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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


聞こえない音 見えない世界


【壱】


 母親に手を引かれた少年の姿を見とめて、シュライン・エマは目を細めた。草間興信所の戸口に佇むその姿はある種異様な気配を漂わせながらも、隠し切れない幼さが匂う。両目両耳を純白の繃帯で何重にも塞がれた少年は従順に母親の手を握り締めている。
「この子から妖を取り払って下さい」
 母親は哀願するような切実な声で訴える。
 シュラインは緩慢な動作で腕を組み、ゆったりと指示を仰ぐようにして所長である草間武彦を振り返る。草間は勝手にしろとでもいうようにしてそっと片手を挙げて、いつものように事務机に突っ伏した。相変わらずだと思ってシュラインは少年の母親に向き直って云った。
「私にお任せいただけますか?」
 その言葉に母親は強く頷き、そっと少年の背を押した。しかし握り締めた手を離そうとはしない。
「……あの、立ち話もなんですから、おかけになったらどうでしょう?」
 零が控えめな口調で云う。母親はそんな零の心遣いに恐縮するようにして頭を下げて、少年を伴い簡素な応接セットのソファーに腰を落ち着ける。そんな二人に倣うようにしてシュラインもまた向かいのソファーに腰を落ち着けると、程無くして温かな湯気を立ち昇らせるティーカップが零の手によって目の前に並べられる。
「まず息子さんにお話を伺ってもよろしいですか?」
 云うシュラインの声に反応するようにして少年がはたと顔を向ける。母親が頷くのを確認してシュラインは言葉を紡ぐ。
「とりあえず自己紹介をさせてもらうわね。私はシュライン・エマ。名前がシュラインで、姓がエマ」
 すると少年は自分の番だと覚ったのか、小さな声で自分の声を綴った。
「そう。―――じゃあ、お母さんが云う妖さんのお名前や呼び名とかはわかるかしら?」
 丁寧に問うシュラインの言葉に少年が小さく頸を傾げて、わからない、と呟く。
「名前がわからなくても話しはできるよ。同じ世界を見てるんだから、それだけで十分なんだ」
 少年はまだ十を越えたか越えないかだろう。シュラインは思って、もしかすると妖もまた同じくらいの年齢でしか会話ができないのかもしれないと思う。妖だからといって何百年もの年月を重ねているものだけが総てではない。そもそも母親は妖だと断言してはいるが、本当にそれがそうであるのかといったらそうではないのである。世には人が気付いていないだけで人外のものが多く存在している。シュラインは草間興信所との長い付き合いのなかで、それを十分に理解していた。そして同時に人外のものと人間とが一つの肉体を共有することで生じる悲劇があることもまた同様にして理解していた。
「私はあんたたちに危害を加えるつもりはないわ。まずそれをわかってもらえるかしら?」
 云うと少年が刹那の間を置いて、頷く。シュラインが敢えて複数で呼んだ理由を理解しての間だろう。
「二人で一つの躰に居るということが不自然だということはわかるかしら?これから成長していく躰のなかに二つのものが入っているっていうのは躰にとても負担がかかることなの。どんな結果が出るかどうかはわからないけれど、私の予想だと少なからずどちらも不幸になると思うわ」
「……怖いものじゃないんだよ」
「わかるわ。でも、それが問題じゃないの。あんたにもあんたのなかの妖さんにも、いるべき場所があるのよ」
「この子がいるべき場所はここじゃないの?」
「多分ね……。それはこれから三人でゆっくり話しをしてみなければわからないけれど、私が思うにあんたのなかではないことだけは確かだと思うわ」
 母親は二人のやり取りを心配そうに見つめている。けれどシュラインは敢えてそんな母親を蚊帳の外に置いて話しを進めた。三人だけで話しをしなければならないと思ったからだ。妖を追い払ってほしいと願う母親の気持ちもわからないではなかったが、妖には妖なりの事情があり、それを許容している少年自身にも少年だけの事情があるだろうと察してのことだった。追い払うことは簡単だろう。けれどそれだけでは駄目なような気がした。片方を救うために片方を潰したのでは、根本的な解決にはならないだろう。そしてそうしたことがもたらす結果は少なからず少年の心に傷を残すだろうと思われた。
「あんたたちが見てる世界や聞いてる音について教えてもらえるかしら?」
 シュラインが問うと少年ははっきりと頷いた。


【弐】


 少年は話しをする前に繃帯をほどかせてほしいと云った。母親は頑なにそれを阻止しようとしたが、シュラインは調査のために必要だと云い、少年にそれを許した。幼い白い手が自ら繃帯をほどいていく。明らかになる小さな耳のラインや、随分長い間閉ざされていたのであろう目が久しぶりの光に眩しげに細められる。ゆっくりと押し上げられた目蓋の向こうに隠されていた双眸は、青く澄んだ透明な水色をしていた。母親が嘆くようにして項垂れる。
「元々はそんな色ではなかったんです……」
 云う母親の言葉を無視するように、シュラインが微笑みと共に云う。
「綺麗な色ね」
 すると少年は初めて笑顔を見せた。嬉しそうな無邪気な笑顔に、シュラインはまだ子どもなのだと思う。
「いつからそんな色になったのかわかるかしら?」
 その問いを合図に少年は真っ直ぐに意思の強い眼差しをシュラインに向けて言葉を綴る。
 もう一つの世界が見えるようになったのは七つの誕生日を迎えた夜のことだったという。眠ろうと布団に入り、目蓋を閉じるとそれが見えるようになり、そこに響く音が聞こえるようになったのだと少年は的確な言葉で話した。そして翌朝、目が冷めると瞳の色が変わっていたのだと云った。
「なんでもないことだったんだよ。ただ静かで、綺麗な音が聞こえてる世界なんだ」
 少年は自分が見ている世界を水色の世界と云った。プールの底を漂っているみたいだとも云った。
 七つの誕生日の夜からそれは次第に明瞭なものになり、特に雨の日や海へ出かけた時などは特別鮮明にその世界がわかるのだそうだ。
「あの子が話すようになったのは八歳になった頃のことだっと思う。傍にいてほしいって云うんだ。だから、僕はいつでも傍にいてあげるよって云ったんだ。別に怖くないし、何をされるわけでもないから二人で凝っと世界を見て、話しをして、音楽を聴くみたいにしてその世界の音楽を聴いているの」
「その子は他に何も云わないの?傍にいてほしいっていう以外に」
 シュラインが問うと少年は少し淋しげに表情を曇らせて、
「わからないって云うんだ。どうしたらいいのかわからないって」
と云った。
 目の前のティーカップをそっと手に取り、その縁に唇をつけて思案するように沈黙する。少年が紡いだ言葉を一つ一つ丁寧に繋ぎ合わせて、これからどうするべきなのだろうかと一番的確な方法を探そうとする。
 水色の世界。水の音。水底のような雰囲気。雨と海。それらを繋ぎ合わせると水辺に連れて行くのが一番なのかもしれないという答えに帰結する。けれどふと別の考えが頭のなかに浮かんだ。
 果たして本当に妖は少年と本体までもを共有しているのだろうか。もし妖が意識のみであるのならば、少年自身が触れる外界の音や映像を頼りに本体がある場所へと連れて行くことも可能ではないのだろうか。
「あんたのなかにいる子に訊いてもらいたいことがあるんだけど、訊けるかしら?」
 シュラインの問いに少年は頷く。
「本体もそこにいるの?」
 すると少年はしばしの間を置いて、口を開いた。
「……わからないって。どうしてここにいるのかもわからないって。ここにいてはいけないなら、帰してほしいって云ってる」
「そう……」
 吐息を吐き出すようにしてシュラインは云い、手にしていたティーカップをソーサに戻して母親に向き直ると、お心当たりはございませんか?と訊ねる。母親ははっきりと頸を横に振った。
「ありません」
 そのきっぱりとした口調には、わかっているなら初めからそうしているといったような苛立ちが滲んでいた。
 水。
 それだけがキーワードのように思えた。水がある場所を思い浮かべると、無数に存在していることに改めて気付かされる。海。川。湖。それだけではない。そこらに張り巡らされた排水溝。水道の水。浴室。果たして少年のなかに在る妖はどこから来て、ここにいるというのだろう。
「私にもあんたが聴いている音を聴かせてもらえるかしら?」
 云うと少年はすっとソファーから立ち上がり、シュラインの傍らに立って両手を取り、自分の耳元へと運んだ。
「これで聴こえる筈だって云ってる。―――目を閉じて」
 云われるがままに少年の両耳を包み込むようにして触れて、シュラインが目蓋を閉ざすと鼓膜に直に触れるようにして音が溢れてくるのがわかる。漣のように規則正しい響き。それはどこか懐かしさを孕んで、シュラインに一つの場所を指し示すために響いているかのようだった。
 もう一つの世界が見えた気がした。
 青い、青い、どこまでも青い世界。
 それは抜けるように透明な青に包まれて、穢れを知らないような純粋さでそこにある。
 けれどその穢れのなさが、現実にはないことを突きつけているような気がした。失われてしまった遠い海の情景が見えるような気がする。今はもうない純粋な海。胎内で聴いていた頃の音楽のように懐かしく、やさしい響きと温度。
「失礼ですが、息子さんがおなかにいらした頃に海へ行ったことはありませんか?」
 不意に少年の耳から手を離して母親に向かってシュラインが問うと、神経を張り詰めていたような母親がはっと顔を上げて戸惑いながらもはっきりと頷く。
「では……結果どうなるかはわかりませんが、その海へ今から行ってみたいのですが、可能でしょうか?」
「えぇ、大丈夫だと思います。それほど遠い海ではありませんから」
「いいかしら?」
 今度は少年に向かってシュラインが問うと、少年は刹那の間を置いて頷いた。


【参】


 妖と人間が同じ時間を生きている確証はない。だから歪んだ時間軸のなかでふと巡り会うということもないわけではないのだろう。時間という尺度は人間が定めたものでしかなく、流れる時間は細分かされることがなければ過去もなければ未来もなく、そして現在というものさえもたない無限のものだ。シュラインは思って、少年と共に砂浜に下りる。
「海……」
 シュラインの隣で少年が呟く。
「何かわかったの?」
「知っている気がするって云ってる」
 案内してくれた母親は二人の少し後ろに佇んだまま、何を云うでもなく心配そうに見つめていた。草間と零の姿はない。二人は草間の独断で興信所に残り、報告を待っているのだ。
「波打ち際に行けばいいの……?」
 少年が独語のように云う。
 そして砂に足を取られながらゆっくりと波打ち際に近づき、その場にしゃがみこむとそっと寄せては返す波に両手を浸した。十分に海水を染み込ませようとしているかのように暫くの間そうしていると、波音の隙間に少年の呟きが聞こえた。
「さようならなんだね」
 シュラインはそれを聞きとめ少年の傍らに立つ。
「何も哀しいことじゃないのよ」
「わかってるよ」
 云って少年は海水に濡れた手で両耳を包み、次いで海水をすくった掌に両目をつけるとぱっと離した。
 すると辺りの時間が停止してしまったかのようにして、不意に無音になる。風は止まり、波音も聞こえなかった。はっと振り返ると母親も動きを止め、シュラインと少年の時間だけが緩やかに動いているようだった。
 ―――さようなら……。
 声が響く。
「さようなら」
 少年が答える。
 シュラインは停止した波の間に溶けるように消えていく和装の少年の姿を見たような気がした。随分遠く、現在ではないどこかへ帰っていくのだろうか。ここではないどこかへ、自らが帰るべき場所を目指して、独り、旅立ったとでもいうのだろうか。思ってふと少年に視線を移すと、少年は静かに動きを止めた海を見つめていた。真っ直ぐに見つめる双眸から静かに涙が零れ落ちる。
「……ありがとうって云ってた。もう会えないかもしれないけど忘れないって、今までずっとありがとうって」
 云う少年の頭に手を乗せて、そっと撫ぜながらシュラインは云う。
「誰もがそれぞれに生きる時間を持ってるのよ。あの子は自分の意思でそこへ帰ったの。あんたも帰るのよ、たとえ独りになってもね」
 少年が頷くのがわかる。
 そしてふと気付くと辺りには波の音が戻って来ていた。潮風が髪を撫ぜるのがわかる。どうして海には懐かしさが香るのだろうかと思った。胎内の温度を感じるような規則的な波音がそう思わせるとでもいうのだろうか。
「ありがとう」
 真っ直ぐにシュラインを見つめて少年が云った。
 その目はもう水色ではなく、輝かしい未来を見つめるような黒色の純粋無垢なそれに戻っていた。
「あの子、幸せになれるよね?」
「なれるわ。自分で選んだんだから」
 云ってシュラインはくしゃくしゃと少年の髪をかき回し、そっと母親のほうへと背中を押した。少年が駆け出す背中を見送って、ふと水平線のほうへと視線を向けると漣の間を縫うようにして声が響いた気がした。
 ―――さようなら。そして、本当にありがとう。
 なんてやさしい言葉だろうかと思う。
 確かにそれはシュラインに向けて発せられた声。
 帰るべき場所に帰す手助けしかしていないというのに、どうしてこんなにも心地良い言葉をもらえるのだろうかと。
「どういたしまして」
 云ってシュラインは佇む親子の傍へと歩を進めた。
 すると不意に少年が海へと向かって大きく手を振る。シュラインははたと背後を振り返ったがそこには規則正しく打ち寄せる波があるばかりで他にはない。母親も何があるのかといったような不思議な顔をしていた。
 海の波間に、大きな魚の透明な尾鰭が手を振るように鮮やかな陽光の下で翻るのを見たのは少年をおいて他にいなかった。




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086/シュライン・エマ/女性/26/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】


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■         ライター通信          ■
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初めまして。この度のご参加ありがとうございます。沓澤佳純と申します。
少年のなかに腰を落ち着けていた妖をそっと元の場所へと戻して頂きましてありがとうございます。
二人は今後別々の時間を生きていくことになるとは思いますが、きっとそれぞれ強く生きていくと思います。
口調に関してのご指摘ありがとうございました。不快な思いをさせてしまって申し訳ありませんでした。
今後このようなことがないよう気をつけようと思います。
それではこの度のご参加本当にありがとうございました。
今後また機会がございましたらどうぞよろしくお願い致します。