だろ…? …倖…」
 斎月の声は、震えていた。起き上がらない倖を揺すり起こそうとも、それが出来ない現状。乱暴に動かそうものなら、彼の身体は左右に崩れ落ちてしまうだろうから。それほどまで、倖の身体は、傷つけられていた。
「倖……ゆき…ッ」
 斎月の声は、倖には届けられていなかった。だが、斎月の胸で目を閉じている彼の表情は、穏やかなもの以外の、何ものでもなく。
『僕のことは忘れて…幸せになってね…』
 覚醒する前に聞こえた言葉。
 それが、倖の最後の言葉だったのだ。
 倖は薄れていく自分の意識と戦いながらも、辛うじて動く手で、斎月の肩の傷を癒し続けていた。ゆるやかに。そして…最後の最後で、斎月へ、そんな言葉を残し。
 倖は静かにその時計を止めた。
「……なのって…ありかよ…ッ 何で倖なんだよッ…ゆき…倖ぃぃッ!!!」
 斎月は身動きが出来ぬまま、叫ぶことしか出来なかった。
 その斎月を見守っていたのは、星の見えない、濁りきった夜空だけだった。

「……ッ」
 何かに、弾かれるかのように。
 斎月はその場から、飛び起きる。
「………は…」
 酷い寝汗をかいている…。彼は夢から覚めたのだ。過去の、決して忘れることの出来ない、夢を。
 倖を失って、三年。
 今、彼の傍には新しい恋人が、存在する。見れば隣に、その恋人は静かに寝息を立てて、幸せそうに眠っていた。当時の倖と同じ歳の、少年だ。
「…………」
 恋人の頭を、ゆっくりと撫でてやる。
 倖を忘れることは、出来ない。しかし、今はこの、倖とは比べ物にもならないほど元気な恋人が、自分を癒してくれていることも、確かなのだ。だから斎月も、この彼を何より大切にしている。
『…斎月』
「…倖か…」
 髪を、梳いてやっていると、少年がゆっくりと瞳を開き、口を開く。しかしそれはその少年のものではなく、別の…此処には居ないはずの、倖のものだった。
 倖は現在、この少年の身体に憑依する形で、現世に居座っている。それが判明したのはつい最近で、斎月はその倖を、此処に留まらせているのであった。
 酷な事を、していると思っている。少年に対しても、倖に対しても。
 それでも、倖がこの世に留まっている、と知ったその瞬間から、斎月は彼を手放してはいけない、と思ったのだ。
「……倖、俺も一緒に…」
『斎月…』
 少年の瞳が、ゆらりと哀しそうに揺れた。それは倖の、揺らめきだ。
「…一緒に、逝こう。倖…」
 斎月の口から漏れた言葉。
 倖はそれを否定することも無く、ゆっくりと頷いて見せた。
『待ってる…斎月』
 そう、静かに言葉を零すと。
 斎月は穏やかに微笑みながら、少年の口唇に、自分のそれを重ねた。
 ゆっくりとした時間が、二人の間に流れている。
「…………」
 やがて倖は静かに瞳を閉じた。少年に身体を戻し、奥へと篭るようだ。それを確認してから、斎月は微笑んでいた表情を崩し、少年を抱きしめる。
「…ごめんな、……」
 どうしようもない、現状。おそらく、許されることの無い、裏切り行為。
 それを、近い未来に感じ取りながら、斎月は眠っている少年を抱きしめたまま、未だ空けぬ夜を、静かに過ごしていくのであった。



-了-