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<東京怪談ノベル(シングル)>


それでも河は流れる

「……そ。バイト――。いや、今日は違うんだ。演奏とかじゃなくて……、工事現場。ガテン系――。驚いた?」
 相模紫弦は、相手の反応をうかがうように、言葉を切った。
 電話の向こうの相手はなんと云ったのか――、紫弦は破顔一笑、
「平気、平気。これでも鍛えてるし。……で、お願いっていうのはさ――。そ。弁当」
 まだ梅雨も開け切らぬというのに、日の落ちるのは随分遅い。ようやく、黄昏の色あいが、遠くに見える新宿の高層ビル群を染め、地上に影が長く伸びはじめていた。
「頼むよ。現場、そこから近いんだ。あとでメールする。……そうだな、タコ型ウィンナーとか――、いや、お任せするさ。……じゃ」
 電話を切った。
 そして足取りも軽く歩き出す。
 十六歳の身体は気力にあふれていた。急速に伸びた身長はすでに180センチに達し、肉体自身がそれについてゆけないくらいだ。
 彼は、大股に一歩を踏み出して……
「ん――」
 視界の端にとらえた風景に、足を止める。たそがれの淡い薄明かりの中で、それはどこかしら現実感を欠いて見えた。
 ビルの谷間を流れる、お世辞にもきれいとは言い難い、東京の街中の河――
 それに架かった橋の、柵に身をあずけるようにして、たたずむひとりの女性がいる。
「…………」
 女はうつむき加減でいたが、河の流れを見ているという風でもない。ただじっと、そこに立ち尽くしているのである。なにげなく、彼女の顔をのぞきこんで紫弦は、はっと胸を突かれたような感覚を味わった。その横顔が、ひどく哀しげであったのだ。
 ちらり、と、時計を確かめる。バイトまでには、まだ時間があった。
「おねーさん」
 紫弦の声に、顔をあげた彼女のやせた頬に、長い髪がはらりとかかった。今どき珍しいともいえる、黒すぎるほどの黒髪。いや……、それを言うならば、彼女の服装や、化粧の具合は全体的にどこかしら古めかしい。まだ若い様子だが、新宿や渋谷の街をゆく同じ年頃の女性たちとはあきらかに違っているのだ。
「どうかしました?」
 おだやかに声をかける。
 女性はなにもこたえずに、再び河へと視線を投げる。
「すみません。ちょっと気になっちゃって……。おねーさんがなんだか――とても寂しそうに見えたから」
 場合によっては、ていのいいナンパともとれる物言いだったが、そうは見えないのは、ひとつには紫弦の雰囲気がある。淡々として、それでいて、決して上面だけの言葉ではないと知れる、深みのある声がもたらす空気。そしてもうひとつは――当の女性が、それほどまでに思い詰めた瞳だったからである。
「よかったら、すこし、お話しませんか。時間を潰してたんです。……気がまぎれますよ。河を見てたんですか」
「ひとを――待っているんです」
 か細い声が応えた。前を見たまま、呟く女の横顔に、紫弦は視線を送った。
「どんなひとです」
 女はちょっと意外そうな顔で、紫弦を見返した。
 来ないんですか、とか、どのくらい待っているんですか、とは、紫弦は訊ねなかったのだ。彼女の様子を見ればそれはよくわかることだったし、それをあえて言葉にするのは、残酷なことのように、彼には思われた。彼女の待ち人は来らず、ゆえにここでこうして、彼女は待ちつづけているのである。たぶん、ずっと……、とても長いあいだを、彼女は待っているのだ。
「そう……、どういえばいいかしら」
 かすかに、女は微笑んだ。
「話してください。ふたりが出逢ったところから」
「それじゃ長くなるわ」
「構わない」
「もう、ずっと昔のことよ――」
 夢みるように、女は語り出した。

「彼ね、サングラスを集めてて。会うときはいつもかけてるわ。とても似合ってて素敵だけれど、サングラスの下の目もいいのにな、って思ってる。彼って背が高くて、がっしりした感じだけど、目は子どもみたいにきれいなの」
「そんな歌があったね」
「そう? 知らない。……それで、いつも車で迎えにきてくれて……それから、ふたりで出かけるの」
「どんなとこに行ったの」
「いろんなところ。でも、お店とかにはあまり入らない。目立つといけないから」
「…………」
「ちょっと寂しいと思わなくもないけど……しようがないわよね」
「好きだったんだね」
「好きよ。彼は頼もしくて、頼りがいがある人。大部屋の後輩の面倒見もいいし、みんなに慕われてるわ」
 とうとうと、女は語る。いわく、彼の横顔が好きだ。車を運転する、二の腕のたくましさに目を奪われる。たったいちどだけ、忙しい彼の仕事のあいまをぬって、熱海に行ったのが最高の思いで――。
 話を聞けば聞くほど、しかし、紫弦は複雑な表情を浮かべるようになった。そればかりは、彼女に話しかけたときには、予想しえないことだったのだ。
 紫弦はたぶん、その男のことを知っている。
 うっかりと彼女が漏らした事柄から、彼が当時――そう、「当時」だ――名をなしはじめた俳優だと知れた。そして今は……たぶん、日本人の誰もが知っている。往年の銀幕の名優の、若い頃の映像を、紫弦は思い浮かべた。
「…………」
 どうする。
 紫弦は自問した。
 このままそっと別れることもできる。じゃあ、俺、行くよ。彼、はやく来てくれるといいね――とかなんとか言いながら。
 そうすれば、彼女はまた待ち続けるだろう。せめて紫弦とのひとときが、その永い永い待ち時間の中でのやすらぎになってくれていたら。
 あるいは、しかし――
 ここでその永い永い待ち時間に終止符を打つこともできるのだ。
「――?」
 彼女の、疑いを知らぬ瞳が、紫弦を見据えた。そのとき紫弦は、どんな顔をしていただろう。髪をなおすように、紫弦の指が自身の頭をなでた。ベースの弦を弾く指先が、形のよい耳に光るイヤーカフスにそっとふれる――。
「おねーさん。そのひと……」
 紫弦はゆっくりと言った。
「もう来ないと思うよ」
 女の表情がこわばった。
「だから――、もう待たなくていいよ」
「そんなことないわ」
 硬い声が言う。
「私、待ってる。今までだって、ずっと待ってたんだもの。これからだってずっと待つわ。あのひとのことなら、ずっと待てる。いつまでも待っていられる。だから……だから――」
「時間は止められない」
 紫弦の、よく通る声が、きっぱりと告げた。
「おねーさんが、ここで待っているあいだにも、どんどん、世界は変わっていくんだ。ほら……あのビルだって、昔はまだ建ってなかったんじゃないかな。この河の水だって、昔はもっときれいだったはずだろ?」
「でも、でも……」
「彼はもうとっくに結婚してるよ」
 現代の日本に暮らし、普通程度にメディアに接している人間なら、誰でも知っていることだった。
「彼の時間は、流れてるんだ。ずっと昔に、おねーさんの時間だけが、ここで止まっているだけで」
 あおざめた唇がふるえる。なにかを言いかけるが、声にならない。その目に、みるみるうちに涙が盛り上がり、やがてそれはとめどなくあふれて、頬を伝った。驚くほど、澄んだ涙だった。
「だから、さ――」
 堰を切ったように、こぼれる嗚咽。ぐらり――、と傾いた身体を、紫弦は抱きとめた。
「もう待たなくていいんだよ」
 宵のとばりが、うっすらと空を覆い、かすかに星の光が灯りはじめる。なまぬるい、都会の風。それに混じる、どこか遠くの、クラクションの音。それからどのくらい、彼女は泣きじゃくっていただろうか。
「私……それでも待ちたかったの……」
「わかるよ」
 いつまでだって、彼女は待っただろう。ことによると、この河が埋め立てられ、橋が消えたとしても、ここに、今のままの……何十年もの昔と、変わらぬ姿で、待ち続けていたはずなのだ。永遠に来るはずのない相手を、ただ、遠い昔にかわした約束だけをたよりにして。
 肩にふれ、顔をあげさせると、紫弦は指先で、そっと涙をぬぐった。
「…………もういくわ」
「本当……?」
「ありがとう」
 彼女は微笑んだ。寂しげな笑みだったが、それでも、笑顔には違いなかった。
 そして、
 まぼろしのように女の姿は消えてゆく。
 はるか昔に、ひとりの男に恋をして、その想いとともに一所にとどまりつづけた女の、それが本当の最期だった。

 それからしばらくは、紫弦も、そこに立って、河を眺めていた。そうすべきであるように、思えたからだった。
「いけね。遅れる」
 そして、おもむろに、また大股で歩き出す。今夜の紫弦の行き先は、路地裏のジャズが流れるライブバーではなく、ドリルがアスファルトを削る音が響く工事現場。少々、キツイが金にはなる。それに、幼なじみのつくってくれる夜食の弁当が届く手筈だ。
 弁当の中身は何かな――。そんなことを考えながら、紫弦は夜の街を駆けるのだった。

(了)