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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


淡くまとう馨り

 彼女のことを思い出すとき、真っ先に考えることなど決まっている。



 最初のひとしずくが鼻先に落ちてきたときも、藍原和馬はちっとも慌てなかった。
 手にしていたブリーフケースを開けて折りたたみ式の傘を取り出し、器用な手つきで手早くひらく。広げたそれを頭上にさしかけると、次第に強くなってきた雨足がぱらぱらと黒い傘の表面を打ちはじめた。
「やれやれ」
 今日は朝から、降りそうな匂いがしていたのだ。
 和馬はあまり天気予報というものを信用しない。もちろん予報士は緻密なデータに基づいて予測しているのだろうが、未来に関する観測である以上、当たることもあれば外れることもある。占いや予言とたいして変わらない。世の人間が皆和馬と同じレベルの嗅覚を持ち合わせていれば、テレビやラジオの天気予報などそもそも必要なくなるのだが。
 クリーニング屋の二階のベランダで、おかみさんがあわてて洗濯物を取り込んでいる。
 黒く濡らされていくアスファルトの上を、雨に降られた人々が走る。
 今日の朝はいい天気だったのに油断して、傘を用意していない人がずいぶん多いようだ。手持ちの鞄や雑誌をなけなしの庇がわりに頭上に掲げ、駅への道を走っていく姿が目立っている。
 俺も人間って奴を長いこと見てきてるが、ここ百年ばかりの間に人間は随分せわしなくなったものだと和馬は思う。ちょっと立ち止まって鼻をきかせれば、天気が変わりつつあることにもっと早く気づきそうなもんだが……否、そうでもないか?
 道のそこらじゅうを走り回っている車やバイクの排気ガス。
 今は空になっているはずのゴミ置き場にわだかまる饐えた異臭。
 ひしめくようにして建っている住宅から、夕飯の支度をしている匂いが流れてくる。
 都会の空気には、常にたくさんの匂いが雑多に混じり合っている。気候の微妙な変化は感じにくいものなのかもしれない。当の和馬も、必要なとき以外は、嗅覚から入ってくる情報をある程度意識的にカットすることにしていた。都会の真ん中で鼻を鋭敏に研ぎ澄ますのは、大音量のヘッドホンで無意味な騒音を聞き続けるようなものだし、周囲の匂いに警戒して暮らし続けるには、東京という街はあまりにも平和で退屈だ。
「鼻がきくのも、天気を知るときには便利だけどな」
 呟きつつ、人の流れに逆らい傘をさしたままのんびりと歩く和馬の後ろから、誰かが駆けてくる気配がある。
 はいはい、ここにいると邪魔だね。
 傘をさしたまま和馬はひょいと歩道の隅に寄った。そのすぐ横を、ふわりと甘い匂いがかすめる。
 おや。湿度が高いせいか、なおさら鼻が敏感になっているようだ。
 ささやかな体臭に溶けているシャンプーとボディソープの匂い。さらりとした手ごたえを感じさせる、乾いた感じの香り。こりゃまだ小娘だなと、和馬はついつい無意識に考えた。でもボディソープの趣味は悪くない。人工香料には違いないのだろうが、安物によくある偽物くさい甘ったるい感じはなかった。オレンジの香りだ。
 ……この匂い、ついこの間も嗅いだ覚えが?
「あれ?」
 鼻腔を刺激する香りに気をとられていたので、一瞬遅れて視覚情報が認識に追いついてくる。
 思わず声を上げた和馬にびっくりしたように、今自分を追い越していった後ろ姿が振り返った。
 ブレザーにプリーツスカート。制服姿の女子高生だった。どこの高校の制服なのか、和馬は詳しくない。だが、人違いでないことだけははっきりとわかった。つい先日店に邪魔したときと匂いが同じだし、それに。
「藍原さん?」
「羽澄さん?」
 雨粒に濡れ始めた長い髪は銀色ににぶく光っている。驚きに見開かれた双眸は深い緑色。
 光月羽澄。こんな華やかで目立つ外見をした女子高生を、和馬はほかに知らなかった。



「なんでも好きなもん頼んでいいよ」
「なんでも、ね」
「おう、なんでも。なにしろ久々にちょっとした額のお金が入ってきて、懐が暖かいんでね」
 お勘定はどーんと任せなさいと、そう言わんばかりに和馬が力強く胸を叩いてみせる。
 羽澄はテーブルの向かい側からそれを一瞥し深くため息をついた。
「あれ? 食欲ないかい?」
「……いいえ」
「じゃあメニューの一番上から一番下まで全部とか頼んでみないか?」
「そんなに食べられるわけないでしょう……」
「美味いんだぜこの店」
 和馬は背後のカウンターを振り返りつつ、おばちゃーんとりあえず生中ふたつー、と大きな声で怒鳴った。あいよ生中ふたつーっ、と威勢のいい声が怒鳴り返してくる。
 飲み屋であった。もっと言えば、居酒屋であった。
 周囲にたむろしているのは、まだ夕方だというのに赤ら顔になっている近所のおじさんや、ちびちびとビールを傾けるサラリーマンばかり。カウンター席は、仕事帰りらしき肉体労働者の一団がずらりと陣取っている。
 言うまでもなく、制服姿の羽澄は思いきり浮いていた。
「藍原さん、私、未成年なんですけど」
「ああそうだっけ。でもいいじゃねえのちょっとぐらい」
「……藍原さんて、もてないでしょう?」
「なんで?」
「なんとなく」
 和馬が不思議そうに首をかしげるが説明する気にはとてもなれない。
「送ってくれるだけでいいって言ったのに」
「この間、あいつの刀を選んでくれたじゃないか。お礼に晩飯ぐらいおごらせてくれよ」
 未成年者の羽澄は、現在とある骨董品店で世話になっている。時間が空いているときは店番も任されていた。
 つい先日、和馬は友人の刀を買い求めるべく店を訪れ、羽澄は店にある在庫の中からどれを選ぶべきかで、和馬の相談に乗ったのである。
 羽澄にしてみれば店番をしている以上、客の相談にきちんと応じるのは当然のことなのだが、和馬という男はこれでなかなか義理堅い性格らしい。見かけによらず、などと言っては悪いだろうか。
「羽澄さん制服だし、ファミレスとかのほうがいいかなとは思ったんだけどさ、駄目なんだよな、俺ファミレスって。安い油の匂いはするし肉も固いし酒は薬臭いし」
「…………」
 どうやら和馬の中で、夕飯と酒は分かちがたく結びついているものらしい。
「あいよ、生中お待ちッ」
 ごとんっ。
 エプロンをひっかけたおばさんが、乱暴な手つきでテーブルの上にジョッキを置いた。ただし、ひとつ。注文したもうひとつのジョッキのかわりに、羽澄の前に一本のガラス瓶を立てる。オレンジジュースだ。
「あの、これ」
「和馬ちゃん、だめじゃない未成年にお酒飲ましちゃ」
「あ、そうか。ごめんおばちゃん」
 考えてみれば女子高生に飲酒させたとあっては、店にも迷惑がかかるのだ。ようやく思い当たって和馬は頭をかく。まったくもうと溜息をついて、おばさんは羽澄に向き直った。
「悪いねえ、うち、女の子が飲むようなものって、それぐらいしかないのよ。あとはお酒ばっかで」
「あ、いいえ」
「今日のつきだしは塩辛。これはサービスだから。うるさいところだけど、ゆっくりしてってよ」
 おばちゃーん! とカウンターから呼ぶ声がした。エプロンで汗をふきふき忙しくそちらへ向かう後ろ姿を見送って、羽澄はオレンジジュースに口をつける。
「いい店だろ?」
「そうかもね」
 澄まして答えると、和馬はおかしそうに笑ってジョッキを傾けた。



 たかがビール数杯でそれほど酔ったわけでもないのだが、それでも酒が入ればおのずと口は軽くなる。
「ところでさ、羽澄さんは彼氏いるんだろ?」
 だから時にはこういう不用意な発言もしてしまえるわけだ。
 何杯めかのビールを飲み干した和馬の言葉に、羽澄はびくりと箸を止めた。
「ど……どうして?」
「指輪」
 しりとり遊びの答えのように、あっさりと答える。白魚のような羽澄の左手、その小指には品のいいデザインのピンキーリングが嵌まっている。
「制服のときも着けてるくらいだから、よっぽど大事なもんなんだなと思って。店に行ったときもしてただろそれ」
「……目ざといのね」
「な、相手はどういう奴?」
「ノーコメント」
「俺の知ってる男? 名前の最初の字は? ヒントないの?」
「ヒントはなし。賞品もなし。藍原さんこそ、どうなのよ?」
「俺? 俺のことは君がさっき言っただろ」
 俺はもてないの、と冗談めかして答えて、和馬は魚の骨せんべいをぱりぱりとつまむ。
 居酒屋にありがちな安い油の匂いはしない。この店の板前は料理ひとすじの一徹者で、客の居る店内にはほとんど顔を見せないともっぱらの評判だった。デートに向いた洒落た店ももちろん悪くはないが、和馬は嗅覚が冴えているから、当然舌も肥えている。好みに合う店を探すのはなかなか難しい。
「この間の刀、喜んでくれたんでしょう?」
「あ? ああ。あ? ちょっと待って、何か誤解してないか?」
「誤解?」
「別に俺はだな、あ、あいつとはなんでも」
 思わぬ反撃を受けたせいで舌がもつれる。いや酒のせいだ、酒の。前言撤回、ビールといえども酒は酒だ。飲めば酔っ払う。自明の理だ。当然の帰結だ。俺は決して動揺しているわけではない。ないはずだ。
「どんな人?」
「どんなって……羽澄さんは知ってるだろあいつのこと」
「藍原さんから見て、どんな人かってこと」
 しまった、やぶへびだ、と和馬は思う。女はこの手の話が好きなのだ。それも他人の恋愛話が大好物なのだ。日本人離れした冴えた美貌を持つ羽澄にしても、その法則はあてはまるらしい。ちょっとからかってやろうと水を向けたのがそもそもの間違いだった。
 なにがしかの答えを見せなければ納得するまい。
「そうだなあ」
 不承不承ではあるが、口の中の食べ物を飲み下し目を閉じて彼女のことを思い出す。

 ……めったに見せない笑顔とか、鍛えているわりには細い腕とか。
 まっすぐな眉、つやのある黒髪、変わった色の双眸。白磁の肌。けれどもそれは視覚的な情報に過ぎない。眼球というレンズのうつしだすまぼろし、いつかは記憶の奥に押し込まれ消えてなくなる不確かな幻想に過ぎない。絶世の美女が老婆におとろえるさまを何度も見てきた和馬はそれを知っている。
 彼女のことを考えるとき。
 喚起される記憶は視覚のそれではない。
 甘さはない。けれども不快ではない。言葉で表現するのはとてもむずかしい、石鹸の匂いと混じりあったあえかな匂い。とてもかすかなそれは、普通の人間には感じることすらかなわないだろう。常人離れした嗅覚は、俺だけが彼女を知っているとそう錯覚すらさせる。十億百億といる人間の中で、ひとりとして同じにおいの人間はいない。
 彼女のことを思い出すときに、真っ先に考えることなど決まっている。
 ――それは彼女だけが身にまとう淡い香り。

「……いい匂い」
「え?」
「いい匂いのする女だなあと思ってる」
 思ったままを口にしてみると、なぜだか羽澄は顔を赤くした。
「何? 顔が赤いぜ」」
「えっ、あ。そうなの」
「そうなのって何が?」
「だからなんでもないの。お酒、そう、お酒の匂いがするから、それで少し酔ったのかしら?」
 わけのわからない言い訳に、和馬は首をかしげた。和馬は慣れているからあまり感じないが、確かに酒に不慣れな女子高生にはこの場の匂いは少々ヘビーだったのかもしれない。こういう店にはしばしば酒豪ばかりが集まるから、客が頼むのは焼酎だの日本酒だの度数の強い酒ばかりである。
「そうかい? やっぱり飲み屋はまずかったかな」
「ううん、焼き鳥とか塩辛とか、いろいろおいしかったし」
「それならいいんだが……女子高生をあんまり酒臭くして帰すのもまずいよな。そろそろ出ようか」
 伝票をとって、おばちゃーん、お勘定と店の奥に怒鳴ると、ばたばたとあわただしくおばちゃんがレジまで駆けてきた。財布を取り出しながら席を立つとき、羽澄のこっそり呟く声が聞こえてきてますます首をかしげる。
「……すごいノロケ。負けるわ」

 酔いの勢いのまま口にした和馬の言葉を、羽澄がはたしてどう捉えたのか。
 そのことに彼が思い当たるのは、酔いが醒めた次の日の翌朝の出来事になる。
 恋愛話の好きな女子高生があの言葉をどう解釈したのかを考えて、和馬はその日一日、布団の中で恥ずかしさにのたうち回って過ごしたという。