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球体模型の幻惑
【T】
戯れに車を停めさせたビルを仰ぎ見て、セレスティ・カーニンガムはふと心惹かれるようにして祖父江ビルディングへと足を踏み入れた。軒先には小さな看板が出ていたが、あまりにひっそりとそこに腰を落ち着けているせいであまりに人目に触れていないような気配がした。開け放たれたドアをくぐると懐かしい気配が肌に触れるのがわかる。ふと視線を上げると壁には一面書物の背表紙が並んでいる。造り付けの棚や物が置けるようなスペースには多くの品物が犇いていたが、それでいてその場に馴染んでいるようなしっくりとしている気配がした。不思議と調和の取れた空間だと思って、手にしたステッキの先端を気遣いながらセレスティが歩を進めると多くの書物が堆く積み上げられたカウンターの向こうから癇性な印象を与える銀縁の眼鏡をかけた青年が顔を覗かせる。
「いらっしゃいませ。館長の祖父江です」
穏やかな微笑と共に告げられた言葉にセレスティが柔和な笑みで答えると、ふと青年の手元にある品物がセレスティの視線を捕らえた。
滑らかな曲線。硝子の硬質な球体の中に少女人形がひっそりと腰を落ち着けている長い黒髪がまとう白いワンピースに良く映えて、開いた襟口から覗く白い肌を引き立てるには十分な艶を湛えて胸元に垂れている。
「そちらの品物は？」
ふとセレスティが問うと、祖父江は壊れ物を扱うような手つきでそれを指し示し、
「たった今当館に届けられたものです。―――ご覧になられますか？」
と云った。セレスティがその言葉に頷くと、祖父江はカウンターから出てきて手近なところにあった椅子を一脚引き寄せるとさっと表面を払ってセレスティに勧めた。
「どうぞゆっくりご覧になって下さい。少々不思議な品物なものですが……」
「七番目の天国に行くための約束はなに？」
不意に言葉が響く。繊細な硝子細工のような声だった。
まさかと思って球体模型に視線を落とすと、その中に腰を落ち着けた少女人形がまっすぐにセレスティを見つめている。
「七番目の天国に行くための約束は何？」
少女人形は繰り返す。
それは自動人形の声とは明らかに違う柔らかさと丸みを帯び、繰り返された言葉は一度目のそれとは確かに違った響きでセレスティの鼓膜を震わせる。
「これは？」
「繰言のように同じことばかりを問うのです。もしあなたが彼女の望みを叶えることができるのであれば、しばしお付き合い頂ければと思います」
祖父江は恰もそこにある少女人形が生身の人間であるかのように云う。セレスティはふとそれに疑問を感じて、言葉を綴る。
「これは人形では？」
「そうです。しかし人形とは人の形。それが紡ぐ言の葉があるのであれば耳を傾けても良いとは思いませんか？」
柔和な祖父江の笑みに惑わされるようにして球体模型に視線を移すと、硝子の向こうから真っ直ぐに少女がセレスティを見つめている。
そして問う。
「七番目の天国へ行くための約束は何？」
「彼女はただその約束を待っています。私にわかるのはそのことだけなのです、残念ながら。手がかりになるかどうかはわかりませんが、７という数字だけが彼女のメルクマールのようです」
「７ですか……。それが何がしかの鍵になるとお考えで？」
祖父江は静かに頷く。
「彼女は７の数字によって構築された世界で生きているのではないかと思います。それがどんなものであるのかはわかりません。ただ彼女にとって７という数字が私たちの考えているよりもずっと特別なものとしてあることだけは確かでしょう」
「７ですか……」
呟いてセレスティは球体模型に視線を落とす。
そして少女が紡ぐ一言のなかに何かを探すように、少女の言葉に耳を傾ける。繰り返される言葉。七番目の天国。天国という言葉は聖書に関連しやすい言葉であると思ってふとセレスティは欧州辺りのキリスト教圏で何がしかの役目を与えられたものなのではないだろうかと思った。しかし、それはあまりに短絡的な考えのようにも思え、再度少女人形の言葉に耳を傾ける。
「第七天国は私のなかにあり、私の外にある。遠い異国の理想郷。密やかに言葉を紡ぎ、幻を唄う。別れだけが永遠。死さえも幻となり、生は密やかに葬られる。―――七番目の天国へ行くための約束は何？」
ゆったりと唄うようにして少女人形が云う。
その言葉にふと願いだけが総てなのではないのだろうかと思った。願いを基本とする宗教は形態が違うだけで最終の具現は同じであろう。思って、セレスティは少女人形に問う。
「天国へ続く門を通り抜ける条件を訊ねているのですか？」
少女は静かに頷く。
「七番目の天国へ行くための約束は何？」
「彼女の意思を尊重して頂けるのであれば、ご自由にして頂いてかまいません。お時間が許す限り彼女のお相手をして頂ければ幸いです」
云って祖父江は笑う。触れても？と問うセレスティに静かに頷き、自分は二階にいるとの旨を告げそっとカウンターを離れていった。
残された球体模型を前に、セレスティはそっと手を伸ばす。今にも壊れてしまいそうな薄い硝子を掌に感じる。その向こう側にあるものを探るように目蓋を閉じると、不意に目の前で少女が笑った気がした。
【U】
―――過去がひっそりと揺らめく。
闇に染まる視界を横切るようにして白いスカートの裾が揺れる。
まるで何かを導くようだった。遠いどこかへ誘っていくような気配がする。少女の笑みの温度。それは温かく、滑らかにセレスティの視界を包む。闇に温度を与えて、溶けていく気配。
『過去に触れてはいけないわ……』
少女が呟く声だけが鼓膜に直に響いてくる。
『……過去は過ぎ去るものだから』
ふと闇に浮かぶ一筋の道。その白い道の突端に少女が佇んでいる。はたと目が合うと笑う。
『過去へ向かう葬列を見たものは朽ちる。……夢物語に囚われて朽ちるのよ』
甘い香りが鼻先を掠めたような気がした。満開の花が散る間際に漂う濃密な香りのようだった。
白い道にぽつりぽつりと黒い足跡が刻まれる。闇に溶けていく足跡。それを辿るように少女は歩を進める。白いスカートの裾を揺らして、細い足で一歩一歩確実に前へと進んでいく。
小さな足音はまるで無数の小さな硝子片を踏むかのように脆弱な音として響く。
『過去は過ぎる時のなかに弔うもの……』
無機質な音に耳を傾けながら、セレスティは今眼前に広がる光景は果たしてなんであるのだろうかと思った。窓辺に戯れる小鳥のようにして軽やかに闇に踊る少女は現実なのだろうかと。それとも触れた掌が見る夢なのだろうか。随分遠くから届く映像のようにも思えたが、それが本当だと思える確証はどこにもない。
『七番目の天国は過去を弔う楽園。あなたはそこに何を眠らせるために私に問うの？―――私はただ過去にのみ繋がることができる者。記憶を持たず、未来も持たず、現在さえも過去の一部。さようならだけが本当……』
少女は云ってそっと小指を立てた右手を差し伸べる。
『七番目の天国へ行くための約束は何？』
―――生きていくこと……。
無意識のうちに言葉が漏れた。
目蓋を押し開くとそこで少女が笑う。
「鍵を開けましょう……。あなたの小指にある鍵で、七番目の天国へ続く門は開くわ』
鮮やかに少女人形は笑う。
セレスティはふと自分の小指に視線を落とし、約束を交わすために小指を絡ませることがあることを思い出した。
指きりげんまん……―――
嘘をついたらどうなるのだったろうか。
「嘘も何もかもが過去になる。苦痛もなく、生きていける夢をあげるわ」
少女人形が告げる。
「７と７をかけあわせたら４９。苦しみながら死に至る……」
残酷な現実を告げるようにして少女人形は云う。
その言葉にセレスティは微笑んだ。
「約束は結構です。あなたのお話だけで十分ですよ」
云って小指を隠すように膝の上で両手を重ね合わせた。
「さようならだけが本当……」
少女人形は云ってそれきり目蓋を閉ざして、言葉を紡ぐことをやめた。
【V】
「思いの葬送……ですか？」
カウンターに戻って来て訊ねる祖父江にセレスティは頷く。
「彼女が何を目的として造られたのかは判然としませんが、過去の思いを葬り、葬送するためにいるように思います。ですから彼女にとって過去だけが本当なのでしょう」
「では七番目の天国とは？」
「苦しみにまみれた死が埋葬される場所……なのかもしれませんね。１足す１が２であることが必然であるように、７かける７に構築された世界が少女人形の云う天国なのかもしれません」
ゆったりと指を絡め合わせてセレスティは云う。
目の前の球体模型のなかで少女人形は沈黙を守ったままだ。薄い硝子の向こう側でひっそりと息を潜めるようにして目蓋を閉ざしている。数珠つなぎのように無数に繋がれた過去の夢を見ているとでもいうのだろうか。閉ざされた目蓋が描く曲線はまるで微笑んでいるようにも見えた。
美しい夢なのか。
それとも醜悪な悪夢なのか。
セレスティにわかるのは硝子の破片を踏むように果敢無いものの集合であるということだけである。
「この後この模型はどうなさるおつもりですか？」
球体模型に見入ったまま動かない祖父江にセレスティが問うと、よろしければ、と云いかけるので微笑みでそれを遮り、
「いえ、少しでもこの少女人形が心安らぐようこちらにお納め下さい。―――どうやらこちらは過去を愛でるものには心地良い場所なようですからね」
と云った。
その言葉に祖父江も笑い、ありがとうございます、と続けた。
細く、長い建物のなかには過去が犇いているとセレスティは思う。けれどそれらは決して不快なものではなく、敢えて言葉にするなら安らかな眠りのような気配と共にここに腰を落ち着けていると思う。まるでここが当然の居場所だとでもいうようにして、それぞれの場所に書物も無数の品物も腰を落ち着けているのだ。
「この球体模型も大変興味深いものでしたが、私としてはこちらの蔵書の数々も気になるのですが……」
ふと戯れを呟くようにセレスティが云うと祖父江は館長らしく辺りを見回し、云う。
「お時間が許す限りお寛ぎ下さい。蔵書のほうはあまりに増えすぎてしまったせいもあって、なかなか整理が追いつかないという状況にありますが、それで宜しければ」
「では、お言葉に甘えて」
セレスティは静かに椅子から腰を上げると、興味惹かれるままに書架の前へと爪先を向けた。
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■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
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【1883／セレスティ・カーニンガム／男性／725／財閥総帥・占い師・水霊使い】
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■ ライター通信 ■
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いつもお世話になっております。沓澤佳純です。
謎かけのような不条理シナリオへのご参加ありがとうございました。
少女人形は勝手気儘なことを申しておりますが、少しでもこの作品がお気に召して頂ければ幸いです。
この度のご参加、本当にありがとうございました。
また機会がありましたら、どうぞよろしくお願い致します。
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