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光無き黒い森で
ぽたりぽたりと血が落ちていた。
自らのものではない、どす黒い魚の血に塗れた手、そこに儀式用の短剣――アサメイを抜き身のままぶら下げて。
ただ、歩いている男がひとり。
その足取りは力無い。
まるで、『あの男』の精神のみならず、自らの魂をも――冥府の神への供物に捧げてしまったかのように。
握り潰した川魚、その感触がまだ手に残る。
使ってしまったとある『呪術』を。
否応も無く思い知らせる。
…その手に付いた新たな罪を。
呪術で人を殺めるなど、言語道断。
許される事では無い。
…ウィッカの掟は知っている。
それでも。
赦す気になどなれなかった。
私の。
何より、大切な。
…ロルベニア様。
貴女に対して、あんなにも酷い仕打ちをした男を。
その上で、罪悪感の欠片も無く、あんな言葉すら投げ掛けた男を。
赦せる訳が無かった。
貴女を守り切れなかった。
私は何も出来なかった。
………………私は、これ以外の手段を知らない。知ろうとしない。…知っていても使わない。
これから後も、あの男に『言葉』があれば――この『秘密』は、いずれ公になってしまう。
だから呪術を施した。
…そんな事は後付けの言い訳に過ぎない。
ただ、俺自身が――赦せなかっただけの事。
あの男が、ロルベニア様と言う私の女神を、これ以上無い形で踏み躙った…事を。
それでも。
あの男の精神(こころ)を殺してしまった事は、誓いを破ってしまった事は…今更、覆せない。
自分が人を手に掛けたのは、これで二度目。
一人殺すも二人殺すも同じ。
そんな風に言う者は居る。
それでも――。
男は、割り切る事を知らない。
…割り切ってしまって良い事じゃない。
そう出来てしまえばどれ程楽か。
男は楽になる事など端から望んでいない。
…男は森を歩いている。
その深くまで小道を辿る。
陽の光さえ殆ど届かなくなる。
…それは事実か、ただの主観か。
何処か遠い場所でふと思うのとどちらが先だったか。男はずるずると、崩れるように腰を下ろしている。
地に深く根を張る大木の下に。
太い幹に身体を預け、体重をすべて任せて座り込む。
座り込んだ身体は、もう立ち上がる気にもなれない。
男は首から下げている十字架にふと触れる。
血の穢れが一瞬気になったが、そもそもこの十字架も――本来の持ち主である妹ではなく私が持つ事で、既に穢れてしまっているのかもしれない。
思い、改めて指で取り上げ――今更救いを求めると言う訳でもないが、眺めた。
妹の形見であるその十字を。
…その筈なのに。
その十字架に被るのは愛しい女神の悲しそうな表情。
直に見ずともわかってしまう。
貴女はきっと酷く悲しむ。
私の姿が無い事に。
約束した言葉すら私は無視している。
僕の前から居なくならないで、と言うあの言葉。
確りと答えた訳では無い。それでも、出来るなら。
ずっと守りたいと思っていた事。
だから敢えて『約束』と思う。
…そして私はそれを破った。
もう、自分はここから去る覚悟は出来ている。
ウィッカから――そして貴女の住まう、アイオス邸から。
貴女はそこに居る限り守られる。
大司祭長が貴女を守る。
私が居なくとも、何も困る事は無い――無いんだ。
何度も自分に言い聞かせる。
それでも否定する自分が居る。
ロルベニアの事を想うだけで。
堪らない気持ちになる。
…あんな形で置いていく事になってしまった。
どんなにか心細いだろうか?
…必死で抱き締めて来た細い腕。
振り解いてしまって後悔は無いのか?
…赤く透ける瞳から零れる涙。
その涙はいつ止まる?
…止めてくれる人が、出来ますか?
それを流させた私では無く、誰か別の――。
駄目だ
何より私自身が彼女の元を離れたくない。
…素直になれば答えはすぐにでも。
思い出すのはロルベニア様と過ごした日々ばかり。
守り役として付いていたのだから当然か。
…否、それだけで。
こんなにも胸が張り裂けそうになる訳はない。
過去の思い出は幸せであればあるだけ、今この時の現実に突き刺さる。
どうしたの、シェラン? と、名を呼ばれ顔を覗き込まれた時の事。
…魔術を教えていた時の事。ロルベニア様に見惚れていたその時の事。私の気持ちを知ってか知らずか、無邪気に無防備に接してくる彼女の事。
司祭長としての御仕事の補佐。ふとした時に見せてくれる微笑み。頬を膨らませて怒る姿。心を許されているとわかっている。…わかってしまう。
菓子を作ったと顔を赤らめて言う彼女。味見…してくれる? と、おずおずと切り出す姿。快く受けると花が咲いたような笑顔になる。私の方に否やは無い。ロルベニア様の作ったものともなれば。
他をさて置いても欲しいもの。
…そんな、優しくも他愛も無い日常。
既に遠い過去の日々。
それももう、これまで。
これからは、そこから、ただ――私が居なくなるだけ。
貴女の居場所に。
それだけの事。
…何も、変わらない。
変わらない。
変わらないでいてくれなければ――。
…貴女が、救われない。
私などはどうなっても構わないけれど。
貴女、だけは。
貴女はどうか、そこで幸せになって下さい。
私は…最早、貴女を見守る事が出来はしませんが。
人殺しの魔術師は――このシェラン・ギリアムは、やはり貴女の前には居られなかった。
光無き黒い森の中。
男は静かに瞑目する。
…絶望に浸る間などこれから幾らでもある筈だ。
今はまだ、やるべき事が残っている。
…居場所をくれた寛大な魔女たちに。
これから後足で砂を掛け。
私はここから旅立たなければなりませんから。
…言い訳『だけ』を真実とすり替えて。
他ならない、貴女の“居場所”を守る為に。
ロルベニア様。
貴女の。
そう、決意して。
男は己を叱咤する。
…さぁ立ち上がれ、歩き出せ、と。
自分はこれから『教会』に――その、今の自分を待っている、断罪の場に向かわなければ――ならない。
【了】
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