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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


Contentment + Dissipation


【chapter:0】

 今年は空梅雨なのだろうか?
 昨日も雨らしい雨は降らなかった。
 明日もそんなに降らないという。
 そして今日も、少し雲は出ているが、そこから大量の雨粒が落ちてきそうな気配はなかった。
 しかし、気温は、最高気温が約三〇度。
 このまま夏に突入してしまうのではなかろうかと思えるほど、暑い。
 まあ、もっとも、このゲームセンター「Az」内にいる限り、そんな外気温など構う必要もないのだが。
 それにしても、だ。
 ちらと右の視界だけで、カウンターの上に置かれたキャラクターものの卓上カレンダーを見やると、左目に鋲の打たれた黒い眼帯をし黒いスーツを纏ったAzの店長は、ふっと溜息をついた。
 そこには、赤い丸印が書きつけられている日がある。
 梅雨の中休み頃に合わせて行われる祭がある日だ。
 鬱陶しい梅雨時の気分を発散させるのが目的なのか何なのかは分からない。それどころか、何に由来した祭なのかも知らない。近くに神社があるのかといえば別にそうでもない。なら、何のための祭か?
 ……いや。
 そんな事はどうでもいいのだ。本当にどうでもいい。
 それよりも、祭といえば。
「やっぱり、アレだねぇ。今年もやらなきゃだな」
 ぽつりと呟いてから、その唇を歪めてニヤリと笑うと、店長はカウンターの上に卓上カレンダーと共に並べて置いてある太めの筆ペンを手に取り、さらさらと紙になにやら書きつけていく。
 そしてふと手を止めて、目を上げた。
「あー。たまにはバイト生たちにも休暇くらいはくれてやるか。あいつらも祭なら行きたいだろうし。何なら浴衣くらいなら提供してやってもいいな……」
 言ってから、あ、と声を漏らし。
「さすがに私一人では手が足りんから黒には残ってもらう事にして、と」
 呟きに、モップを引きずって傍を通りがかった黒いゴシックスタイルの、通称「黒のバイト生」が一瞬嫌そうな顔をしたが、店長には見えなかった。

 翌日。
 店内の壁に、豪快な文字が綴られた一枚の紙が貼り付けられていた。

                *

■毎年恒例行事――店長の欲しい物を当てろ!■

 六月三〇日に行われる祭にて、店主が望む物を入手して店に持ってきた者には、以下の景品の内、望む物を贈呈する。
 ちなみに、欲しいものが被った時には早い者勝ちとする。
 ハズれた場合は残念賞進呈。特別賞は、正解以外の物でも店主が気に召せば、進呈。

1:当店で、どのゲームでも一週間無料で遊び放題。
2:兵庫県城崎温泉への一泊二日ペア宿泊券(近くの水族館入園無料チケット付。但し交通費は自前)。
3:薔薇五〇本の花束。
4:サマージャンボ宝くじ連番十組(発売後贈呈)。
5:DVDプレーヤー。
残念賞:図書券五百円分。
特別賞:人形師、霧嶋聡里製作『白惺(はくせい)シリーズ』の一つ、銀のお下げ髪に緑の瞳の『萌葱』(女/白浴衣着用)。

 なお、店長からのヒントキーワードは「彩」「透」「涼」。
 品物は一品のみ、持ち帰ること。一品以上だと失格とみなす。
 祭の出店は以下の通りである。

食べ物>りんごあめ、飴細工、べっこう飴、かき氷、たこ焼き、お好み焼き、たい焼き、大判焼き(カスタード・あん・チョコ)、焼きそば、クレープ、焼き鳥、いか焼き、フランクフルト、フライドポテト、わたあめ、焼きとうもろこし、五平餅、鈴カステラ
遊び・その他>金魚すくい、水ヨーヨーすくい、スーパーボールすくい、お面、花火、くじ、射的、輪投げ、風鈴、サイリューム(ブレスレット型)、盆栽、風船、子供用おもちゃ

                *

「さあ、参加者がいるといいけどねえ」
 紙の前で立ち止まっている者を見やって、店主が笑みを浮かべて呟いた。


【chapter:1】

 確か、今日はこの近くで何かの祭があったはず。
 そんな事を思いながら、シュライン・エマは近くに立ち寄ったついでに、ゲームセンターAzに足を運んでいた。
 梅雨時の生温い空気が、開いた自動ドアの向こうから流れてきたよく冷えた空気に押されて、シュラインの体から離れていく。
 一歩踏み出すと、からん、と足許で軽やかな音が一つ、鳴る。
 今日はいつもの「仕事が出来る女性」という格好ではなく、藍色に水色と紫のグラデーションで描かれた蝶が舞う、しっとりとした浴衣姿だった。髪も、いつもは襟足で一つにまとめてバレッタで止めているだけだが、今日は少し高い位置で纏め、毛先を少し逆立ててふわふわとしたボリュームを出し、ピンでバランスよく留めている。襟足の髪をほんの一筋だけ残し、横から前にするりと零しているのが少し、艶っぽい。
 ここに来るまでに既に何人もの浴衣の女性とすれ違っているため、祭の日が今日だったのはどうやら間違いないようである。店内にも、ちらほらと浴衣姿の者がいる。
 さて、とシュラインは少し人の多い店内を見渡した。今日は此処へ、別に用もなく来た訳ではなく……まして遊びに来たわけでもなく。
 先日の礼を言いに来たのだ。
 もう二度と聞くことはできないだろうと思っていた者の言葉を聞かせてくれた、二人に――。
「あ」
 シュラインの求める姿は、すぐに見つかった。店の奥のほうに居ても目立つ、その姿。
 銀の髪を持つ白い燕尾服の少年と、彼の傍らにある椅子にちょこんと座った、同じく銀の髪を持つ白いストレートスタイルのドレスを纏った少女。
「琥珀くん、瑪瑙ちゃん」
 軽やかな下駄の音を鳴らしながら二人へと歩み寄ると、シュラインは微笑んでぺこりと頭を下げた。
「この間はどうもありがと、ね。嬉しかったわ」
 その言葉に、琥珀が数度瞬きをしてから小さく頷く。
「喜んでいただけたのならよかったです」
 瑪瑙も、その言葉に同意を示すように頷き、双眸を閉ざしたままの顔を上げて、にこと微笑んだ。
「泣かれていたので、よかったのだろうかと瑪瑙も心配していました。悲しい思いをさせてしまったのではないかと」
「そう……心配させてごめんなさいね。でも、人は嬉しくても泣けるものだから」
 自分があの時泣いたのは、嬉しかったからだ。
 ――失ってしまった、ある一人の少年の魂に触れ、彼がこの世に居ないのだという事を痛感したからではない。
 嬉しかったから。
 話を出来たことが。声を聞けたことが。
「ありがとう、本当に。ずっと言いたかったの」
 言って、穏やかに目許に笑みを浮かべた――その視界の端に。
 何やら、派手派手しい文字が映り込んだ。
「あら?」
 何かしら、とそちらを見やる。 
 それは、一枚の貼り紙だった。よくよく見ると、今日の祭に合わせてゲームをするという告知が書きつけられている。
 暫しそれをじっと見つめ、シュラインは口許に手を当てた。
「ふぅん……面白そうかも」
 どうせ祭には行く気だったのだ。なら、物のついで。コレに乗って楽しんでみるのもまた一興だ。
 ただ問題なのは。
「貰える景品、微妙に妙で素敵よねー……」
 ぽつりと呟いたその声に、琥珀がふと首を傾げた。それに気づき、何かしらと思ったその時。
「微妙に妙? 失礼な。素敵な物ばかりだと言ってくれないかお嬢さん」
 背後から耳許で低く囁かれ、驚いてシュラインは俊敏な動きで振り返った。
 と、そこには黒いスーツを纏い、左眼に鋲の打ち込まれた眼帯をした、黒髪の女性が立っていた。誰だろうと思うシュラインの心が読めた訳ではないだろうが、すぐ傍に居た琥珀がすっと手を持ち上げてその人物を示した。
「当店の店長です」
「え?」
 ということは、彼女がこのゲームの仕掛け人か。
 ちらともう一度貼り紙に視線をやってから、シュラインは指先でそれを指した。
「このゲーム、誰が参加してもいいのかしら?」
「ん? ああ、構わんよ。何だ、お嬢さんも参加してくれるのかな?」
「景品微妙だけど、こんなふうに書かれてたらあなたが欲しがってる物気になっちゃうし。んー……でも温泉はペアだしなぁ……魅力的なのは図書券だから、まあ、ハズれてもいいかーくらいの軽ーい気持ちでの参加も許可されるのなら?」
「それはお好きなように。ハズれ狙いも悪くないよ。ハズレ狙いでもお得だろうしね」
 そうである。
 露店で売っている物など、大体五百円以下のものだ。としたら、ハズれ商品と五百円の図書券の交換は、店長にとってはちょっと割に合わないのではないか?
 それを問うと、彼女はニヤと笑った。
「ゲーセンは、ゲームを楽しむところなんだ。金を払ってね。……だからまあ、いつも払って貰ってばかりのお客人たちにゲームで多少その利益を還元してもバチは当たらんだろう?」
 返す料金は本当に多少だとしても――まあ、悪くはない企画だ。
「いいわ、私も参加する。あ、持ち帰りの品、あなたへの……というかこのゲームの回答以外なら複数になってもいい?」
「ん? ああ、お嬢さんが自分の土産として買ってくる物なら別に私は文句つけないよ?」
 露わになっている片眉を上げて言う店長に、シュラインは琥珀と瑪瑙、そして人波の向こうでゲームの筐体を拭き掃除している黒のバイト生を見やった。
「お留守番さんたちにね。お土産持って帰って来てあげたいと思って」
「おやおや。優しいお嬢さんだ。いいよ、そういうことなら」
「よかった。じゃあ……あ、そうだ」
 さっそく祭へ繰り出そうとして、ふとシュラインは二階フロアへ続く階段を見やった。
「……いるかしら、あの人」


 浴衣の裾を気にしながら階段を上がりきると、シュラインはフロアをぐるりと見渡した。
 そして、見つけた背中に歩み寄り。
 ぽん、と軽く叩いた。
「つーるぎさんっ」
「わっ!」
 びくりと肩を震わせて振り返ったのは、鶴来那王だった。今日は黒いスーツでもなく白い式服でもなく、オフホワイトの楊柳風の生地に、薄茶色の刺し子の線が模様として入った浴衣を纏っている。
 那王はそこにいるシュラインの姿に何度か眼を瞬かせると、ふっと肩の力を抜いて笑みを零した。
「こんにちは、シュラインさん。今日はとてもお綺麗ですね」
「あら、鶴来さんでもそういう事が言えるのね」
「綺麗な女性に対して綺麗というのはごく普通の事ですよ」
「じゃあその女性に、一緒にお祭に行かない? とか誘われてみる気はあるかしら?」
「え?」
 はたと瞬きすると、那王はまた穏やかに笑った。
「いいですよ。俺も行こうかなとは思っていたので。あ、でもシュラインさん、草間と一緒では……」
「一人よ一人。だから誘ってるんでしょ。ほら、林檎飴とか飴細工とか、お面とか。いろいろ鶴来さんが好きそうなものあるし」
「林檎飴……お面……。いいですね、行きます行きます。お伴させてください」
 ノリよく返事する那王にくすりと笑うと、シュラインはすっと二階の壁にも貼られている紙を指差した。
「でね。アレ、参加しようと思うんだけど」
「え? あー……ここの店長も物好きですよねー……。で、何を買って帰ってくるおつもりですか?」
 苦笑を浮かべてから、ゆっくりと階段に向かって歩き出す那王の後にからんころんと下駄を鳴らしてついて行きつつ、そうねえ、と首を傾げる。
「風鈴かなぁとか思ったんだけど。まあ私は金魚を持って帰ってこようかな、とか思うの」
「金魚?」
「ま、違ってれば持って帰って私が飼うか、事務所で飼ってもいいし」
 赤いひらひらした姿は、かわいらしい。見ているだけで癒される気がする。
 とりあえず、答えがハズれていても商品にこれと言って欲しいものもなく拘りもないのだから何の問題もない。
「ま、楽しめればいいのよね、せっかくのお祭なんだから」 
 ね? と同意を求めるように言うと、そうですね、と那王も笑って頷いた。


【chapter:2】

 そういえば、とシュラインが立ち並ぶ露店を見やりながら首を傾げた。
「あの貼り紙に書かれてた露店一覧に『盆栽』ってあったけど、一体何かしら」
 ごく自然に一覧の中に紛れ込んでいたが、見逃すシュラインではない。
「普通、盆栽なんて露店では出さないわよねえ?」
 怪訝そうに言うシュラインに、那王が人波の向こうを指差した。
「どうやら、盆栽の展示と販売をしているみたいですね」
 指先が示す場所を追うように視線をやると、そこではご老人たちが集まり、やれ見事な枝ぶりだだのいやいやこっちの松の方が見事だ、などと言いあっていた。
「……まだ俺たちが混ざるには少し早いみたいですね、年齢的に」
「そうね。というか鶴来さん。いくら同じ歳だからって私に歳の話はしないでくれる?」
「ああ、結婚適齢期とか、そういう心配があるからですか?」
「……なんでそうなるのかしら」
「それでその後どうなんですか草間とは」
「どうもこうも」
 眉を寄せて那王の顔を見てから、はあと深く溜息をつき、シュラインは眉間の辺りに指の先を当てた。
「……ねえ。どう見える?」
「え? どう、とは?」
「武彦さんの事。……そろそろ当たって砕けてみるべきかしらって……」
 やや深刻な顔付きで呟くように言うシュラインを暫し眺めてから、くすりと那王は口許に手を当てて笑った。
 真剣に考え込んでいる彼女の様がえらく可愛く見えたのだ。そうなると、なんだかこう、応援してあげたくなってくるのは親しい友人ゆえに、だろうか。
「まあほら、草間もアレで一応探偵な訳ですから。気づいていないなんて事は多分ないとは思いますけど。多分……ええ、多分」
「なんでそんなに『多分』を強調するのかしら」
 ジト目で見つめられ、那王は苦笑する。
「何と言っても草間だから。能天気そうに見えて実は一番得体が知れないのはあいつなんじゃないかと思うので」
「例えばどの辺、得体が知れないのかしら?」
「それはほら、やっぱり……」
 シュラインの顔を見ると、那王は真顔で言った。
「あれだけ怪奇依頼が入っているのに一向に儲かっている気配がない辺りが」
 ――確かに。
 ここ数年、怪奇探偵と異名を取るようになってからというもの、かなりの数の案件処理をして来、中にはかなりの高額報酬だって幾つも幾つもあったのに。
「……本当にね……一体何で毎月ピンチなのかしらね……」
 事務を預かるシュラインとしては思わず遠い目をしたくなってしまう。祭りの賑やかな雰囲気が、シュラインの周囲から離れ、代わりにドヨンと暗い空気が彼女の周りに漂い始めたのを見て、慌てて那王はパッパッと手でそれを払った。……別に目に見えるものではないが、陰陽師ゆえ(?)ほの暗い気配でも察したのだろう。
「あああ……ほらほら、折角のお祭りなんですし。まだ店長さんへのお土産も買っていませんしっ。元気出して、ファイトッ」
 ぐっと握りこぶしを固めて言う那王に、シュラインもつられるように握りこぶしを固める。
「そうよね、ファイトっ。さあ金魚捕るわよー! 鶴来さんそっくりの可愛い出目金さんたち、待ってなさいよー!」
 握りこぶしを掲げるシュラインのその台詞に、那王はがくりと頭を傾がせる。
「どうして出目金と俺が似てるなんて言うんですか……」
「ひらひらしてて可愛いでしょ? ほら、鶴来さんも浴衣ひらひら可愛いわねー」
「……そんな棒読みで言われても嬉しくない……」
「はいはい行くわよー」
 ぼやく那王の腕を引きずるようにして、シュラインは、店長への土産入手のために金魚すくいの店の前へと足を向けた。
 

【chapter:3】

 金魚すくいの店と一口に言っても、この祭に出店している店は、一件きりではない。
 つい先程金魚すくいの店を通過したと思ったら、また少し歩いた場所に、同じような店が出ている。
 ……まあ、あまりどこの店に寄っても大差はないのだが。
 そんな、いくつかある内の一つの金魚すくい屋の前に、黒髪を綺麗に纏め上げて藍色の浴衣に身を包んだ切れ長の青い眼を持つ端麗な美女と、オフホワイトの浴衣を着た黒髪の青年が肩を並べて立っていた。
 言わずもがな、シュラインと那王である。
「……鶴来さん。勝負する?」
「ええ、望む所だ! ……と言いたいのですが」
 微かに笑って、那王はシュラインの肩に両手を乗せて、水が張られた青いプラスチック樹脂製の四角いプールの前にしゃがませた。そして店番をしているオヤジに料金を支払い、ポイと容器を貰うと、それをシュラインに差し出した。
「こういうもの、あまりやったことがないので見ているだけでいいです。勝負して負けるの悔しいですし」
「あら。やったことないなら尚更やってみたらいいのに」
「いえ。ぜひともシュラインさんのお手並みを拝見したいので」
 隣にしゃがみ込んで「ファイトです」などと言って両手をぐっと握り拳にする那王に、しょうがないわね、と袖が水につかないように捲り上げる。
「そこで見てなさいよ」
「ええ、それはもう、シュラインさんの勇姿をこの眼にしっかと焼き付けます」
「鶴来さんの仲間を捕獲して悪いけどね。出目金メインで行かせていただくわ」
「……いえ、俺に遠慮せず思う存分心置きなくやっちゃってください」
 何やら力なく項垂れてしまった那王を見て、シュラインはくすっと小さく笑うと、さて、とその怜悧な双眸を水面へと向けた。そして手に持ったポイを、静かに斜めから水に入れて一度全体を濡らす。
「あれ? 全部濡らすんですか?」
 傍らで那王が眼を瞬かせた。それに、ニヤリと口許に笑みを浮かべてみせる。
「捕まえる時にね、一部分だけ濡らすとそこからすぐに破れちゃうのよ。だから最初に全部濡らしておくの」
 基本よ、と言うシュラインに、店のオヤジがちらりと視線を向ける。アンタもしやプロか? とでも言うような目つきだ。が、そちらに視線は返さず、シュラインは再び水の中をひらひらと泳ぐ金魚たちへと視線を落とす。
 狙うは、水面近くを泳ぐ金魚。
 す、とポイを斜めにして水につけ、水平に移動させる。そして上がってきたばかりの金魚を一匹、すいと頭からすくい上げた。が、しっぽがポイから出てしまっている。
「シュラインさん、ちゃんと乗せないと落ち……」
「しっぽは乗せないのがコツなのよ」
 言いながら、涼しい顔でポイッとすくった金魚をもう一方の手に持っていた容器の中に移動させる。
「しっぽを乗せると、跳ねた時にしっぽが当たってポイが破れちゃうかもしれないでしょ?」
「あー……なるほど」
 ふむふむと深く頷いて納得を示す那王に、シュラインは手に持っていたポイを差し出した。
「はい、じゃあやってみましょ」
「え? ……いえ、でもすぐ破いてしまうような気が……」
「いいわよ別に。とりあえず、一匹は確保できたんだから。出目金じゃないのが残念だから、ぜひ出目金を狙ってちょうだい」
「……知りませんよ、破っても」
 言いながら、那王はシュラインの手からポイを受け取り、真剣な顔付きで水面に向かう。そしてひらひらと上がってきた黒い出目金に向けてポイを沈めよう――とした所で。
「斜め四五度!」
「えっ」
 いきなり横からシュラインに言われ、ビクッと手が止まる。
「斜め四五度?」
「そう。水につける時の角度は斜め四五度。水から抜く時にも斜め四五度。金魚をすくう時には水を乗せないように気をつける。以上」
 すらすらと述べられるコツを暫し頭の中で整理するように少し視線を上げて動きを止めていた那王は、やがて、その手に持っていたポイをシュラインの手へと返した。
 それに、シュラインは不思議そうに瞬きする。
「何?」
「……いえ、破ったら殴られそうな勢いだと思ったので。俺はやっぱり大人しくシュラインさんの見事なお手並みを見るに留めようかと」
「……殴ったりしないわよ」
「……ほっぺた引っ張られそうな気が」
「……それくらいはするかもしれないわね」
「……やっぱりシュラインさん、張り切ってどうぞ」
 手振りまでつけて「どうぞ」と言われ、シュラインは僅かに眉を持ち上げると、「しょうがないわね」と呟きふっと息をついた。
 ……その間にも、青い瞳は水面に上がってこようとしている黒い出目金をしっかりと見据えていたのだが。


【chapter:4】

 金魚と出目金、計六匹がひらひらと泳ぐビニール袋を満足そうに見てから、手に持っていたかき氷にスプーンを突っ込んで。
「ところで、鶴来さん」
 シロップがたっぷりかかった部分を一口食べてその手を止めると、シュラインはちらりと、自分の隣で嬉しそうににこにこと子供のような笑みを浮かべながら鮮やかないちごのシロップがかかったかき氷を口に運んでいる那王を見やった。
「鶴来さんは、この空間の中でも味がわかるの?」
 シュラインの口の中。溶けていくかき氷の冷たさは分かるのに、味はしない。……霧嶋の能力の影響下にいるからだろう。
 なのに、鶴来は、どうやら味がわかっているようなのである。
 人形化の影響を受けていないようなのだが、どうしてだろうか?
 ――今、二人は人の少ない通りに出て、道端の縁石に並んで腰を掛けていた。
 シュラインの座っている所には一枚、白いハンカチが敷かれている。「せっかく綺麗な浴衣を着ているのに汚れたら勿体無い」と言って那王が、シュラインが座る前にはらりとその場に開いて敷いてくれたのである。
 腹黒だが、前からそういう細かい所では妙に気が利く人物ではあった。
 先の問いかけに、その腹黒男は少し首を傾げてから、ああ、とプラスチック製の安っぽいスプーンを顔の横で振ってみせる。
「『緋降』のせいだと思います」
「緋降……ああ、あれね」
 それは、那王が所持する真紅の刃を持つ日本刀の名だ。彼に降りかかる呪詛の全てを切り払うという、一種の呪具である。
 それは数ヶ月前、呪詛にかかって眠り続けていた彼を覚醒させた物だ。
 ……桜の守人の、その魂と引き換えに――。
「多分、この空間もそういう、呪詛や呪術に似た類のものなんでしょう。よくは分かりませんが、多分、緋降を所持しているために俺はその力の干渉を一切受けないのだと思います」
 言って、スプーンですくったかき氷をシュラインに掲げてみせる。
「美味しいですよ。あ、シュラインさんは今、味がしないんですっけ?」
 ……もしかしたら、シュラインが抱いた感傷に気づき、そこから気を逸らせる為に早々に話題を変えたのかもしれない。
 ふ、と笑ってシュラインは肩を竦めた。
「そうなのよ。だから食べてもちっとも美味しくないの」
「残念ですねえ。せっかくこーんなに美味しいのに。一緒に味を楽しめないのは淋しいなあ」
 などと言いながらも、少しも淋しくなどなさそうにパクパクとかき氷を口に運んでは、こめかみの辺りに響くキーンという硬質な痛みに楽しげに顔をしかめてみせる。
「……やっぱり性格悪いわね」
 むー、と唇を尖らせて半眼になりそのさまを眺める。そして、自分ももう一口だけかき氷を口に運ぶが、冷たさが口の中に広がるだけで、やはり味は一切しない。二口、三口、と食べ続けてもみるが、やはり味はしないし、しかも、キーンというあの痛みもやってこない。
「……つまんないわ。なんか鶴来さんだけ楽しんでるみたいでズルイっ!」
 伸ばした足を、浴衣が乱れない程度に小さくバタバタさせる。アスファルトの上に、下駄の底が当たってカラカラと軽快な音を立てる。
「ズールーイーっ」
「ズルイと言われても……あ、じゃあ後で大判焼き買いましょう。興信所に持ち帰ったら美味しく食べられるでしょうし、草間のお土産にもできるでしょう?」
 立ち並ぶ露店の方へ顔を向けて提案する那王のその言葉に、そういえば、とシュラインも露店の方へと目を向けた。
「お土産で思い出した。私、鈴カステラとか買って帰ろうと思ってたのよ」
「鈴カステラ? ああ、美味しいですよね、あれ。お好きなんですか?」
「ううん、自分の分じゃなくて。お留守番してる店長さんとか黒のバイト生くんとかの為にね」
 その言葉に、那王は穏やかに笑った。
「やっぱり優しいですね、シュラインさんは。じゃあ鈴カステラ、たくさん買って帰りましょうか。そしたら興信所に来る人たちにもおすそ分けできるでしょうし」
 ね? と言って、近くにあったゴミ箱に空になったかき氷の容器をぽいと左手で投げる。カコンと軽い音を立ててゴミ箱の中へ姿を消した容器に、シュラインは両方の眉を持ち上げて那王を見た。
「やるじゃない」
「これでも子供の頃はプロ野球の投手を目指していましたので」
「嘘ばっかり。あーもーなんでそんなに腹黒なのー」
「そんなに腹黒腹黒言わないでくださいよ、繊細なハートに傷が……」
「さぁさぁ、鈴カステラ買ってー……あ、お面とかも見に行く? 鶴来さん、好きでしょお面。あとはまあ食べ物で楽しまなくても射的とかくじとかもあるし。さぁさぁ行こー行こー」
 戯言を紡ぐ那王の言葉尻に被さるように大声で言いながら、隣に座っている彼の肩に手を置いて縁石から腰を上げる。そしてそこに敷かれていた那王のハンカチを取り、ひらひらと振って埃を払うと、綺麗に折って自分の手提げの中に入れた。
 気遣って、敷いてくれたもの。なら、それ相応の返礼はしなければ。
 別に、恩を売られたら困るし、とか考えた訳ではない。ごく自然なこととして。
「洗ってから返すわね。ありがと」
「……いえ、ハンカチはともかく、俺のハートの事は無視ですか」
「ハート?」
 眉を少し下げてしょんぼりと言う那王のその胸元をぽんと軽く拳で叩いてにっこり笑い、シュラインはその顔を間近で見た。
「腹黒い人の鋼鉄のハートにはそうそう簡単に傷なんてつかないもの。問題なし」
「……腹黒だけじゃなくて鋼鉄のハートって……」
 がくりと項垂れるが、どうせそれも芝居に決まっている。深刻に心配するだけバカらしいというものだ。
「さっ、行くわよっ!」
 手荒く那王の背中を叩くと、シュラインはまた人の波の中へと分け入って行った。それに、やれやれと肩を竦めて笑みを零すと、那王もまた、その姿を見失わないうちにと急いで後に続いた。


【chapter:5】

 シュラインの右手には、ひらひらと優美に泳ぐ赤い金魚と黒い出目金が入ったビニール袋。
 左手には大量の鈴カステラが入った黒ネコの絵が描かれた袋。
 那王の方は、右手には大判焼きとたい焼きがたっぷり入った袋。
 左手にはべっこうあめとりんごあめが数個入った袋と、欲しかったから、という理由で買った硝子製の風鈴。そしてそれとは別に、シュラインがくじで当てた全長二〇センチほどの巨大な猫のぬいぐるみと、射的で当てたかなり大き目の招き猫型貯金箱などが抱えられている。
 そして、二人の頭の上。
 シュラインには耳の辺りに赤いリボンをつけた白いネコのキャラクターのお面、那王にはネコ型ロボットのお面が、それぞれちょこんと乗っかっていた。
 両手が塞がった状態で「キャラクター物のお面って何だか懐かしいわね」「そうですね」「フィリップとエリザベスのお友達として買ったら?」「うちの娘と息子の友達にですか?」「喜ぶわよー?」「そうでしょうか。鮮やかな色合い見たら落ち込むかも……」などとマジメな顔で話しつつお面を眺めていたところ、そこにいた、どうみても酔っ払っているとしか思えない赤い顔をしたお面屋のオヤジに「おっ、なんか今日は二人してネコに縁があるみたいだな! じゃあこいつもつけてけ!」と、訳の分からない理由と共に装着させられてしまったのである。
 そして二人とも手が塞がっている為、外す事もままならず、まあ祭りの最中だし別にいいか、ということでそのまま放置しているのだ。
 実際、通り過ぎる人々は二人にさして視線を送るでもない。たまに妙な顔で見られるが、それも一瞬の事だ。
 ちなみに言うと、二人が言っていた「フィリップ」と「エリザベス」というのは、アンティークショップ・レンで売っていたどこぞの島で作られた木彫りの、味のある顔付きの面の事である。命名はシュラインだ。
 それはともかく、今の二人はそんな状態で。
「……どう考えても買いすぎね」
 荷物に埋もれかけている那王の姿をまじまじと見て、シュラインが呟く。まるで他人事みたいに言って……、と那王が苦笑した。
「買ったのはシュラインさんなのに。俺は風鈴とりんごあめ一個とカスタードと小豆の大判焼きを三つ買っただけなのに」
「ほら、私はどこかの誰かと違って不義理な人間じゃないから。たくさん買っておかないと知り合いたちに行き渡らないのよ」
「……その、シュラインさんの義理堅さが俺の両腕に結構大変な重みとなってのしかかっているわけですが、その辺りはどう解釈すれば」
「鶴来さんって腹黒いけど優しい! と解釈すればいいと思うのよ」
「だから俺の腹は黒くないです! 純白でとっても清らかです! ……というかせめてべっこうあめくらいは持っていただけると嬉し……」
「そういえば鶴来さん」
 言いかけた那王の言葉をあっさり無視し、ふいと視線を逸らせると、シュラインはそこかしこの道端に上がっている幟を見た。
 そこには、祭、と書かれているだけで、どこの何に纏わる祭なのか等が全く書かれていなかった。
「このお祭の由来、知ってる?」
 問われて、泣き言を言いかけていた那王は、ふと首を傾げた。そして楽しげな色を浮かべていた顔に、どこか冷めたような笑みを滲ませた。
「この通りから少し離れて裏道に入った所に、小さな神社があるんです。元はその神社に祀られている水の神の為の祭りだったようですが」
 もしかしたら、彼なら知っているかもしれないと思い問いかけてみたシュラインだったが、やはり、知っていたらしい。
「……、行ってみますか? その神社に」
 問われて、シュラインは一度ゆっくりと周囲の賑やかな様を見渡してから、そうね、と頷いた。
 この祭りの「本質」を、何となく見てみたくなったのである。


【chapter:6】

 高いビルとビルの間に、まるで時間と人に忘れ去られたかのような小さな社があった。日の光も差さないのか、どこか冷たい空気がそこには流れている。
 時には夏日になる事もあるこの時期。なのにここは、浴衣だと少し肌寒く感じる。
 表の賑やかな祭りの空気も、ここには流れてこない。
 本当に、すっかり人々に忘れ去られているかのようで、シュラインは僅かに眉を寄せた。
「なんだか……淋しいわね。いいのかしら、こんなに神様のこと放置してて」
 色あせた小さな鳥居をくぐり、手水舎でほんの少しだけ水盆へと湧き出している清水で手を流すと、提げていた花模様の描かれた紺色の麻の巾着の中から自分のハンカチを取り出して水気を拭い、それを那王に差し出してから社へ続く苔むした石造りの参道を歩き出す。那王もハンカチを受け取って手を拭うと、その後に従って先に進みながら微苦笑を零した。
「宮司の家系は十数年前に途絶えてしまっているようで。今となっては、残されているのはあの祭りだけのようです」
 あの祭がここに祀られている神に纏わるものだとしたら、本末転倒である。神自体を放置して、あの賑わいだけを楽しむのは……一体どうなのだろうか。
 歩くたびに二人の足音が、静まり返ったビル壁の間で響く。時折、シュラインが持っている、赤い金魚がひらひら悠々と泳ぐビニール袋の中の水が揺れ、微かな音を立てた。
 そう広くはない境内。二〇歩も歩けば拝殿まで辿り着く。
 雨風に吹き晒されて放置された、傷みの激しい賽銭箱に、シュラインが小銭を数枚放り込もうとしたが、それを横から那王に止められた。どうしてかという視線を向けると、那王は片目を細めて苦笑する。
「管理する者がいない所にお金を入れておいたら、荒らされる原因になるかもしれないので」
「……そうね」
 賽銭泥棒の事ね、と言いかけて、やめる。一つ溜息をついて小銭を仕舞うと、なんだかやるせない気分で拝殿を見やった。
 雑草生え放題、落ち葉はその場で腐って朽ち果て――激しく景観を損ねている。
 元々は綺麗にされていたのであろう境内のその乱れた有様に、シュラインは何となく肩を落とした。
 祭が華やかで賑やかだったため、より一層、この場の淋しさが色濃く際立って見えるのだ。
「……まあ、折角来たんですしね」
 そんなシュラインを暫し眺めていた那王は、笑みを浮かべて手に持っていた荷物を足許に置くと、トンとシュラインの肩を叩いた。そして一歩拝殿前に歩み出ると、静かに二度、頭を下げた。
 その二拝の後、ちらりとシュラインを見る。自分と同じようにしてはくれないかとその目が言っているのを見て、那王の動きに倣うようにシュラインも、金魚の入った袋だけは提げたまま、他の荷物をその場に置いて頭を下げて二拝する。そしてごく自然に、両の掌を胸の前で合わせていた。
 す、と。
 那王が静かに、その場に満ちた静謐な気を乱さぬように息を吸うのが聞こえた。続いて、一拍置いてから、いつもの彼の声とは違う朗々たる声が、紡ぎ出される。
「高天原に神留り坐す、皇親神漏岐、神漏美の命以ちて、八百万神等を神集い賜い――」
 六月晦大祓(みなづきのつごもりのおおはらえ)だ。
 ちょうど、今日は六月三〇日。「天津祝詞」よりはこちらの「大祓詞」を奏上したほうが似つかわしいと、那王は思ったのかもしれない。
 凛とした声で紡がれる、どこか耳に心地良い韻律のその詞たちは、冷たいビルの合間に響き、そのままその場に横たわっている静寂の中に染み入るように溶け込んでいく。
 シュラインは、いつしかその青い双眸を閉じ、その詞が溶けていく様を――自然の中へ還って行く様を、胸の内で感じていた。


【chapter:final】

「お。お帰りーお嬢さん! ……と、ああ、何だ暇人か」
 神社からゲームセンターAzへ帰りついた二人は、入口付近で数名の子供達に囲まれ、図書券を配っていた店長に声をかけられた。どうやら結構ゲームに参加する者はいるようだが、子供達は食べ物ばかり持ち帰ってきているようで、店長の後ろに置かれた会議用テーブルの上にはべっこう飴やら大判焼きやらが山のように積み上げられている。
「……アレね。大判焼きって一個八〇円くらいだものね。それを一個持ってきて店長に渡せば、五百円の図書券と交換してもらえるんだものね」
「……お得ですよね。子供達からしたら」
「まあ、あの店長さん、その辺分かっててやってるらしいけどね」
 利益還元のため。いわゆる、お客様感謝サービスデーみたいなものだ。
 それにしても。
「鶴来さん、店長さんに暇人って呼ばれてるのね」
「……まあ、実際今は暇人ですから」
「そうよね。最近全然仕事持ってこなくなったものね、ウチに」
 店に入ると、さあっと冷えた風が肌を撫でていく。外の暑さが一度に飛んでいく感じで、なかなか心地良い。
「そういえば、鶴来さんって京都の人だったわよね。やっぱり向こうは暑いの?」
「そうですね。ひどい時には東京との気温差、五度くらいありますし」
「じゃあ、東京にいるのは一種の避暑みたいな感じ?」
「いえ、ただ単にちょっと実家に帰りづらくなっているだけです。いろいろあったので」
 苦笑と共に言ってから、那王は、あ、とシュラインの手に提げられている金魚が泳ぐビニール袋を見た。
「店長さんのクイズの答え聞くの忘れてますね」
 そういえばそうだった。
 ふと肩越しに入口の方を振り返るが、まだ子供達がたくさん彼女の周りに群れている。
「……後にしましょうか。景品にこだわりない訳だし」
「そうですか? じゃあその間何を?」
 言われて、シュラインはふと、今度ここへ来た時に霧嶋に訊いてみようと思っていたことがあった事を思い出した。
「霧嶋さん……ああ、あの黒いコートの?」
「そうそう。白い男の子と女の子がいつも傍にいる人」
「ああ……あの人でしたら、いつも格闘ゲームの台の奥のちょっと暗い所におられますよ」
 流石はこの店の常連である。
 その那王の言葉に、じゃあちょっと行って来る、と言い置くと、シュラインは教えられた場所へと移動した。


 ほの暗い場所に、まるで人の眼を避けるかのようにして霧嶋は、居た。
 その傍らには瑪瑙が、やはりちょこんと座っている。
「こんにちは、霧嶋さん」
 声をかけると、ふと霧嶋が僅かに俯けていた顔を上げた。目は帽子のつばで影が出来ていてよく見えないが、その口許に微かな笑みが浮かんだ。
「ああ……」
 先日、瑪瑙を見つけた時に、シュラインが破れた瑪瑙の服を繕った事を覚えていたようである。
「今日はどうした?」
「ええ、実は……瑪瑙ちゃんのことで、ちょっと」
「瑪瑙の?」
 言葉につられるように、瑪瑙も僅かに顔を上げた。そして緩く首を傾げる。その後ろの髪が綺麗に編み込まれているのを見て、シュラインは微笑んだ。
「あら。髪、そういうのも可愛いわね。赤いリボンも似合ってる。……ん? でもさっき見た時は結んでなかったわよね? 自分で結んだの?」
 それに、瑪瑙は緩く頭を振り、両手を胸の前で合わせてにこりと首を傾がせて微笑んだ。
 どうやら何か嬉しいことがあったようだ、というのはその表情で分かる。
 が、やはり……。
「話せないと、不便よねえ」
 ぽつりと呟き、視線を霧嶋に戻す。
 先日、瑪瑙に逢ってからずっと考えていたのだ。彼女の意思や言葉を、言葉がなくてもどうにかして相手に伝えられないかと。
 そして、それをどうにかする方法は、自分の中にあった。
 ――とある一時期、シュラインは声を失くしていた事がある。
 それは、身体的な病に因るものではない。
 人の心と心の狭間にある闇に、囚われてしまったため。
 深く……どこまでも深く、闇だけが広がっていたあの時期。
 言葉、というものが持つ、良くも悪くも強すぎる力に怯えた結果――自分は声を、失っていた。
 あの時の自分と瑪瑙とは、違うと思う。瑪瑙は、あの時の自分とは違い、言葉を紡ぎたくないと思っているわけではないだろう。
 もし……もし、彼女が話したいのに話せないのなら、それはきっと、凄くもどかしい事だと思うのだ。
 伝えたいのなら、伝える手段をあげたいと思う。
「瑪瑙ちゃんに、手話を教えちゃダメかしら」
 シュラインの申し出に、霧嶋は考える時間をとるかのようにゆっくりと足を組み替えた。
「手話……か」
「私がここに来るたびに、少しずつ教えてあげたいと思うのだけど」
 その言葉に、霧嶋は傍らに座っている瑪瑙を見やった。そしてそっと、その頭を撫でる。
「瑪瑙がどうしたいか、だ。瑪瑙が覚えたいというのなら、教えてもらえばいい。私がそれを駄目だと言う理由は一つもない」
 シュラインも、瑪瑙へと視線を移す。そして、その頬にそっと触れて微笑んだ。
「聞きたいの、瑪瑙ちゃんの言葉。もっといろんなこと、話してみたいし。……ダメかしら?」
 それに、瑪瑙はふるふると頭を振った。そしてにっこり笑ってこくこくと頷いた。
 その笑顔は、否定的なものではない。言葉はなくとも、それが「覚えたい」という彼女の意思表示だという事は分かる。
「そう……じゃあ」
 手に持っていた荷物を一旦足許に置いて、シュラインは瑪瑙の右手を持ち、軽く握らせると顔の前まで持ち上げさせて、顔からほんの少し離すように前へ出させてから、その拳を今度は開かせて、また顔の前にやり、そこから少し離すように前へと出させた。
「『よろしく』ってね」
 それに、ぱあっと嬉しそうに瑪瑙が笑う。そしてその仕草を繰り返してみせる。そして、どうだろう? と伺うように首を傾げる。
 一生懸命覚えようとしているその姿が何だか微笑ましくて、シュラインも瑪瑙につられるように明るく笑うと、きゅっとその手を握った。
「そうそう、上手よ。こちらこそよろしくね」
 それに、きゅっと手を握り返して、瑪瑙はこくりと頷いた。


「あ、シュラインさん!」
 目的を果たし、さてそろそろ事務所も気になるし……と店を出ようとしたところ。
 那王の声に呼び止められた。肩越しに振り返り、彼の両手に抱えられた荷物を見て眉を寄せる。
「あ、そういや荷物持たせたままよね。どうしよう、そんなに一人で持って帰れないわ」
「いや、それは別に……ほら、どうせ暇人だから興信所まで運んでもいいですけど」
「あらホント? じゃあよろしくお願いしようかしら。コーヒーくらい出すし」
「それはそうと……コレ」
 す、と。
 那王が、無理矢理荷物を左手で纏め持ち、右手で差し出したのは白い封筒二つだった。
「あら。何?」
「霧嶋さんたちと話をされている間に、俺が店長にシュラインさんが買ってきたものをお伝えしたんです。こっちの封筒が、残念賞の図書券」
「あー……金魚は違ってたのね」
 まあ、狙っていたと言えば狙っていたものではあるので特に何の問題もない。
 だが。
「じゃあ、そっちの封筒は?」
 もう一方の封筒を示すと、ああ、と那王はそれもシュラインの方へと差し出した。
「差し上げます」
「コレも残念賞の図書券とか?」
「いえ。ペアの温泉旅行」
「え?」
「実は、シュラインさん、風鈴かもしれないとか考えられていたでしょう? だから俺が買った風鈴を店長に差し出したら、当たっていたみたいで。で、それがその景品」
「あら。じゃあ鶴来さんの物じゃないの」
「いえ、俺はペアの旅行券なんて貰ったって相手いないし」
 那王はシュラインの手にそれを押し付ける。
 そして、にっこりと微笑み。
「ぜひ草間と。ぜひぜひ草間と。どうぞ遠慮なく。何でしたら交通費も俺が出しますし。ぜひぜひぜひ、草間と」
「……ねえ、腹黒鶴来さん。一体何を企んでいるのかしら?」
 怪しむように半眼で那王をじっと見据える。
 交通費を出させてまで行かせたがるなんて、おかしい。怪しい。怪しすぎる。
 それに、那王は肩を竦めて笑った。
「だってほら、友達でしょ? 友人の恋路は応援しないと馬に蹴られたら困りますし」
「……、本当にそれだけ?」
 さらに怪しむ目つきで問いを重ねるシュラインに、ふと那王は観念したように、笑みを消してマジメな顔つきになった。
 そして。
「……実は、シュラインさんにお願いがあるんです。それと引き換えに」
「……取引と言うわけ?」
 一体、何だろう?
 こんなに真剣な顔つきになるくらいだから、きっと仕事に関する事か……それもかなり危険な……。
 などと思いかけたところ。
 那王は真顔のまま、言った。
「UFOキャッチャー得意な人を紹介してください」
「……は?」
「UFOキャッチャー得意な人です。ずっと取れないぬいぐるみがあるので、ぜひぜひ取っていただきたく」
「…………。……それだけ?」
「それだけですよ?」
 けろりと言うところからして、本当に、ただそれだけなのだろう。
 何事を言われるだろうと思っていたシュラインは、はあ、と気が抜けたように溜息をつくと、こくこくと二度適当に頷いて呆れたように笑った。
「わかったわ。近いうちに紹介してあげる、誰か得意そうな人」
「よかった、宜しくお願いします」
 切実な様子で言って頭を下げる那王に、ふとまた笑って。
「……ありがとね」
 その言葉に、那王もまた穏やかに笑った。
 外は、徐々に夕闇に包まれかけている。
 祭は、もしかしたらこれからが本番かもしれない。
「さて、帰りましょうか」
 人の流れに逆らって駅まで向かうのは少し億劫かもしれないが、気持ちを奮い立たせるように声に出して那王に向かってそう言うと、シュラインはからんと軽やかな下駄の音を鳴らして店の入口へ向かって歩き出した。
 今度ここへ来た時には瑪瑙にどんな言葉を教えようかと、考えつつ。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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 整理番号 … PC名 【性別 /年齢/職業/階級】

0086 … シュライン・エマ――しゅらいん・えま
        【女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員/大天使】
0733 … 沙倉・唯為――さくら・ゆい
        【男/27歳/妖狩り/大天使】
2577 … 蓮巳・零樹――はすみ・れいじゅ
        【男/19歳/人形店店主/大天使】
1532 … 香坂・蓮――こうさか・れん
        【男/24歳/ヴァイオリニスト/天使】


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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 シュライン・エマさん。
 再度のご参加、どうもありがとうございます。再会できて嬉しいです。
 鶴来を祭へ誘っていただき、ありがとうございました。
 今まで、文章内では鶴来の事を「鶴来」と呼んでいたのですが、今回に限り、「那王」という表記になっています。
 次からはまたいつもどおり「鶴来」に戻りますので(笑)。
 なんで表記変えてるかというと……親しみやすさが出るかなぁ? と思ったからなんですが……何だか別にそうでもないですね、すみません(笑)。
 景品につきましては、図書券と、あと那王から温泉旅行が渡されてます。
 気が向かれたら、草間さんとぜひぜひぜひ、温泉へ!(笑)
 そろそろ行動起こされるのかと、ドキドキしています(笑)。
 そして、もはや毎度のことですが、やたらと鶴来を腹黒呼ばわりするシュラインさんに仕立て上げてしまってすみません(笑)。
 あと、瑪瑙の事。手話の指導(?)で色々お世話になると思いますが、宜しくお願いします(ぺこり)。

 本文について。
 界の詳細な規則等は、すでに異界をご覧頂いていると思い、省かせていただいています。
 わかりにくい、と言う場合は、異界にてご確認ください……。
 今回は、全PCさん完全個別となっております。
 他の方が祭で何をされていたか、興味ありましたらちらりと目を通して頂けると嬉しいです。

 もしよろしければ、感想などをお気軽にクリエイターズルームかテラコンからいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきますので。

 それでは、今回はシナリオお買い上げありがとうございました。
 また再会できることを祈りつつ、失礼します。