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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


ノーサイド

 雨の中、興信所を訪れた若い男女の二人連れは、なかなか本題を切り出そうとはしなかった。
 やけに体格のいい、直情そうな瞳の男と、対照的に陰のある、控えめそうで小柄な女性の組み合わせだ。
「兄が――」
 ようやく、女性のほうが重い口を開く。
「雨の中に立って、私のほうをじっと……見ていたんです」
 草間の困惑を読み取って、隣の男が口を挟んだ。
「浩は――彼女のお兄さんは、3カ月前に亡くなっているんです」
「…………」
 まず出たのはため息だったが、草間は気をとりなおして、
「失礼ですが、あなたは」
 と問うた。
「あ。自分は室田秋彦と言います。浩とは大学以来、ずっとチームメイトで……」
 室田と名乗った青年は、よく知られたラグビーの社会人チームの名をあげた。どうりで、どこかで見た顔だと思った、と、草間は納得する。そういえば……数カ月前、新聞の片隅に記事が載ったのではなかったか。社会人ラグビーのスター選手、交通事故死――という記事が。
「で、その浩さんの幽霊が出るというわけですか、諒子さん?」
 たしか川島諒子と言ったはずの女性はうつむいたままである。
「それだけじゃありません」
「ほう?」
「私が道を歩いていたら、植木鉢から落ちてきたり」
「それは物騒だ」
「家の中の物が誰かに動かされたような気配もありますし」
「…………」
「昨日だって、駅の階段で誰かに突き飛ばされたんです。もうすこしで階段を転げ落ちるところでした」
「……幽霊にしては、ずいぶん現実的な――」
 そんな言葉を漏らした草間を、諒子はきっ、と鋭い目で睨んだ。かたわらで、室田がすまなさそうな顔で草間を見ている。どうやらこの青年も、彼女のこの言動に振り回されているらしい、と、探偵は察した。
「兄の亡霊なんです」
 そして女は言うのだ。
「兄が、私を殺そうとしているんです」

■依頼人

 重苦しい沈黙が、興信所内を充たしている。
(嫌な雨……)
 窓際に立つ藤井百合枝は、ブラインドの隙間から灰色の空を見上げてため息をついた。そして、ソファーに坐る依頼人のほうへ目を遣る。
「その現象はいつから――?」
「ここ1、2カ月でしょうか……兄が亡くなってすぐは、私も動転していたので、よく……」
 か細い声で応える依頼人・川島諒子。その背後でゆらめく炎――彼女にだけ見える炎だ――を見て、百合枝はまたもため息をついた。頑な拒絶の心と、怯えを見てとったからである。
「その……お兄さんの幽霊――ですか。雨の中で見たとおっしゃいましたけど、雨だと視界も悪いですし……見間違いということは」
 ソファーの対面に腰掛けた綾和泉汐耶が訊ねた。
 じっとうつむいている諒子に代わって、隣の室田秋彦が答える。
「実は俺も見たんです」
「そうなんですか」
 眼鏡の奥で、汐耶は目をしばたかせた。
「あいつのことを、見間違うなんてこと、ありませんよ。俺も諒子ちゃんも。間違いなく、浩のウィンドブレーカーを着ていたし」
「ウィンドブレーカー? ちょっと待って下さい、それじゃ、つまり顔を見たわけじゃ――」
「川島さん」
 遮ったのはシュライン・エマだった。なにか思うところがあるのか、汐耶に目くばせを送ると、
「殺そうとしている、ということだけど……」
 パソコンの前から立ち上がって、シュラインは歩み寄ってきた。
「そもそも、どうしてそう思うの。たとえばそう……なにかを伝えたいことがあって、あらわれた、とは考えられないのかしら?」
「私たち……そんなに仲のいい兄妹ではありませんでした」
 諦めたように、諒子は言った。
「だからって、殺すだなんて」
「……兄の霊があらわれて、私のまわりになにかが起きていることは確かなんです」
 すみません、と、秋彦が目で謝ってくる。シュラインは肩をすくめるしかない。

「どう思う……?」
 ふたりの客が辞した後――。
 じっと黙って話を聞いているだけだったケーナズ・ルクセンブルクに、シュラインは水を向けた。
「幽霊が植木鉢落としたりするか?」
 返ってきたのは、冷笑まじりのその一言だ。
「同感ね。一連の怪異の正体は生者の可能性が高いと思う」
「いずれにせよ……仲が良くないとは言っていたが、それだけで殺されたら、世の中は兄妹殺人だらけだ。彼女は明確に、『兄に恨まれている』という自覚を持っていることになるな」
「そんなことって……」
 汐耶がうかない顔で呟く。ケーナズは無言で頷き返す。兄のいる汐耶と、妹のいるケーナズのあいだで、共感する思いがあるようだった。
「とにかく。面向きは霊現象の調査ということで、あたりましょう。本人もそのほうがいいだろうし……」
 シュラインは言った。
「……そのほうが、草間興信所らしいし、ね」

■疑惑の雨

「ありましたよ。今年の初めくらいのだから、事故の2、3カ月前ですね」
 汐耶がビデオテープを手に、興信所にあらわれた。
「ありがとう。助かったわ」
 さっそく、受取ったそれをビデオに差込むシュライン。それは都立図書館が所蔵する映像資料だった。
 画面に、映し出されたのは、ラグビーの試合のようだ。しかし、ゲームのなりゆき自体はどうでもいいことなので、目的の場面になるまで、早送りのボタンを押す。
「それと、事故に関する報道資料です」
 続いて汐耶は、新聞のコピーとおぼしき紙の束をテーブルに置く。
「雨が降っている夜の山道で、運転を誤ってガードレールに激突。それを突き破って山の斜面に転落、車は炎上」
「不審な点はないのかしら」
「どうでしょう。居眠り運転の可能性が指摘されていますけど……」
「車が炎上したということは、司法解剖も満足に出来なかった可能性があるわね」
「殺人かもしれない、と?」
「私ね、この事件は諒子さんの狂言かもしれないと思っているの」
「狂言? 何のために?」
「お兄さんが殺されたのだとすれば、その真犯人を見つけだすためよ。揺さぶりをかけるためのブラフ、というやつかしら」
「まさか……室田さん」
 シュラインは頷いた。それから、ビデオを通常再生に戻す。画面の中では、ちょうど、問題の――川島浩のインタビューが流れ始めたところだった。
 短髪に、日に灼けた肌、がっしりした肩幅が、いかにもラガーマンらしい青年が、訥々と、インタビュアーの質問に応じている。
 シュラインはじっと、その低い声に耳を傾け、音を記憶している。
「でも……」
 汐耶は、スポーツ誌のコピーを広げた。
「川島さんと室田さんは、すごく息の合った最高のパートナーだ、って……」
 と、言いつつ、声には自信がない。
 ビデオの川島浩は、その数カ月の運命も知らず、快活に笑っているのだった。

 雨音――。
 グラウンドは、雨に叩かれ、白く煙っているようだった。
 その中を、男たちがぶつかりあったり、走ったりしている様を、百合枝とケーナズは傘をさして眺めている。
「うちは姉妹なんだけど」
 と百合枝。
「兄と妹って……どういう感じのものなのかしらね。とても近しい存在だけど、異性なわけでしょ」
「私と妹は双児だからな。普通の兄妹の感覚では語れないさ」
 苦笑するように、ケーナズは答えた。
「だが、少なくとも……依頼人とその兄の間には何か特別なものがある。それは確かだ」
「それって――」
 言いかけた百合枝の言葉を遮るように、水に濡れた足音が近付いてきた。
 室田秋彦が、泥と雨にまみれた練習着で、そこに立っている。
「すみません。練習、あんまり抜けられなくって」
「ここで結構。……興信所に調査を依頼したのは、きみのアイデアか?」
 単刀直入に、ケーナズは切り込む。
「ええ。彼女が思いつめてる様子だったから、調べてもらえばすっきりするだろう、って」
「彼女の兄というのは……」
 ケーナズがそう口にしたとき、秋彦の心の炎がざわめくのを、百合枝は見た。
「交際相手はいなかったのか――?」
「……聞いたことはありませんね」
「室田さんは、諒子さんのお兄さんとは親しかったのよね」
「そうですね。親友――でした」
 まだその死がこたえているのだろうか。秋彦は伏目がちに言った。精悍な頬を、雨が伝う。
「立入ったことを聞くが――、きみは彼女と恋人同士なのか」
「諒子ちゃんと?」
 意外そうに目を見開くと、秋彦は声を立てて笑った。
「違いますよ。諒子ちゃんは、俺にとっても妹みたいな存在です」
「彼女はどうして、あんなに怯えているのかしら。なにか心当たりはない?」
「……さあ。なぜでしょうね。……諒子ちゃんは、感情的なところのある子だから」
 グラウンドのほうから、彼を呼ぶ声がした。それに、うっす、と体育会風の返事を返すと、ぺこり、とふたりに頭を下げ、室田は練習場へと戻っていった。
 駆けてゆく広い背中を見送りながら、ケーナズは、
「まさか――な……」
 と、小さく呟いた。

■亡霊が指す風景

 事故から3カ月も経つというのに、ガードレールの足元では、花が雨に打たれていた。亡くなった選手のファンが供えていったのだろうか。
 しかし、さすがに事故の痕跡そのものはすでに片付けられている。
 シュラインは花を見下ろすと、そっと、両手を合わせた。
(雨が降ったら見通しもよくないし、カーブも急。ここなら、事故が起きても不思議じゃない……。でも――)
 念入りに、補修されたガードレールや、その向こうの山の斜面を見回し、手がかりがないかと気を配る。しかし、耳を澄ましても、聞こえてくるのは、雨音と――
 ……否、水を跳ね散らす足音だ。
 はっと振り返ると、雨の帳の向こうに消えてゆく背の高い人影が見えた。
「待って!」
 シュラインも駆け出したが、追いつけない。しかし……
「これは――」
 雨に濡れたアスファルトの上に、置き去りにされているもの――。それは、半分ほど錠剤の入った小瓶だった。それを拾い上げると、もういちどあたりを見回すが、人影はない。
「足音を立てる幽霊なんているかしら……」
 雨音に、シュラインの呟きが溶けていった。

「川島か? そうだなァ……」
 事故現場に行ってみる、というシュラインと別れた汐耶は、秋彦と浩のチームメイトたちを訪ねていた。女性としては長身な汐耶だが、さすがに体格のいいラガーマンたちに囲まれては、ずいぶん華奢に見える。
「チーム内外の人間関係について……どんな細かいことでもいいんです。誰かに恨みを買うなんてことは」
「そりゃないさ。後輩の面倒見もいいし、すごく気のいいやつだったんだから」
 他の選手たちは口々にそうだそうだと追従した。
「室田さんとはどうです」
 汐耶の問いに、かれらは顔を見合わせる。
「どうって……あいつらはチームでもいちばん仲が良かったくらいで……」
 仲間の気持ちを慮ってか、声のトーンが落ちた。
「事故の日も、川島は室田に会うはずだったんだろ」
「え、そうなんですか?」
「だから、えらく落ち込んでたんだぜ、室田のヤツ。自分が呼び出さなけりゃ、川島は事故なんか起こさなかった、って……」
「…………」
「休みの日とかも、よくつるんでたよなー、あいつら」
「諒子さん……川島さんの妹さんはご存じですか」
「ああ、よく応援に来てた」
「お兄さんの」
「それもだが……。あのコ――」
 ひときわ大柄なバックスの男が漏らした言葉の続きを聞いて、汐耶の表情が厳しく引き締まった。

「兄です」
 アルバムの中の写真をそっと指差す。
 幼い、男の子と、その傍によりそう女の子の姿が写っていた。
「仲良さそうに見えるけど」
 百合枝の感想ももっともだった。どの写真にも、兄妹は睦まじげに、寄り添い、笑顔を浮かべているのだ。百合枝の隣で、ケーナズも、複雑な面持ちでアルバムをのぞきこんでいた。自身の妹のことを、思い浮かべているのだろうか。
「子どもの頃はね」
 諒子はひっそりと笑った。
「でも……私たちは変わっていってしまった」
 百合枝はアルバムのページをめくっていった。子どもの頃はよく似ていた兄妹だったが、時とともに、兄は武骨な男らしさを増してゆき、妹は女の艶やかさを身につけてゆく。そして――
「あ、室田さんね」
 百合枝は気づいた。その青年があらわれて以降は、兄妹ふたりだけの写真はなくなり、どれも3人か、それ以上の大勢で写った写真になるのだ。
 雨はまだ振りやまない。
 諒子の暮らすマンションのリビングは、雨音と、彼女が百合枝とケーナズのために入れてくれた紅茶の香りに充たされていた。
「あの日……」
 遠い瞳で窓の外を見遣りながら、諒子は呟くように言った。
「私と兄は、この部屋でケンカをしました」
「えっ、この部屋に来ていたの?」
「ええ。この部屋から帰る途中、兄は事故を起こしたんです」
「彼は何の用でここに来ていたんだ。仲が悪かったんじゃないのか」
「別に。些細なことです。……それに、仲が良くないとは言いましたけれど、べつに私、兄を憎んでいたわけじゃありません」
 目を伏せる。
「ただ……。そう――、羨ましかったのかもしれない」
「羨ましい?」
「兄は、何でも持っているひとだったから」
 自嘲めいた寂しげな微笑を、諒子は浮かべた。
「それって――」
 百合枝が口を開いたが、携帯電話の着信音が彼女の言葉を遮る。
「あ、シュラインさん? ……ええ、わかったわ」

■雷鳴

 陽が傾くにつれ、雨足はむしろ強くなるようだった。
 諒子のマンションが見張れる児童公園の東屋に、人影が4つ。――むろん、集合した調査員たちだ。
 それぞれが集めた情報の断片が、パズルのピースのように組み立てられ……不完全ながらもジグゾーの図柄を描き出す。だがそれは……きわめて陰鬱な図柄であると言わざるを得なかった。
「カマをかけてみましょう」
 意を決したように、シュラインが言った。
 百合枝が電話をかける。
「諒子さん? ……雨の中、申し訳ないけれど……お話ししたいことがあって――」
 風が出てきた。今夜は嵐になるようだ。
 数分後、雨風の中を、諒子の赤い傘がマンションのロビーから出てくるのが、調査員たちの目にとまった。
 向こうもこちらに気づいたようで、小走りに駆け寄ってくる。
 シュラインはビデオで記憶した浩の声を、声帯模写で聴かせるつもりだった。兄の声で問われれば、反応を示すかもしれない――
 そのときだった。
 ふいに、烈しい雷鳴が、人々の耳をつんざき……
「ああ!」
 声をあげたのは汐耶か。
「あれを!」
「何!?」
 諒子が、すくんだように足を止めた。
 それが――そこに立って居た。ウィンドブレーカーのフードですっぽり頭を隠し、雨風に打たれるままに立ち尽くす背の高い男の姿……。
「に……兄さ――」
 諒子の顔から見る見る血の毛が引いてゆく――。
「リョウ――コ……」
 低い声が呼び掛けた。
「何故……ダ。何故、俺――ヲ……」
「違うわ!」
 諒子は叫んだ。
「そんなつもりじゃなかったの! 兄さんが死ぬなんて思わなかった!」
「茶番を……!」
 鞭のような一喝。調査員たちの中で、最初に動いたのはケーナズだった。むしりとるように、伊達眼鏡をはずす。
 ごう――、と風が唸った。
「……ッ!」
「やはり、きみか」
 カッ――と、閃いた雷光。ウィンドブレーカーのフードの下からあらわれ、真昼のように周囲を照らし出す白い光の中に浮かび上がったのは、室田秋彦の、怒りに燃えた顔だった。
「秋彦さん!?」
 驚きと、怯えと、批難の混じった諒子の叫び声に、青年は不敵な表情で応えた。
「ああ、そうだよ」
「どうしてこんな――」
「そんなことわかってるはずだろう。……浩を殺した証拠を掴むためさ」
 雷鳴が、嵐を裂いてとどろいた。
「諒子さんが、浩さんに睡眠薬を飲ませた、と――」
 シュラインは、ポケットからその小瓶を取り出した。
「つまり、作為的に居眠り運転を起こさせた。そう考えたあなたは幽霊騒ぎを演出して、なおかつ、彼女を興信所に来させた」
「この女の尻尾を掴んでやるためさ」
「……兄さんの紅茶に薬を入れたのは認めるわ。でも、それは――」
 言いも果てず――
 獰猛な獣の素早さで、秋彦が諒子に飛びかかっていた。その手の中に光るナイフに、調査員たちは息を呑んだ。
「だめ!」
 汐耶の鋭い声が飛んだ。本来は、魔性を封印するために使われる力が、暴漢の腕の自由を奪った。ほぼ同時に飛び出していたケーナズが、諒子をかばうように立つ。
「畜生」
 秋彦の大柄な身体が、濡れたアスファルトの上に転がる。
「畜生!畜生! おまえが!おまえが浩を――」
「諒子さん」
 汐耶は振り返った。
「どうしてなの。だってあなた……彼の――室田さんのことが好きだったんじゃないの――?」
 秋彦と浩のチームメイトたちが、口々に証言していたことを、汐耶は思い出していた。
(あの子、室田のことが好きだったんじゃね?)
(たぶんそうだな。いつも兄貴にかこつけて練習見に来てて……)
(室田はつれなかったけど、ありゃあバレバレだよな――)
「なん――だと……」
 横殴りの雨に、もう誰もがびしょ濡れだ。諒子は泣いていたかもしれないが、雨も涙も、見分けがつかなかった。
「諒子、おまえ……」
「室田さん、気づいてなかったんですか」
 言い様もないやりきれなさをこめて、汐耶が訊いた。
 だが、返ってきたのは、空虚な笑いだけだった。
「バカ言え。じゃあ、あれか……諒子、おまえは――」
 雷が、耳をつんざく。
「――浩に嫉妬したっていうのか……!」

■未必の故意/秘密の恋

 風雨は容赦なく、ノアの洪水のようだった。
 しかし、その時、ひとつの世界が終わったことは、確かなことであったかもしれなかった。
「え……?」
 百合枝は答をもとめて、皆の顔を見回したが、誰もが、雨に濡れた厳しい表情を仮面のように貼付けているばかりだった。
「私、ただ、眠らせて……兄さんをどこにも行かせないようにするつもりだったの。本当よ。ふたりが会うのをやめさせようって、それだけ……」
 諒子は泣きくずれる。傾いたその身体を、ケーナズが支えた。
 そして……秋彦が、あえぐように、なにか言いかけた――、そのときだった。

「もうやめろ」

 はじかれたように、百合枝はシュラインを見た。しかし、シュラインは目を見開いて、はげしくかぶりを振っている。
「私じゃないわ」
「あっ……」
 小さく声をあげたのは汐耶だった。
 雨に煙る夕闇の向こうから、その影がすっ、と、浮かび上がってくる。
「浩……」
「兄さん!」
 見覚えのあるシルエットは、水面に映る像のようにたよりなく、おぼろげだった。しかし、はっきりと、その男の特徴は伝えていた。
「浩……、浩……!」
 秋彦が、涙まじりの声でその名を連呼する。はげしく揺れる《炎》を見て、百合枝はすべてを悟った。
「そういうことだったのね――」
(羨ましかったのかもしれない。兄は、何でも持っているひとだったから)
 諒子はそう言ったのではなかったか。
 彼女は、自分が愛した男の心さえ、兄に奪われてしまったのだ。ボールを抱えて、ゴールを目指し疾走するその背中に、彼女は追い付くことができなかった。
「もうやめろ、こんなことは」
 秋彦が、芋虫のように身をよじった。汐耶は、封印を解いてやるべきか迷った。そうすれば、彼は浩のもとに駆け寄ることができる。しかし、それは……ケーナズのもとで泣きじゃくっている諒子を思うと、決断がつきかねるのだった。
「な、諒子、秋彦。もうよそうぜ」
 そう……それがいちばんいいのだろう。汐耶は、亡霊が、寂しげな微笑を浮かべるのを見て、そう思った。川島浩の言葉は穏やかだった。怨みなどはない、ただ、死の安息だけが、そこにはあって――。
「どこで、間違っちまったんだろうなあ、俺たち」
 懐かしむような声が続けた。
「昔はよく、三人で……。あの頃は楽しかったよなぁ……」
 堰を切ったように、秋彦が大声で号泣する。
 汐耶はただ、
「おふたりとも……浩さんの意志を……汲んであげるべきだと思います」
 とだけ、呟いた。



「後味のよくない話だったな」
 紅茶のカップを手に、ケーナズが言った。
 後日の、草間興信所である。
「ふたりは……どうなっちゃうのかしら」
 と百合枝。
「室田さんは、傷害未遂ということになるし、諒子さんも……事故の可能性が推察できる状況で薬を飲ませたのだから――、いわゆる“未必の故意”で罪に問われるわ。もっとも……いちどは事故として処理されているのだから、自首するならの話だけれど」
 報告書を打ち込みながら、シュラインが言った言葉に、
「それについてはもう、ふたりの意志に任せるしかないと思います。私たちが積極的に糾弾するのも、筋が違う気がしますし」
 汐耶はそう付け加える。
「たぶんもとは誰も悪くなかったはずなのに、哀しい出来事でしたね」
「ま……、あの妹の気持ちに気づいてやれなかった周囲の問題もあるがな」
「それって経験上の発言?」
 シュラインの指摘に、ケーナズは咳払いで応えた。
「あ。雨、やんだみたい――」
 百合枝が窓際に立つ。
 ラグビーでは、試合終了のことをノーサイドと言う。ゲームが終われば、敵も味方もないのだ、という意味がこめられているのだというが――。
 雨上がりの空は、ひさびさに見る青空だった。その晴天に、諒子たちにとってのノーサイドを告げるホイッスルは、響いたのだろうか。

(了)

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086/シュライン・エマ/女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1449/綾和泉・汐耶/女/23歳/都立図書館司書】
【1481/ケーナズ・ルクセンブルク/男/25歳/製薬会社研究員(諜報員)】
【1873/藤井・百合枝/女/25歳/派遣社員】

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■         ライター通信          ■
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『ノーサイド』をお届けします。
うう……じめじめした話でスイマセン。地味ですね……。
一応、幽霊話に見せかけてそうではない話、というフリをしておいて、最終的には
やっぱり幽霊話に落とそう、と目論んでいたわけですが。

>藤井百合枝さま
いつもありがとうございます。同じきょうだいでも「兄妹」と「姉妹」ではだいぶ違うだろうなぁ、と思ってそのようなくだりも入れてみました。

ご参加ありがとうございました。