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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


踏出す一歩は箪笥の中に

 何時からだろう。何時までだろう。今はまだ、何も答えは出せないけれど。


 しん、と珍しく静まり返っている。守崎・啓斗(もりさき けいと)はカリカリと鉛筆を動かしながら、コツコツと問題集を解いていっていた。緑の目はじっと問題に向けられており、啓斗がちゃんと集中している事を物語っていた。
 啓斗は見た目からも窺えるが、コツコツと積み重ねをしていく努力家タイプである。普段から少しずつ、問題集をきちんと解いていき、何処が分からないかを明確にしていくのである。
 その目の前で、青の目をきょろきょろと動かしながら守崎・北斗(もりさき ほくと)が学校で出された課題プリントを解いていた。教科書や参考書を開く事なく、北斗は次々に問題を解いていっている。北斗には、それらは必要無いのだ。
『北斗ってさ、見た目できそうにないのになぁ』
 などと、よくクラスメイト達から言われているのが常である。ぱっと見、あまり頭が良さそうに見えない北斗だが、実際はその逆であった。勿論、山勘は外れた事が無い。これは北斗の数ある自慢のうちの一つである。
 さわり、と風が柔らかく部屋に舞い込み、二人の茶色い髪を揺らした。ちりりん、と軽い涼やかな音が、室内に響く。
 それにも構わず、二人はカリカリと鉛筆を動かしていたが、不意に北斗がそっと口を開いた。
「……喉渇いた」
 ぽつり、とただ最初は呟いただけであったが、啓斗が北斗のその言葉に何も反応する事なく、問題集に取り掛かったままでいると、さらに北斗は口を開いてきた。
「もう、この喉の渇きを癒さねーことには何も出来ないと俺は思うね」
「……そうか」
 北斗の言葉に、とりあえず啓斗はそう答えた。何かしら答えないと、北斗は満足しないであろうと考えたからだ。
「……この喉の渇きのせいで、俺は全然勉強というものが捗らないね。むしろ駄目だな!」
「そうか」
 返事だけでは満足できなかった北斗は、さらにそう言葉を続けた。そこで漸く啓斗は問題集から視線を外し、北斗をじっと見る。
「冷蔵庫に麦茶がある」
「……それを飲めと?」
 北斗が尋ねると、啓斗はこっくりと頷き、それからまたやりかけの問題に取り掛かってしまった。北斗は小さく「ちぇっ」と呟き、仕方がないと言わんばかりに立ち上がった。「うーん」と小さく伸びをしながら、台所に行き、冷蔵庫を開いて麦茶をコップに注ぐ。
「兄貴も、飲む?」
 台所から北斗が訪ねると、啓斗は「いや」と小さく答えた。相変わらず、問題集から目線は外してはいない。ただじっと、問題集の問題を解いていっている。
 その様子が感じ取れたのか、北斗は啓斗の返事も気にせず、コップに注いだ麦茶を一気に飲み干した。冷たい麦茶が、体の隅々まで行き渡るかのような感覚を覚える。
「かーっ!染みるなぁ」
 年齢にそぐわぬ言い方をし、北斗は麦茶の感覚を楽しむ。そして、もう一杯コップに麦茶を注いでから冷蔵庫に元通り収めた。その際、当然のように冷蔵庫の中身をチェックするのも欠かさない。
「……野菜ばっかりじゃん」
 北斗は啓斗に聞こえないように呟き、溜息をついた。ご飯の残り物だとか、そのまま食べられるチーズだとかがあれば、こっそりと食べてやろうと思っていたのだ。だが、残念ながら北斗の期待するようなものは何も無く、野菜がずらりと冷蔵庫の中に入っているだけであった。
「肉もねーし」
 北斗は更に不満そうに呟く。育ち盛りであり、食欲旺盛である自分にとって、それは由々しき問題であった。冷蔵庫をじろりと見回し、やはり野菜ばかりである事を確認してしまうと、北斗は更に大きな溜息をついて冷蔵庫をぱたんと閉めた。これ以上、すぐに食べられるものもご飯が数倍楽しみになる肉も入っていない冷蔵庫を眺めていても、悲しい気持ちになるだけだ。
 北斗はコップに注がれた麦茶を手にし、元のように勉強していた机に戻った。少しの間放置された麦茶は、コップの表面に水滴を作っている。それが何とも涼しげだ。
 啓斗はちらりと北斗を見て、また問題集に取り掛かった。北斗は冷蔵庫の中身のことを言おうかと思ったが、結局何も言わずに麦茶を少しだけ口にするだけに留めておいた。そんな事よりも、冷蔵庫を長い間(といっても、1分か2分だろうが)開けっ放しにしていたことを、啓斗に咎められるかもしれないと思ったからだ。
 そうして暫くまたカリカリという音が響くだけだったが、再びその空気が阻まれた。
「……腹減った」
 やはりその空気を破ったのは、北斗であった。
「……そうか」
 再び啓斗はそれだけ答えたが、その答えにかなり不満そうに北斗は口を尖らせる。
「腹が減って、何もする気になんねー」
「そうか」
「ほら、よく言うじゃん?『腹が減っては戦は出来ぬ』ってさー」
「ああ」
「もう腹が減って全然頭に入らねーわ。あー腹減った!」
 啓斗の素っ気無い返事にも負けず、北斗は『お腹すいた』としきりに繰り返した。啓斗は暫く放っておいたが、それでも全くその言葉を言う事をやめない北斗に、啓斗は仕方なく立ち上がった。今度は啓斗が仕方なく、といった感じで。
「全く……こういう時に限って何も無いんだからな」
 啓斗は小さく呟き、そっと冷蔵庫の中を覗く。見事に野菜だらけの冷蔵庫である。啓斗は仕方なく卵を一つと、鰹や昆布で作った出汁を取り出した。
「……兄貴はさぁ」
 卵をボウルに入れて溶き始めた啓斗の背中に、北斗の声が尋ねてくる。
「兄貴はさぁ、いつまで学校に行かねーつもりなんだ?」
 啓斗は一瞬びくりとし、卵を溶いていた箸を思わず止めてしまった。が、すぐに息を一つ吐き出し、至って冷静になりながら「さあな」と小さく答える。そして、再び卵を溶く作業を続けた。
「……このままでいいだなんて、思っている訳じゃねーんだろ?」
「……ああ」
 カチャカチャという音と共に、黄色い液体がボウルの中で踊る。
「勉強が嫌いって訳じゃねーし、成績だって俺とどっこいどっこいじゃん?」
「まあ、そうだな」
 出汁を入れると、黄色い液体が容量を増す。口の中で上品な味が広がる事は、間違いないだろう。
「何だか、勿体ねーじゃん」
 じゅう、とフライパンで出汁卵が焼かれる。ふわりと立ち上がるいい匂いが、確実に美味しいものだという事実を決定付けている。
「折角、学校ってもんがあるんだしさ」
 更に北斗はそう言葉を続けた。啓斗はそれらの問いには何も答えなかった。ただただ、手元はちゃんと確認しながら、黄色い卵焼きが綺麗に出来ていくのをぼんやりと眺めていた。そうして出来上がるとまな板に乗せて適当な大きさに切り、皿に盛り付けて出汁をかけた。啓斗はそれを手にし、北斗にすっと差し出した。半ば、先ほどまでの言葉を誤魔化すかのように。
「わ、美味そう」
 北斗は先ほどまで啓斗に言っていたことを忘れたかのように、にかっと嬉しそうに笑ってから出汁巻き卵に取り掛かった。綺麗に誤魔化されてくれたようだ。思わず啓斗は苦笑する。
(全く……)
 あまり追求されずに済んだ、という思いと、相変わらず旺盛な北斗の食欲に呆れながら、という思いから啓斗は苦笑する。そして、そっと口を開く。
「明日は、行く」
 ぽつりと、呟くかのように。北斗は伸ばしていた手を止め、じっと啓斗を見つめた。啓斗はその視線に対して、少しだけ悪戯っぽく笑う。
(箪笥の中の制服を、お前の替えにするばかりじゃ駄目だしな)
 啓斗のそんな思いに気付いたのか気付かないのか、ただ北斗は口に卵を含んだまま「そっか」とだけ答えた。それ以上は何も言う必要は無かった。
 啓斗が学校に行くというその言葉だけで、ただそれだけで良かったのだから。
「兄貴、これ美味いわ」
 北斗は相変わらずもぐもぐと口を動かしながらそう言い、にかっと笑った。
「そうか」
 啓斗はそれだけ言い、小さく笑ってから再び問題集に取り掛かった。北斗は食べるのに夢中になりつつも、再び課題のプリントに取り掛かった。
 啓斗はそっと自分の作った出汁巻き卵を一切れ取り、口にした。程よい出汁の味が、口一杯に広がる。会心の出来である。
(なかなか上手く出来たな)
 心の中で呟き、こっくりと頷く。啓斗はもう一切れ口にしようかと手を伸ばしかけ、すぐに手を引っ込めてしまった。
 出汁巻き卵は、あっという間に北斗のお腹の中に入っていってしまっていた。ただ一切れだけ、啓斗の口に入る事は出来たが。
(全く……!)
 口をもぐもぐとさせながらプリントに向かう北斗を見て、再び啓斗は苦笑した。それから、自らもやりかけの問題集に再び取り掛かるのであった。


 翌日。高校のHRにて、生徒の出欠席が教師によって取られていた。彼は教室内をぐるりと見回した後、一人一人の生徒の名前を呼びながら確認していく。
「守崎啓斗」
 いつも返事の返ってこない名前を読み上げ、やはり今日もいないのであろうと勝手に判断していつも通りバツ印を書き込もうとする。
「……はい」
 声がした。教師は書き込もうとした鉛筆を慌てて止め、声のした方を確認した。そこには確かに、中々お目にかかっていなかった生徒がちょこんと座っている。教師は思わず顔を綻ばせ、確かに啓斗が出席している事を確認し、再び出欠席に戻った。何故だか、声は少し明るくなっていっていた。
 勿論、これから毎日出席するとは限らない。登校拒否が直ったわけでもないだろう。だが、教師は微笑まずにはいられなかった。
 一日でも学校に来てくれたという事実を噛み締めながら。


 何時までだとか、何時からだとか。そういう事は分からない。
 だが、確実に進むものは存在する。何がきっかけになるかは分からないのだから。

<箪笥の中の制服は着て行かれ・了>