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■軒下の客
「あぁ、降ってきやしたねぇ……」
潰れた商店が軒を連ねる寂れた裏通りの一角で、宵幻堂の看板に明かりが灯る。
間もなく日付が変わろうかというこの時刻、昼間ですら人通りの少ない通りを、ただ降りきしる雨だけが街灯の光を滲ませ、音も無く世界を洗い流していく。
梅雨の時期特有の底冷えする夜気を吸い込んで、宵幻堂の主である黒葉・闇壱(くろば・やみいち)はいつもの様に店を開けた。
宵幻堂に決まった営業時間は無い。気紛れな店主を持つこの店は、近所に住む者ですらまともな時間に開いているのを見た事がないと噂されている。
年代物の時計の振り子が時を刻む店内に、闇壱以外の人影は無い。
帳簿に目を通していた男が、ふと顔をあげた。いつからそこに居たのだろうか、通りに面した硝子の向こう側に、着物姿の女が立っている。薄汚れた硝子越しに、女の纏った着物の古風な柄が闇壱の目を引いた。
年の頃は二十歳過ぎといったところか。腰の下まで伸びた黒髪を背中で束ねた女は、じっと空を見上げている。帳簿を閉じた彼が軒下に顔を出した時にも、それは変わらなかった。
「どうなさったんでやんすか?」
声を掛けられて初めて、女は相手に気付いたようであった。
「家に帰れなくなってしまったんです……この雨で」
鈴の鳴るような声音で答え、女は寂しげな笑みを浮かべた。
「それは困りやしたねぇ」
隣に立った闇壱もまた、女と共に夜空を見上げる。天気予報によれば、雨は明日の昼頃まで続く筈であった。
「此方へは、どんなご用件で?」
「人を探しに。ですが、会えませんでした」
「そうでやんすか……でもまぁ、仕方ありやせんよ。この辺も大分様変わりしやしたからねぇ」
「えぇ……私が知っていたこの辺りは、もっと緑が多かったのですけれど」
それっきり、会話は途絶えた。
初対面ではあったが、闇壱は彼女を知っていた。そして、探し人が既にこの世には無い事も。
あの薬を飲んでさえいれば、再び会うことも叶ったであろうに。そう思いはしたが、口には出さなかった。
音も無く、空から雨が降りしきる。
女の帰宅を阻むかのように――或いは、女の代わりに泣いているのだとでもいうように。
「止みそうにありやせんねぇ」
「そうですね……」
軒下に立つ女の髪は、濡れてはいなかった。雨の中、傘も持たずにここまで来た女。白い端正な横顔に深い憂いを湛え、じっと空を見上げる女。
微動だにせぬその姿を暫し眺めやり、闇壱はひとつ息を吐いた。
「今日は大サービスでやんす」
左手で女の華奢な手を取り、右手で宙に線を描く。
指先がなぞった虚空には白い線が浮き上がり、そのまま消える事無く留まっていた。切り取られた空間を、闇壱の手が押し開く。
「まぁ……」
片手を男に預けたまま、女は嬉しそうに微笑んだ。
足元に広がるは何処までも続く雲の海。見上げれば、夜空を埋め尽くす星の群れ。そして、下界では見ることの出来なかった鮮やかな満月。
「さぁ、お迎えも来たでやんすよ」
雲海の向こうに幾つかの人影を認め、闇壱はそっと女を送り出す。
礼を述べて立ち去る女は、かすかな香の匂いだけを残し、男の視界から姿を消した。
数日後、闇壱は店の中で小さな箱を弄んでいた。漆塗りの雅な小箱には、古風な月の柄が描かれている。
「不老不死の妙薬でやんすか。あちきに必要な品とは言えやせんが、お礼として受け取っておくでやんすよ。お姫様」
苦笑を浮かべた男は、幾つも並んだ引き出しのひとつに小箱を仕舞い込み、そう呟いた。
今夜もまた、宵幻堂の看板に明かりが灯る。
薄い雲のかかった夜空には、少しだけ欠けた月が静かに浮かんでいた。
・Fin・
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