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<東京怪談ノベル(シングル)>


黒の海へ

 モノクロームの風景の前に立っていると、彼方で空も海も溶けて解らなくなる。今にも降り出しそうな湿気で満ちた生暖かい空気が、僕を絡め、捕らえていた。茶色の髪が陽に透けて普段よりも明度を増す。誰か側にいたならば、綺麗だと言ってくれるだろうか。辺りにはちらほらと人影があるが、僕の人生には何の関係もない人たちだ、僕の髪や姿に興味を持つ人も居ないだろう。ねえ、僕の髪綺麗だと思いますか? そんなこと言いやしないけれど、平日の真昼に寂しい梅雨の海にいる物好き達には妙な親近感を持ってしまう。風が吹いた、シャツの裾が少し揺れる。俗に言う国防色の、最近また流行っているらしい帆布の鞄を砂の上に落とし、僕も砂の上に腰を下ろす。雲が波に転ずる境を確かめたいと、下らないことを考えながら空を見つめる。
 電車の振動には、夢を見させる作用があるのではないかと思う。いつもならば通学の電車では読書かうたた寝をしているのだが、何となく今日はどちらもやる気が起きずぼんやりと窓の外を見ていた。外は暗く、雨が降り続いている。空はどこまでもくすんだ色で、細やかな雨はまるでレースのように全ての物を曖昧の彼方に消し去る。いつもの駅に着き、ドアが開くけれど降りる気にどうしてもなれなかった。周りの人たちが席を立つけれど、それでも。空気が抜けるような音がして戸が閉まり、軽やかな振動を引き連れて電車は再び動き出す。少し後ろめたい気がしてそんな自分に笑ってしまう。大学生なのだから、偶には自分の裁量で休んだって良いだろうに。
 大して激しくもなかった雨はすぐに止み、稀に雲の切れ目から梯子のような光が射してくる。と、思うとまた雲は厚くなり、浜辺ではどちらとも付かぬような大理石模様を空一杯に呈していた。こちらでは雨は降っていなかったらしく、砂浜も濡れては居ない。日本の梅雨という場面では、空は仄かに暗く砂は黒く海はさらに黒く、何処か墨絵のようだと思って、ふと笑う。さっきモノクロだって思ったばかりなのに。ここにずっと居るとこんな風に思考まで環を描き続けてしまいそうだ。上空をくるくる飛ぶ鳥のように。
 鞄を引き寄せる。少し汚れた、しかしもともと祖母の物であったことを考えると驚くほど綺麗な鞄だ。ここに座っていても仕様がないと思い、肩紐を掴んだまま立ち上がる。鞄を持ち上げて、思わず声を漏らしてしまった。重い、得体の知れない感触。相当大きな何かが跳ねるような水音。おそるおそる留め金に手をかけ、回す。ぱしゃんとまた何かが水面を蹴る音がした。
 その次に響いたのは、波の音だった。蓋の布を押し上げ、鞄からは次から次から水が溢れでてくる。生暖かいそれは美しい澄んだ青色を持ち、まるで写真で見た南国の海のようだ。空中すらもその青い水は埋め尽くすように鞄から吹き出していく。真っ白な砂までざらざらこぼれだして、瞬きを二三する間に寂れた日本の海を一気に遠い南方の浜へと変えてしまった。水や砂だけかと思うと、不意にふやけた死体じみた白い腕が鞄の中から真っ直ぐのびる。あふれ出す数多の水妖。鱗を持つ者、鰭を持つ者、鰓を持つ者それぞれに、人も魚も満足な物はおらずどこかきたいな形をしている。人魚と呼ばれた女達が、惑わす蜜のファルセットを重ね、跳ね回る。大きな真っ黒の魚が身体をくねらせ鰭を揺らす。薄いそれは弱い日光を跳ね返し虹色の炎が燃え上がらせる。美しい女がひらひらした薄布を体に巻き付けて水中に潜る、その爪は鋭く口には浅ましい牙が見え隠れする。長い胴体をくねらせくねらせ海蛇が行く。銀の鱗にまみれた男も居た、サーカスの空中ブランコ乗りにも見える。半透明の船が耳元を掠め通った、吹き出す流れに乗って、得体の知れない乗客達は皆揃いの白い着物を着て、冥府へと行く船のようにも見えた。反響する笑い声は甲高い娘のもののようだ。一瞬後には転じて気味悪い和音となり霧散した。
 呆気にとられてその美しいとも恐ろしいともとれぬ風景を見つめていると、声が聞こえてきた。誰ともなく、何か集団が一群となり呟いているような、そんな声だ。
 新しい海だ、と、嬉しいうれしい、そんなことを言っているように聞こえた。
 彼等が去ってしまった後、僕はぼんやりと座り直して、鞄に手を置いた。既に中は空っぽで、そうしていれば普通の鞄と変わりない。蓋を閉めて、引き寄せる。
「今回はドアにされたってわけ?」
もちろん、鞄は何も答えない。
「あれは、異界の旅人達だったのかなあ」
端から期待はしていない。
「相変わらず、僕を使うだけでなんにも教えてくれないんだな」
鞄を抱きかかえ呟いた。まだ海は青く、きらめいている。辺りにいる人たちには、多分この風景は見えていまい。かれらが力ある人達のようには見えない。まあ、この風景がみられただけで良いことにしよう。そう考えて、立ち上がる。砂は白く、雲の切れ目から海の彼方に日が射している。どこまでも青い海は彼等の故郷なのだろう。ここにだけ、早く夏が来たようだった。