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<東京怪談ノベル(シングル)>


ミッドナイト・シャッフル

 月。冷たい月。
 硬いアスファルトの感触。
 足音。
 夜の街。
 人の体温。ざわめき。大勢の人間。
 硬いアスファルトの感触。
 影。
 冷たい月。
 影の中から、彼を見つめる眼――。

 それから何日経ったのか、紅牙はよく覚えていない。
 組織とは連絡を断って、住処には戻らなかった。
 追っ手がかかっているのかいないのか、少なくとも、今に至るまでそれらしい気配はなかった。組織は、いかに優秀な手駒だったとはいえ、たかがひとりの構成員のために、追跡の人員を割いてはいられないのかもしれない。
 行くあてがあるわけではなかった。
 紅牙に、この東京で――いや、どこであれ――個人的な知り合いなどいない。
 いくばくか、金は持っていたから、宿をとることはできたが、それはせずに、公園のベンチや、廃墟の中などで眠った。それもべつに、追跡をおそれたわけではなく、ただ……そうするのがふさわしいような、そうすべきであるような気が、したからだった。
 彼はある理由から、眠るのは昼間にして、夜は歩き続けていた。
 昼間、人目のあるところで地べたに寝転がっていると、うろんな視線や、押し殺した囁きが、紅牙の傍を通り過ぎていった。まだ衣服もそれほど汚れているわけではなかったが、それだけに、紅牙のような青年が、路上生活をしていることに眉をひそめる人々が多かった。……しかし、だからといって、彼に声をかけてきたものなど一人もおりはしないのだ。
 公園や地下街の一画などには、年季の入ったホームレスたちの姿が見られたが、かれらから見ても、紅牙はやはり異分子で、かれらが接触してくることもなかった。紅牙は、都市に存在する見えない狭間にすっぽりと、たったひとりで落ち込んでしまったようなものだった。とはいえ、それはそれで、紅牙には何の痛痒でもなかった。
 夕暮れ刻――。
 植え込みの茂みの中からのそりと起き出した紅牙は、公園の水道で顔を洗うと、駅前の売店で牛乳とパンを買って、わびしい食事を独りで摂った。
 そして、おもむろに、夜の街へと足を向けるのだ。
 彼が組織を離れて何日経ったのか、よくわからない。
 たが、それ以来、昼は棺桶で眠り、夜な夜な徘徊する吸血鬼のごとくに、紅牙は昼夜逆転の生活で、街をさまよい歩いていたのである。

 夜の東京――
 それは、ある種の蟲惑をひめた言葉である。
 この世のあらゆる娯楽と享楽を集めて築いたかのような街は、何時になっても、人々のあやしい喧騒に充たされ、みだらに息づいているのだった。
 紅牙も、人々の流れの中にいる。
 しかし、それはただ、物理的にそこにいる、というだけのことでしかなかった。
 酒に火照った肌で夜風の涼しさを楽しむでもなければ、あやしい誘惑の光を灯してさしまねくネオンに気持ちを奪われることも、腕を組んだ誰かの体温を感じることもなく、紅牙はただあてどなく歩いているだけだったのだから。
 そして、もし……鋭敏な感覚を持つものが彼を観察していたとしたら――、その危険な兆しに気がついたであろう。だが、歓楽街をそぞろ歩く群集は、ソドムとゴモラの衆愚よろしく、ただ不夜城の喧騒に酔っているばかりなのだ。
 だからかれらは気づかない、危険な兆しとは、群集を縫って歩く紅牙の肩や袖が、行き交う人々とふれあったときに生じた。ネオンが足元につくる紅牙の影が……そのたびごとに、どくん、と、不自然に歪み、膨れ上がるのである。
 あたかも影だけが――別の生き物ででもあるかのようだった。
 いや……、それは比喩でもなんでもなかった。
 紅牙の影とは、影の形をした獣に他ならない。なればこそ、見よ――、影の中から獰猛そうな一対の眼がのぞき、周囲を見回しているではないか。
 紅牙はそれに気づいているのかいないのか、表面的には頓着せぬような顔で、ただ、熱にうかされたような目で、夢遊病者のように歩いている。
 その紅い瞳が、人々の顔から顔へ、視線を移らせてゆく。
(何処だ)
 紅牙と間近ですれ違ったものは、あるいはその、小さな呟きを耳にしたかもしれぬ。
(何処にいる)
 そう――
 紅牙は捜しているのである。
 明るい月の下で出会ったある男を追って、東京の夜を、彼は徘徊しているのだ。
 必ずどこかで出会えるはずだ、という奇妙な確信が紅牙にはあった。
 そして、会えるとすればそれは、こんな月が明るい晩のことに違いない――。
 そのときだった。
 視界の端で、黒いスーツをみとめたように思った。反射的に脳裏に浮かぶ、にやついた男の顔と、からかうような声音。
 はじかれたように顔を上げ、紅牙は駆け出す。
 急に動きだした彼の肩に、何人かの酔客が突き飛ばされる格好になった。人ごみをかきわけ、押し退けて、紅牙は……
「おい、てめぇ」
 誰かの手が、紅牙の肩を掴んだ。
「ひとにぶつかっといて、挨拶もなしか。え?」
 人相の悪い男たちが数人、紅牙をとりまいている。
「うるさい!」
 紅牙は男の手をふりはらって、走り出した。
 この態度は、たちまち、男たちを色めきたたせる。
「待ちやがれ!」
 怒号。東京の夜をうろつく好戦的な獣は、紅牙だけではないようだった。

 それでも、路地裏にひきずりこまれるまでは、紅牙が反撃らしい反撃をしなかったのは、紅牙なりの分別というものだった。
 男たちは5人。いかにも場馴れした様子で、これでは普通、たった一人の青年におくれをとるとは思うまい。それが、男たちの余裕のある表情にあらわれていた。嗜虐の歪んだ期待に、かれらの目が輝く。
 面倒だが、やむを得ない――
 紅牙の手の中に、小さく巻取られた鋼糸があった。それがいかに危険な武器か、そして、自分たちが相対しているこの青年が、どれほどの修羅場で鍛えられてきているかを男たちは知らないのだ。
 だが。
 紅牙もまた、忘れていたことがあった。
 面倒ごとにまきこまれて舌打ちする紅牙以上に、苛立っている存在が、自分のすぐ足の下にいたことに。
 男たちの下卑た笑いが、どこかで、黒いスーツの男の、にやにや笑いに重なった――と、ほんの一瞬、紅牙が思ったその刹那だ。
 影が、あふれた。
 それは、まさしく地獄の闇の逆流であり、奈落の叛乱であった。
 組織から暗殺対象として殺すことを命じられた男に、紅牙は負けた。そしてそのとき、紅牙のみならず、彼の影に棲む獣もまた、男をしとめることがかなわなかったのだ。その体験は、紅牙をして、組織を出奔させ無軌道な彷徨へと駆り立てしめ……そして、影の獣の中にも、もはや抑制できぬほどの狂気じみた憤りを残したのだった。
 地獄絵図――、そんなことを、紅牙が思ったかどうかはわからない。
 悲鳴と、耳を覆いたくなるような音は、都会の喧噪にまぎれ、夜の空気に溶けていった。
 後になって、この事件が報道されたとき、多くのひとびとは、野放しになった野獣の存在を思った。ある意味で、それは正しかったのだが……。
 路地の壁に、おびただしい血が飛び散り、ちぎれ飛んだ肉片のようなものさえ、貼付いた。この世のものならぬ牙と爪は、衣服といわず皮膚といわずを引き裂き、骨を砕き、内臓をひきずりだした。
 紅牙は、ただそこに立ち尽くしている。
 彼自身も、鋼糸をふるって何人もの人間の五体をバラバラにして屠ってきた過去を持つ。暴虐に恐怖したわけではない。ただ――、彼は痺れたような頭でぼんやりと考えていたのだ。
(そうだ……こいつは獣だ)
 自身の影の中にひそむ相棒。
 人間の身体が、壊れた人形のようにさいなまれてゆくのを見ながら、奇妙に冷めた瞳で、紅牙は思う。
(俺にも御し切れない獣だ)
(しかし、こいつは俺だ)
(俺自身があやつれない、俺の中の獣の部分だ――)
 いちどだけ、この獣を退けた男のことを、紅牙は思った。
 あれもまた、獣の力だ。
 月の光に、男の牙をたしかに見たのだ。
(あの男も獣だ)
(だが)
(獣の力にひきずられていない)
 紅牙の血の色の瞳が、いっそう熱っぽく、小昏い光をおびた。

 月がゆっくりと傾いてゆき、眠らない街からも、すこしずつ人足が退いてゆく頃合になっても、紅牙が歩みを止めることはなかった。
 やがて、東の空が漆黒から藍色へ、そして暁の菫色へと変わってゆく時刻になってはじめて、彼はのろのろと、ひとときのやすらぎに身をまかせられる都市の片隅の闇を見い出し、そこにもぐりこむのである。
 一晩中歩きづめの身体はたやすく、まどろみへと紅牙を誘った。
 朝方の月にならうように薄れてゆく意識の中で、獣の唸り声を、彼は聞いたような気がした。

(了)